これは何かの始まりに過ぎない
青豆とあゆみはこぢんまりとした、それでもじゅうぶんにエロティックな一夜の饗宴を立ち上げるには、理想的と言ってもいいコンビだった。あゆみは小柄でにこやかで、人見知りせず、話がうまく、心さえ決めてしまえばたいていのことにポジティブな姿勢で臨むことができた。健康的なユーモアの感覚もあった。それに比べると、筋肉質ですらりとした青豆はどちらかといえば無表情で、うち解けにくいところがあった。初対面の男に向かって、愛想の良い台詞を適当に口にすることもできなかった。言葉の端々には微かではあるけれど、シニカルで攻撃的な響きが聞き取れた。瞳の奥には不容認の光が灰かに宿っていた。しかしそれでも青豆には、その気になれば男たちを自然に惹きつけるクールなオーラのようなものを発することができた。動物や虫が必要に応じて放つ、性的な刺激を持った芳香にも似たものだ。意図したり努力をしたりして身につけられるものではない。おそらく生来のものだ。いや、あるいは何かしらの理由があって、彼女はそんな匂いを人生のある段階で後天的に身につけたのかもしれない。どちらにせよそのオーラは、相手の男たちばかりではなく、パートナーのあゆみまでを微妙に刺激し、その言動をより華やかで積極的なものにした。
適当な男たちをみつけると、あゆみがまず単独で偵察に出かけ、持ち前の人なつっこさを発揮し、友好的な関係を築き上げるための土台作りをした。それからタイミングを見計らって青豆が加わり、そこに奥行きのあるハーモニーを作りだした。オペレッタとフィルム・ノワールが合体したような独特の雰囲気が醸し出された。そこまで行けばあとは簡単だ。しかるべき場所に移って(あゆみの率直な表現を用いれば)[#傍点]やりまくる[#傍点終わり]だけだ。いちばん難しいのは妥当な相手を見つけることだった。相手は二人連れであることが好ましかったし、清潔で、ある程度見栄えがよくなくてはならなかった。少しくらいは知的な部分がなくてはならないが、知的にすぎても困るかもしれない——退屈な会話はせっかくの夜を不毛なものにする。経済的な余裕がありそうなこともまた評価の対象になった。当然ながら、男たちはバーやクラブの勘定をもち、ホテル代を支払うことになるから。
しかし彼女たちが六月の終わり近くにささやかな性的饗宴を立ち上げようと試みたときは(結果的にそれがコンビでの最後の活動となったのだが)、どうしても適当な男たちを見つけることができなかった。時間をかけ、場所を何度か替えたが、結果は同じだった。月末の金曜日の夜だというのに、六本木から赤坂にかけてのどの店も驚くほど閑散としていて、客の数も少なく、男の選びようもなかった。どんよりと空が曇っていることもあって、東京の街全体に、誰かの喪に服しているような重苦しい雰囲気が漂っていた。
「今日は駄目みたいだよ。あきらめよう」と青豆は言った。時計はもう十時半を指していた。
あゆみも渋々ながら同意した。「まったく、こんなに[#傍点]しけた[#傍点終わり]金曜日の夜は見たこともないよ。せっかくパープルのセクシーな下着を着込んできたのにな」
「うちに帰って、鏡の前でひとりでうつとりしてなさい」
「いくら私でも、警察の寮の風呂場でそんなことする度胸はないよ」
「いずれにせよ、今日はあっさりとあきらめて、二人でおとなしくお酒を飲んで、うちに帰って寝ちゃおう」
「それがいいかもね」とあゆみは言った。それから思い出したように言った。「そうだそうだ、青豆さん、うちに帰る前にどこかで軽く食事でもしない? お金が三万円ほど余ってるんだよ」
青豆は顔をしかめた。「余ってる? いったいどうしたの。いつもお給料が安くてお金がないってぴいびい言ってたじゃないの」
あゆみは人差し指で鼻の脇をこりこりと掻いた。「実はこの前、男から三万円もらったんだよ。別れ際にタクシー代だって渡された。ほら、不動産会社に勤めているっていう二人組とやったときにさ」
「あなたはそれをそのまま受け取ったわけ?」と青豆はびつくりして言った。
「私たちのことをセミプロだと思ったのかもね」とあゆみはくすくす笑いながら言った。「警視庁の警官と、マーシャル・アーツのインストラクターだとは、まさか思いも寄らないだろうね。でもまあいいじゃない。不動産取り引きでしこたまもうけて、お金が余っているんでしょう。あとで青豆さんとなんか美味しいものでも食べようと思って、別に取っておいたんだよ。やっぱ、そういうお金って生活費とかには使いにくいからさ」
青豆はとくに意見は述べなかった。知らない男たちと行きずりのセックスをして、その代償としてお金を受け取る——それは彼女には現実の出来事とは思えなかった。そんなことが自分の身に起こるというのがうまく呑み込めなかった。まるで歪んだ鏡に変形して映った自分の姿を眺めているみたいだ。しかしモラルという観点から考えてみれば、男たちを殺害して金を受け取ることと、男たちとセックスをして金を受け取ることを比べて、いったいどちらがより[#傍点]まとも[#傍点終わり]なのだろう。判断はむずかしいところだ。
「ねえ、男の人からお金をもらうことが気になる?」とあゆみが不安げに尋ねた。
青豆は首を振った。「気になるというより、少し不思議な気がするだけ。それより、婦人警官が売春みたいな行為をすることの方が、気持ち的に抵抗がありそうだけど」
「ぜんぜん」とあゆみは明るい声で言った。「そんなこと私は気にしないよ。ねえ、青豆さん、値段を取り決めてからセックスをするのが娼婦。それっていつも先払いなの。お兄さん、パンツ脱ぐ前にお金を払ってちょうだいね。それが原則。やったあとで『実はお金はありません』なんて言われたら、商売にならないものね。そうじゃなく、値段の予備交渉がなく、事後に『ほら、車代だよ』ってちょっとしたお金を渡されるのは、感謝の気持ちのあらわれに過ぎない。職業的売春とは違う。一線は画されている」
あゆみの言いぶんはそれなりに筋が通っていた。
前回、青豆とあゆみが相手に選んだのは、三十代半ばから四十代前半。どちらも髪はふさふさしていたが、それについては青豆が妥協した。不動産を扱う仕事をしていると彼らは言った。しかし着ているヒューゴ・ボスのスーツやミッソーニ・ウォーモのネクタイを見れば、彼らの勤務先が三菱や三井といった大手不動産会社でないことは推察できた。もっとアグレッシブで、こまわりのきくタイプの会社だ。たぶんカタカナの社名がついている。うるさい社則や、伝統のプライドやら、だらだらした会議に拘束されたりすることはない。個人的な能力がなければやっていけないが、そのぶん当たれば実入りも大きい。一人は真新しいアルファロメオのキーを持っていた。東京にはオフィス・スペースが不足している、と彼らは言った。経済はオイル・ショックから回復し、再びホットになる兆しを見せているし、資本はますます流動化している。どれだけ新しい高層ビルを建てても間に合わないという状況が生まれるだろう。
「不動産業はこのところ儲かっているみたいね」と青豆は言った。
「うん、青豆さん、もしお金が余っているのなら、不動産を買っておくといいよ」とあゆみは言った。「東京みたいな限定された地域に、巨大な金がどつと流れ込んでいるんだもの、土地の値段は放っておいても上がる。今のうちに買っといて損はない。当たるとわかっている馬券を買うみたいなもんだよ。残念ながら私みたいな下っ端の公務員には、そんなお金の余裕はないけどね。ところで、青豆さんは何か利殖みたいなことをする人?」
青豆は首を振った。「私は現金しか信用しない」
あゆみは声を上げて笑った。「ねえ、それって犯罪者のメンタリティーだよ」
「ベッドのマットレスのあいだに現ナマを隠しておいて、やばくなるとそれをひっつかんで窓から逃げる」
「そう、それぞれ」とあゆみは言って、指をぱちんと鳴らした。「『ゲッタウェイ』みたいじゃない。スティーブ・マックイーンの映画。札束とショットガン。そういうの好きだな」
「法を執行する側にいるよりも?」
「個人的にはね」とあゆみは笑みを浮かべて言った。「個人的にはアウトローの方が好きだよ。ミニパトに乗って違法駐車を取り締まっているよりは、そっちの方が魅力的だよ、だんぜん。そして私が青豆さんに惹かれるのは、たぶんそのせいだね」
「私はアウトローに見える?」
あゆみは肯いた。「なんというか、どことなくそういう雰囲気がある。マシンガンを持ったフェイ・ダナウェイ、とまではいかずとも」
「マシンガンまではいらない」と青豆は言った。
「この前話してた、『さきがけ』っていう教団のことだけどさ」とあゆみは言った。
二人は夜遅くまで営業している飯倉の小さなイタリア料理店に入り、そこでキャンティ・ワインを飲みながら軽い食事をした。青豆はマグロの入ったサラダを食べ、あゆみはバジリコ・ソースのかかったニョッキをとった。
「うん」と青豆は言った。
「興味を惹かれたもんで、あれからも個人的に調べてみたんだ。しかし、調べれば調べるほど、こいつ胡散臭《うさんくさ》いところだよ。宗教団体と名乗って、認証だって受けているんだけど、宗教的な実体みたいなのはろくすっぽないんだ。教義的には脱構築っていうかなんというか、ただの宗教イメージの寄せ集め。そこにニューエイジ精神主義、お洒落なアカデミズム、自然回帰と反資本主義、オカルティズムのフレーバーが適度に加味してある。それだけ。実体みたいなものはどこにもない。ていうか実体がないってのが、いわばこの教団の実体なわけ。マクルーハン的にいえば、メディアそのものがメッセージなんだ。そのへんがクールといえばクールなんだよね」
「マクルーハン?」
「私だって本くらい読むよ」とあゆみは不満そうな声で言った。「マクルーハンは時代を先取りしていた。一時期、流行りものになったせいでなんとなく軽く見られているけど、言ってることはおおむね正しい」
「つまりパッケージが内容そのものを含んでいる。そういうこと?」
「そういうこと。パッケージの特質によって内容が成立する。その逆ではなく」
青豆はそれについて考えてみた。そして言った。
「『さきがけ』の教団としての中身は不明だけど、そんなことには関係なく、人はそこに惹きつけられ、集まってくる。そういうこと?」
あゆみは肯いた。「驚くほどたくさん、とまでは言わないけど、決して少なくない数の人が寄ってくる。人が寄ってくると、それだけお金も集まる。当然のことだね。じゃあなんで、多くの人がこの教団に引き寄せられるかっていうと、私が思うに、まずだいいちに宗教っぼくないせいだね。とてもクリーンで知的で、システマチックに見える。早い話、貧乏くさくないわけよ。そういうところが、専門職や研究職に就いている若い世代の人たちを惹きつけるわけ。知的好奇心を刺激されるんだね。そこには現実の世界では得られない達成感がある。手にとって実感できる達成感がね。そしてそういうインテリの信者たちが、軍隊のエリート将校団みたいに、教団の中で強力なブレーンを形成している。
それから『リーダー』と呼ばれている指導者にはかなりのカリスマ性が具わっているらしい。人々はこの男に深く私淑している。言うなれば、この男の存在そのものが教義の核みたいなかたちで機能している。成り立ちとしては原始宗教に近いんだよ。キリスト教だって始まりは多かれ少なかれそんな感じだった。ところが[#傍点]こいつ[#傍点終わり]がまったく表に出てこない。顔かたちも知られていない。名前や年齢だってわからない。教団は合議制で運営されるという建前になっているし、その主宰者みたいなポジションには別の人間が就いて、公式な行事なんかにはそいつが教団の顔として出てくるんだけど、実体はただの据えものとしか思えない。システムの中心にいるのは、どうやらこの正体不明のリーダーらしいんだ」
「その男は、よほど自分の素性を隠しておきたいみたいね」
「何か隠しておきたい事情があるのか、それとも存在を明らかにしないで、ミステリアスな雰囲気を盛り上げようという意図なのか」
「それともよほど醜い顔をしているのか」
「それはあるかもね。この世のものではない異形《いぎょう》のもの」とあゆみは言って、怪物のように低くうなった。「まあそれはともかく、教祖に限らず、この教団には表に出てこないものが多すぎる。この前電話で話した、例の積極的な不動産取得活動もそのひとつね。表に出てくるのはただの[#傍点]見せかけ[#傍点終わり]だけ。きれいな施設、ハンサムな広報、インテリジェントな理論、エリートあがりの信者たち、ストイックな修行、ヨーガと心の平穏、物質主義の否定、有機農法による農業、おいしい空気と美しい菜食ダイエット……そういうのは計算されたイメージ写真みたいなものだよ。新聞の日曜版にはさまれてくる高級リゾート・マンションの広告と同じ。パッケージはとても美しい。しかしその裏では、胡散臭い企みが進行しているという雰囲気がある。おそらくは部分的に違法なことが。それが様々な資料をあたったあとで、私の得た率直な印象」
「しかし今のところ警察は動いていない」
「あるいは水面下で何かしらの動きがあるのかもしれないけど、そこまではちょっとわからない。でもね、山梨県警はこの教団の動向にある程度注目しているみたい。私が電話で話した担当者の口調にもなんとなくそういう雰囲気がうかがえた。『さきがけ』はなんといっても例の銃撃戦をやらかした『あけぼの』の出身母胎なわけだし、中国製カラシニコフの入手ルートも、たぶん北朝鮮だろうと推測されるだけで、まだすっかりは解明されていないからね。『さきがけ』もおそらくある程度はマークされている。しかし相手は宗教法人だし、うかつには手は出せない。既に立ち入り捜査もして、あの銃撃戦とは直接の関わりがないことがいちおう明らかになっているからね。ただ公安がどう動いているかまではこっちにもわからない。あの人たちは徹底して秘密主義だし、昔から一貫して警察と公安は仲良しの関係にはないから」
「小学校に来なくなった子供たちについては、この前以上のことはわかっていないの?」
「それもわからない。子供たちはいったん学校に行かなくなると、もう二度と塀の外には出てこないみたいだ。そういう子供たちについては、こっちとしても調べようがないのよ。児童虐待の具体的な事実でもでてくれば話は違ってくるけど、今のところそんなものもないし」
「『さきがけ』から抜けた人たちは、そういうことについて何か情報を与えてくれないのかな? 教団に失望して、あるいは厳しい修行にめげて、脱退していく人も少しはいるんでしょう?」
「もちろん教団に出入りはある。入信する人もいれば、失望して出ていく人たちもいる。教団を抜けるのは基本的に自由なの。入会するときに『施設永代使用料』として寄進した多額のお金は、そのときに交わされた契約書に従って一銭も戻ってこないけど、それさえ納得すれば、身ひとつで出て行ける。脱会した人たちでつくっている会もあって、この人たちは『さきがけ』は反社会的な危険なカルトであり、詐欺行為を働いていると主張している。訴えも起こしているし、小さな会誌みたいなものも出している。しかしその声はとても小さいし、世間的にはほとんど影響力はない。教団は優秀な弁護士を揃えて、法律面では水も漏らさぬ防御システムをこしらえているし、訴訟を起こされてもぴくりとも揺らがない」
「脱会者たちはリーダーについて、あるいは中にいる信者の子供たちについて、何か発言はしていないの?」
「私もその会誌の実物を読んだわけじゃないからね、よくは知らないんだ」とあゆみは言った。
「でもざっとチェックしたところでは、そういう脱会不満分子はみんな、おおむね下っ端なわけ。小物なんだ。『さきがけ』という教団は、現世的な価値を否定するって偉そうにうたっているわりには、ある部分、現世以上にあからさまな階級社会なんだよ。幹部と下っ端にはっきりとわかれている。高い学歴とか専門的な職能を持っていないと、まず幹部にはなれない。リーダーに会ってその指導を仰いだり、教団システムの中枢に関われるのは、幹部のエリート信者に限られている。あとのその他大勢のみなさんは、しかるべきお金を寄進し、きれいな空気の中でこつこつと修行をしたり、農作業に励んだり、メディテーション・ルームで瞑想に耽ったり、そういう殺菌された日々を送っているだけ。羊の群れと変わりがない。羊飼いと犬に管理され、朝には放牧場に連れて行かれ、夕方には宿舎に戻されて、という平和な毎日を送っているの。彼らは教団内でのポジションを向上させて、偉大なるビッグ・ブラザーに対面できる日を待ち望んでいるけど、そういう日はまず巡ってこない。だから一般の信者は教団システムの内情についてはほとんど何も知らないし、たとえ『さきがけ』を脱会しても、世間に提供できる大事な情報を持ち合わせてはいない。リーダーの顔を見たことすらない」
「エリート信者で脱会する人はいないのかな?」
「私の調べたかぎりでは、そういう例はない」
「いったんシステムの秘密を知ったら、足抜けは許されないってことかしら?」
「そこまでいくとかなり劇的な展開になってくるかもね」とあゆみは言った。それから短くため息をついた。「それで青豆さん、この前話していた少女レイプの話だけど、それってどのへんまでたしかなことなの?」
「かなりたしかだけど、今のところはまだ実証できる段階にはない」
「それは教団の中で組織的におこなわれていることなの?」
「それもまだわからない。しかし犠牲者は現実に存在するし、私はその子に会った。かなりひどい目にあっている」
「レイプというのは、つまり挿入されたということ?」
「間違いなく」
あゆみは唇を斜めに曲げ、何かを考えていた。「わかった。もっと私なりにつっこんで調べてみよう」
「あまり無理はしないで」
「無理はしないよ」とあゆみは言った。「こう見えて、私はなかなか抜かりのない性格だから」
ふたりは食事を終え、ウェイターが皿を下げた。彼女たちはデザートを断って、そのままワインのグラスを傾けていた。
「ねえ、青豆さんは子供のときに男の人にいたずらされたりした経験がないって、この前言ったよね」
青豆はあゆみの顔の様子を少し見て、それから肯いた。「私の家庭はとても信仰深くて、セックスの話はいっさい出てこなかった。まわりもみんなそうだった。セックスというのは触れてはいけない話題だったの」
「でもさ、信仰深いのと性的な欲望の強弱はまた別の問題でしょう。聖職者にセックスマニアが多いってのは世間の常識だよ。実際の話、売春とか痴漢行為とかで警察にひっぱられるやつには、宗教関係者と教育関係者がずいぶんと多いんだから」
「そうかもしれないけど、少なくとも私のまわりには、そういう気配はいっさいなかった。変なことをする人もいなかった」
「それはなによりだね」とあゆみは言った。「それを聞いて嬉しいよ」
「あなたはそうじゃなかったの?」
あゆみは迷いながら小さく肩をすぼめた。それから言った。「実を言えば、私は何度もいたずらされたよ。子供のころに」
「たとえば誰に?」
「お兄ちゃんと叔父さん」
青豆は顔をいくらかしかめた。「兄弟と親戚に?」
「そのとおり。二人とも今、現役の警官をやってる。叔父さんはこのあいだ優良警察官として表彰までされたよ。勤続三十年、地域社会の安全と環境の向上に大きく貢献したって。踏切に迷い込んだ間抜けな犬の親子を助けて、新聞にまで載った」
「その人たちにどんなことをされたの?」
「あそこをさわられたり、おちんちんをなめさせられたり」
青豆の顔のしわはいっそう深くなった。「お兄さんと叔父さんとに?」
「もちろん別々にだけど。私が十歳で、お兄ちゃんが十五くらいだったかな。叔父さんはもっと前のこと。うちに泊まりにきたときに二度か三度か」
「そのことは誰かに言った?」
あゆみはゆっくり何度か首を振った。「言わなかったよ。絶対に誰にも言うなって言われたし、告げ口なんかしたらひどい目にあわせるって脅された。それに脅されなくても、そんなことを言いつけたら、そいつらよりは私の方が叱られたり、ひどい目にあわされたりしそうな気がしたんだ。それが怖くて誰にも言えなかった」
「お母さんにも言えなかったの?」
「[#傍点]とくに[#傍点終わり]お母さんにはね」とあゆみは言った。「お母さんは昔からずっとお兄ちゃんをひいきにしていたし、私にはいつも失望していた。がさつだし、きれいでもないし、太っていたし、学校の成績もとくに賞められたものじゃなかったからさ。お母さんはもっと違うタイプの娘をほしかったんだよ。お人形さんみたいで、バレエ教室にかようようなすらっとした可愛い女の子をね。そんなのどう考えても、ないものねだりってものだよ」
「だからそれ以上お母さんを失望させたくなかった」
「そういうこと。お兄ちゃんが私に何をしているか言いつけたりしたら、私をもっと恨んだり嫌ったりしそうな気がしたんだよ。きつと私の側に何か原因があって、そんなことになったんだろうって。お兄ちゃんを責めるよりはね」
青豆は両手の指を使って、顔のしわをもとに戻した。十歳の時、私が信仰を捨てると宣言してからは、母親はいっさい口をきいてくれなくなった。必要なことがあれば、メモに書いて渡した。でも口はきかなかった。私はもう彼女の娘ではなくなった。ただの「信仰を捨てたもの」に過ぎなかった。それから私は家を出た。
「しかし挿入はなかった」と青豆はあゆみに尋ねた。
「挿入はない」とあゆみは言った。「いくらなんでも、そんな痛いことできないよ。向こうだってそこまでは要求しない」
「今でもそのお兄さんとか叔父さんとかと会っているわけ?」
「私は就職して家を出ちゃったし、今ではほとんど顔を合わせることはないけど、いちおう親戚だし、なにしろ同業だからね、対面が避けられないこともある。そういうときはまあ、それなりににこやかにはやってる。ことを荒立てるようなことはしない。だいたいあいつら、そんなことがあったことすらきっと覚えてないよ」
「覚えてない?」
「[#傍点]あいつら[#傍点終わり]はね、忘れることができる」とあゆみは言った。「でもこっちは忘れない」
「もちろん」と青豆は言った。
「歴史上の大量虐殺と同じだよ」
「大量虐殺?」
「やった方は適当な理屈をつけて行為を合理化できるし、忘れてもしまえる。見たくないものから目を背けることもできる。でもやられた方は忘れられない。目も背けられない。記憶は親から子へと受け継がれる。世界というのはね、青豆さん、ひとつの記憶とその反対側の記憶との果てしない闘いなんだよ」
「たしかに」と青豆は言った。それから軽く顔をしかめた。[#傍点]ひとつの記憶とその反対側の記憶との果てしない闘い[#傍点終わり]?
「実を言うと、青豆さんにも似たような経験があるんじゃないかって、ちょっと思ってたんだ」
「どうしてそんなこと思ったの?」
「うまく説明できないんだけど、なんとなくね。そういうことがあってその結果、知らない男たちと一晩だけ派手に[#傍点]やりまくる[#傍点終わり]、みたいな生活をしているんじゃないかと。そして青豆さんの場合にはさ、そこに怒りが込められているようにも見えたんだ。怒りというか、腹を立ててるというか。なんにせよ普通の、ほら、世間の人がやってるような、まともに恋人をつくって、デートして、食事して、ごく当たり前にその人とだけセックスするみたいなことができなそうに見える。私の場合もまあそうなんだけど」
「小さい頃にいたずらされたせいで、そういう世間並みの手順がうまく踏めなくなったということ?」
「そういう気がしたんだ」とあゆみは言った。そして小さく肩をすぼめた。「私自身のことを言えばね、男の人が怖いんだよ。というか、特定の誰かと深いところで関わり合うことがね。そして相手のそっくり全部を引き受けたりすることが。考えるだけで身がすくんじゃう。でも一人でいるのは時としてきつい。男の人に抱かれて、入れられたい。我慢できなくなるくらい[#傍点]したく[#傍点終わり]なる。そういうときにはまったく知らない人の方がラクなんだ。ずっと」
「恐怖心?」
「うん、そいつが大きいと思うな」
「男の人に対する恐怖心みたいなものは、私にはないと思う」と青豆は言った。
「ねえ、青豆さんには何か怖いものがある?」
「もちろんある」と青豆は言った。「私には自分自身がいちばん怖い。自分が何をするかわからないということが。自分が今何をしているのかよくわからないことが」
「青豆さんは今[#傍点]何をしている[#傍点終わり]の?」
青豆は自分が手にしているワイングラスをしばらく眺めた。「それがわかればいいんだけど」と青豆は顔を上げて言った。「でも私にはわからない。今いったい自分がどの世界にいるのか、どの年にいるのか、それすら自信がもてない」
「今は一九八四年で、場所は日本の東京だよ」
「あなたみたいに、確信をもってそう断言できればいいんだけど」
「変なの」とあゆみは言って笑った。「そんなの自明の事実であって、今さら確信も断言もないじゃん」
「今はまだうまく説明できないけど、私にはそれが自明の事実とも言えないの」
「そうか」と感心したようにあゆみは言った。「そのへんの事情というか、感じ方は私には今ひとつわからないけど、でもさ、今がいつであれ、ここがどこであれ、青豆さんには深く愛する人が一人いる。私から見ればそれはすごくうらやましいことだよ。私にはそんな相手もいない」
青豆はワイングラスをテーブルの上に置いた。ナプキンで軽く口元を拭った。そして言った。
「あなたの言うとおりかもしれない。今がいつであれ、ここがどこであれ、そんなこととは関係なく彼に会いたい。死ぬほど会いたい。それだけは確かなことみたいね。それだけは自信を持って言える」
「よかったら警察の資料をあたってみようか? 情報さえくれたら、その人がどこで何をしているか、わかるかもしれない」
青豆は首を振った。「探さないで。お願い。前にも言ったと思うけど、私はいつかどこかで彼に[#傍点]たまたま[#傍点終わり]巡り合うの。偶然にね。そのときをただじっと大事に待つ」
「大河恋愛ドラマだね」とあゆみは感心したように言った。「そういうのって私、好きだよ。びりびりきちゃうね」
「実際にやってる方はたいへんだけど」
「たいへんであることはわかる」とあゆみは言った。そして指先で軽くこめかみを押さえた。
「それでも、そこまで好きな相手がいても、知らない男とときどきセックスしたくなるんだね」
青豆は薄いワイングラスの縁を爪で軽くはじいた。「そうすることが必要なの。生身の人間としてバランスをとっておくために」
「でもそれによって、青豆さんの中にある愛が損われることはないんだ」
青豆は言った。「チベットにある煩悩の車輪と同じ。車輪が回転すると、外側にある価値や感情は上がったり下がったりする。輝いたり、暗闇に沈んだりする。でも本当の愛は車軸に取りつけられたまま動かない」
「素敵」とあゆみは言った。「チベットの煩悩の車輪か」
そしてグラスに残っていたワインを飲み干した。
二日後の夜の八時過ぎにタマルから電話がかかってきた。いつものように挨拶もなく、ビジネス上の率直なやりとりから話は開始された。
「明日の午後の予定は空いているかな?」
「午後の予定は何も入っていないから、そちらの都合の良い時間にうかがえます」
「四時半でどうだろう?」
それでかまわないと青豆は言った。
「けっこう」とタマルは言った。予定表にその時刻を記入するボールペンの音が聞こえた。筆圧が強い。
「ところで、つばさちゃんは元気にしているかしら?」と青豆は尋ねた。
「ああ、あの子は元気にしていると思う。マダムが毎日足を運んで面倒を見ている。子供もマダムにはなついているみたいだ」
「よかった」
「それはいいんだ。しかしその一方、あまり面白くないことが持ち上がった」
「面白くないこと?」と青豆は尋ねた。タマルが[#傍点]あまり[#傍点終わり]面白くないというとき、それが実際には[#傍点]ひどく[#傍点終わり]面白くないことであることを、青豆は知っていた。
「犬が死んだ」とタマルは言った。
「犬というと、ひょっとしてプンのこと?」
「そうだよ。ほうれん草を食べるのが好きだった、けったいなドイツ・シェパード。昨日の夜のうちに死んだ」
青豆はそれを聞いて驚いた。犬はまだ五歳か六歳だ。死ぬような年齢ではない。「この前見たときは元気そうだったけど」
「病気で死んだわけじゃない」とタマルは抑揚のない声で言った。「朝になったらばらばらになっていた」
「[#傍点]ばらばら[#傍点終わり]になっていた?」
「破裂でもしたように、内臓が派手に飛び散っていたんだ。勢いよく四方八方にね。ペーパータオルを使って、肉片をひとつひとつ集めてまわらなくちゃならなかった。死体はまるで内側からべろっとひっくり返されたような状態になっていた。誰かが犬の腹の中に強力な小型爆弾をしかけたみたいに」
「かわいそうに」
「犬のことはしかたない」とタマルは言った。「死んでしまったものは生き返らない。番犬の替わりを見つけることはできる。俺が気にしているのは、そこで[#傍点]何が起こったか[#傍点終わり]ってことだよ。こいつはそんじょそこらの人間にできることじゃないぜ。たとえば犬の腹に強力な爆弾をしかけるなんてさ。だいたいあの犬は知らない人間が近寄ってきたら、地獄の釜の蓋でも開けたみたいに吠えまくるんだ。そんなこと簡単にできるわけがない」
「たしかに」と青豆は乾いた声で言った。
「セーフハウスの女性たちもショックを受けて、怯えきっている。犬の食事の世話をする担当の女性が、朝になってその現場を目にした。思い切り吐いてから、電話で俺を呼んだ。俺は聞いてみた。夜のあいだ何か不審なことはなかったか? 何もない。爆発音を耳にしたものもいない。だいたいそんな派手な音がしたら、みんな間違いなく目を覚ます。ただでさえびくびくして暮らしている人たちだからな。つまりそれは無音の爆発だったんだ。犬の鳴き声を耳にしたものもいない。ことのほか静かな夜だった。しかし朝になったら犬はきれいに裏返しになっていた。新鮮な内臓があたりに吹き飛ばされ、近所のカラスは朝からずいぶん喜んでいた。でも俺にとってはもちろん気に入らないことだらけだ」
「何か奇妙なことが起こっている」
「間違いなく」とタマルは言った。「何か奇妙なことが起こっている。そして俺の感覚が正しければ、これは何かの始まりに過ぎない」
「警察には連絡した?」
「まさか」、タマルは嘲るような微妙な音を鼻から出した。「警察なんて何の役にも立たない。見当違いなところで見当違いなことをやって、話がますます面倒になるだけだ」
「マダムはそれについて、なんて言っているの?」
「あの人は何も言わない。俺の報告を聞いてただ肯くだけだ」とタマルは言った。「セキュリティーに関することは、俺がすべて責任を持って処理する。最初から最後まで。なんといってもそれが俺の仕事だからね」
しばらく沈黙があった。責任に付随する重い沈黙だった。
「明日の四時半に」と青豆は言った。
「明日の四時半に」とタマルは反復した。そして静かに電話を切った。