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江川兰子-赤泉(二)

时间: 2022-04-10    进入日语论坛
核心提示: 若き母は、無論、夫であるこの青年の、はつらつたる主義思想を讃美渇仰かつごうしていた。彼女は悪事の助手を勤めることは勿論
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 若き母は、無論、夫であるこの青年の、はつらつたる主義思想を讃美渇仰かつごうしていた。彼女は悪事の助手を勤めることは勿論、夫の命令とあらば、貞操でも売る美しい犠牲的精神を持っていた。では、どうして闘争が起るのかと云うに、若き妻は夫の不身持を微塵も仮藉かしゃくしなかった。つまり彼女の方が幾倍も夫に惚れ込んでいたからである。
 その母の子である蘭子は、勢い父悪漢の主義思想を渇仰しないではいられなかった。彼女の場合は精神分析家の所謂ファザア・コンプレックスである。幼きものは、母を競争者として、父のちょうを争った。そして、蘭子は赤ちゃんの時代すでに「ダグラスかしからざれば仕立屋銀次」の思想を植えつけられていた。
 第二は(毒々しき印象の第二である)二歳の時、ほんの少年少女に過ぎなかった彼女の両親が、果敢はかなくも変死をとげてしまったことだ。
 ある夜一人のおじさんが(と云っても二十何歳の青年なのだが)蘭子達の寝室へ這入はいって来た。蘭子はそのおじさんを二三度見たことを覚えていたけれど、誕生がすんだばかりの赤ちゃんには、これがどうした青年で、何という名前だか分り様筈がない。したがってその夜突然の兇行の動機も、兇行そのことさえも、彼女には全く無意味でしかなかった。
 兎も角、彼女は寝台の上を稲妻の様にピカピカと光るものを見た。次に変な唸声うなりごえを聞いた。二歳の彼女ではあったが、又日頃罵声やヴァイオリンの恐怖音に慣れた彼女ではあったが、その時父母の身体から発した、断末魔の唸り声丈けは、一生涯忘れることが出来ぬ程、深い印象となって残った。
 その次の瞬間には、彼女は父母の大きな身体と一緒に、ベッドから床の上に転がり落ちた。だが、転落そのものは、彼女にとってこよなき快感であった。彼女は母親の死体におしつぶされてもがきながらも、転落の快感で、キャッキャッと笑っていた。
 という訳は、彼女は前述の環境のお蔭で、その頃はすでに、かの「支持の滅失」を日常茶飯事と心得、むしろそれを無上の快楽として喜ぶ様な、変態児になり終っていたからだ。だが、それについては、もっとあとで述べる機会があろう。
 ベッドを転がり落ちると、ただちに花の様な真赤な色が彼女の目を刺戟し、ヌルヌルした液体が彼女の触覚をくすぐった。母親の白い肉体から、乳とは違った、真赤な見事な泉が滾々こんこんとして湧き出していたのだ。彼女は心酔せる父親の狐色の肉体を眺めた。すると、そこからも同じくれないの泉だ。それが何を意味するか、無論彼女には分らなかったけれど。
 またたく間に、絨毯もなにもない、コンクリートそのままの床の上に、真赤なドロドロした水溜りが出来上った。蘭子は訳の分らぬ奇声を発しながら、その血の池を、もみじの様な両手で、丁度水いたずらをする時と同じに、ピシャンピシャン叩いていた。
 それから、若い母親の死骸の胸に、ベタベタと血の手型をしながら、出ぬ乳房をチュウチュウ吸った。だが、吸っても吸っても、乳が出ぬものだから、傷口に口をつけて、乳の代りに、赤い液体を五しゃく程も飲んでしまった。
 余りおいしくもなかったし、いくらかお腹もくちくなったので、彼女は間もなく傷口を離れて、今度は室内運動にとりかかった。
 彼女は血の池を転がり、父母の死体を這い越え、パックリ口を開いた傷口を蹴飛ばして、部屋中を這い廻り、白亜の壁を力に立上ろうとしては、幾度も幾度も失敗した。
 翌朝、アパートの一階下の住人が、火のつく様に泣き叫ぶ蘭子の声に不審をいだいて、その部屋へ上って来たので、初めてこの殺人事件が発見された。蘭子の父は、後暗い商売柄、借手のない七階を選んで住んでいたので、その七階は彼等一家丈けで、あとは皆空部屋になっていたのだ。それが、犯人を安心させ、又犯罪の発見をおくらせた訳でもある。
 人々は若い美しい男女の死体と、血まみれになって、ことに口のまわりは、まるで化け猫みたいな物凄さで、じだんだ踏んで泣き叫んでいる小怪物と、部屋中に、壁と云わず床と云わず、点々としてしるされた、可愛らしい血の手型を見た。
 みなし児は、丁度子供を欲しがっていたそのアパートの支配人老夫婦が、引取って養女とした。
 犯人は遂に発見されずにしまった。故人の友達などの言葉から、人々の想像した所によると、蘭子の父はその美しい妻をおとりにして、ちょくちょく美人局つつもたせを働いていたというから、今度の犯人も恐らく蘭子の母親の甘い空言そらごとに酔わされた一人であろう。それが余り真剣に恋をしたものだから、美人局と分ってもあきらめられず、遂に恋人と、恋人の夫とを殺す気になったのかも知れないと云うことであった。
 この殺人事件では、被害者に同情がなかったので、世間の騒ぎもさして大きくならず、いつまでも犯人が発見されずとも誰も警察の無能をののしるものはなかった。従ってこの事件は、警察当局者からさえも、やや黙殺された形であった。
 後年、江川蘭子が、世間の冷淡をいきどおり、みずから当時の状況を調査して、父母の敵討かたきうちをでも目論もくろまぬ限り、犯人は永久にその処刑を免れたかに見えたのである。
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