「しばらくもいいところだ。きみ、死んだんじゃなかったのか」
「そりゃあ、本当かい」
「ああ、ぼくは葬式に行ったぜ。香典をそなえてきた。きみは死んでいるはずだ」
「そうとは知らなかった」
と、言われたほうは心臓|麻《ま》|痺《ひ》でばったり倒れ、あの世行き。もう一人は頭をかく。
「やはり勘ちがいしていた。死んだのはべつな友人のことだった」
しかし、もはや手おくれ。こんな場合、どちらがそそっかしいというべきか。
そんなわけで、世の中にはいろいろと変なこともおこる。
おかしな患者が発生しはじめた。患者とみとめるべきかどうかはなんともいえないが、いわゆる一般の人とちがう点があらわれ、周囲であつかいかねれば、そう称してもいいのではなかろうか。
一種の精神障害。といっても、狂暴でも劇的でも珍奇でもない。記憶喪失や健忘症に似ているが、そうでもない。もったいをつけてもしようがないから簡単に説明すれば、自分がだれなのかわからなくなるという状態なのだ。そのほかについては普通なのだが、自分の名前となると、ぼやけてしまう。言うことも書くこともできない。他人に名を呼ばれても、それが自分だとわからないのだ。失語症というのがあるが、それは机とか車とか、赤いとか明るいとか、ある単語に限ってのこと。だから、それともちょっとちがう。
どの患者も、自分の名前に関して、紙に穴があいたように、そこだけすっぽり忘れてしまっている。記憶というか観念というか、つまり頭のなかでその部分だけが抜けているのだ。年齢とは関係ないようだった。老人もあれば、若いのもあった。男もあり女もあり、職業や学歴とも関係なかった。それらが、ぽつりぽつりと病院へやってくる。
やってくるといっても、本人が進んで診察を求めにくるわけではなかった。家族だの、会社の同僚だのが、持てあまし顔で連れてくるのだ。これまでの習慣だか本能だかで、家庭と職場を往復するのだが自分の名への関心がなくなってしまうと、周囲は困る。
医者はカルテに記入するため患者に聞く。
「で、あなたのお名前は……」
「さあ……」
「名前のない人はいませんよ。犬やネコにだって名はある。まして、あなたは人間だ。それをおっしゃって下さい」
「なぜ、名前が必要なんです」
「これはこれは。なぜって、むかしから、そうなってるじゃありませんか」
「むかしはそうだったかもしれませんが、いま必要とはいえないでしょう」
「そうはいっても、別な人とまちがわれたら、困るでしょう」
「どう困るんです。人間はみな平等でしょう。天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、だれも大差ありません。そういう区別が、そもそも社会問題のもとなのです」
「頭がおかしいくせに、理屈だけは妙に筋が通ってますな。大差ないからこそ、各人に名前が必要なのですよ。動物園ではゾウやカバにだって名がついています」
「ひとがわたしをどう呼ぼうと勝手ですが、わたしのほうから名乗るのはどんなものでしょう。いっこう、その気になりません」
医者はいささか持てあまし、つきそい人から当人の名を聞き、それを何回もはっきりくりかえしてから言う。
「これがあなたの名前です。いいですか、忘れないようにして下さい」
「はあ……」
たよりない返事だった。事実、そのあとすぐその名を呼びかけてみても、まるで反応を示さない。無関係な物音を聞くように、右の耳から入ると同時に左の耳へ抜けてしまってるといったところ。こうなると、患者とみとめなければならない。
入院をさせるが、どう手当てをしてみても、いっこうに快方にむかわない。といって、退院させるわけにもいかないのだ。
そんなのが、ほうぼうの病院でふえてきた。医者どうしで問い合わせたりしているうちに、そのことがわかってくる。こうなると、各所でばらばらに治療するより、一か所に集め、専門の医師団を編成してこれに当り、治療法発見につとめたほうが能率的ではないかということになった。
ある病院の建物がそれにふりむけられ、患者たちはそこに移された。当人たちはのんきなものだが、管理するほうは大変だ。番号と名前とを大きく書いた服を着せ、識別の手段とした。番号制をいやがるとも予想されたが、そんなことはなかった。自己意識というものがないのだ。
これだけ集っているのだから、患者もおたがいどうし名前を呼びあうようになるのではないかと期待されたが、効果はなかった。名を呼んだところで反応がないのだから、呼ばなくなる。服の番号も名も、意味のないただの模様と同じことだった。どの服がだれのやら、混乱してくる。しかし、患者どうしは、なんとかやっていた。だれかれかまわず話しかけ、だれかれかまわず返答している。
それらのありさまを、かくしカメラによるテレビでながめ、治療本部の医師たちは話しあっている。
「どういうことなんでしょう。異常であることはたしかです。なんとかすべきだ」
「いうまでもなく、患者の治療はわれわれ医師の義務です。しかし、あらゆる手をつくしたが、ききめがない。だれか、なにか手がかりを発見したかたはありませんか」
ひとりの医師が発言した。
「ひとつだけある。もっとも、わたしがやったのではないので、確実だとはいえませんがね。怪しげな新興宗教の教祖が、そんな患者をなおしたというのです。そんなのに教えをこうのはしゃくですが、治療のためにはやむをえない。質問に行きました。すると、びっくりさせたら患者がなおったというのです」
「まるで、しゃっくりと同じあつかいだな。どう驚かしたのだろうか」
「それは教祖も忘れていた。しかし、驚かしたらなおったという点だけは、たしかなようです」
「なるほど、そう言われてみると思い当るな。この患者たちは、だれものんびりとしている。このところずっと、社会にきびしさがなくなった。国際関係がきびしさを増したとか、経済状勢がきびしくなるぞとか、ニュースは叫びつづけだが、緊迫感がまるでない。現実は平穏そのものです。ぬるま湯につかっているようなもの」
「たしかですな。体温と同じ湯のなかにつかっていると、どこまでが自分なのか、わけがわからなくなってくる。お湯が自分なのか、自分がお湯なのかです。自己の存在する価値や意義がわからなくなってくる。そうなれば、名前なんか消えてしまいますな」
「おめでたいことなんでしょうかね。あの、おめでたい患者野郎たちは、精神的になかば眠っているようなものですな。目をさまさせなければならない。なにか緊張を与える必要がある。つまり、びっくりさせることだ。くやしいが、その教祖さんの言う通りだ」
「では、それにとりかかろう。こんな方法はどうだろう。患者たちは、うまいことにひとつの建物のなかにいる。なかの連中は、屋上のアンテナで受信したテレビを見ている。だから、あのアンテナに細工して、すごいニュースを送ってみよう。一般には許されないことだが、限られた場所で治療目的に使うのだから、かまわないだろう」
特撮による悲惨な大事故のニュース映画が作られた。それを屋上のアンテナから、建物の内部に送りこむ。
〈臨時ニュースを申し上げます。ただいま大事故が発生し、死傷者多数……〉
患者たちの反応は、かくしカメラとかくしマイクにより、医療本部で観察することができる。しかし、それは期待に反したものだった。
「ふーん」
という、春の日の牛のなき声のような、のんびりした声。驚きとはほど遠いもの。あとの会話はこんなふう。
「あんなとこにいあわせなくてよかった。もっとも、いあわせていたら一巻の終り。それだけのことだな」
「マスコミが大さわぎし、政府があやまり、大臣がやめ、二度とおこさないようにしましょうで幕だ。例によって例のごとく」
「チャンネルをまわして、ほかの番組を見よう」
それならばと、べつなニュースが制作され、患者の建物のなかに放映された。
〈大変なことになりました。銀行がひとつ倒産しました。経済界は、大混乱におちいりましょう……〉
患者たちの反応。
「ふーん」
「政府がなんとかするだろうさ。それ以外にしようがないんだし、そのために政府があるんだろう」
医療本部はくやしがった。この程度では、患者たち驚かないようだ。もっと強烈なのをぶつけなければならない。それが制作され、アンテナから送りこまれた。
〈経済の混乱で破産し、首をつった企業主がありました。あとに残された未亡人と遺児とが、親のかたきと経済閣僚を日本刀で切り殺しました……〉
患者たちの反応。
「ふーん」
「以前にもこんなことがあったようだな。なかったかな。このあいだ見たテレビの時代物にあったかな。や、評論家が画面に出てきて、なにやらもっともらしいことを言いはじめた。いやだね、ますますつまらなくしやがる。あーあ」
せっかくの衝撃フィルムも、効果をあげなかった。医療本部では相談がなされ、こんどこそ驚かしてみせると、週刊誌を作りあげた。普通の週刊誌の一部のページを抜きとり、そのかわりに、作りあげた記事を入れたのだ。
〈暴露された内幕。近世における戦争や内乱の大部分は、中立主義の国にある、大銀行の陰謀であったことが発覚した。ここは秘密で安全ですと預金させておき、そのあと情報部員を送りこみ、巧妙に戦乱に巻きこみ、受取人を死亡させてしまうのである。この世紀のスクープの発端は……〉
患者たちの反応。
「ふーん」
「秘密を永遠に保つことはむりさ。待ってれば、いつかはばれてくる」
週刊誌作戦は、もう一回くりかえされた。こんどはこんな記事。
〈迷宮入りとなっていた、かつての大金強奪事件の犯人が判明し、逮捕状が出されました。なかなか発覚しなかったのも当然で、あのとき盗まれたのは全部が偽造紙幣……〉
患者たちの反応。
「ふーん」
「にせ札を盗むと、犯罪になるのかね。いずれにせよ、待っていれば、真相はいつかわかるものさ。わからなくたって、どうってことないけどな」
医師たちはまたもがっかり、こんどは新聞の一部に、作りあげたニュースを刷りこんでくばってみた。
〈科学的に不可能といわれていた永久運動の機械が作られました。フラグ博士は、地球の重力の微妙な周期的変化に着目し、これと地球の自転および空気の性質とを組み合わせ……〉
患者たち。
「ふーん」
「なにが大発見なのやら、さっぱりわからんな。そのうち便利な装置でもできるってことかね」
医師たちはやっきとなった。会議が開かれ、今後の方針が検討された。
「内幕暴露ものも当らなかったし、学説のくつがえるのもだめだった。あの、おめでた野郎たち、どんなことを見聞させたらびっくりしてくれるんだろう」
「テレビの番組会議、雑誌の編集会議なんてのも、こんなふうなんでしょうかね。われわれ医師は、このたぐいのことは苦手です。そこで、知人のマスコミ関係者に知恵をかりました。すると、革命なんかどうでしょうと教えてくれました」
「どうでしょうかね。なんとか戦争、かんとか戦争で、すっかり手あかのついてしまった戦争という言葉よりはいいかもしれないが、革命という言葉にも、このところすごみはないようですよ。業界における革命だなんて、コマーシャルでよくやってる」
「いやいや、しかし現実に本物の革命がおこったとなれば、これは迫力がちがいますよ。わたしだって、あれこれ考えますよ。他人はどうあれ、自分はうまく立ち回ろうと」
「なるほど。自己というものを意識しはじめるわけですな。ききめがあるかもしれない。やってみましょう」
またもテレビ番組が作られ、患者たちが見ている時間をみはからい、送りこまれた。
〈わが同志たちの行動により、ついに革命が成功した。旧支配階級への容赦ない処罰はおこなうが、一般の人たちは安心してよろしい。軽々しくさわぐことなく、落ち着いて日常生活をつづけるように……〉
患者たち。
「ふーん」
「なぜ今まで革命がおきなかったのですかね。いずれにせよ、ここの者たちは支配階級じゃないんだから、どうってことない。落ち着いて日常をすごす。いわれるまでもなく、そうするほかはないやね」
「それに、ここの者たちは、病人ってことになってるらしい。革命政府が病人をいじめるわけがない。それをやったら、世界じゅうから批難されるでしょう」
またべつな番組が作られた。
〈臨時ニュースを申し上げます。不当なる革命政権に対する軍事クーデターが成功し、戒厳令がしかれました。善良な市民の生命財産は保護されますが、夜間の外出など、不穏な行動をする者は射殺されます……〉
患者たち。
「ふーん」
「逃げかくれし、ふるえている人もあるんでしょうな。しかし、ここにいる者は危険分子あつかいなどされないでしょう。ひどい目にあうとしても、いちばんあとまわしになるんでしょうな」
そんな反応を見て、医師たちは腹を立てた。
「あの、おめでた野郎ども。革命にもクーデターにも、ふーんとしか言えないらしい。楽観的にもほどがある。気ちがいだ」
「精神異常であることは、前からはっきりしてるわけですよ。自己の意識がない人ですから、どうなろうと平然たるものです。精神的な透明人間という感じがする。いわゆる透明人間は、個性はあれど肉体は透明。やつらは、それぞれことなった外観を持つが、精神が透明。なにを送りつけても、そのまま通り抜けてゆく。どうしましょうか」
「ほかに方法がない。いままでの方針をぐんとエスカレートさせてみよう」
その結論により、またも患者たちむけの特撮映画が作られ、建物内のテレビに送られた。
〈驚くべきことが発生しました。南米の奥地に空飛ぶ円盤がつぎつぎと着陸しております。これは現地から送られた現像です。みなさん、決してあわてないように……〉
かつてアメリカで「火星人来襲」のラジオドラマが放送され、パニックの発生したことがあった。今回のは本物のニュース仕立て。いくらかの効果があっていいはずだった。しかし、患者たちの反応は前と同様。
「ふーん」
「人類が宇宙へ行く時代なんだから、むこうからも来るだろうさ。そういえば、むかしの学者たちは宇宙人の存在を一笑に付していたが、このごろはみな、いる可能性もありますね、なんて言っている。うすうす知ってたんじゃないかな」
「いずれにせよ、来ちまったんだから、しようがないやね。成り行きにまかせる以外、しかたがあるまい。来る前だったら……」
「来る前なら、やはり考えるのはむだでしょう。じたばたしたってしようがない」
医師側はまたも相談。
「ひとすじなわではいかん連中だな。いったい、前に話に出た新興宗教の教祖は、どうやって患者を驚かしたんだろう」
「おそらく、世の終りが近いと言ったんじゃないかな。宗教ではよく使われる。ショックですものね。やはりそれ以外にないようだ」
かくして、またも番組が作られた。
〈地球に来訪した宇宙人は、地球の滅亡の近いことを告げ、そのまま去りました。この世の終りです。どう滅亡するのかは不明ですが……〉
いくらか手がこんできた。時期や原因を不明にすれば、一段と不安を感じるはずだ。しかし、患者たちの反応。
「ふーん」
「こういう大問題じゃ、解決に力を貸しようがないな。あくせく働いてこなくて、とくをしたというべきだな」
「世の終りだなんて言ってたが、どうせまたはじまるさ。ご好評にこたえ、またもカムバックとか……」
「滅亡だなんて、むかしからあった話だぜ。ちょっと冬が寒いと、氷河期きたるかとなるし、夏が暑いと、地球は温暖化の一途をたどるとなる。平均体重がふえると、人類は肥満で滅亡か、だ。世の中、滅亡のたねでないものはない。そんなことをわざわざ教えに来るなんて、あの宇宙人、ごくろうさまだ。ばかじゃないのか」
さんたんたる結果。なにかしめくくらないと、作りもののニュースとばれる。いちおう、こんなことにしておいた。
〈先日お知らせした地球滅亡の件は、宇宙人の言語の翻訳のあやまりと判明しました。ただの儀礼的なあいさつだったのです。ご安心ください〉
そのあと、医師たちは会議を開いた。
「宇宙人も世の終りも、だめだった」
「最初からこれをぶつければ、効果をあげたかもしれない。少しずつ刺激をあげていったのが、よくなかったようだ。いまさらしようがないがね。それにしても、まったく手のつけようのない、ばかどもだな」
「いや、患者たちは、ばかとも思えない。会話なんか、まともなところが多い。これまでの観察から、ひとつの傾向がわかった。マスコミのパターンになれてしまっているという点です。たとえていえば、マスコミは、オオカミが来たとくりかえして叫ぶ少年です。それに巧みに適応し、精神の動揺を最小にたもっている。こういう連中に衝撃を与えるには、いままでのやり方ではだめなようです。なにか別な手法を使わぬと……」
「ふーん」
「しっかりして下さい。あなたまで、ふーんだなんて」
「どうしたらいいのか不明なことへの、ため息さ。あの患者たちを見ていると、ものぐさ太郎の話を思い出すよ。ぼやぼやと日をすごしていたが、ある機会にめぐまれ、すごい出世をしたとかいう物語。あの患者たちも、やがて、どえらいことをはじめるんじゃないだろうか」
「なんともいえませんな。やるか、やらないか、正常にもどるか、三つしか結果はないわけですがね」
しかし、ものぐさ太郎のドラマを放映し、その反応を観察してみることとなった。それも効果はなかった。患者たちの反応。
「ふーん」
「なんにもせずにいて出世する。なんにもせずにいて、そのまま人生を終る。あくせく働いて出世する。あくせく働いてもだめだった。ほかに人生はないんじゃないかな」
医師たちは、しからばと性的な映画を放映した。あまり期待はかけなかったが。
やはり、これも「ふーん」の反応で終った。セックスで注意をひこうという手法は、すでに使い古されているし、すでにエスカレートしている。さほどの衝撃にならなかった。予想されてたとはいうものの、医師たちはがっかり。
ここに至って、根本方針がまちがっていたのではないかとの反省がなされた。テレビを利用し、ニュースでひとまとめに驚かそうとするのが無理なのかもしれない。各個人単位の、きめのこまかい驚かしかたをすべきかもしれない。たとえば、こんなふうに。
「あなたがここに入院しているあいだに、奥さんが浮気をしてますよ。いま、その証拠があがりました」
しかし、そう言われた患者の反応。
「ふーん」
「ふーんじゃないでしょ。あなたの奥さんが、ですよ。自己の意識がなくったって、それは大事件のはずですがね」
「テレビドラマ、週刊誌、新聞の身上相談欄。よろめきものでいっぱいです。ということは、そういう世の中なのかもしれません。だとすれば、例外たりうる人のほうが、ふしぎというものでしょう」
「もう、手のつけようがない。ちくしょう、マスコミめ。新鮮味のない性的混乱ばかり芸もなくくりかえしているから、なんのショックも与えなくなった。こりゃあ、治療は想像以上に容易じゃなさそうだ」
かくなる上は、最後の手段。これまで禁断だった言葉を患者の耳にささやいた。
「あなたは、まもなく死にます。この診断書の通りです」
さあ、どうするとの勢いだったが、患者の反応は以前と同じ。
「ふーん」
「驚いたらどうなんです。遺書を書くとか、あとしまつをするとか、急いでやるべきことがなにかあるはずです」
「その診断書はだれのです」
「ほら、これ、あなたの名前じゃありませんか」
「そうですかねえ。そういえば、一時ありましたねえ。幸運の手紙の逆のやつ。これと同文のを何通か出さないと、まもなく死ぬとかいうのが、いっぱいきたが、なんということもなかった。このところ流行しなくなったところをみると、みな平気になったんでしょう。そうですよ、死のおどしにいちいち驚いていては、生きてはいけません。死を避けようとして、あたふた手紙を書きまくった人たちのほうが、寿命をちぢめたにちがいない。ねえ、そういうものでしょう」
「それはそうです。しかし、ああ、なんということだ……」
サソリを病院内にはなす方法もやってみた。死者が出てはことなので、毒のないサソリをたくさん集めて使った。しかし、やはり「ふーん」だった。新種のゴキブリかザリガニと思われてしまったのだ。サソリの恐怖など、はじめから知らない。
最も原始的な方法、爆発音だの、パトカーのサイレンなどを不意に鳴らしてもみた。しかし、騒音なれしている連中には、なんの役にも立たなかった。なにも患者に限ったことじゃないだろうが。
もはや、あらゆる手を打ちつくした感じだった。死の予告にも、サソリにも、爆発音にも驚かないとくる。医師たちは頭をかかえて相談しあう。
「なにをやっても、ふーんが返事だ。こっちがばかにされているようだ。あの、おめでた野郎たちめ、ぶっ殺してしまうか。治療不可能なのだから、安楽死させてやるという方法も残されている」
「いくらなんでも、それはいけませんよ。じつは、わたし、こう考えはじめてきたんです。前にも話がでましたが、あの患者たち、この情報の混乱のなかに、みごとに適応している。精神の動揺が最小ですんでいる。だから、あれはあれでみとめていいのではないかと……」
それについて、医師のだれかが言った。
「ふーん」
「ふーんとはなんです。わたしの考え抜いたあげくの仮説なんですよ」
「そうたいした意見とも思えませんねえ。よくあるパターンですよ。使い古された考え方だ。そんな意見が出るだろうと思ってた」
「とうとう、ここにも患者があらわれた。あなたはここにいるべきではない。患者のいる建物に移るべきだ」
ふーんと発言した医師は、その場で患者と認定され、連れてゆかれた。べつに抵抗もしなかった。会議が続行され、さっきの仮説が強調された。
「というわけでありまして、患者の存在を一理あるものとみとめていいどころか、わたしとしては、患者のほうが正常ではないかとさえ考えたい。彼らは平穏そのもの。ですから、無理に治療することもないのではないか。あまりに大胆な意見なので、驚かれるかたもおいででしょうが……」
「ふーん」
「あなたも、わたしをばかにするのですか」
「異常と思われてたほうが、じつは正常、古い手法だ。なにが新説です。そんなので他人が驚くと、思ってたのですか。ばかばかしい」
「あなたも発病した」
またひとり、医師が患者の建物に移された。残ったなかのひとりが、その新説とやらを出した医師に質問する。
「わたしはすばらしいご意見と思います。しかし、ひとつ矛盾がある。患者たちのほうが正常とすればですよ、あなたが異常ということになる。あなたが患者で、連中たちが医師であるべきだということになる」
「ふーん」
「そんな冗談でごまかさないで下さい」
「ごまかしてはいません。あまりに平凡な反論だからですよ。あなたはとくいになって発言したつもりでしょうがね。議論がこうなってくると、当然でてくる話。それを本気になっておっしゃるなんて、あなたはたわいない」
「あなたも患者の建物に移るべきだ」
医師たちはつぎつぎと、患者たちの建物に移されていった。あとに二人の医師が残った。ひとりが言う。
「ふーん」
「なにに対して、ふーんなのだ」
「言ってみただけさ。だが、いっこうそんな気にならん。ばかげている。あまりにばかげていて腹が立っているんだ」
「わたしもだ。みんな頭がおかしくなりやがった。くそ。やつらにつきあってなんか、いられない。ほっぽっとけ。勝手にしやがれだ。サービスなんかするな」
「まったくだ」
患者たちの建物のテレビは取りはずされた。作ったニュースも、本物のニュースも、ドラマも見せない。新聞はじめ印刷物もとどけないことにした。与えるものは食料だけ。
そのうち変化があらわれた。かくしカメラでながめていると、患者たちはそわそわしはじめた。不安げにあたりを見まわす。なにかひそひそ話しあっている。それがやがて大きな声となった。
「どうしたんだ、こんなことってあるか」
「なにかしら、恐るべき事態が進行中らしい。ただごとではないぞ」
「病院の管理者たちが、陰謀をたくらんでいるにちがいない。このままだと、われわれは頭がおかしくなる。断固として解明すべきだ」
「そうだ。要求書を作って持ちこみ、全員で交渉をしよう」
文案が作られ、書面が作られ、そのあとに患者たちが、つぎつぎに自分の姓名を署名した。住所や年齢、つとめ先まで書く者もあった。
それをつきつけられた二人の医師は、かわるがわる言った。
「ふーん」
「こんなことだろうと思っていたよ。よくある経過だ。くだらない」