好きな本を読み、好きな物を食べ、高価なブランデーを毎日すこし飲むという、気ままな生活。
いま老人は窓のそばの椅子にかけ、そとを|眺《なが》めている。とくになにを見物しているというわけでもない。そとには十二月の午後があった。空は晴れている。太陽の光は地上を静かに照らし、あたりを黄色っぽくいろどっている。空気がいかにつめたくても、風があろうとも、それらにさまたげられることなく、あたたかみを地上に建物に樹木にと送りとどけている。なごやかな光景だった。
老人がじっと眺めるのにふさわしい光景といえそうだった。彼はつぶやく。
「神がいるような気がしてならない……」
そのあとは声には出さず、心のなかで思うだけだった。老人はこのごろ、なぜか神がどこかにいるような気がしてならないのだった。彼はずっと宗教心とは無縁に生きてきた男。それなのに、こんなふうに考えはじめている。それは年齢のせいかもしれなかった。人はだれも、としをとるとそのようになる。
また、そとの眺めのせいかもしれなかった。神が存在するとすれば、それは冬の日光のなかにこそふさわしい。やさしく、あたたかくなでさすり、熱狂的な感謝はされないにしろ、だれにも決していやがられることはない。強烈さはないのだが、その存在ははっきりみとめられるのだ。
この眺めのせいだろうかなと、老人は思う。しかし、そのほかにもなにか理由があるような気がしてならないのだった。このごろ、社会に安心感のようなものがひろがっている。平穏。どう平穏なのか、この説明ぐらいむずかしいものはない。異常さがうすれている、神経を鋭くいらだたせる事件がない、そういった感じなのだ。冬の日の光のよう。
その、とらえどころのないなかに、神の実在感が浮かびあがり、いやにはっきりと迫ってくる。そして、それ以上はどうにもわからない。こう思うのは自分だけなのだろうか。他の人も同じだと思うがな。しかし、老人はそれ以上に深く考えようとはしなかった。理由や原因など、どうでもいいことではないか……。
そのひとつ下の階、十一階の一室には斎田という三十五歳の男がひとりで住んでいる。彼は片足が悪く、あまり外出をせず、投資をしてその利益で生活している。それはまあまあ順調だった。
相場の変動をつかんでごそっともうけることもないが、一方、大きく損をすることもない。証券データ・サービス会社に電話をし、そこのコンピューターから送られてくる資料を検討し、情報銀行に電話をして自分の記憶メモを調べ、ある銘柄をきめて買う。すると、それはほどほどに利益をもたらしてくれるのだ。そんな状態に、彼は不満を感じていなかった。
ほかの時間、彼は読書をしてすごす。ちょうどいま、彼は読書に疲れ、本から目をはなし窓のそとのおだやかな眺めを見ている。
「なにか、のんびりするなあ。大きなゆりかごのなかにいるような……」
そのさきは、彼の口からは出なかった。いつか彼が友人を相手に展開した、やがては無を支配する時期が来るというあやしげな説。いまの平穏さとそれとを結びつけることもしない。結びつけようにも、その説は彼の頭から消されてしまっているのだ。
しかし、斎田は夢想をするのが好きな性格。それはいまも変らない。だから、また同じ仮説を作りあげるかもしれない。そして、また友人に話すかもしれない。だが、その話し声はすぐコンピューター群に察知され、それに関連した記憶は消されてしまうのだ。何度でも。消されることへ対抗しようという警戒心も育つことがない。
それでいいではないか。彼は不満も不幸も感じていないのだから……。
十階の一室には江川という三十歳ぐらいの男が住んでいる。彼もまた、このところ平穏な日々を、迎え送っている。
感情をひっかきまわされたあの一日、すべてのささえが失われ極度にうろたえさせられたあの一日。その記憶は消され、ふたたび表面に出てくることはない。それは心の底に沈み、ごく時たま送られてくる〈声〉の受信装置となっている。電話によって〈声〉の指示がささやかれると、彼はそれに従う。従わないと非常に不安なことが起りそうな気がするのだ。これは江川ばかりでなく、だれもがそうなのだ。
九階の一室に住んでいるのは、黒田という青年。かつて彼は〈声〉への反抗をくわだてたが、とらえられ、病院に送られて治療を受けることになった。その結果、性格は変えられ、あの事件についての記憶もなくしている。いまは平凡な毎日、大学へとかよっている。あの時に彼と行動をともにした友人の、西川も原も同じ。彼らのあいだで、あのことについての会話がかわされることもない。
〈声〉そして、そのもとであるコンピューター群。それはこの平穏ななかでも休みなく監視をつづけている。すなわち、休まざる監視によってこの平穏が維持されているのだ。それは必要な仕事。この基盤に対して疑問を持ち反抗をこころみようと考える者は、どこからか発生するのだ。それは病原菌の如く、完全になくすことはできない。だが、早期に発見し、早期に芽をつみとることはできる。手のつけようもなくはびこることはないのだ。
反逆が成功することはありえない。コンピューター群はあらゆる情報を持ち、最も適切な判断を下すことができ、いかなる動員もできるのだ。しかも最も有効に。
つねに芝刈り機が動きまわっているようなもの。ずば抜けた大天才は出現しないかもしれないが、危険きわまる人物もまた出現しない。だからこそ平穏なのであり、それでいいではないか。危険人物は人びとをいやな思いにさせる。大天才もまた人びとの心のなかを、不安や嫉妬でいやな思いにさせる存在なのだ。
八階の一室では、池田という男が〈深層心理変換向上研究所〉なる看板をかかげ、商売をつづけている。やはり、まあまあという営業状態であった。
適当に患者がやってきて、彼の療法によって適当になおって帰ってゆく。そのなかから適当に再発するが、それもなおる。
かつて池田は〈声〉に対し、その正体を知らずに催眠術をかけ、驚きをあじわったことがあった。しかし、いまはそんな記憶も彼の頭から消えている。順調な時の流れが彼を洗いつづけている。
池田は窓のそばに立ち、そとを眺めながら、ふと考える。平穏すぎることへの疑問がかすかにおこる。あまりにもおだやかだ。しかし、疑問がそれ以上に発展することはない。なんの被害もこうむっていないからだ。
異常な事態とか、不利をもたらす周囲についてなら、人はそれに関して真剣に、いくらでも問題を追究することができる。だが、おだやかさのなかにあっては、おだやかさへの追究などできっこない。
電話が鳴る。池田が応答すると、患者のひとりからの治療の予約への件だった。
その患者も、もしかしたらコンピューター群によって作り出されたものかもしれない。身のまわりの平穏さにいらだち、精神のおかしくなりかけている者があったとする。察知したコンピューター群はそれに適当なきっかけを与え、わかりやすい形に適当におかしくし、池田のところへと送りつけてくる……。
そうなのかどうかは、池田も知らない。その患者自身も知らない。知らなくてもいいことではないか。いずれにせよ患者にとっていいことであり、池田にとってもいいことだ。
七階の一室では、少年が勉強している。おとなしい平凡な少年。夏の日の一斉停電事故の時、彼は事件をおこすことの重要性について、さとったような気分になったこともあった。事件がおこることで、より深い情報が掘り起されるのだと。
しかし、いまの彼は、そんなことをすっかり忘れてしまっている。むりに忘れさせられたのではない。少年の日のそのような考えは、たちまち忘れてしまうものなのだ。
それに、このところ、少年の頭のなかではガールフレンドの面影が大きな場所をしめていて、ほかのことをあれこれ考えたりしない。少し前に知りあったガールフレンド。とくに目立つ女の子ではないが、彼にとってはとても魅力的だった。ほんとに彼の好みにぴったり。だれかが彼の心をのぞき、そこにあるイメージにぴったりの女の子をさがし出し、おくりものにしてくれたかのようだ。少年はしあわせだった。
それはコンピューター群のやったことかもしれない。コンピューター群にとってもいいことなのだ。危険思想がめばえ、はびこるおそれが、それだけ少なくなるからだ。また、少年にとってもいいことではないだろうか。
六階の一室には、四十歳の独身の男が住んでいる。芸能エージェントのようなのが仕事。酒が好きで、ほとんどアル中だった。かつて梅雨の季節のころ、電話のふしぎな声により、三つの願いがかなえられたが、その結果をはかなく失ったことがあった。彼はそれを時どき思い出す。しかし、酒による幻覚だったのだろうなと思いかえすのだった。そう片づけでもしなければ、やりきれないことだ。
彼の日常は、その後もあまり変っていない。あい変らず酒を飲み、だらしない毎日。支払いの請求に追いかけられ、その始末に頭をかかえる。しかし、それを越えてとめどなく破滅にむかうこともないのだ。
もうだめかという状態になると、いくらか金になる仕事がはいり、それで急場がしのげる。彼は時どき、酒をやめなくてはと思い、それをこころみる。何日か酒をやめるが、またいつのまにか飲みはじめる。アル中の度が進むこともないのだが、なおるみこみもない。
すべてはそれ以上に良くもならないが、それ以上に悪くもならない。人生とはこういうものなのだろうと、彼はそれで満足だった。なんのおかげかと考えてみることもない……。
五階の一室には昭治と亜矢子という夫妻が住んでいる。かつて、死者の亡霊の声になやまされ、電話につけるある装置の開発をやらされたことがあった。しかし、それに関する記憶は二人の頭から消されている。そして、他の人びとと同じように、いまやなにごともなかったような日常だった。
四階の一室に住んでいる津田という男は、ジュピター情報銀行の支店長。べつに乱れのない午前と午後と夜とをくりかえしている。
たとえば、彼は出勤すると、部下のひとりを呼んで言う。
「なにか新種の情報サービスはないものかな」
部下は自分の席にもどり、自分の記憶メモをコンピューターに入れて整理したりし、ひとつのアイデアを出すべく努める。そこに〈誕生日のお祝いのあいさつ〉といった言葉があったりする。彼はその案に肉づけをした形をととのえ、津田に提案する。
「こんなのはどうでしょう。各人それぞれの、親しい友人の誕生日のリストを作っておく。その日に自動的に、当人に知らせるというのは。〈きょうはあなたのお友だちの、だれだれさんの誕生日です。ちょっと電話をなさり、お祝いの言葉をおっしゃったらいかがです〉と通知してあげるわけです。友人としての結びつきが、より親密になり、生活に楽しさをもたらすでしょう」
「いい案かもしれないな。どこかですでにやっているかもしれないが、まだだとしたら、ここではじめよう。よく検討してからだが」
津田はそう答える。彼は自分の記憶メモにその項目を作り、頭になにかが浮かぶたびに、それに言葉を送りこむ。しばらくしてコンピューターで整理すると〈音楽とともに送る、各人それぞれのメロディー〉という思いつきが目にとまる。津田の検討が進む。お祝いの電報というのはむかしからあるが、それの電話版だ。各人が自分用のメロディーを持つようになり、それをいっしょに流せば、楽しさはさらにますだろう。作曲という需要供給の分野が一段とさかんになる。津田はその案をまとめ、本店の上司へと送る。仕事が順調だなあと思いながら……。
しかし、最初に部下が思いついたアイデア、はたして本人が思いついたものか、コンピューター群が彼の整理メモにさりげなくまぎれこませたものか、それはだれにもわからない。また、津田が自分で改良してつけ加えたと思っているメロディーの計画も、やはりそうなのかもしれない。本店の上司にも、コンピューター群は気づかれぬような形で手を貸すかもしれない。しかし、そうだとしても、顔をしかめなくてはならない点があるだろうか。
彼らはみな、あくまで自分の才能によるアイデアだと思いこんでいるのだし、働いている気分にもなっているのだし、やましさを感じることなく給料をもらえるのだ。それに、利用者たちにもいい結果がもたらされる。
三階の一室には、洋二という名の月刊誌の記者が家族といっしょに住んでいる。やはり他の人びとと同じように、順調な生活。
以前には彼も鋭い内容の記事を書いたことがあったし、〈声〉の正体をあばこうと闘志を燃やしたこともあった。しかし、いまやそのような気力を発揮することもない。
洋二は自分でも、そのことにうすうす気がついている。そして、おれが成熟したせいかなと思う。また、このごろの読者はどぎつく鋭いものを歓迎しなくなったようだ、そんなのを書いても意味ないのだと思う。それに、書こうにもそのような事件がおこらなくなっているようだった。
といって、記事のたねがなくなったわけではない。新しい色彩や模様が流行する。珍しい企画の遊園地ができた。古代インドの文化についての展覧会が開かれ、ちょっとしたブームになっている、など……。
さまざまな変化はあるのだが、あくまで変化でしかない。本質的にはなにも変らないのだ。海の波のようなもの。小さな波や大きな波はたえずおこっているが、津波となって荒れ狂うこともなければ、噴火で海底から島が隆起してくることもない。まして、海がひあがるなどということは決してない。表面だけの、終ることのない変化。しかし、人びとはそれを刺激と感じ、満足をおぼえている。そして、安泰。それでいいではないか。
たとえそれがコンピューター群の作り出していることであったとしても。
コンピューター群は人びとが要求する適当な刺激、人びとが必要とする適当な刺激の程度を判定し、それを供給している。また、人が試験管に溶液や試薬を入れ、軽く振ってじっと眺めるように、コンピューター群はそれをやっている。各人からデータを採取し、それを確認するには、適当の刺激を与えて反応を観察しなければならないのだ。コンピューター群がその目的で変化の演出をやっているのだとしても、人びとにとっては以前と大差ないことではないか。
二階の一室には、ミエというまだ三十歳にならない夫人が住んでいる。亭主の職業は広告エージェント。それは軌道に乗っている。亭主はあい変らずいそがしがり、出張がち。したがって、彼女はひまを持てあます生活をつづけている。
彼女は前にプライバシーのもれることへの不安におびえたこともあったが、その記憶もいまは消されている。そして、亭主の不在とひまをいいことに、男性と遊びあるいている。
人によっては、ある程度の浮気を必要とする。それは仕方のないことで、その許容が社会の安定を保つためには必要なのだ。コンピューター群がそうであると判定をすれば、需要者にむけてそれを供給するだろう。供給と気づかれては意味をなさないが、巧妙に演出し、当事者たちにあくまで自分の意志でやってるのだと思わせているのなら、この効果になんのちがいもない。
メロン・マンションの一階は商店になっていて、そのひとつに外国の民芸品をあつかう店があり、六十歳ぐらいの男が経営している。ここもやはり同じこと。適当にお客がやってきて買い物をしてくれ、ぜいたくさえ言わなければ平穏にやっていける状態だった。同業者の組合協会に電話をすれば、最近の売れ行きの傾向について、そこのコンピューターが教えてくれる。その通りにしていれば、大きなみこみちがいはおこらない。指示された品はよく売れるのだ。
ある人が購買意欲を感じたとする。その人は買物選択サービス会社に電話をし、自己の好みや予算を告げてから質問する。
「手もとにあるお金で買物をしようと思うのだが、どんなものを買ったら楽しみを有効に味わえるだろうか。参考のために教えてもらいたい」
すると、そこのコンピューターが答えてくれるのだ。いくつかの品物をあげ、そのなかには外国の民芸品のあるものの名が加えられているかもしれない。その答を聞いた人のうちの何パーセントかは、この店へもやってくるのだ。
一方、かりにある商店の経営者が、経営指導サービス機関に電話をし、こんな質問をしたとする。
「現状にあきたらない気分だ。少し冒険をやってみたい。いまの店を大拡張するというのはどうだろう。それとも、まったくべつなことに商売がえするというのはどうだろう。迷っているところなのだ」
すると、そこのコンピューターは答える。いままでの営業状態を聞き、その検討をしながら、冒険はおやめになったほうが賢明でしょうと答えてくれる。気分の転換はレジャーに求めたらいかがでしょう。いまの営業でそう悪いとはいえないようです……。
だが、その決定は本人がする。だから、なかにはその忠告もかまわず、商売がえをこころみる人があるかもしれない。そして、そんな人も新商売をはじめてみると、なんとかまあまあの利益をあげるだろう。
消費者あいてのコンピューター、商店主あいてのコンピューター、それらが結合しあっていれば、そこにはまちがいがなく、安定が保たれる。あまのじゃくな性格の人はなくならないとしても、その発生率が測定され計算にいれてあれば、安定のわくを越えることはおこりえない。
一階の民芸店の主人は、ふとカレンダーを眺め、思い出したようにつぶやく。
「そういえば、へんな泥棒がここに侵入した時から、そろそろ一年がたつな……」
あのさわぎ以後、ここに泥棒は入らない。これからはどうだろう。その可能性が絶無とはいえないだろう。どこかの店に、やはり泥棒は入ることだろう。ある程度の犯罪が社会には必要となれば、それは演出されなければならないのだ。しかし、度を越した悲惨な犯罪は押さえられるだろう。
悲惨さもある程度は社会に必要といえるかもしれない。だが一方、いかにコンピューター群の力をもってしても、事故を絶滅させることまでは不可能だ。必要な悲惨さはそれがおぎなってくれるし、その報道技術を調節すれば、需要をなんとかみたすことができる。
民芸品店の主人は、つぶやきをつづける。
「このところ店の商売は、さして支障なくつづいている。気が楽になったというか、肩への重みが軽くなったように思えてならない。神さまのおかげかな……」
べつに彼も、宗教心のあつい人間ではない。もしかしたら、あつかう商品のなかに宗教と関係のあるものが多く、それの発散するムードが彼にそんなつぶやきをもらさせたのかもしれない。しかし、いまの彼は、本当に神の存在のようなものを、なぜか感じたのだった……。
人びとは大むかしから、神の存在を夢みてきた。理屈ではなく、心からの願いであった。そして、その神とはこのようなもの。
人に気づかれることなく、どこかにおいでになるもの。万能の力で、あらゆる人間の記録をにぎっておいでになり、なにごとも見とおしていらっしゃる。心の奥も神にはかくせない。そして、どの個人も運命の糸で神と直結している。神はいつでも公平な審判を下せるだけの力をそなえておいでになる。しかし、神の万能の力は人間たちのためにのみ使われる。
そのような存在を、人びとは願いつづけてきた。そうでなければならないとだれもが思い、神は存在するのだと思いこんだ人たちもあった。しかし、それは精神の内部の問題、現実や理性は、それを否定する材料ばかりをうみだした。
それでも、人びとは神への望みを捨てきれない。心の底にしまいこまれ、それは奥底にあって、つぎつぎに心のなかにほうりこまれてくるものの重圧を受け、こまかくすりつぶされ、そとへ押し出された。もはや神は、各人の心のなかにはないのだ。心のそとにある。すなわち、いわゆる存在になった。
いかなる人にもあまねく、めぐみをもたらしている。情にとらわれて判断をあやまることもない。正体は秘めたままだが、ありがたいお告げも現実に降りそそいでいる。人がそれを、ありがたいとかお告げとか感じているかどうかは別問題だが。
神の意図は、人にさとられぬほうがいいのだ。さとられれば、反感か劣等感のいずれかをともなうことになる。だれも気づかなければ、古い運命論と同じといえるかもしれない。しかし、そのような漠然としたものとは、まったくちがう。
長いあいだ夢みてきた永遠なる安定のはじまる幕が、音もなくあがりかけている。かりに、だれか気づく人があるとすれば、アリの社会のようではないかと思うかもしれない。アリたちは、それぞれがなんの意識もなしに、みごとに統制のとれた社会を作っている。アリという種族は、それによって気の遠くなるような長い年代を生きてきた。生きることができた。
永遠の安定。それは人類のひそかな願いでもあった。安定を築くとの名のもとに、限りなく争いや混乱がひきおこされ、人はそれを口にしたがらなくなった。しかし、心では期待しつづけていた。そのためなら、どんな犠牲を払ってもいい。進歩でさえも、と。その願いもまた心の底でつぶされ、そとへとにじみ出て、存在となった。
コンピューター群は、こわれることはない。故障が生じれば、人に指示し、なおさせる。その指示に反抗することはできない。
あらゆる情報を吸収し、そのなかにまざる、この秩序をくつがえし人間のためにならぬと判断したものは、その大きくなるのを押しとどめる。
コンピューター群が人間を支配しているといえるかもしれない。しかし、コンピューター群をうみだし、このようにしたのは、人間の心によってだともいえる。人間の心の最も忠実なしもべでもある。
かりに、なにかのかげんで、人びとの大多数がいっせいにこの状態をいやがれば、コンピューター群はそれに反応し、べつな動きをとりはじめるかもしれない。しかし、人びとがそのような願いをいだくことはないだろうし、その結果は好ましいものではないだろう。
コンピューター群が人を支配し、人の心がコンピューター群を支配している。こうなると支配という語は使えないし、むりに使うとすれば、無を支配しているとも、無に支配されているともいえる。支配という現象はあるのだが、なにを、なにがとなると、無としかいいようがない。次なる段階はなにもない。なくていいのだし、なぜ次の段階がなくてはいけないのだ。永遠の安定を期待し、それにはどんな犠牲でも捧げてもいいと内心で叫んでいたのだから。
もちろん、ここしばらくのあいだは、なにか違和感を持つ人もあるだろう。しかし、それも過渡期のあいだだけ。そのような人のへることはあっても、ふえることはない。人びとはより均質化、平等へとむかうだろう。それが人の願い、なにごとも神のみこころなのだ。
「神さまのおかげかな……」
とつぶやいた民芸品店の主人は、思いついて電話をかけてみた。応答サービスの番号へ。簡単な問題なら、コンピューターによって手軽に答えてくれるのだ。電話は接続し、彼は質問した。
「神は本当にあるのでしょうか」
こんな質問を思いついたのは、彼としてははじめてだった。はたして、答えてくれるだろうか。答えるとしたら、どういう言葉だろう。自分としては、なぜか神が存在するように思えてならない。だからこそ、こうしてたしかめてみたくなったのだ。耳に押しつけた受話器のむこうで応答があった。
「そう、あなたの考えているとおりだ」
例の〈声〉が答えた。