〈大凶。すべて悪し〉
それを読んで、その青年は顔をしかめた。
「大凶なんてのは、めったに出ないはずだ。よりによってそれを引いてしまうなんて、ぼくはよっぽど運が悪いのだろう。大凶のおみくじを引き当てたのが、不運の結果なのか証明なのかわからないが、うんざりであることは、まちがいない。いやな予感がするなあ……」
彼はぶつぶつ言いながら、歩きはじめる。その青年は、ある会社につとめ、まだ独身。これといった長所はなにもなく、したがって、たいした地位についているわけでもない。この現状を打破しよう、いいおみくじでも引き、それで自信をつけて恋人獲得の行動に乗り出そうと神社にやってきたのだが、どうやら裏目に出てしまったようだ。
うつむきかげんで歩いていると、服のボタンがひとつ、ぽろりともげて道に落ちた。なにかにひっかけたわけでもなく、手でいじったわけでもなく、強い風にあおられたわけでもない。音もなくぽろりと落ちたのだ。
「まったく、いやな気分だぞ。運命の糸がほころびはじめたといった感じだ。ボタンのひとつぐらい金銭にすればいくらでもないが、この場合、悪運の象徴のように思えてならぬ。拾って持ち帰り、丈夫な糸で服にしっかりと縫いつけるべきだ……」
拾いあげようとしたところ、そのボタン、ころころところがり、そばの小川へとむかい、ふちを越えた。ふちから川の水面までは二メートルぐらい。のぞきこむと、そのちょうど中間ぐらいの、石垣のちょっとでっぱったところに、ボタンはのっかっていた。
「あ、あそこにある。しめた。水に落ちたかと思ったが、そうでなくてよかった。ぼくの未来、まだ救いがあるというわけか。ぜがひでも、あれを拾いあげなくちゃあ……」
青年は決意をかため、石垣のふちで身をかがめ、手をのばす。もうちょっとだ。思いきりのばした指先にボタンがさわる。あと少しだ。意地でも拾いあげるぞ。彼はそのことに全神経を集中した。
そのために、ほかのことへの注意がおるすになっていた。上半身を下へむけたので、服の内ポケットに入れてあった月給袋がずるずるとすべり出し、あっというまに川の中へぽとん。
「や、これはいかん、きょうもらったばかりの月給袋だ」
袋はすぐには沈まず、水面をただよっている。しかし、ほっとけば沈んでしまうだろう。急がねばならぬ。こうなるとボタンどころのさわぎではない。あれがなくなったら、えらいことだ。
川のふちの石垣にしがみつくような姿勢で、そろそろと水面に近づこうとしたとたん、手がすべった。からだごと水のなかへ、ぼちゃん。その波紋で、月給袋は少しむこうへ押しやられる。それでも青年、拾いあげずにおくものかと水のなかを歩くと、底が急に深くなり、あっぷあっぷ。
服を着たまま|靴《くつ》をはいたままなので、うまく泳げない。へたをすると、おぼれかねない。あわてて水をかき、もがきながらやっと岸へたどりつく。
ほっと一息つき、ふりかえって水面を見ると、いま水中でもがいた波のためか、月給袋はもはやどこかへ沈んでしまっていた。服は月給袋のぶんだけ軽くなっていたが、そのかわりびっしょりとぬれた水分で、だいぶ重くなっている。大損害。
寒くてたまらないが、着かえようにも、タクシーに乗ろうにも、金がない。通行人に指さされ笑われながら、とぼとぼ歩き、やっと帰宅した時には、かぜをひいてしまっていた。
つぎの日、休んで静養すればいいのだが、彼はがまんして出勤した。会社へ行って給料の前借りでもしなければ、どうにも身動きがとれない。
経理課長の席へ行き、前借りを申し出ようとした時、青年はくしゃみを連発。課長の机の上の書類につばが飛び散り、あわててハンケチでぬぐおうとしたら、紙がしわくちゃになって破けた。課長が怒って言う。
「おい。とんでもないことをしてくれたな。これは時間をかけて苦心して作成した書類だ。仕事をなまけるのなら大目に見てやらんこともないが、ひとの仕事の妨害は困る。会社としてはだ、ちゃんと月給を支払っているんだからな」
「その月給があればいいんですが……」
「なんだと。おまえは月給をもらっていないような口ぶりだな。感心しない態度だ」
話は食いちがい、課長はどなり、青年は首をうなだれ、前借りの件は切り出せなくなった。あきらめざるをえない。だが、金のないのをいかにすべきか。
食事しようにも金がなく、腹の虫はぐうぐう鳴き、腹の虫がおさまらず、青年はいらいら。かぜの熱で頭がぼんやりしてくる。よせばいいのに、むりに元気を出そうと足に勢いよく力を入れたら、階段をふみそこない、下までころがり落ちる。見ている連中は大笑いだが、青年は痛いのなんの。うなり声と涙と冷汗とが、いっぺんに出た。
ふらふらと起きあがり、よろよろと歩き、その日はなんとか帰宅する。金もなし、食うものもなし、眠る以外にない。かぜの薬を買うこともできぬ。眠ろうとしたが、階段から落ちて打ったところの痛みは、しだいにひどくなる。一睡もできず、ついにがまんしきれなくなり、朝になるのを待って近所の病院へ行く。
医者は青年を診察し、むずかしそうな表情で首をかしげ、こう言った。
「なぜもっと早く、病院にこなかったのです」
その口調には、なんとなくいやな感じがこもっている。青年は不安げに聞く。
「それはどういう意味でしょうか」
「非常にむつかしい容体です。あなたはかぜをひいていて、抵抗力がおとろえていた。それだけならまだしも、しばらく食事をしなかったし、きのうは眠らなかったようだ。それらの条件が重なり、病気をこじらせたというわけです。悪いビールスが体内にひろがりはじめている。階段から落ちた時にすぐ手当てをすれば、早期治療でなんとかなったところなのですが……」
「いったい、どうなんです。早くいえば、だめということですか」
「だめというわけではないんですが、ビールスのひろがる速度が、薬品で押える力よりも大きいとでもいうべき状態でして……」
「ははあ。早くいえば、だめではない。だが、遠まわしにいえば、もはや手おくれで絶望というわけなんですね」
「お気の毒ですが……」
青年はがっかり。入院させられ、ベッドにねかされる。しかし、手当てしてもらっても、なおるみこみはないのだ。死期をいくらかのばすだけにすぎない。いかにあがいても助からないのだ。彼は長い長いため息をもらす。
あーあ、なんというあわれなことだ。こんなばかげた形で、人生を終らねばならぬとは。なんのためにこの世に生まれてきたのか、まるでわからん。運命にみはなされたとは、こういうことなのだろう。
それにしても、運命といえば、この不運。ただごとじゃない。いくらなんでも、あまりにひどすぎる。神社であのおみくじを引いた時を境にして、ひろげた扇子をとじるように、ばたばたとこんなふうになってしまった。予想とか予報とか予言というやつは、いくらかははずれるべきものだ。こうも的中するなんて、ふしぎでならぬ。不運めざして最短距離をつっ走っているようだ。こんなことがあって、いいものだろうか。
青年は病室のベッドに横たわったまま、あれこれ考える。ひょっとしたら、原因はあのおみくじにあるのじゃなかろうか。あの神社の神主、なにか古代の秘法のたぐいを研究し、悪霊だか悪運の神だかをとっつかまえるのに成功したのではないだろうか。それを手なずけ、あの、おみくじの容器のなかにひそませた。
そんなこととは知らないやつがやってきて、おみくじを引くと、それがとりついてしまう。そういうしかけででもなかったら、こうまでひどい目にあうわけがない。救いを求めて、あの神社におまいりに行くとするかな。
いや、待てよ。むこうはそれが最初からのつけ目なのかもしれないぞ。応対に出てきた神主は、そしらぬ顔で「当方のおみくじはよく的中します。はずれて怒られるのなら仕方ありませんが、当ったことで文句をねじこまれては迷惑ですなあ」なんて、はじめのうちはとぼけている。しかし、そのうち「お|祓《はら》いをして進ぜましょう。ここのお祓いは、おみくじのごとく効果てきめんです。もっとも、料金はいくらかお高くなっていますが」と商談へさそいこまれる。いやもおうもなく、金を出さざるをえなくなる。
かくして悪霊だか悪運の神だかは取り去られるが、それと同時に大金も巻きあげられる。悪霊はまた、おみくじの容器にひそみ、つぎにとりつくカモを待つ。そういったしかけにちがいない。ゆだんもすきもない世の中の、あくどい商売。たちがよくない。アル・カポネの発明によるギャング団の手口だ。訴え出ようにも、それをやっつけてくれるFBIもエリオット・ネスも、この場合はどこにもいないのだ。
このように青年は推測し、腹を立てた。世のために許せないことだ。正直なところ、世のためなんてことはどうでもいいが、このままではこっちがくたばってしまう。これはあくまで避けねばならない。
神社に掛け合いに出かけよう。そして、この悪霊だかなんだかを、祓ってもらうのだ。ことわられたり、とても支払えぬような大金をふっかけられたりしたら、もう断じて許しておけぬ。かなわぬまでも、ひとあばれだ。天に代り、神に代って成敗してやる。神主をぶんなぐり、おみくじの容器を奪い取り、火で燃やしてやる。どうせ死ぬのなら、その前にこのうらみをはらしておかないと、成仏できない。こういういいことをしておけば、最後の審判の日に祝福を受けられるというものだ。
体力がまだ残っているうちに、やらなければならぬ。青年は決意をかため、ベッドから起きあがり、服を着かえ、そっと病院をぬけ出し、神社へとむかう……。
神社へたどりつく。いざ、おみくじ売場へ乗り込もうと、青年は足をとめて深呼吸をし、内心の怒りをかきたてた。
その時、彼は声をかけられた。
「もしもし、ちょっと……」
声のほうに顔をむけると、そばの木のかげにいる人物が、青年にむかって手まねきをしていた。品のいい老人。青年は答える。
「なにかご用ですか。しかし、ちょっと待って下さい。ここのおみくじをやっつけるのが先決なのです。雑用はそのあと。ここのおみくじはたちが悪い。ひとに悪霊を押しつけやがって……」
「早まってはいけません。おみくじをうらむのは、すじちがいというものです」
老人の言葉が、青年にひっかかった。
「おや、いま、なにか妙なことをおっしゃいましたな。ぼくの身の異変について、あなた、なにやら事情をご存知のごようす……」
「そう、そのことで、ちょっとお話が……」
「ふむ、さては、あんたですか。おみくじに悪霊をひそませた張本人は」
「まあまあ、落ち着いて下さい。お若いのに、悪霊だなんて古めかしい概念を持ち出したりして。そのへんに腰かけて、ゆっくり話を聞いて下さい」
老人にうながされ、青年は石に腰かけた。
「いったい、どういうことなんです」
「さて、あなたは何日か前、ここで腕時計を拾ったかたでしょう。わたしは物かげで見ていました。あなたはそれから、おみくじを引いた」
老人に言われ、青年は思い出してうなずく。
「ええ。そういえば、そんなことがありましたが」
「じつは、あれはわたしが落したものです」
「そうでしたか。それは失礼しました。ねこばばするつもりじゃなかったんですが、あの日以来ごたごたつづき。ぼくの時計は水につかったり、階段から落ちてぶっつけたりで、故障。そんなわけで、つい使わせてもらうという形になってしまいました。さっそく、お返ししましょう。しかし、あなたも変ですよ。だったら、なぜあの時に声をかけてくれなかったんです。ひとが拾うのを黙認していて、あとになって文句をつけるなんて……」
「いやいや、文句をつけるつもりはありません。あれは、だれかに拾わせようと、わたしが落しておいたというわけでして。お拾いになって、いっこうかまわない品で……」
老人の話は、青年にとって、ますますわけがわからなくなる。
「それなら、なぜ、あらためてぼくを呼びとめたのです」
「それがです。じつは、あとになって気がついた。配線を逆にしてしまったという点です。これはとんでもないことをしてしまった。そこで、またここにおいでになるのではないかと、ずっとお待ちしていたわけです。お会いできてよかった」
「おけがわからなくなる一方だ。配線が逆でとんでもないこととは、なんのことですか。ぼくは頭のいい人間じゃないんです。説明をなさりたいのでしたら、かみくだいてお願いしますよ」
青年は質問し、老人は話した。
「わたしは科学者。ずっとある研究所につとめていた。そこを定年になったが、その後も学問への情熱おさえがたく、ひとつのテーマととりくみ、自宅でこつこつと……」
「学問への情熱なんてことにも、ぼくはあまり関心がないんです。なるべく早いとこ、本題のほうをお願いしますよ」
「そして、やっと開発した。それがあれです。一見して腕時計のごとくであり、その働きもしますが、実体はすごいものなのです。周囲の状況を当人につごうよくする装置。名称はデウス・エクス・マシーン。まあ、名称などはどうでもいい」
「ははあ……」
「あれが当人の脳波を強力に増幅し、空間に拡散させ、一種のテレキネシス効果を周囲におよぼす。まあ、原理の説明もどうでもいいでしょう。つまり、ようするにですな、ものごとをその当人につごうよく展開させ、幸運をもたらしてくれるというしろもの。われながら偉大な発明。その試運転として、だれかに使ってもらおうと、落しておいたというわけで……」
それを聞き、青年は自分の腕の時計をはずす。そういえばいくらか重く、耳に当てると複雑そうな音がかすかにしている。薄気味わるく思えてくる。
「これがその、いわくのある装置なのですか。しかし、なにが幸運だ。これを拾ってから、ろくでもないことばかりだ。おかげでこっちは……」
「まあまあ、だからお話ししかけたように、配線を逆にしたのが原因です。つまり、効果も反対となってあらわれたわけで……」
「なるほど。それで不運が連続したということになるのか。ぼくはこれを拾ってから、おみくじを引いた。あの大凶を引きあてたのも、もとはといえば、このなんとかマシーンとやらのおかげだったのか。あなた、ひどいですよ。こりゃあ、あやまったぐらいじゃすみませんよ」
「ごもっともです。そこで、おわびのしるしに、これを正しい配線になおし、あらためて、あなたに進呈させていただこうと思います……」
老人は青年から装置を受け取り、裏のふたを開いてなにやらなおし、小さなボタン式のスイッチを入れなおし、青年にさし出した。青年はためらう。
「進呈すると言われても、身ぶるいしますね。もう、それにはこりごりです。川にでもほうりこんだほうが……」
「まあ、ひとつ冷静にお考え下さい。あなたはこの装置の示した、悪運の効果をおみとめになった。いま、その配線はなおった。これから幸運が展開することも、充分に予想できるはずですがね。半信半疑の気分も当然ですが、そこをだまされたと思って……」
「だまされるのは好きじゃないが、どうせこうなったんだ。やけくそだ。やってみましょう。ようすがおかしければ、すぐに捨ててもいいし……」
青年はふたたびそれを腕につけた。
いささか妙な気分にひたりながら、青年は歩きはじめた。
前を若い女が歩いている。とつぜん小さなつむじ風がおこり、女の人のスカートを吹きあげた。「きゃっ」と叫んで、女の人は大あわて。青年はにやにやした。こういう光景は、めったに見られないことだぞ。
さらにしばらくすると、前を歩いていた紳士がころんだ。たまたま落ちていたバナナの皮の上に足がのり、勢いよく十メートルほどすべり、ポストに激突して倒れたのだ。みごとと言うほかはない。
青年は大笑い。これまた傑作なシーンにお目にかかれたというものだ。なるほど、こっちが楽しむ側にまわったというわけか。もしかしたら、幸運のはじまりなのかもしれないぞ。そう考えかけたが、ひっくりかえった紳士は起きあがれないでいる。倒れたはずみで、足の骨を折ったらしい。しきりに痛がっている。
青年はみかねて助けおこし、ちょうどうまいぐあいにやってきた通りがかりのタクシーをとめ、それに運びこみ、運転手に言った。
「どこか病院へやって下さい」
タクシーが走り出したはいいが、青年はタクシー代を持っていないことに気づく。親切をやりかけてはみたものの、これは困ったことになったぞ。しかし、その時、紳士がポケットから札入れを出し、青年の手に押しつけた。
「これをきみにあげる。タクシー代を払ってくれ」
「こんなにはいりませんよ」
「あとはお礼だ。おかげでわたしも助かった。きみの好意は身にしみた。遠慮することはない。わたしは金持ちなのだ」
「それでは、お言葉に甘えて……」
やがて大きな病院につく。病院だということで、青年は自分のことを思い出した。紳士の手当てがすむのを待ち、医者に相談する。自分のからだが、手おくれでこじれ、回復不能にむかいつつある。なんとかならないものでしょうか。医者はくわしく聞きおわり、青年に言った。
「そう悲観することはありませんよ。ここへ入院なさい。なおしてさしあげます」
「いやにあっさりとおっしゃいますが、前にみてもらった病院では、だめだとの診断でしたよ」
「その診断はあやまりではない。しかし、わたしの診断もまちがいではない。すなわち、わたしはさっき、外国からとどいた医学雑誌の最新号を読んだのだ。それに、その病気の手おくれ状態をなおす方法がのっていたというわけだ。ね、安心しなさい。確実になおります」
青年はその場で入院、その最新治療法は効果をあげ、めきめきよくなり、数日のうちに全快ということになった。紳士からもらった金があり、入院費用はそれでたりた。
めでたく退院。青年はそとへ出て、あまりのうれしさ。口笛を吹きながら、足もとにあった小石をなにげなく、ぽんとけとばした。靴のつま先の当りかたがよかったというのか、石は意外に勢いよく飛び、電柱にぶつかってはねかえり、横町へ飛びこんでいった。
「きゃあ」
という女の悲鳴があがり、あわただしい足音。青年はしまったと思った。青くなる。だれかに当ったらしい。まずいことになってしまった。いささか調子にのりすぎた。幸運の装置とやらの作用も、たまには狂うこともあるのだろうか。おそるおそる横町に曲ってみると、若い女がしゃがんで泣いている。
「申しわけないことをしました。まさか、あなたに石が当るとは……」
青年が声をかけると、女はほっとしたような表情になって言った。
「あら、あなたでしたの、石を投げて下さったのは。あたし、いま、たちの悪そうな数人の男たちにつかまり、困っていたところでしたの。ちょうど人通りがなく、だれも助けてくれそうにない。どうなることかとふるえ、悲鳴をあげたとたんに、あなたの投げた石が飛んできて、やつらの一人に命中。みなあわてて逃げてったの。すばらしい腕前ね。ほんとに助かりましたわ。なんとお礼を申しあげたものか……」
女は育ちのよさそうな、なかなかの美人。服装も上品で高価そうだ。感謝の表情をいっぱいに浮かべている。
「いや、お礼なんて……」
「でも、それでは、あたしの気がすみませんわ。ぜひ、うちへお寄りになって下さい」
女はくりかえして言う。送りがてらついて行くと、なんとその家は、青年のつとめている会社の社長の自宅。つまり、その女は社長の令嬢だったのだ。在宅していた社長は、事情を聞いて大喜び。
「娘が大変におせわになった。ぶじだったのは、すべてきみのおかげ。きみがわが社の社員とは知らなかった。そのような勇敢にして優秀な人材がいたとは、少しも気づかなかった。勤務はどの課だ。なになに、そんな末端の地位か。それはよくない。課長や部長に人を見ぬく目がなかったようだな。あすから、わたしの秘書になれ、さっそく人事部長に連絡しておく。給料もふやす。どうだ、秘書の仕事をやれそうか」
「はあ。なんとかできると思います」
と青年ははっきり答えた。秘書なんて高級で複雑な仕事など、どうやったらいいのか、まるで知識がない。しかし、自信のほうはあった。すなわち、幸運を作りだす、このなんとかマシーンなるものがあるのだ。先日からのようすをみるに、どうやらこの装置の効果は本物らしい。すばらしい、いや、すばらしい以上といえる。これがあるからには、不可能ということはないはずだ。
かくして青年は、一躍して社長秘書に昇進した。機密にして微妙なるさまざまな問題をあつかわなければならぬが、彼はたくみにそれを処理した。正確には、周囲のすべてが彼につごうのいいように自動的に動いたとでもいうべきだろう。
社長の信用はますます高まる。かつての同僚たちは、ふしぎがるばかり。いっこうにぱっとしなかったやつが、しばらく無断欠勤したかと思うと、突如として社長秘書となり、才能を発揮しはじめたのだから。これをふしぎがらなかったら、そのほうがふしぎだ。
さて、ここ数日、社長の表情がどうも沈みがち。動作もいらいらしている。顔色がよくなく、やつれたようだ。青年は聞く。
「社長、なにかお悩みのようですが、よろしかったら打ちあけて下さい」
「こればかりは、話しても、どうにもならんことなんだ」
「いえ、なんとかお役に立てると思います。かならず、うまく解決してさしあげます」
「それでは話すがね、だまされて手形をとられたのだ。注意はしていたのだが、じつに巧妙なペテンにひっかかって、大きな金額の手形をまきあげられてしまった。非合法すれすれで、警察にも訴えようがない。その手形決済の期日が迫りつつあるというわけだ。だが、その資金のあてがなく、このままでは倒産。弱りきっているところなのだ」
社長はがっくり。しかし、青年はあっさりと言う。
「なんだ、そんなことでしたか。お安いご用です。ぼくが取りかえしてきます。どこです、そいつの事務所は……」
「おいおい、気はたしかなのか。そう簡単にできることではないんだぞ。うまくゆけば大助かり。成功すればきみを重役にしてもいいくらいだが、とても無理だ……」
「大丈夫ですよ。安心しておまかせ下さい。失敗するわけがない……」
青年は夜になるのを待ち、その事務所へおもむく。ようすをうかがうと、ビルの入口に強そうな守衛が立ち、見はっている。しかし、その守衛のそばでちょっとした異変がおこった。ネコが犬のしっぽにかみついたのだ。犬は飛びあがり、逃げまわる。
守衛はそれに気をとられ、みとれている。そのすきに、青年はなかに入ることができた。この幸運の装置のききめはすごい。不可能だの障害だのを、すべて消してくれる。これが手に入ったからには、もっと大いに活用すべきだ。そうだ。国際的なスパイにでもなってみるか。いかなる危険なところへ乗りこんでも、危機一髪、かならず窮地を脱出することができるはずだ。
映画やテレビや小説などの活劇の主人公は、いつもうまいぐあいにすいすいと危機をのりこえているが、それが現実に可能となるのだ。どんなにいい気分のことか。夢のような人生がおくれるのだ。安全保証つきの冒険を楽しもう……。
そんな空想にひたりすぎ、注意がうすれ、青年はなにかにつまずき、よろけて壁に手をついた。手になにかの機械がさわる。はっとしてそれを見ると、非常ベルの電源スイッチ。いまさわったことにより、そのスイッチが切れたのだ。これで、なにをやっても非常ベルは鳴らない。すべて順調。とんとん拍子。順調などといった形容を通りこし、興ざめになるほどのことのはこびだ。
室内に入り、書類用ロッカーの|鍵《かぎ》|穴《あな》に針をつっこんでまわすと、うまいぐあいにピーンとあく。手でとびらをあける。なかには手形を入れた封筒が、きちんと整理されて並んでいる。これだと、みつけるのに手間がかからない。たちまちさがし出し、封筒をあけ、問題の手形を出す。それをポケットに入れ、さてと思ったとたん、声がした。
「待て」
ひとりの男が部屋の入口に立っている。しかし、あわてることなく青年は言った。
「あなた、だれです。なんでいまごろ、こんなところへ……」
「それはこっちで言うせりふだ。おまえこそ、ひとの事務所へしのびこんで、なにをしている。なにか予感がしたので出かけてきたら、このありさま。ただではすまんぞ」
「まあ、そううるさいことを言わないで、むこうへ行って忘れて下さい」
装置の性能を信ずる青年は、平然たるもの。しかし、相手もあとへひかない。
「なんたるいいぐさだ。後悔するのはそっちだぞ。とっつかまえてやる」
たちまちとっくみあいとなる。なかなか勝負がつかない。いったい、幸運の装置はどうしたんだ。こんなはずではないぞ。ふしぎがりながらも、青年は争いをやめるわけにいかない。
しばらくやりあっているうち、がちんと音がし、装置がこわれた。青年は気が抜けたように、へなへなとなる。青年は自分の腕のこわれた装置を、情なそうにながめつづける。
相手はと見ると、やはり同様。へなへなとなって首をかしげ、自分の腕をながめている。そこには同じような装置があった。青年は聞く。
「おや、それはどこで……」
「じつは、おれはけちなスリだった。先日、ある老人のポケットから、これをすりとった。自分の腕にはめ、なにげなく小さなボタンを押した。それ以来、わけがわからんくらい、すべてがとんとん拍子。なにをやってもうまくゆく。それでスリから昇格、手形の詐欺をはじめたのだが、気持ちのわるくなるほどうまくゆく。これのおかげらしいのだ。しかし、なぜこわれたのだろうな」
青年は内心で思い当る。その老人とは、このなんとかマシーンの発明者だ。自分用にとっといたのをすられ、ここに至ったということらしい。青年は言う。
「装置どうしがぶつかったようだが、なぜこわれたのか、ぼくにもわからん。いずれにせよ、これで幸運も終りだ。もとのもくあみ。最初の平凡な生活にもどらねばならないようだな」
「どうやら、おれもけちなスリに逆もどりらしい。この変な装置、持ち主のためには幸運を作らねばならず、といって、同じ仲間の装置を相手にはそれもできず、義理と人情の板ばさみで、動きをとめたのかもしれないな」
振っても、たたいても、もはや装置は作動しない。二人は落胆。なにも装置どうしがぶつかった衝撃ぐらいで、こわれてしまうこともないのに。あきらめきれぬ気分だったが、やがてどちらからともなく言った。
「こわれたのも無理もないことかもしれぬ。勢いづいたとんとん拍子、そのであいがしらでぶつかったんだからな」