そろそろ猫たちがやってくる時刻だ
天吾はそれからの一週間余りを、奇妙な静けさの中で送った。安田という人物がある夜に電話をかけてきて、彼の妻は既に失なわれており、二度と天吾のもとを訪れることはないと告げた。その一時間後に牛河が電話をかけてきて、天吾とふかえりは二人ひと組で「思考犯罪」的な病原菌のメイン・キャリアのような役割を果たしたのだと告げた。彼らはそれぞれに深い意味を含んだ(含んでいるとしか思えない)メッセージを天吾に伝えた。トーガをまとったローマ人が広場《フォロ》の真ん中で踏み台の上に立って、関心ある市民たちに向けて布告を発するみたいに。そしてどちらも自分が言いたいことをひととおり述べてしまうと、一方的に電話を切った。
その二本の夜の電話を最後として、もう誰ひとり天吾に連絡をとってはこなかった。電話のベルも鳴らず、手紙も届かなかった。ドアをノックするものもなく、くうくうと鳴く賢い伝書鳩も飛んでこなかった。小松も、戎野先生も、ふかえりも、そして安田恭子も、誰ももう天吾に伝えるべきことを何ひとつ持ち合わせていないらしかった。
天吾の方もまた、そのような人々に対する興味を失ってしまったようだった。いや、彼らに対してのみならず、あらゆるものごとに対する興味が失せてしまったみたいだ。『空気さなぎ』の売れ行きも、著者のふかえりが今どこで何をしているかも、才人編集者小松の仕組んだ謀略の行方も、戎野先生の冷徹な目論見がうまく進行しているかどうかも、マスコミがどこまで真相をかぎつけたかも、謎に満ちた教団「さきがけ」がどのような動きを見せているかも、さして気にならなかった。乗り合わせたボートが滝壺に向けて真っ逆さまに落ちようとしているのなら、仕方ない、落ちるしかない。天吾が今更どうあがいたところで、それで川の流れが変わるわけではないのだ。
安田恭子のことはもちろん気になった。詳しい事情はわからないが、何かできることがあるのなら労も惜しまないつもりだった。しかし彼女が現在どのような問題に直面しているにせよ、その問題は天吾の手の届かないところにあった。現実的には何をすることもできない。
新聞を読むこともすっかりやめてしまった。世界は彼とは関係のないところで進行していた。無気力が個人的な霞のように彼の身体を包んでいた。『空気さなぎ』が店頭に平積みになっているのを目にするのがいやで、書店にも足を向けなくなった。予備校と自宅とのあいだをまっすぐ行き来するだけだった。世間はもう夏休みに入っていたが、予備校は夏期講習があるから、その時期は普段にも増して忙しい。しかしそれは天吾にとってはむしろ歓迎すべきことだった。少なくとも教壇に立っているあいだは数学の問題以外、何も考えなくていい。
小説を書くのもやめてしまった。机の前に座り、ワードプロセッサーのスイッチを入れ、画面が浮かび上がっても、そこに文字を書き入れようという気持ちになれなかった。何かを考えようとするたびに、頭には安田恭子の夫との会話の切れ端が、そして牛河との会話の切れ端が浮かんできた。意識を小説に集中することができない。
[#ここからゴシック体]
家内は既に失なわれてしまったし、どのようなかたちにおいても、あなたのところにはもううかがえない。
[#ここでゴシック体終わり]
安田恭子の夫はそう言った。
[#ここからゴシック体]
古典的な表現を使わせていただければ、あなた方はパンドラの箱を開けてしまった、ということになるかもしれません。あなた方二人は、偶然の巡り合わせとはいえ、あなたが考えている以上にパワフルな組み合わせだった。それぞれに欠けている部分を、有効に補い合うことができた。
[#ここでゴシック体終わり]
牛河はそう言った。
どちらの言っていることも、きわめて曖昧だ。中心はぼかされ、はぐらかされている。しかし彼らの言わんとしていることは共通している。天吾が何らかの力を、自分でもよくわからないままに発揮し、それがまわりの世界に現実的な影響を(おそらくはあまり好ましくない種類の影響を)及ぼしている——彼らが伝えたいのはどうやらそういうことらしい。
天吾はワードプロセッサーのスイッチを切り、床に腰を下ろし、電話機をしばらく眺めた。彼はより多くのヒントを必要としていた。より多くのパズルのピースを求めていた。しかし誰もそんなものを与えてはくれない。親切心はここのところ(あるいは恒常的に)世界に不足しているもののひとつだった。
誰かに電話をかけることも考えた。小松に、あるいは戎野先生に、あるいは牛河に。しかし電話をかける気にはどうしてもなれなかった。彼らの与えてくれるわけのわからない思わせぶりな情報にはもううんざりだった。ひとつの謎についてヒントを求めれば、与えられるのはもうひとつの謎だった。いつまでもそんな切りのないゲームを続けていくわけにはいかない。[#傍点]ふかえりと天吾はパワフルな組み合わせだった[#傍点終わり]。彼らがそう言うのなら、それでいいじゃないか。天吾とふかえり、まるでソニーとシェールみたいだ。最強のデュオ。ビート・ゴーズ・オン。
日々が過ぎ去っていった。やがて天吾はこれ以上部屋の中で、ただじつと何かが起こるのを待ち続けることにうんざりした。財布と文庫本をポケットに突っ込み、頭に野球帽をかぶり、サングラスをかけ、アパートの部屋を出た。きっぱりとした足取りで駅まで歩き、定期券を見せて上りの中央線快速電車に乗った。どこに行くというあてもなかった。ただやってきた電車に乗っただけだ。電車はがらがらだった。その日は一日何の予定もなかった。どこに行こうと、何をしようと(あるいは何をしなくても)すべては天吾の自由だ。午前十時、風がなく日差しの強い夏の朝だ。
彼は牛河の言う「リサーチャー」が自分のあとをつけてくるのではないかと思って注意を払った。駅に行くまでの道筋で不意に立ち止まって、素早く後ろを振り返った。しかしそこには不審な人間の姿はなかった。駅ではわざと違ったプラットフォームに向かい、それから気分を急に変えたふりをして、方向転換して階段を駆け下りた。しかし彼と行動をともにする人の姿は見えなかった。典型的な追跡妄想だ。誰もあとなんかつけてはいない。天吾はそれほど重要な人物ではないし、彼らだってそれほど暇ではないはずだ。だいたいどこに行って何をしようとしているのか、本人にだってわかっていないのだ。天吾がこれからとる行動を、離れたところから好奇心を持って見守りたいのはむしろ天吾自身だった。
彼の乗った電車は新宿を過ぎ、四ツ谷を過ぎ、御茶ノ水を過ぎ、それから終点の東京駅に到着した。まわりの客はみんな電車から降りた。彼も同じようにそこで降りた。そしてとりあえずベンチに腰を下ろし、これからどうすればいいんだろうとあらためて考えた。どこに行けばいいのか? おれは今東京駅にいる、と天吾は思った。まる一日、何も予定はない。行こうと思えば、ここからどこにでも行ける。暑くなりそうな一日だ。海に行ってもいい。彼は顔を上げて乗り換えの案内表示板を眺めた。
それから天吾は、自分が[#傍点]何をしようとしていたのか[#傍点終わり]に思い当たった。
彼は何度か首を振ったが、どれだけ首を振ったところで、その考えが打ち消される見込みはなかった。おそらく高円寺駅で中央線の上り電車に乗ったときから、自分でも気づかないうちに心はもう決まっていたのだろう。彼はため息をついてベンチから立ち上がり、プラットフォームの階段を下り、総武線の乗り場に向かった。千倉にいちばん早く着く列車のスケジュールを訊くと、駅員は時刻表のページを繰って調べてくれた。十一時半に館山行きの臨時特急があり、普通列車に乗り継いで、二時過ぎには千倉駅に着く。彼は東京・千倉間の往復切符と特急の指定席券を買った。それから駅構内のレストランに入って、カレーライスとサラダを注文した。食後に薄いコーヒーを飲んで時間をつぶした。
父親に会いに行くのは気が重かった。もともと好意を持っている相手ではないし、父親の方だって彼に対してとくに親愛の情を抱いているとも思えない。天吾に会いたがっているかどうかだってわからない。小学生の天吾がNHKの集金についてまわるのをきっぱりと拒否してから、二人のあいだにはずっと冷ややかな空気が流れていた。そしてある時期から天吾は、父親のもとにほとんど寄りつかなくなった。よほどの必要がないかぎり口もきかなかった。四年前に父親はNHKを退職し、そのあとほどなく認知症患者のケアを専門にする千倉の療養所に入った。彼はこれまでにそこを二度しか訪れていない。父親が入所した直後、事務手続き上の問題もあり、天吾は唯一の家族としてそこまで出向かなくてはならなかった。そのあとに一度、やはりどうしても足を運ばなくてはならない実務的な用件があった。それっきりだ。
海岸から道路をひとつ隔てた広い敷地に、その療養所は建っていた。もともとは財閥関係者の別荘だったものが、生命保険会社の厚生施設として買い取られ、それがまた近年になって主に認知症患者を扱う療養所に変えられた。だから古い趣のある木造の建物と、新しい三階建ての鉄筋の建物が混在して、見るものにいくぶんちぐはぐな印象を与える。ただ空気はきれいだし、波の音を別にすればいつも静かだ。風が強くない日には海岸を散歩することもできる。庭には立派な松の防風林があった。医療設備も整っている。
健康保険と、退職金と、貯金と、年金のおかげで、天吾の父親はそこで残りの人生をまず不自由なく送ることができそうだった。運良くNHKの正規職員に採用されたおかげだ。財産と呼べるほどのものはあとに残せないにせよ、少なくとも自分の面倒をみることはできる。それは天吾にとってはなによりありがたいことだった。相手が自分にとっての本当の生物学的な父親であれ、どうであれ、天吾はその男から何ひとつ受け取るつもりはなかったし、その男にとくに何かを与えるつもりもなかった。彼らは別々のところからやってきた人間であり、別々のところに向かっている人間なのだ。人生の何年かをたまたま一緒に送った。それだけのことだ。こんなことになって気の毒だとは思ったが、かといって天吾にしてやれることは何もなかった。
しかし、もう一度そこに父親を訪れるべき時期がやってきたのだろう。天吾にはそれがわかった。気は進まなかったし、できることならこのまま回れ右をしてうちに帰ってしまいたかった。でもポケットには既に往復の乗車券と特急券が入っている。そういう成り行きになってしまったのだ。
彼は立ち上がってレストランの勘定を払い、プラットフォームに立って、館山行きの特急列車がやってくるのを待った。近辺をもう一度注意深く見回してみたが、リサーチャーらしき人間の姿は見当たらなかった。まわりにいるのは泊まりがけで海水浴に出かけようとする、楽しそうな顔つきの家族連ればかりだった。彼はサングラスをとってポケットにしまい、野球帽をかぶりなおした。かまうものか、と彼は思った。監視したいのなら、好きなだけ監視すればいい。おれはこれから千葉県の海辺の町まで、認知症の父親に会いに行こうとしている。彼は息子のことを覚えているかもしれないし、覚えていないかもしれない。この前に会ったときだって、その記憶力はかなりおぼつかないものだった。今はおそらく更に悪化しているだろう。認知症には進行はあっても、回復はない。そう言われている。前にしか進まない歯車のようなものだ。それは天吾が認知症について持っている数少ない知識のひとつだった。
列車が東京駅を出ると、彼は持参した文庫本をポケットから取り出して読んだ。旅をテーマにした短編小説のアンソロジーだった。その中に猫の支配する町に旅をした若い男の話があった。『猫の町』というのがそのタイトルだ。幻想的な物語で、名前を聞いたことのないドイツ人の作家によって書かれていた。第一次大戦と第二次大戦にはさまれた時代に書かれたものだと解説にはあった。
その青年は鞄ひとつを持って、一人で気ままな旅行をしている。目的地はとくにない。列車に乗って旅をし、興味を惹かれる場所があればそこで降りる。宿をとり、町を見物し、好きなだけ逗留する。飽きればまた列車に乗る。それが彼のいつもの休暇の過ごし方だった。
車窓から美しい川が見えた。蛇行する川にそってたおやかな緑の丘が連なり、その麓に小ちんまりとした、静けさを感じさせる町があった。古い石橋がかかっていた。その風景は彼の心を誘った。ここならおいしい川鱒料理が食べられるかもしれない。列車が駅に停車すると、青年は鞄を持って降りた。そこで降りた乗客はほかにはいなかった。彼が降りると、すぐに列車は行ってしまった。
駅には駅員がいない。よほど暇な駅なのだろう。青年は石橋をわたって町まで歩いた。町は[#傍点]しん[#傍点終わり]としている。そこには人の姿がまったく見あたらない。すべての店のシャッターは閉ざされ、役所にも人影はない。ただひとつあるホテルの受付にも人はいない。ベルを鳴らしても誰も出てこない。それは完全な無人の町に見えた。あるいはみんなどこかで昼寝をしているのかもしれない。しかしまだ朝の十時半だ。昼寝をするには早すぎる。それとも何かの理由があって、人々はこの町を見捨てて出て行ってしまったのかもしれない。いずれにせよ、明日の朝まで次の列車は来ないし、ここで夜を過ごすしかない。彼はあてもなく散歩をして時間をつぶした。
しかし実はそこは猫たちの町だった。日が暮れかけると、石橋を渡ってたくさんの猫たちが町にやってきた。いろんな柄のいろんな種類の猫たちだ。普通の猫よりはかなり大ぶりだが、それでも猫だ。青年はその光景を目にして驚き、あわてて町の真ん中にある鐘撞き台に上り、そこに身を隠した。猫たちは慣れたそぶりで店のシャッターを開け、あるいは役所の机に座って、それぞれの仕事を始めた。しばらくすると、更に数多くの猫が同じように橋を渡って町にやってきた。猫たちは商店に入って買い物をし、役所に行って事務的な手続きを済ませ、ホテルのレストランで食事をした。猫たちは居酒屋でビールを飲み、陽気な猫の歌を歌った。手風琴《てふうきん》を弾くものがいて、それにあわせて踊り出すものがいた。猫たちは夜目が利くので明かりをほとんど必要としなかったが、その夜は満月がくまなく町を照らしていたから、青年は鐘撞き台の上からその一部始終を目にすることができた。明け方が近くなると、猫たちは店を閉め、それぞれの仕事や用事を終え、ぞろぞろと橋を渡ってもとの場所に帰っていった。
夜が明け、猫たちがいなくなり、町が無人に戻ると、青年は下に降りて、ホテルのベッドに入って勝手に眠った。腹が減るとホテルの台所に残っていたパンと魚料理を食べた。そしてあたりが暗くなり始めると、再び鐘撞き台に上ってそこに身を潜め、夜明けがくるまで猫たちの行動を観察した。列車は昼前と夕方前にやってきて駅に停まった。午前の列車に乗れば、先に進むことができたし、午後の列車に乗れば、元来た場所に戻ることができた。その駅で降りる乗客は一人もいなかったし、その駅から列車に乗り込むものもいなかった。しかしそれでも列車は律儀に駅に停車し、一分後に発車した。だからもしそうしようと思えば、その列車に乗って、不気味な猫の町をあとにすることもできた。しかし彼はそうはしなかった。若くて好奇心が旺盛だったし、野心と冒険心にも富んでいた。その猫の町の不思議な光景を、彼はもっと見てみたかった。いつからどうしてそこが猫たちの町になったのか、町はどのような仕組みになっているのか、猫たちはそこでいったい何をしているのか、できればそういうことも知りたかった。こんな不思議な光景を目にしたのは自分のほかにはいないはずだ。
三日目の夜に、ちょっとした騒ぎが鐘撞き台の下の広場で持ち上がった。「なんだか、人のにおいがしないか」と一匹の猫が言い出したのだ。「そういえばこの何日か、妙なにおいがしていた気がする」と誰かが鼻を動かしながらそれに賛同した。「実は俺もそう感じていたんだ」と口添えするものもいた。「しかし変だな。人間がここにやってくることはないはずなんだが」と誰かが言った。「ああ、そうだとも。人間がこの猫の町に入って来られるわけがない」「でもあいつらのにおいがすることも確かだぞ」
猫たちはいくつかのグループを組んで、自警団のように町を隅々まで捜索することになった。本気になれば猫たちはとても鼻がきく。鐘撞き台がそのにおいの発生源であることを探り当てるまでに、それほどの時間はかからなかった。彼らの柔らかい足が鐘撞き台の階段をひたひたと上ってくる音が、青年の耳にも聞こえた。絶体絶命だ、と彼は思った。猫たちは人間のにおいにひどく興奮し、腹を立てているようだ。彼らは大きく、鋭い爪と白く尖った歯を持っている。そしてこの町は人間が足を踏み入れてはならない場所なのだ。見つかってどんな目にあわされるかはわからないが、その秘密を知ったまま、おとなしくこの町から出してもらえるとは思えない。
三匹の猫たちが鐘撞き台にあがってきて、くんくんとにおいをかいだ。「不思議だ」と一匹が長い髭をぴくぴくと震わせながら言った。「においはするんだが、人はいない」「たしかに奇妙だ」ともう一匹が言った。「でもとにかく、ここには誰もいない。べつのところを探そう」「しかし、わけがわからんな」そして彼らは首をひねりながら去っていった。猫たちの足音は階段を下り、夜の闇の中に消えていった。青年はほっと一息ついたが、彼にもわけはわからなかった。なにしろ猫たちと彼は狭いところで、文字通り鼻をつき合わせるようなかっこうで向き合っていたのだ。見逃しようもない。なのに猫たちにはなぜか、彼の姿は見えないようだ。彼は自分の手を目の前にかざしてみた。ちゃんと手は見える。透明になったわけではない。不思議だ。いずれにせよ、朝になったら駅に行って、午前の列車でこの町を出て行くことにしよう。ここに残っているのはあまりに危険すぎる。いつまでもこんな幸運が続くものではない。
しかし翌日、午前の列車は駅に停まらなかった。彼の目の前でスピードを落とすことなく、そのまま通り過ぎていった。午後の列車も同じだった。運転席には運転手の姿も見えた。車窓には乗客たちの顔もあった。しかしそれは停まろうという気配すら見せなかった。人々の目には列車を待っている青年の姿は映っていないようだった。あるいは駅の姿さえ映っていないみたいだった。午後の列車の後ろ姿が見えなくなってしまうと、あたりはこれまでになくしんと静まりかえった。そして日が暮れ始めた。そろそろ猫たちがやってくる時刻だ。彼は自分が失われてしまっていることを知った。ここは猫の町なんかじゃないんだ、と彼はようやく悟った。そこは彼が失われるべき場所だった。それは彼自身のために用意された、この世ではない場所だった。そして列車が、彼を元の世界に連れ戻すために、その駅に停車することはもう永遠にないのだ。
天吾はその短編小説を二度繰り返し読んだ。[#傍点]失われるべき場所[#傍点終わり]、という言葉が彼の興味をひいた。それから本を閉じ、窓の外を過ぎ去っていく臨海工業地帯の味気ない風景をあてもなく眺めた。製油工場の炎、巨大なガスタンク、長距離砲のような格好をしたずんぐりと巨大な煙突。道路を走る大型トラックとタンクローリーの列。「猫の町」とはかけ離れた情景だ。しかしそのような光景にはそれなりに幻想的なものがあった。そこは都市の生活を地下で支える冥界のような場所なのだ。
しばらくあとで天吾は目を閉じ、安田恭子が彼女自身の[#傍点]失われた場所[#傍点終わり]に閉じこめられているところを想像した。そこには列車は停まらない。電話もない、郵便ポストもない。昼間そこにあるのは絶対的な孤独であり、夜の闇とともにあるのは、猫たちによる執拗な捜索である。それがいつ尽きるともなく反復される。彼は気がつかないうちにシートの中で眠り込んだようだった。長くはないが深い眠りだった。目が覚めたとき、身体は汗をかいていた。列車は真夏の南房総の海岸線に沿って進んでいた。
館山で特急を降り、普通列車に乗り換えて千倉まで行った。駅に降りると懐かしい海辺の匂いがして、道を行く人々はみんな黒く日焼けをしていた。駅前からタクシーで療養所に行った。療養所の受付で彼は自分の名前と父親の名前を告げた。
「今日お見えになることは、お知らせいただいておりますでしょうか?」と受付のデスクに座った中年の看護婦が硬い声で尋ねた。小柄で、金属縁の眼鏡をかけ、短い髪には白いものが少し混じっている。短い薬指には眼鏡と揃いで買ったような指輪がはまっていた。名札には「田村」とある。
「いいえ。今朝ふと思いついて、そのまま電車に乗ってしまったものですから」と天吾は正直に言った。
看護婦はいささかあきれたような顔で天吾を見た。そして言った。「面会にお見えになるときには、前もって連絡をいただくことになっています。こちらにもいろんな日程がありますし、患者さんの都合もありますので」
「申し訳ありません。知らなかったものですから」
「この前ここにお見えになったのはいつですか?」
「二年前です」
「二年前」、田村看護婦はボールペンを片手に訪問者リストをチェックしながら言った。「つまり二年間一度もお見えにならなかったということですね?」
「そうです」と天吾は言った。
「こちらの記録によりますと、あなたは川奈さんのただ一人のご家族だということになっています」
「そのとおりです」
看護婦はリストをデスクの上に置き、天吾の顔をちらりと見たが、とくに何も言わなかった。その目は天吾を非難しているわけではなかった。ただ何かを確認しているだけだ。天吾は決して特殊な例というのではなさそうだった。
「お父様は今、グループ・リハビリテーションをなさっているところです。あと三十分ほどで終わります。そのあとで面会できます」
「父はどんな具合ですか?」
「身体的なことを言えば、健康です。とくに何も問題はありません。[#傍点]あとのこと[#傍点終わり]は一進一退です」、看護婦はそう言って人差し指で自分のこめかみを軽く押さえた。「どのように一進一退なのかは、ご自分の目でお確かめになってください」
天吾は礼を言って、玄関のわきにあるラウンジで時間をつぶした。古い時代のにおいがするソファに座り、ポケットから文庫本を出して続きを読んだ。ときおり海の匂いのする風が吹き渡り、松の枝が涼しげな音を立てた。たくさんの蝉が松の枝にしがみついて、声を限りに鳴いていた。夏は今が盛りだったが、蝉たちはそれが長くは続かないことを承知しているようだった。彼らは残された短い命を慈しむように、声をあたりに轟かせていた。
やがて眼鏡をかけた田村看護婦がやってきて、リハビリが終わったので面会することができると天吾に告げた。
「お部屋に案内します」と彼女は言った。天吾はソファから立ち上がり、壁に掛かった大きな鏡の前を通り過ぎ、そこで自分がかなり雑な格好をしていることに初めて思い当たった。ジェフ・ベックの来日公演Tシャツの上に、ボタンの揃っていない色槌せたダンガリーのシャツ、膝のところにピザ・ソースのしみが小さくついたチノパンツ、長く洗っていないカーキ色のスニーカー、野球帽。どう考えても二年ぶりに父親を見舞いに来る、三十歳の息子の身なりではない。見舞いの品ひとつ持っているわけでもない。ポケットに文庫本をひとつ突っ込んでいるだけだ。看護婦があきれた顔で眺めたのも無理はない。
庭を横切って、父親の部屋がある棟に向かうあいだに看護婦が簡単に説明をしてくれた。療養所には三つの棟があり、病気の進行の度合いによって、入る棟が分かれていること。天吾の父親は現在「中程度」の棟に入っていること。人々はだいたいまず「軽度」の棟に入り、「中程度」の棟に移り、それから「重度」の棟に移る。一方にしか開かないドアと同じで、逆方向の移動はない。「重度」の棟から先ほかに移るべき場所はない。火葬場のほかには、とまでは看護婦はもちろん言わなかった。しかし彼女の示唆するところは明らかだった。
父親の部屋は二人部屋だったが、同室者は何かのクラスに出ていて不在だった。療養所には様々なリハビリのためのクラスがある。陶芸や、園芸や、体操のクラス。もっともリハビリといっても、回復のためのものではない。いくらかでも病気の進行を遅らせることを目的としたものだ。あるいはただ単に時間を潰すことを。父親は窓際に置かれた椅子に座って、開放された窓の外を眺めていた。両手は膝の上に揃えられている。近くのテーブルには鉢植えが置かれていた。花はいくつもの黄色い細かい花弁をつけていた。床は転倒しても怪我をしないよう、柔らかな素材でできていた。簡素な木製のベッドが二つあり、書き物用の机が二つあり、着替えや雑貨を入れておくためのタンスがあった。机の横にそれぞれ小さな本棚があり、窓のカーテンは長年の日差しを受けて黄色く変色している。
その窓際の椅子に座っている老人が自分の父親だとは、天吾にはすぐにはわからなかった。彼はひとまわり小さくなっていた。いや、[#傍点]縮んでいた[#傍点終わり]という方が正確な表現かもしれない。髪は短くなり、霜が降りた芝生のように真っ白になっていた。頬がげっそりとこけて、そのせいか眼窩が昔よりずっと大きく見えた。額には三本のしわが深く刻まれていた。頭のかたちが以前よりいびつになったように思えたが、それはたぶん髪が短くなったせいだろう。そのおかげでいびつさが目につくようになったのだ。眉毛はずいぶん長く密生していた。そして耳からも白髪が突き出していた。大きなとがった耳は、今ではより大きく、まるでコウモリの翼のように見えた。鼻のかたちだけが前と同じだ。耳とは対照的にもっこりとして丸い。そして赤黒い色を帯びている。唇の両端がだらんと垂れて、今にもそこからよだれがこぼれてきそうに見える。口は軽く開かれて、その奥に不揃いな歯が見えた。窓際にじつと座った父親の姿は天吾に、ヴァン・ゴッホの晩年の自画像を思い出させた。
その男は彼が部屋に入っていっても、一度ちらりと視線をこちらに向けただけで、あとは外の風景を眺め続けていた。離れたところから見ると、人間というよりは、ネズミやリスの類に近い生き物のように見えた。あまり清潔とは言えないが、それなりにしたたかな知恵を具えた生き物だ。しかしそれは[#傍点]間違いなく[#傍点終わり]天吾の父親だった。あるいは父親の残骸とでも言うべきものだった。二年の歳月が彼の身体から多くのものを持ち去っていた。まるで収税吏が、貧しい家から情け容赦もなく家財道具を奪っていくみたいに。天吾が覚えている父親は、常にきびきびと仕事をするタフな男だった。内省や想像力とは無縁だったが、それなりの倫理を具え、単純だが強い意思を持っていた。我慢強く、言い訳や泣き言を口にするのを、天吾は耳にしたことがなかった。しかし今目の前にいるのは、ただの抜け殻に過ぎない。温かみを残らず奪われてしまった空き屋に過ぎない。
「川奈さん」と看護婦は天吾の父親に向かって話しかけた。滑舌《かつぜつ》の良い、よく通る声だった。患者にはそういう声で話しかけるように訓練されているのだ。「川奈さん。ほら、しっかりして。息子さんが見えていますよ」
父親はもう一度こちらを向いた。その表情を欠いた一対の目は、軒下にふたつ残されたからっぽのツバメの巣を天吾に思わせた。
「こんにちは」と天吾は言った。
「川奈さん、息子さんが東京からお見えになったんですよ」と看護婦は言った。
父親は何も言わず、ただ天吾の顔をまっすぐ見ていた。外国語で書かれた理解できない告示でも読んでいるみたいに。
「六時半に食事が始まります」と看護婦が天吾に言った。「それまではご自由になさってください」
看護婦が行ってしまうと、天吾は少し迷ってから父親の近くに行き、その向かいにある椅子に腰を下ろした。色の槌せた布張りの椅子だった。長く使われたものらしく、木の部分は疵《きず》だらけになっていた。父親は彼がそこに座るのを目で追っていた。
「元気ですか?」と天吾は尋ねた。
「おかげさまで」と父親はあらたまった口調で言った。
それから何を言えばいいのか、天吾にはわからなかった。彼はダンガリー・シャツの上から三つ目のボタンを指でいじりながら、窓の外に見える防風林に目をやり、それからまた父親の顔を見た。
「東京から来られたのですか?」と父親は言った。どうやら天吾のことが思い出せないようだ。
「東京から来ました」
「特急に乗って見えたのですね?」
「そうです」と天吾は言った。「館山まで特急できて、そこで普通に乗り換えて千倉まで来ました」
「海水浴に見えたのですか?」と父親は尋ねた。
天吾は言った。「僕は天吾です。川奈天吾。あなたの息子です」
「東京のどちらですか?」と父親は尋ねた。
「高円寺です。杉並区」
父親の額の三本のしわがぐっと深まった。「多くの人がNHKの受信料を払いたくないために嘘をつきます」
「お父さん」と天吾は呼びかけた。その言葉を口にするのはとても久しぶりのことだった。「僕は天吾です。あなたの息子です」
「私には息子はおらない」と父親はあっさりと言った。
「あなたには息子はいない」と天吾は機械的に反復した。
父親は肯いた。
「じゃあ、僕はいったい何なのですか?」と天吾は尋ねた。
「あなたは何ものでもない」と父親は言った。そして簡潔に二度首を振った。
天吾は息を呑み、少しのあいだ言葉を失っていた。父親もそれ以上口をきかなかった。二人は沈黙の中でそれぞれにもつれあった思考の行方を探った。蝉だけが迷うことなく、声を限りに鳴き続けていた。
この男はおそらく今、真実を語っているのだ、と天吾は感じた。その記憶は破壊され、意識は混濁の中にあるかもしれない。しかし彼が口にしているのはたぶん真実だ。天吾にはそれが直感的に理解できた。
「どういうことなのですか、それは?」と天吾は質問した。
「あなたは何ものでもない」と父親は感情のこもっていない声で同じ言葉を繰り返した。「何ものでもなかったし、何ものでもないし、これから先も何ものにもなれないだろう」
[#傍点]それでじゅうぶんだ[#傍点終わり]、と天吾は思った。
彼は椅子から立ち上がり、駅まで歩いて、そのまま東京に帰ってしまいたかった。聞くべきことはすでに聞いた。しかし立ち上がることができなかった。猫の町にやって来た旅の青年と同じだ。彼には好奇心があった。その裏にあるもっと深い事情が知りたかった。もっと明瞭な答えを聞きたかった。そこにはもちろん危険が潜んでいる。しかしこの機会を逃したらおそらくもう永遠に、自らについての秘密を知ることはないだろう。それは混沌の中に完全に没してしまうことだろう。
天吾は頭の中で言葉を並べ、それを並べ替えた。そして思い切って口に出した。子供の頃から何度となく口から出そうになった——しかしとうとう口にできなかった——質問だった。
「あなたはつまり、僕の生物学的な意味での父親ではないということですね? 僕らのあいだには血のつながりがないということですね」
父親は何も言わずに天吾の顔を見ていた。質問の趣旨が理解できたのかどうかも、その表情からはわからない。
「電波を盗むのは違法行為であります」と父親は天吾の目を見て言った。「金品を盗むのとなんら変わりがない。そう思いませんか?」
「そのとおりでしょう」と天吾はとりあえず同意した。
父親は満足したように何度か肯いた。
幽電波は雨やら雪のように天から無料で降ってくるものではない」と父親は言った。
天吾は口を閉ざしたまま父親の手を見ていた。父親の両手は両膝の上にきれいに揃えられていた。右手は右膝の上に、左手は左膝の上に。その手はぴくりとも動かなかった。小さな黒い手だった。日焼けが身体の芯まで浸みこんでいるみたいに見えた。長年にわたって屋外で働き続けてきた手だ。
「母親は、僕が小さな頃に、病死したのではないのですね」と天吾はゆっくりと、言葉を句切って質問した。
父親は返事をしなかった。表情も変わらなかったし、手も動かなかった。その目は見慣れぬものを観察するみたいに天吾を見ていた。
「母親はあなたのもとを去っていった。あなたを捨て、僕をあとに残して。おそらくはほかの男と一緒に。違いますか?」
父親は肯いた。「電波を盗むのはよくないことだ。好きなことをして、そのまま逃げおおせるものではない」
この男にはこちらの質問の趣旨はちゃんとわかっている。ただそれについて正面から話したくないだけだ。天吾はそう感じた。
「お父さん」と天吾は呼びかけた。「実際にはお父さんじゃないかもしれないけど、とりあえずそう呼びます。ほかに呼び方を知らないから。正直に言って、僕はあなたのことがこれまで好きではなかった。むしろ多くの場合憎んでいたかもしれない。それはわかりますね? しかしもし仮にあなたが実の父親ではなく、我々のあいだに血のつながりがないのだとしたら、僕があなたを憎まなくてはならない理由はもはやなくなります。あなたに好意を抱くことができるかどうか、そこまではわからない。でも、少なくとも今よりあなたを理解することはできるだろうと思う。僕がずっと求めてきたのは[#傍点]本当のこと[#傍点終わり]だったからです。自分が誰で、どこから来たのか。僕が知りたいのはそれだけだった。でも[#傍点]誰も[#傍点終わり]それを教えてはくれなかった。もしあなたが今ここで真実を話してくれるなら、僕はあなたをもう憎んだり、嫌ったりはしない。それは僕にとって歓迎すべきことです。あなたという人間をこれ以上憎んだり、嫌ったりせずに済むのは」
父親は何も言わず、相変わらず表情のない目で天吾を眺めていた。しかしその空っぽのツバメの巣の奥に、きわめて微小な何かがきらりと光ったような気がした。
「僕は[#傍点]何ものでもない[#傍点終わり]」と天吾は言った。「あなたの言うとおりです。たった一人で夜の海に投げ出され、浮かんでいるようなものです。手を伸ばしても誰もいない、声を上げても返事は返ってこない。僕はどこにもつながってはいない。まがりなりにも家族と呼べるのは、あなたのほかにはいない。しかしあなたはそこにある秘密を握ったまま、一切を語ろうとはしない。そしてあなたの記憶は、この海辺の町で一進一退を繰り返しながら、日々確実に失われていく。僕についての真実もやはり同じように失われていく。真実の助けがなければ、僕は何ものでもないし、これから先も何ものにもなり得ない。それも実にあなたの言うとおりだ」
「知識は貴重な社会資産です」、父親は棒読みするようにそう言った。しかしその声は前よりいくらか小さくなっていた。背後にいる誰かが手を伸ばしてボリュームをしぼったみたいに。「その資産は豊かに蓄積され、注意深く運用されなくてはなりません。次の世代へと実りの多いかたちで引き継がれなくてはなりません。そのためにもNHKはみなさんの受信料を必要として
——」
この男が口にしているのは、マントラのようなものだ、と天吾は思った。このような文句を唱えることによって、彼はこれまで自分の身を守ってきたのだ。天吾はその頑迷なまでの護符を突破しなければならなかった。その囲いの奥から、一人の生身の人間を引っ張り出さなくてはならない。
天吾は父親の言葉を遮った。「僕の母親はどんな人だったんですか? 彼女はどこに行ったんですか? そしてどうなったんですか?」
父親は急に黙りこんだ。彼はもう呪文を唱えなかった。
天吾は続けた。「僕は誰かを嫌ったり、憎んだり、恨んだりして生きていくことに疲れたんです。誰をも愛せないで生きていくことにも疲れました。僕には一人の友達もいない。[#傍点]ただの一人も[#傍点終わり]です。そしてなによりも、自分自身を愛することすらできない。なぜ自分自身を愛することができないのか? それは他者を愛することができないからです。人は誰かを愛することによって、そして誰かから愛されることによって、それらの行為を通して自分自身を愛する方法を知るのです。僕の言っていることはわかりますか? 誰かを愛することのできないものに、自分を正しく愛することなんかできません。いや、それがあなたのせいだと言っているわけじゃない。考えてみれば、あなただってそういう被害者の一人なのかもしれない。あなただっておそらく、自分自身の愛し方をよく知らないはずだ。違いますか?」
父親は沈黙の中にこもっていた。その唇は固く閉ざされたままだった。天吾の言ったことを彼がどれだけ理解したのか、表情からはわからなかった。天吾も黙って椅子に身を沈めていた。開かれた窓から風が入ってきた。風は日光によって変色したカーテンを翻し、鉢植えの細かい花弁を揺らせた。そして開け放しになったドアから廊下に抜けて行った。海の匂いが前よりも強くなった。蝉の声に混じって、松の針葉が触れあう柔らかい音が聞こえた。
天吾は静かな声で続けた。「僕は幻をよく見ます。昔から一貫して同じ幻を繰り返し見続けています。それはたぶん幻じゃなくて、記憶された現実の光景なんだろうと考えています。一歳半の僕のとなりに母親がいます。母親は若い男と抱き合っている。そしてその男は[#傍点]あなた[#傍点終わり]じゃない。どんな男だかはわからない。しかしあなたで[#傍点]ない[#傍点終わり]ことだけは確かだ。どうしてかはわからないけれど、その光景は僕のまぶたにしっかりと焼き付いて、はがれなくなってしまっている」
父親は何も言わない。しかし彼の目は明らかに何か違うものを見ている。ここにあるのではないものを。そして二人は沈黙を守り続ける。天吾は急速に強くなった風の音に耳を傾けている。父親の耳が何を聞いているのか、天吾にはわからない。
「何か読んでもらえませんか」と父親は長い沈黙のあとで、あらたまった口調で言った。「目を痛めているので、本を読むことができんのです。長く字を追うことができない。本はその本棚の中に入っております。あなたの好きなものを選んでいただいてよろしい」
天吾はあきらめて椅子から立ち上がり、本棚に並んだ本の背表紙をざっと眺めた。その大半は時代小説だった。『大菩薩峠』の全巻が揃っている。しかし天吾は大時代な言葉を使った古い小説を父親の前で朗読するような気持ちには、どうしてもなれなかった。
「もしよければ、猫の町の話を読みたいのですが、それでかまいませんか」と天吾は言った。
「僕が自分で読むために持ってきた本ですが」
「猫の町の話」と父親は言った。そしてその言葉をしばらく吟味した。「もしご迷惑でなければ、それを読んで下さい」
天吾は腕時計に目をやった。「べつに迷惑じゃありません。電車の時間までにはまだ間はあります。奇妙な話だから、気に入るかどうかはわからないけど」
天吾はポケットから文庫本を出し、『猫の町』の朗読を始めた。父親は窓際の椅子に座ったまま姿勢も変えず、天吾の朗読する物語に耳を澄ませていた。天吾は聞き取りやすい声で、ゆっくりと文章を読んでいった。途中で二度か三度休憩して、息をついた。そのたびに父親の顔を見たが、そこにはどのような反応も見受けられなかった。彼がその物語を楽しんでいるのかいないのか、それもわからない。物語を最後まで読み終えたとき、父親は身動きひとつせず、じっと目を閉じていた。眠り込んでしまっているみたいにも見えた。しかし眠ってはいなかった。物語の世界に深く入り込んでいただけだ。彼がそこから出てくるのにしばらく時間がかかった。天吾はそれを我慢強く待っていた。午後の光がいくらか薄れ、あたりに夕暮れの気配が混じり始めた。海からの風が松の枝を揺らし続けていた。
「その猫の町にはテレビがあるのでしょうか?」、父親はまず職業的な見地からそう質問した。
「一九三〇年代にドイツで書かれた話だし、その頃にはまだテレビはありません。ラジオはあったけど」
「私は満州におったが、そこにはラジオもなかった。放送局もなかった。新聞もなかなか届かず、半月前の新聞を読んでおりました。食べるものだってろくになく、女もおらんかった。ときどき狼が出た。地の果てのようなところでした」
彼はしばらく黙して何かを考えていた。たぶん若いときに満州で送った、開拓移民としての苦しい生活のことを思い出しているのだろう。しかしそれらの記憶はすぐに混濁し、虚無の中に呑み込まれていった。父親の表情の変化から、そのような意識の動きが読み取れた。
「町は猫がつくった町なのか。それとも昔の人がつくって、そこに猫が住み着いたのか?」と父親は窓ガラスに向かって独り言のように言った。でもそれはどうやら天吾に向かって投げかけられた質問であるようだった。
「わからないな」と天吾は言った。「でもどうやら、ずっと昔に人間がつくったもののようですね。何らかの理由で人間がいなくなり、そこに猫たちが住み着いたのかもしれない。たとえば伝染病でみんなが死んでしまったとか、そういうことで」
父親は肯いた。「空白が生まれれば、何かがやってきて埋めなくてはならない。みんなそうしておるわけだから」
「みんなそうしている?」
「そのとおり」と父親は断言した。
「あなたはどんな空白を埋めているんですか?」
父親はむずかしい顔をした。長い眉毛が下がって目を隠した。そしていくぶん嘲りが混じった声で言った。「あんたにはそれがわからない」
「わかりません」と天吾は言った。
父親は鼻孔を膨らませた。片方の眉がわずかに持ち上がっていた。それは昔から、何か不満があるときに彼がいつも浮かべた表情だった。「説明しなくてはそれがわからんというのは、つまり、どれだけ説明してもわからんということだ」
天吾は目を細めて相手の表情を読んだ。父親がこんな奇妙な、暗示的なしゃべり方をしたことは一度もない。彼は常に具体的な、実際的な言葉しか口にしなかった。必要なときに、必要なことだけを短くしゃべる、それが会話というものについての、その男の揺らぎない定義だった。しかしそこには読みとれるほどの表情はなかった。
「わかりました。とにかくあなたは[#傍点]何かの[#傍点終わり]空白を埋めている」と天吾は言った。「じゃあ、[#傍点]あなたが残した[#傍点終わり]空白をかわりに埋めるのは誰なんでしょう」
「あんただ」と父親は簡潔に言った。そして人差し指を上げて天吾をまっすぐ、力強く指さした。
「そんなこときまっているじゃないか。誰かのつくった空白をこの私が埋めてきた。そのかわりに私がつくった空白をあんたが埋めていく。回り持ちのようなものだ」
「猫たちが無人になった町を埋めたみたいに」
「そう、町のように失われるんだ」と彼は言った。そして自分が差し出した人差し指を、まるで場違いな不思議なものでも見るようにぼんやりと眺めた。
「町のように失われる」と天吾は父親の言葉を繰り返した。
「あんたを産んだ女はもうどこにもいない」
「[#傍点]どこにもいない[#傍点終わり]。町のように失われる。つまりそれは、死んでしまったということなのですか?」
父親はそれには答えなかった。
天吾はため息をついた。「それでは、僕の父親は誰なんですか?」
「ただの空白だ。あんたの母親は空白と交わってあんたを産んだ。私がその空白を埋めた」
それだけを言ってしまうと、父親は目を閉じ、口を閉ざした。
「空白と交わった?」
「そうだ」
「そしてあなたが僕を育てた。そういうことですね?」
「だから言っただろう」、父親はしかつめらしく咳払いをひとつしてから言った。わかりの悪い子供に単純な道理を説くみたいに。「説明しなくてはそれがわからんというのは、どれだけ説明してもわからんということだ」
「僕は空白の中から出てきたんですか?」と天吾は尋ねた。
返事はない。
天吾は膝の上で手の指を組み合わせ、父親の顔をもう一度正面からまっすぐ見た。そして思った。この男は空っぽの残骸なんかじゃない。ただの空き屋でもない。頑強な狭い魂と陰鬱な記憶を抱え、海辺の土地で訥々と生き延びている一人の生身の男なのだ。自らの内側で徐々に広がっていく空白と共存することを余儀なくされている。今はまだ空白と記憶がせめぎあっている。しかしやがては空白が、本人がそれを望もうと望むまいと、残されている記憶を完全に呑み込んでしまうことだろう。それは時間の問題でしかない。彼がこれから向かおうとしている空白は、おれが生まれ出てきたのと同じ空白なのだろうか?
松の梢を吹き抜ける夕暮れ近くの風に混じって、遠い海鳴りが聞こえたような気がした。でもただの錯覚かもしれない。