小野さんの靴は、湿っぽい光を憚かるごとく、地に落す踵を洋袴の裾に隠して、小路を蕎麦屋の行灯まで抜け出して左へ折れた。往来は人の香がする。地にく影は長くはない。丸まって動いて来る。こんもりと揺れて去る。下駄の音は朧に包まれて、霜のようには冴えぬ。撫でて通る電信柱に白い模様が見えた。すかす眸を不審と据えると白墨の相々傘が映る。それほどの浅い夜を、昼から引っ越して来た霞が立て籠める。行く人も来る人も何となく要領を得ぬ。逃れば靄のなか、出れば月の世界である。小野さんは夢のように歩を移して来た。として独り行くと云う句に似ている。
実は夕食もまだ食わない。いつもなら通りへ出ると、すぐ西洋料理へでも飛び込む料簡で、得意な襞の正しい洋袴を、誇り顔に運ぶはずである。今宵はいつまで立っても腹も減らない。牛乳さえ飲む気にならん。陽気は暖か過ぎる。胃は重い。引く足は千鳥にはならんが、確と踏答えがないような心持である。そと卸すせいかも知れぬ。さればとて、こつりと大地へ当てる気にはならん。巡査のようにあるけたなら世に朧は要らぬ。次に心配は要らぬ。巡査だから、ああも歩ける。小野さんには――ことに今夜の小野さんには――巡査の真似は出来ない。
なぜこう気が弱いだろう――小野さんは考えながら、ふらふら歩いている。――なぜこう気が弱いだろう。頭脳も人には負けぬ。学問も級友の倍はある。挙止動作から衣服の着こなし方に至って、ことごとく粋を尽くしていると自信している。ただ気が弱い。気が弱いために損をする。損をするだけならいいが乗っ引きならぬ羽目に陥る。水に溺れるものは水を蹴ると何かの本にあった。背に腹は替えられぬ今の場合、と諦めて蹴ってしまえばそれまでである。が……
女の話し声がする。人影は二つ、路の向う側をこちらへ近づいて来る。吾妻下駄と駒下駄の音が調子を揃えて生温く宵を刻んで寛なるなかに、話し声は聞える。
「洋灯の台を買って来て下さったでしょうか」と一人が云う。「そうさね」と一人が応える。「今頃は来ていらっしゃるかも知れませんよ」と前の声がまた云う。「どうだか」と後の声がまた応える。「でも買って行くとおっしゃったんでしょう」と押す。「ああ。――何だか暖か過ぎる晩だこと」と逃げる。「御湯のせいでござんすよ。薬湯は温まりますから」と説明する。