「先生」と云う。顔は先生の方へ向け易えた。例になく口の角にいささかの決心を齎している。
「何だい」
「今の御話ですね」
「うん」
「もう二三日待って下さいませんか」
「もう二三日」
「つまり要領を得た御返事をする前にいろいろ考えて見たいですから」
「そりゃ好いとも。三日でも四日でも、――一週間でも好い。事が判然さえすれば安心して待っている。じゃ小夜にもそう話して置こう」
「ええ、どうか」と云いながら恩賜の時計を出す。夏に向う永い日影が落ちてから、夜の針は疾く回るらしい。
「じゃ、今夜は失礼します」
「まあ好いじゃないか。もう帰って来る」
「また、すぐ来ますから」
「それでは――御疎怱であった」
小野さんはすっきりと立つ。先生は洋灯を執る。
「もう、どうぞ。分ります」と云いつつ玄関へ出る。
「やあ、月夜だね」と洋灯を肩の高さに支えた先生がいう。
「ええ穏な晩です」と小野さんは靴の紐を締めつつ格子から往来を見る。
「京都はなお穏だよ」
屈んでいた小野さんはようやく沓脱に立った。格子が明く。華奢な体躯が半分ばかり往来へ出る。
「清三」と先生は洋灯の影から呼び留めた。
「ええ」と小野さんは月のさす方から振り向いた。
「なに別段用じゃない。――こうして東京へ出掛けて来たのは、小夜の事を早く片づけてしまいたいからだと思ってくれ。分ったろうな」と云う。
小野さんは恭しく帽子を脱ぐ。先生の影は洋灯と共に消えた。
外は朧である。半ば世を照らし、半ば世を鎖す光が空に懸る。空は高きがごとく低きがごとく据らぬ腰を、更けぬ宵に浮かしている。懸るものはなおさらふわふわする。丸い縁に黄を帯びた輪をぼんやり膨らまして輪廓も確でない。黄な帯は外囲に近く色を失って、黒ずんだ藍のなかに煮染出す。流れれば月も消えそうに見える。月は空に、人は地に紛れやすい晩である。