第二章 斧.琴.菊
古館弁護士がかえっていったあと、金田一耕助はしばらく|茫《ぼう》|然《ぜん》た
る眼つきをして、縁側の籐椅子によりかかっていた。
山国の秋はようやくふけて、|碧《へき》|瑠《る》|璃《り》の湖水のおもてを、さ
わやかな風が光るように流れていく。日はまさに|午《ひる》。向こうに見える犬神家の洋
館のステンドグラスに、キラキラと秋の陽が反射している。
すべてが平静な、風景画のなかの一瞬だった。だが、これにもかかわらず、湖水越しに、
犬神家の大きな建物を望見するとき、金田一耕助はなにかしら、背筋をつらぬいて走る戦
慄を禁じえなかった。
佐兵衛翁の遺言状は、いままさに発表されようとしている。古館弁護士の話によると、
その遺言状は、なにかしら爆弾的な内容を持っているらしい。その遺言状が発表されたと
き、あの美しい建物のなかでいったいなにが起こるのだろう。
金田一耕助はまた「犬神佐兵衛伝」を取りあげた。そして、一時間あまりもそのページ
を、あちらこちらと繰っていたが、だしぬけに湖水のほうから、オー?と呼ぶ声におどろ
かされて、ふと顔をあげた。
見るとホテルの桟橋にボートが|一《いっ》|艘《そう》。そのボートのなかに立って手
をふっているのは、たしかに猿蔵という男である。金田一耕助は眉をひそめて、思わず縁
側から身を乗り出した。猿蔵が手をふって招いているのは、どうやら自分らしく思えたか
らである。
「きみが呼んでいるのはぼくのことかぁ!」
猿蔵はそうだというように大きく首を縦にふった。金田一耕助はなにやら異様な胸騒ぎ
をおぼえながら、大急ぎで階段をおり、裏の桟橋へ出ていった。
「ぼくになにか用か」
「古館さんが、旦那をおつれしてこいとおっしゃるので……」
猿蔵は相変わらずぶっきら棒な口調でいった。
「古館弁護士が……? 犬神家になにかかわったことでもあったのかい」
「いえ、別に……これから遺言状を読みあげるから、よかったら来てもらいたいとおっし
ゃるんで」
「ああ、そう、それじゃ支度をしてくるから、ちょっと待ってくれたまえ」
部屋へかえって宿のどてらを、セルの|袴《はかま》に着かえて来ると、ボートはすぐ
に|漕《こ》ぎ出した。
「きみ、きみ、猿蔵君、ぼくの行くことを、犬神家のひとたちも承知しているの?」
「へえ、奥さまのおいいつけなんで」
「奥さまというのは、昨夜かえってこられた松子夫人のことかい」
「へえ」
おそらく古館弁護士は、松子夫人の留守中に起こった若林豊一郎の変死事件、ならびに、
おのれの抱いている不吉な予感について、松子夫人に訴えるところがあったのだろう。そ
して、遺言状発表の結果、起こることのあるべき凶事を未然にふせぐために、金田一耕助
を招待するように、夫人に進言したのであろう。
耕助の胸はおどった。どちらにしても、犬神家の一族に接触する機会の、意外に早くや
ってきたことをよろこんだ。
「きみ、きみ、猿蔵君、お嬢さんにはその後かわりはないかい」
「へえ、おかげさんで……」
「このあいだのボートね、ありゃあ犬神家のひとがだれでも乗りまわすの」
「いいえ、ありゃあお嬢さん専用のボートなんで……」
金田一耕助の胸はあやしく乱れた。あれが珠世専用のボートとすれば、あのボートに孔
をあけたやつは、とりもなおさず、珠世ひとりのいのちを|覘《うかが》っていたことに
なる。
「猿蔵君、きみはこのあいだ妙なことをいったね。ちかごろ珠世さんにはたびたびわけの
わからぬ災難がふりかかってくるというようなことを」
「へえ」
「いったい、それはいつごろからのことだね」
「いつごろからって……そうですね。春の終わりごろからでしょうか」
「そうすると、佐兵衛さんが亡くなられてから、間もなくのことだね」
「へえ」
「いったいだれが、そんないたずらをするのか、猿蔵君にもわからないの」
「そいつがわかっているくらいなら」
猿蔵はギロリと凶暴な眼をひからせた。
「おらぁただじゃおきません」
「珠世さんはいったいきみのなにに当たるのだい」
「珠世さまは、おらの大事な大事なお嬢さんだ。おらぁ亡くなった佐兵衛の旦那から、い
のちにかえても、お嬢さんを守るように頼まれたんだ」
猿蔵は歯をむき出して|昂《こう》|然《ぜん》といった。金田一耕助はこの醜い巨人
の、|巌《いわお》のようにたくましい胸や、大木のような太い腕を見守りながら、また、
なんとやらあやしい胸騒ぎをおぼえた。この巨人ににらまれたものこそ災難である。こい
つはきっと、犬のように忠実に、珠世の身辺を護衛し、珠世に指一本でもさすものがあっ
たら、たちどころに躍りかかって首根っ子を折ってしまうにちがいない。
「ときに猿蔵君、昨夜、佐清君がかえってきたってね」
「へえ」
猿蔵の口はまた重くなる。
「きみ、佐清君を見たかい」
「うんにゃ、まだだれもあのひとを見たものはねえ」
「佐清君は……」
耕助がなにかいいかけたとき、ボートはしかし犬神家の水門をくぐって、邸内のボート
ハウスへ入っていった。
このボートハウスを出て、金田一耕助がまず驚かされたのはひろい庭内のあちこちにお
かれたおびただしい大輪の菊の鉢である。金田一耕助は、|花《か》|卉《き》について
特別の趣味をもっているわけではない。しかし、いまを盛りと咲きほこる、このみごとな
菊の一群を見たとき、思わず眼を見はらずにはいられなかった。庭内の一隅には、|碁
《ご》|盤《ばん》|縞《じま》の障子を霜よけにした菊畑さえあった。
「ほほう、こいつはみごとだ。いったいこれはだれの丹精だね」
「あっしがやるんでさ。菊はこの家のおたからだからね」
「おたから?」
耕助は思わずそう聞きかえしたが、猿蔵はそれにこたえず、さきに立ってズンズン步く
と、やがて内玄関へ案内した。