恩寵の代償として届けられるもの
青豆が中に入ると、坊主頭が彼女の背後にまわって素早くドアを閉めた。部屋の中は真っ暗だった。窓の重厚なカーテンが引かれ、室内の明かりはすべて消されている。カーテンの隙間から僅かに光の筋が漏れていたが、それもかえって暗闇を際だたせる役目しか果たしていなかった。
上映中の映画館かプラネタリウムの中に足を踏み入れたときのように、目がその暗闇になれるまでに時間がかかった。最初に目についたのは低い机の上に置かれた電気時計の表示だった。その緑色の数字は時刻が午後7時20分であることを示していた。それから時間をかけて、大型のベッドが反対側の壁際に置かれていることがわかった。電気時計はそのベッドの枕元に置かれていた。広々とした隣室に比べるといくぶん狭いが、それでも通常のホテルの客室よりはスペースに余裕がある。
ベッドの上には小山のような黒々とした物体があった。その不定形の輪郭が、そこに横たわった人間の体躯を表しているとわかるまでに、更にまた時間を要した。そのあいだ、輪郭の線はいささかも崩れることはなかった。生命の徴候らしきものはうかがえなかった。息づかいも聞こえない。聞こえるのは天井近くの送風口から出てくるエアコンの微かな風音だけだ。でも死んでいるわけではない。[#傍点]それ[#傍点終わり]が生きた人間であることを前提として、坊主頭は行動をとっていた。
かなり大柄な人間だ。たぶん男だろう。定かには見えないが、どうやら顔はこちらには向けられていないようだ。そしてその人物はベッドに入ってはいない。整えられたベッドカバーの上にじつとうつぶせになっている。まるで洞窟の奥で体力の消耗を防ぎつつ傷を癒している大型動物のように。
「お時間です」、坊主頭がその影に向かって声をかけた。彼の声にはこれまでにない張り詰めた響きがあった。
男にその声が聞こえたのかどうかはわからない。ベッドの上の暗い小山はそのままぴくりとも動かなかった。坊主頭はドアの前に立ち、姿勢を崩すことなくそのまま待ち受けた。部屋は深く静まりかえり、誰かが唾を飲み込む音まではっきりと聞こえるほどだった。それから唾を飲んだのが自分であることに、青豆は気づいた。彼女は右手にジムバッグを握りしめたまま、坊主頭と同じように何かが起こるのを待ち受けていた。電気時計の数字が7:21に変わり、それから7:22に変わり、7:23に変わった。
やがてベッドの上の輪郭が小さく揺れ、動きを見せ始めた。ほんの微かな震えが、やがてはっきりとした動作になった。その人物はどうやら深く眠っていたようだ。あるいは眠りに似たものの中に入り込んでいたらしかった。筋肉が覚醒し、そろそろと上半身が持ち上がり、時間をかけて意識が再形成されていった。ベッドの上に影がまっすぐに起き上がり、あぐらを組んだ。間違いなく男だ、と青豆は思った。
「お時間です」と坊主頭がもう一度繰り返した。
男が大きく息を吐く音が聞こえた。深い井戸の底から立ち上るゆっくりと太い吐息だった。それから次に息を大きく吸い込む音が聞こえた。森の樹木のあいだを吹き抜ける烈風のごとく荒々しく不穏だ。その二種類の異なった種類の音が、交互に繰り返された。そのあいだに長い沈黙のインターバルが置かれた。そのリズミカルな、また多くの意味を含んだ反復は、青豆を落ち着かない気持ちにさせた。これまで見聞きしたことのない領域に足を踏み入れたような気がした。たとえば深い海溝の底であるとか、あるいは未知の小惑星の地表であるとか。なんとか到達することはできても、もとに戻ることのかなわない場所だ。
目はなかなか暗闇に慣れなかった。あるところまでは見えるようになるのだが、そこから先にはどうしても進まない。今のところ青豆の目が見届けられるのは、そこにいる男の暗いシルエットだけだった。その顔がどちらを向いているのか、何を見ているのかもわからない。男がかなりの巨漢であることと、その両肩が呼吸にあわせて静かに、しかし大きく上下しているらしいということ、わかるのはそれくらいだ。呼吸は通常の呼吸ではなかった。身体全体をくまなく使って行われる、特別な目的と機能を持った呼吸だった。肩胛《けんこう》骨と横隔膜が大きく動き、拡大収縮している様が思い浮かぶ。普通の人間にはそんな激しい呼吸はまずできない。長く厳しい訓練によってしか習得することのできない特殊な呼吸法だ。
坊主頭は彼女のわきに立ち、直立した姿勢を保っていた。背筋が伸び、顎が短く引かれている。彼の呼吸はベッドの上の男とは逆に、浅く速かった。彼は気配を殺して待機しているのだ。その一連の激しい深呼吸が完了するのを。それは身体を整えるために日常的に行われる行為のひとつであるらしかった。青豆も坊主頭と同じように、それが終了するのを待つしかなかった。おそらく覚醒のために必要とされるプロセスなのだろう。
やがて大きな機械が操業を終えるときのように、呼吸が段階を踏んで止んだ。呼吸と呼吸とのあいだの間隔が徐々に長くなり、最後にすべてを絞りきるように長く息が吐き出された。深い沈黙が再び部屋に降りた。
「お時間です」と坊主頭は三度目に言った。
男の頭がゆっくりと動いた。彼は坊主頭の方を向いているようだった。
「さがってよろしい」と男は言った。男の声は明瞭な深いバリトンだった。決然として、曖昧なところはない。身体は完全に覚醒したようだった。
坊主頭は暗闇の中で浅く一礼し、入ってきたときと同じように、無駄のない動きで部屋を出て行った。ドアが閉まり、あとには青豆と男が二人で残された。
「暗くて悪いが」と男は言った。たぶん青豆に向けて言ったのだろう。
「私はかまいません」と青豆は言った。
「暗くしていることが必要だった」と男はソフトな声で言った。「しかし心配しなくていい。あなたに害が及ぶことはない」
青豆は黙って肯いた。それから自分が暗闇の中にいることを思い出して、「わかりました」と口に出して言った。声はいつもより少し硬く、高くなっているようだ。
それから男はしばらく、暗闇の中で青豆の姿を見つめた。彼女は自分が激しく見つめられていることを感じた。的確で精密な視線だった。「見る」というよりは「視る」という表現の方がふさわしいだろう。その男には、彼女の身体の隅から隅までを見渡すことができるようだった。一瞬のうちに身につけている何もかもをはぎ取られ、まる裸にされてしまったような気がした。その視線は皮膚の上だけではなく、彼女の筋肉や内臓や子宮にまで及んでいた。この男は暗闇の中で目が[#傍点]視える[#傍点終わり]のだ、と彼女は思った。目に見える以上のものを彼は[#傍点]視ている[#傍点終わり]。
「暗がりの中にいる方がものごとはむしろよく見える」、男は青豆の心を見通したように言った。
「しかし暗がりにいる時間が長くなりすぎると、地上の光ある世界に戻るのがむずかしくなる。あるところで切り上げなくてはならない」
彼はそれからまたひとしきり青豆の姿を観察した。そこには性的な欲望の気配はなかった。男はただ彼女をひとつの客体として[#傍点]視ている[#傍点終わり]のだ。ちょうど船の乗客がデッキから、通り過ぎていく島のかたちを見つめるみたいに。しかしその乗客は普通の乗客ではない。彼は島についての[#傍点]すべて[#傍点終わり]を見通そうとしている。そのような鋭利で容赦のない視線に長くさらされていると、自分の肉体がどれほど不十分で不確かなものであるかを、青豆は実感させられた。普段はそんな風に感じることはない。乳房のサイズを別にすれば、彼女は自分の肉体をむしろ誇らしく思っている。彼女はそれを日常的に鍛え上げ、美しく保ってきた。筋肉はしなやかに張り詰めているし、贅肉はほんのわずかもない。しかしこの男に見つめられていると、自分の肉体がみすぼらしい古びた肉の袋のように思えてくる。
青豆のそんな思いを読みとったかのように、男は彼女を熟視するのをやめた。彼女はその視線が急速に力を失っていくのを感じた。まるでホースで水を撒いているときに、誰かが建物の陰で水道の蛇口を閉めたみたいに。
「使いだてして悪いが、窓のカーテンを少し開けてもらえないだろうか」と男は静かに言った。
「真っ暗な中ではあなただって仕事がしにくかろう」
青豆はジムバッグを床に置いて窓際に行き、窓際のコードを引いて重い分厚いカーテンを開け、内側にあるレースの白いカーテンを開けた。東京の夜景がその光を部屋の中に注いだ。東京タワーのイルミネーション、高速道路の照明灯、移動を続ける車のヘッドライト、高層ビルの窓の明かり、建物の屋上についた色とりどりのネオンサイン、それらが混じり合った大都市の夜特有の光が、ホテルの室内を照らし出した。それほど強い光ではない。部屋の中に置かれている家具調度が辛うじて見分けられる程度のささやかな光だ。それは青豆にとっては懐かしい光だった。彼女自身の属する世界から届けられた光だ。自分がどれくらい切実にそのような光を必要としていたかを、青豆はあらためて実感した。しかしそのような僅かな光でも、男の目には刺激が強すぎるようだった。ベッドの上にあぐらをかいて座ったまま、彼はその光を避けるように、大きな両手で顔を覆った。
「大丈夫ですか?」と青豆は尋ねた。
「心配しなくていい」と男は言った。
「カーテンをもう少し閉めましょう」
「そのままでいい。網膜に問題がある。光に慣れるのに時間がかかる。少しすれば普通になる。そこに座って待ってもらえまいか」
[#傍点]網膜に問題がある[#傍点終わり]、と青豆は頭の中で反復した。網膜に問題のある人々はおおむね失明の危機に晒されている。しかしそれはとりあえず青豆には関係のない問題だ。青豆が取り扱わなくてはならないのはこの男の視力ではない。
男が顔を両手で覆い、窓から差し込んでくる明かりに目を慣らしているあいだ、青豆はソファに腰を下ろし、男を正面から眺めた。今度は青豆が相手を子細に観察する番だった。
大きな男だった。太っているのではない。ただ大きいのだ。身長もあるし、横幅も大きい。力もありそうだった。大柄な男だという話は老婦人から前もって聞いていたが、これほどの大きさを青豆は予想していなかった。しかし宗教団体の教祖が巨漢であってはならないという理由はもちろんどこにもない。そして青豆は、こんな大きな男にレイプされる十歳の少女たちを想像して、思わず顔を歪めた。その男が裸になって、小さな少女の身体に乗しかかっている光景を彼女は想像した。少女たちには抵抗のしようもないだろう。いや、大人の女にだってそれはむずかしいかもしれない。
男は裾がゴムで細まった薄手のスエットパンツ風のものをはき、長袖シャツを着ていた。シャツは無地で、絹のような光沢がわずかに入っている。大振りで、前をボタンでとめるようになっており、男は上のふたつのボタンを外していた。シャツもスエットパンツも白か、あるいはごく淡いクリーム色に見える。寝間着というのではないが、部屋の中でくつろぐためのゆったりとした衣服だ。あるいは南の国の木陰に似合いそうな身なりだ。裸足の両足は見るからに大きかった。石塀のように広い肩幅は、経験を積んだ格闘技の選手を連想させた。
「よく来てくれた」、青豆の観察が一段落するのを待って、男は言った。
「これが私の仕事です。必要があればいろんなところにうかがいます」、青豆は感情を排した声で言った。しかしそう言いながら、自分がまるでここに呼ばれてやってきた娼婦になったような気がした。さっきの鋭い視線で、暗闇の中でまる裸にされてしまったせいだろう。
「わたしのことをどの程度まで知っているのだろう?」、男は相変わらず顔を両手で覆ったまま青豆に尋ねた。
「私があなたについてどれくらい存じ上げているか、ということですか?」
「そうだ」
「ほとんど何も知らないようなものです」と青豆は用心深く言葉を選んで言った。「お名前もうかがっておりません。ただ長野か山梨で宗教団体を主宰されている方だとしか。身体に何か問題を抱えておられて、そのことで私に何かお手伝いできるかもしれないということでした」
男は頭を何度か短く振り、両手を顔からどかせた。そして青豆と向かい合った。
男の髪は長かった。まっすぐで豊富な髪が肩近くまで垂れている。髪には白髪も多く混じっていた。年齢はおそらく四十代の後半から五十代前半というところだろう。鼻が大きく、顔の多くの部分を占めている。筋の通った見事にまっすぐな鼻だ。それはカレンダーの写真に出てくるアルプスの山を連想させた。裾野も広く、威厳に満ちている。彼の顔を見たとき、まず目につくのはその鼻だ。それと対照的に両目は深く窪んでいる。その奥にある瞳がいったい何を見ているのか、見届けることはむずかしい。顔全体は体躯にあわせて広く、厚かった。髭はきれいに剃られ、傷もほくろも見当たらない。男の顔立ちは整っていた。静謐《せいひつ》で知的な雰囲気も漂わせている。しかしそこには何かしら特異なもの、尋常ではないもの、簡単には心を許せないものが存在した。それは第一印象でまず人をたじろがせる種類の顔だった。鼻が大きすぎるのかもしれない。そのおかげで顔全体が正当な均衡を失っていて、それが見る人の心を不安定にしてしまうのかもしれない。あるいはそれは、奥まったところに静かに控え、古代の氷河のような光を放っている一対の目のせいかもしれない。あるいは予期できぬ言葉を今にも吐こうとする、酷薄な印象を漂わせた薄い唇のせいかもしれない。
「ほかには?」と男は尋ねた。
「ほかにはとくにうかがっていません。筋肉ストレッチングの用意をしてここに来るようにと言われただけです。筋肉と関節が私の専門としている分野です。相手の方の立場や人柄について多くを知る必要はありません」
娼婦と同じように、と青豆は思った。
「言うことはわかる」と男は深い声で言った。「しかしわたしの場合には、それなりの説明が必要になるだろう」
「おうかがいします」
「人々はわたしをリーダーと呼んでいる。しかし人前に顔を見せることはほとんどない。教団の中にあっても、同じ敷地の中で暮らしていても、大半の信者はわたしの顔さえ知らない」
青豆は肯いた。
「しかしあなたにはこうして顔を見せている。まっ暗闇の中で、あるいはずっと目隠しをしたまま治療をしてもらうわけにはいかないからね。礼儀上の問題もある」
「これは治療ではありません」と青豆は冷静な声で指摘した。「ただの筋肉のストレッチングです。私は医療行為をおこなう認可を受けていません。私がやっているのは日常的にあまり使われることのない、あるいは一般の人には使うことの困難な筋肉を強制的に伸ばして、身体能力の低下を防ぐことです」
男は微かに微笑んだように見えた。でもそれは錯覚で、彼はただ顔の筋肉をわずかに震わせただけかもしれない。
「よくわかっている。ただ方便として『治療』という言葉を使っただけだ。気にしなくていい。わたしが言いたかったのは、あなたは一般に人が目にすることのないものを、今こうして目にしているということだ。そのことを承知しておいてもらいたい」
「今回の件について、他言はしないようにという注意はあちらで受けました」、青豆はそう言って隣室に通じるドアを指さした。「でも心配なさる必要はありません。ここで見聞きしたことは何であれ、よそに洩れることはありません。仕事の上で多くの人々の身体に手を触れます。あなたは特別な立場にある方かもしれませんが、私にとっては筋肉に問題を抱えた多くの人々のうちの一人に過ぎません。私に関心があるのは筋肉の部分だけです」
「あなたは子供の頃、『証人会』の信者だったと聞いている」
「私が選んで信者になったわけではありません。信者になるように育てられただけです。そこには大きな違いがあります」
「たしかにそこには大きな違いがある」と男は言った。「だが幼い頃に植え付けられたイメージから、人は決して離れることはできない」
「よくも悪くも」と青豆は言った。
「『証人会』の教義は、わたしの所属する教団のものとはずいぶん違っている。終末論を中心に設定された宗教は、わたしに言わせれば多かれ少なかれインチキだ。終末とは、いかなる場合においても個人的なものでしかないというのがわたしの考えだ。しかしそれはそれとして、『証人会』は驚くほどタフな教団だ。その歴史は決して長くはないが、数多くの試練に耐えてきた。そして地道に信者の数を増やし続けている。そこから学ぶべきものは多々ある」
「それだけ偏狭だったのでしょう。狭く小さなものの方が、外からの力に対して強固になれます」
「あなたの言うことはおそらく正しい」と男は言った。そしてしばし間を置いた。「ともあれ、我々は宗教について語り合うために今ここにいるわけではない」
青豆は何も言わなかった。
「わかってもらいたいのは、わたしの身体には[#傍点]特別なこと[#傍点終わり]が数多くあるという事実だ」と男は言った。
青豆は椅子に腰掛けたまま、黙って相手の話を待った。
「さっきも言ったように、わたしの目は強い光に耐えることができない。この症状は何年か前に出てきた。それまではとくに問題もなかったのだが、あるときからそれが始まった。わたしが人前に出なくなったのも主にそのせいだ。一日のほとんどの時間を暗い部屋の中で過ごす」
「視力は私には手のつけようがない問題です」と青豆は言った。「さっきも申し上げましたように、私の専門は筋肉ですから」
「それはよくわかっている。もちろん専門医に相談したよ。何人もの高名な眼科医のところに行った。多くの検査をした。しかし今のところ打つ手はないそうだ。わたしの網膜は何らかの損傷を受けている。原因はわからない。症状はゆっくりと進行している。このままいけば、遠からず視力を失ってしまうかもしれない。もちろんあなたが言うとおり、それは筋肉とは関係のない問題だ。しかしとにかく、上から順番にわたしの抱えている身体的な問題を並べていこう。あなたに何ができるか、何ができないか、それはあとで考えればいい」
青豆は肯いた。
「それからわたしの身体の筋肉はしばしば硬直する」と男は言った。「ぴくりとも動かなくなるんだ。文字通り石のようになって、それが数時間続く。そういうときには、ひたすら横になっているしかない。痛みは感じない。ただ全身の筋肉が動かなくなるんだ。指一本動かすことはできない。自分の意志でなんとか動かせるのは、せいぜい眼球くらいだ。それが月に一度か二度起こる」
「前もってそれが起こりそうな徴候はあるのですか?」
「まず引きつりがある。身体のいろんな部分の筋肉がぴくぴくと震えるんだ。それが十分か二十分か続く。そのあとに、どこかで誰かがスイッチを切ったみたいに、筋肉がすっかり死んでしまう。だから予告を受けたあとの十分か二十分のあいだに、わたしは横になれるところに行って横になる。入江で嵐を避ける船のように、そこで身をひそめて麻痺状態が通り過ぎるのを待つ。麻痺はしていても、意識だけは目覚めている。いや、いつも以上に明瞭に目覚めている」
「肉体的な痛みはないのですね?」
「あらゆる感覚が失せてしまう。針でつつかれても、何も感じなくなる」
「そのことについて、医師に相談をされましたか?」
「権威のある病院をまわった。何人もの医者に診てもらった。しかし結局わかったのは、わたしが経験しているのは前例のない奇病であり、現在の医学知識では手の打ちようがないということでしかなかった。漢方、整骨医、整体師、鍼灸、マッサージ、温泉治療……考え得る限りのことを試してみたが、語るに足る効果は見られなかった」
青豆は軽く顔をしかめた。「私がやっているのは、日常的な領域での身体機能の活性化です。そのような深刻な問題は、とても手に負えそうにはありません」
「それもよくわかっている。わたしとしては、あらゆる可能性をあたっているだけだ。もしあなたのやり方が効果を発揮しなかったとしても、それはあなたの責任ではない。あなたがいつもやっていることを、わたしに対してしてくれればいい。わたしの身体がそれをどのように受け止めるか見てみたい」
青豆はその男の大きな身体が、どこか暗い場所で、冬眠中の動物のように動かず横たわっている光景を思い浮かべた。
「いちばん最近その麻痺の症状が出たのは、いつですか?」
「十日前になる」と男は言った。「それから、これはいささか言いにくいことなのだが、ひとつ伝えておいた方が良いと思えることがある」
「なんでも遠慮なくおっしゃって下さい」
「その筋肉の仮死状態が続いている間、ずっと勃起が続いている」
青豆は顔をより深くしかめた。「つまり、その数時間のあいだ、ずっと性器が硬くなっているということですか?」
「そのとおりだ」
「しかし感覚はない」
「感覚はない」と男は言った。「性欲もない。ただ固くなっているだけだ。石のように硬直している。他の筋肉と同じように」
青豆は小さく首を振った。そして顔をできるだけ元に戻した。「それについても、私に何かができるとは思えません。私の専門分野からかなり遠く離れた事柄です」
「わたしにとっても話しづらいことだし、あなたも聞きたくないことかもしれないが、もう少しその話を続けていいだろうか?」
「どうぞ、話して下さい。秘密はまもります」
「そのあいだにわたしは女たちと交わることになる」
「女[#傍点]たち[#傍点終わり]?」
「わたしのまわりには複数の女性がいる。わたしがそういう状態になると、彼女たちがかわるがわる、動けなくなったわたしの上に乗って性交する。わたしには何の感覚もない。性的な快感もない。しかしそれでも射精はある。何度もわたしは射精をする」
青豆は沈黙を守った。
男は続けた。「女たちは全部で三人いる。全員が十代だ。なぜわたしのまわりにそのような若い女たちがいて、なぜわたしと性交をしなくてはならないのか、あなたはおそらく疑問に思うことだろう」
「それはつまり……、宗教的な行為の一部なのですか?」
男はベッドの上であぐらを組んだまま、ひとつ大きな息をした。「わたしのそのような麻痺状態は天からもたらされた恩寵であり、一種の神聖な状況なのだと考えられている。だから彼女たちはそういう状況が到来すると、やってきてわたしと交わる。そして子供を身ごもろうとする。わたしの後継者を」
青豆は何も言わずに男の顔を見ていた。男も口をきかなかった。
「つまり、妊娠することが彼女たちの目的なのですか。そのような状況であなたの子供を受胎することが」と青豆は言った。
「そのとおりだ」
「そしてあなたは、つまり、麻痺状態にある数時間のあいだに三人の女性を相手にして、三度射精する?」
「そのとおり」
自分がひどく入り組んだ立場に置かれていることに、青豆は気づかないわけにはいかなかった。彼女はこの男をこれから抹殺しようとしている。[#傍点]あちら側に送り込もう[#傍点終わり]としている。にもかかわらず、彼の肉体の抱えた奇妙な秘密を打ち明けられている。
「よくわからないのですが、そこにはどのような具体的問題があるのでしょう? あなたは月に一度か二度、全身の筋肉が麻痺します。そのときに三人の若いガールフレンドがやってきて、あなたと性交します。それは常識から考えて、たしかに[#傍点]普通ではない[#傍点終わり]ことです。しかし——」
「ガールフレンドではない」と男は口を挟んだ。「彼女たちはわたしのまわりで巫女の役割を果たしている。わたしと交わることは、彼女たちの務めのひとつでもある」
「務め?」
「役割として決められていることだ。後継者をみこもるように務めることが」
「誰がそれを決めたのでしょう?」と青豆は尋ねた。
「長い話になる」と男は言った。「問題はそれによってわたしの肉体が確実に滅びへと向かっているということだ」
「それで彼女たちは妊娠したのですか?」
「まだ誰も妊娠してはいない。その可能性もおそらくない。彼女たちには月経がないから。それでもなお女たちは恩寵による奇跡を求めている」
「誰もまだ妊娠していない。彼女たちには生理がない」と青豆は言った。「そしてあなたの肉体は滅びに向かっている」
「麻痺の時間は少しずつ長くなっている。回数も増えている。麻痺が始まったのは七年ばかり前だが、最初のうちは二ヶ月か三ヶ月に一度くらいのものだった。今では一ヶ月に一度か二度になっている。麻痺が終わると、そのたびに身体は激しい苦痛と疲弊に苛まれる。ほぼ一週間のあいだ、その苦痛や疲弊とともに生活しなくてはならない。太い針で全身をくまなく刺されるような痛み、激しい頭痛、脱力感。眠ることもかなわない。いかなる薬も、そのような痛みをやわらげてはくれない」
男はため息をついた。そして続けた。
「二週間目は直後の一週間に比べれば遥かにましだが、それでも痛みが消えてなくなるわけじゃない。一日に何度か、激しい苦痛が波のように押し寄せてくる。うまく息ができなくなる。内臓がまともに働かない。潤滑油が失われた機械のように、体中の関節が軋《きし》む。自分の肉が貧り食われ、血が吸われている。それをありありと感じ取ることができる。しかしわたしを蝕んでいるものは癌でもないし、寄生虫でもない。あらゆる種類の精密検査をやったが、問題点はひとつとして見つからなかった。身体は健康そのものだと言われた。わたしをこうして苛んでいるのは、医学では説明のつかないものだ。それが『恩寵』の代償としてわたしの受け取っているもの、ということになる」
この男はたしかに崩壊の途上にあるようだ、と青豆は思った。憔惇の影のようなものはほとんど見受けられなかった。その肉体はどこまでも頑丈に作られ、激しい痛みに耐える訓練がなされているらしい。それでも青豆には、彼の肉体が滅びに向かっていることが感じとれた。この男は病んでいるのだ。それがどのような病であるのかはわからない。しかし私がここであえて手を下さずとも、この男は激しい苦痛に苛まれながら、緩慢な速度で肉体を破壊され、やがては避けがたく死を迎えることだろう。
「その進行を食い止めることはできない」と男は青豆の考えを読んだように言った。「わたしはどこまでも蝕まれ、身体をがらんどうにされ、激しい苦痛に満ちた死を迎えるだろう。彼らはただ、利用価値のなくなった乗り物を乗り捨てていくだけだ」
「[#傍点]彼ら[#傍点終わり]?」と青豆は言った。「それは誰のことですか?」
「わたしの肉体をこうして蝕んでいるもののことだよ」と男は言った。「でもそれはいい。わたしが今とりあえず求めているのは、ここにある現実的な痛みを少しでもいいから軽減してもらうことだ。たとえ抜本的な解決でないとしても、わたしにとってそれが必要なことなのだ。この痛みは耐え難い。ときどき——ときとしてその痛みはすさまじく深くなる。まるで地球の中心にじかに結びついているみたいに。それはわたし以外の誰にもわからない種類の痛みだ。その痛みはわたしから多くのものを奪っていったが、同時に見返りとして、多くのものを与えてくれた。特別な深い痛みが与えてくれるものは、特別な深い恩寵だ。しかしもちろん、それによって痛みが軽減されるわけではない。破壊が回避されるわけでもない」
そのあとしばらく深い沈黙が続いた。
青豆はなんとか口を開いた。「繰り返すようですが、あなたが抱えておられる問題に対して、私に技術的にできることはほとんどないように思えます。とくにそれが、[#傍点]恩寵の代償[#傍点終わり]として届けられるのだとしたら」
リーダーは姿勢を正し、眼窩の奥にある氷河のような小さな目で青豆を見た。それからその薄く長い唇を開いた。
「いや、あなたにできることはあるはずだ。あなたに[#傍点]しか[#傍点終わり]できないことが」
「そうだといいのですが」
「わたしにはわかる」と男は言った。「わたしにはいろんなことがわかる。もしあなたさえよければ、始めてもらってかまわない。あなたがいつもやっていることを」
「やってみます」と青豆は言った。その声はこわばって虚ろだった。[#傍点]私がいつもやっていることを[#傍点終わり]と青豆は思った。