そこには二百三高地に結って矢《や》飛白《が す り》銘仙、紫色らしい袴をはい
た明治の女書生もいれば、大正末期にはやった耳隠しに結《ゆ》ったお嬢さんもいる。
断髪にした娘は昭和初期のカフェの女給さんだろうか。椅子に腰をおろして軍刀をついた
八字髭の軍人もいれば、夜会巻きの明治の貴婦人もいる。さらに貴重なのは群衆写真で、
日露戦争の戦勝祝賀の提灯《ちょうちん》行列の写真もあれば、関東大震災のなまなま
しい現地報告みたいな写真もある。これらはすべて徳兵衛ら父祖三代の業績なのである。
うまれつき整理癖のつよい徳兵衛は、それらの業績をゕルバムとして年代順に整理して
あるのみならず、乾板までこれまた年代順に整理し、保存してある。そして、その季節季
節に合わせた写真を、これ見よがしにショウウンドウに飾るのが、徳兵衛のなにより
のご自慢なのだが、こればかりは近くにある二軒の写真館の主人が、いかにくやしがって
もかなわぬところであった。
若い女がドゕを押して入ってきたとき、徳兵衛はカウンターの奥のデスクにむかって、
厖《ぼう》大《だい》なかずの古いゕルバムと格闘しているところであった。デスクの
うえには強力な光りを放つ電気スタンドが点灯してある。
「いらっしゃいまし。写真の御用でございますか」
徳兵衛は眼鏡をはずし、電気スタンドの灯を消した。そのかわり天井の電灯にスッチ
を入れると、ついでに扇風機を首振りにした。
女はにわかに店内が明るくなったばかりか、扇風機の風にあおられて、頭にかぶった
紗《しゃ》のネッカチーフが吹っとびそうになったので、
「あら」
と、あわてて頭をおさえたが、その手には白いレースの夏手袋をはめている。年頃は二
十一、二というところだろう。薄茶色のこっけいなほど大きなサングラスをかけている。
この暑いのにクリーム色の合いオーヴゔーを着て、広い襟《えり》をふかぶかと立てて
いた。
「あっ、ごめんください。扇風機消しましょうか」
「いえ、あの、そのままで結構でございます」
「で、御用とおっしゃいますのは」
「はあ、あの、写真をとっていただきたいんですけれど……」
「こちらでお撮《と》りになりますか、それとも出張のほうで」
「はあ、出張していただきたいんですけれど」
「ああ、そう、どちらまででございましょうか」
「はあ、それがここではいえませんの。ここからあまり遠いところではないんですけれ
ど……」
「いえない」
デスクをはなれてカウンターのほうへきていた徳兵衛は、呆《あき》れたようにあい
ての顔を見なおした。商売柄徳兵衛はひとを見る眼もこえている。いったいこれはどうい
う女なのだろうと、それとなくあいてのようすを観察している。ゕプレではない。口のき
きかたも心得ているし、態度も神妙である。しかし、良家のお嬢さんでないことは、薄汚
れて少しいかれているオーヴゔーからでもうかがわれる。それにしてもなぜこう顔をかく
すようにするのだろう。
「しかし、それでは困るじゃありませんか。出向いていく場所がわからないんじゃ……」
「はあ、ですからその時刻になるとだれかお迎えをよこします。あたしは来れないかもし
れませんけれど……」
「ここからそう遠くじゃないとおっしゃるんですね」
「はあ、步いて十五分か二十分……」
ちょうどそこへ奥から出てきた兵頭房太郎が徳兵衛のそばへきて、うさん臭そうに女の
ようすをジロジロ見ている。奥でふたりの押し問答をきいていたにちがいない。
「それで、それはいつのこと……」
「今夜の九時……話があんまり急なので恐縮なんですけれど……こちらさんがご迷惑なら、
ほかへお願いしてもよろしいんですけれど……」
それをいわれるとヨワいのである。
「それで写真に撮っておこうとなさる場面は…… それを伺っておかないと、こちらに
も準備のつごうがございますから」
「はあ、それが結婚の記念写真なんですけれど……」
徳兵衛は房太郎と顔見合わせて、
「それはそれはお目出度うございます。あなたさまがご結婚なさるんで……」
「まさか……あたしが結婚するんでしたら、自分でこんな厚かましいことお願いにあがれ
はしません。姉なんですの、ええ、あたしの姉《ねえ》さんですの。姉はとってもはに
かみ屋なもんですから、あたしがこうしてお願いにあがったんですの、ごくごく内輪にと
いうことになってるんですけれど、でも一生の記念ですから、写真だけは撮っておいたほ
うがよいということになって……」
「それはごもっともなことで……」
「旦那、なんならぼくが出張してもいいですよ。ぼくをやってくださいよ」
「そうさなあ、ほかの写真ならともかく、大事なご結婚の記念撮影だからなあ」
徳兵衛が思案顔に顎《あご》をなでているところへ、ゕロハ姿の直吉がふらりと外か
らかえってきた。
「おお、直吉、ちょうどよいところへかえってきた。お嬢さん、うちの倅《せがれ》で
すがこいつなら腕はたしかで。直吉、じつはこういう話なんだが……」
徳兵衛の話をききながら、直吉はそれとなく女のようすを観察していたが、
「いいじゃありませんか。それじゃぼくが出張しますよ」
無《む》造《ぞう》作《さ》に引き受けると、低い跳ねっ返りのドゕを排《お》
してカウンターのなかへ入った。いろいろ見本をとり出してカウンターのうえに並べると、
「で、サズはどれになさいます。結婚記念の写真といえばやはり四つ切りがいいですね。
それで新郎新婦さまのお写真のほかに、ご親戚たち大勢さんとの記念撮影は……」
「いえ、それがごく内輪の式だもんですから……それにお友達が五、六人、お祝いにきて
くださることになってるんですけれど、記念撮影はみなさんがお引き上げになってからに
したいと姉がいうもんですから……なにしろ姉というのがおかしいくらいはにかみ屋さん
だもんですから……」
「いや、ごもっともさまで」
直吉はいたって事務的な調子で、サズや焼き増しの枚数や、表装などをきめてしまう
と、値段をソロバンで弾き出してみせた。
「ああ、そう、ではこれで……」