彼は目ざめるのが楽しかったし、出勤するのも楽しかったのだ。そう大きくはないが、内容の充実した一流と称せられる会社の社員。性格はまじめで、才能もあり、仕事も熱心だった。エリートコースを進んでおり、異例ともいえる昇進で課長となっていた。それでいて同僚の|嫉《しっ》|妬《と》をさほど受けないのは、その人柄のせいだった。
青年の心がはずんでいる理由は、もうひとつある。社長のひとり娘との縁談が進んでいるせいだった。直属の部長を通じて内密で話があり、何回か会いもし、それは進展していた。彼としてはいやもおうもなかった。将来への確実な保証書のようなものではないか。
そのような打算的な意味だけでもなかった。社長の娘は亜矢子といい、おっとりとしていて、いかにも育ちがいいという感じだった。容姿が美しいばかりか、ユーモアもあった。高ぶったところがなく、いたずらっぽく冗談を言って笑う顔はすばらしかった。彼の胸のなかで恋の導火線が燃えはじめていた。
朝の目ざめが楽しく、出勤の楽しいのもむりはなかった。仕事に熱を入れれば、それだけ亜矢子にみとめられることになる。仕事が楽しいから能率もあがる。いやいやでないから疲労も感じない。したがって目ざめもすがすがしい。すべてが軌道に乗り、好ましい結果へと進んでいる形だった。
青年は軽く朝食をすませ、顔を洗った。彼はその部屋にひとりで住んでいる。片づけるのにも時間はかからない。
「まだ出勤には早いな。本でも読むか」
彼は時計をながめ、コーヒーを飲みながら経営学の本を開いた。勉強もまた楽しかった。知識が頭のなかに流れこんでくるのを感じるのはこころよかった。
その時、ドアのほうでベルが鳴った。
「いまごろ、だれだろう。部屋代の集金でもなさそうだし、なにかのセールスマンがやってくる時刻には早すぎる……」
彼は立ちあがり、鍵をはずし、ドアをあける。そとには女性が立っていた。二十三歳ぐらいだろうか。細おもての、おとなしそうな、ちょっとさびしげなところもある表情。泣いているような目つきのせいかな、と彼は思った。しかし、見ていると、女の目から涙が現実にあふれ出し、ほおに流れた。
「どうかなさったのですか」
そうでも声をかけてみるほかになかった。女はなおしばらく黙ったままだったが、うらめしそうな口調で言った。
「あれから、どうしておいでになって下さらないの。どうかなさったのは、あなたのほうじゃないかと思って……」
「いや、ちょっと会社のほうがいそがしくてね……」
青年はあたりさわりのない返事をした。この女がだれなのか思い出せなかったのだ。思い出せないというより、記憶にないのだ。まったく知らない女。
だからといって、涙ぐんでいる女にそっけない応対をするわけにもいかない。取引先の人を招待して行ったバーの女性だろうかと思った。しかし服装も化粧も派手でなく、水商売らしさがない。その女は言う。
「いそがしいだなんて、ひどいわ。結婚の約束をしたあたしに……」
また涙ぐんだ声になった。小さな声だったが、それは青年を驚かすには充分だった。
「なんだって。ぼくが、いつそんな話をした。だいいち、ぼくはきみを知らないよ。会ったことがない」
「そんなひどいことってないわ。あたしをおもちゃになさったっていうの。それじゃあ、京子はどうなるのよ。どうしたらいいの……」
泣き声が高くなりかけ、青年はあわてた。となりの住人たちへの手前もある。いまは、変なうわさを立てられるのがいちばん困る時期なのだ。
「まあ、おはいり下さい。なかで事情をうかがいましょう。京子さん、でしたね」
彼のすすめる椅子に、女は腰をかけた。
「ちゃんと、あたしの名をご存知なのに。どうして、さっきは知らないなんておっしゃったのよ……」
ハンケチで目を押さえ、思いつめている口調。青年はコーヒーをあたため、カップに入れて出した。女は、そんなことなぜあたしにやらせてくれないのといいたげな、悲しげな不満の表情をみせた。青年はふしぎでならないと同時に、少しおもしろかった。世の中、いろいろと妙なことが起るものらしい。どこでこんなまちがいがはじまったのだろう。それをつきとめれば、当分のあいだいい話題の種になる。みなの興味をひきつけるにきまっている事件だ。
「京子さんとは、ぼく、どこでお会いしたのでしょう」
「まあ、本気でおっしゃってるの。それとも、記憶喪失にでもなられたの……」
女は驚き、気づかわしげな目つきで彼を見た。青年はそれを利用することにした。まず話を聞き出さなくてはならない。
「このあいだ、タクシーが急停車し、ちょっと頭をうったことがあります。そのせいかな。だけどたいしたことはなかった……」
「それだったら、うらんだりしたあたしのほうが悪かったわ。ごめんなさいね。でも、すぐ思い出すはずよ。あたしたちの人生にとって、忘れられない印象のはずですもの。あたしがお友だちのパーティによばれて、お酒に酔っての帰りだったわ。夜の十時ぐらいだったかしら。歩きかたがあぶなっかしいって、あなたが声をかけて手を貸してくれたわ。自分じゃそれほどとも思ってなかったけど、やっぱりちょっと飲みすぎてたのね」
「それで……」
「あなたは大きな取引先の人を招待し、やっかいな話しあいがやっと了解点に達し、肩の荷をおろした気分で帰宅の途中だったのよ。そうおっしゃってたわ。了解点だなんて変な言葉だなあって、あたし笑っちゃったわ」
「そんなこともあったかな……」
青年はうなずいた。取引先を招待することは時たまある。それで話がまとまったあとの解放感はいいものだ。だが、彼の答で、京子は希望をみつけたように説明をつづけた。
「あなたはタクシーを呼びとめ、あたしをマンションまで送ってくださったわ。マンションのいちばん小さな部屋。あたしのお仕事が室内装飾だって言ったら、あなたはどうりで趣味がいいってほめてくださったわね」
「そうだったかなあ……」
青年はうながすようにつぶやいた。京子は夢みるような目で、忘れえぬ思い出を語りつづけた。
「お酒をお飲みになるって聞いたら、あなたは飲むっておっしゃったわ。飲みながらお話をし、ステレオで音楽をかけて、いっしょに踊ったわ。ほんとにロマンチックだった。あなたは結婚しようと言い、あたしは知りあったばかりじゃないのと言ったけど、あなたはきかなかったわ。それから、ベッドに入って愛しあったじゃないの……」
「なんだって。まさか。ぼくはそんなこと、したおぼえはないよ。本当だったらきっと楽しいだろうなとは想像するけど」
「そうお考えになるのは、少し思い出しかけた証拠よ。ね、しっかりして……」
京子はすがりつかんばかりの身ぶりをした。しかし、青年としてはどうしようもなかった。タクシーで頭を打ったことも記憶喪失もでたらめだ。この女と愛しあった体験など、まるでないのだ。話を引き出しているうちに相手が矛盾に気づいてくれるだろうと思ったのだが、いっこうにそうならなかった。
「本当にぼくなのか」
「あたしが忘れるわけないじゃないの。あなたのことを思って、あたしずっと眠れなかったわ。だから、こうやってたずねてきたのよ」
と女が言った。青年は首をかしげる。思い出そうとつとめているのではない。どうしてこんな女が出現したのかを考えるためだった。この京子という女、精神異常なのではないだろうか。パラノイアとかいう病気があるそうだ。ある一点を除いてあとは普通と変りない症状。その一点が問題なのだ。どこかでおれを見かけ、そんな恋愛妄想の世界を心のなかに築きあげてしまったのだろう。しかし、当人を前にそんなことは言えない。青年は言った。
「いずれにせよ、ぼくがそんなことをするはずがないよ」
「なぜなの」
「それは……」
青年は言いかけてやめた。社長の娘との縁談が進行中なのだ。慎重な行動をとるようつとめていて、そんな軽率なことをするはずがない。自分で将来を葬るようなものじゃないか。しかしそんな説明をしたら、京子はまた大声で泣き叫びそうだった。彼は時計をのぞきながら言った。
「会社に出かけなければならない時刻だ」
「いってらっしゃい。あたし、ここで待ってる。お掃除しておいてあげるわ」
「それは困るよ。まあ、三、四日待ってくれ。よく考えてみなくちゃ……」
青年は女をせきたて、ドアから出て鍵をかけ、会社へと急いだ。しばらくしてふりかえると、女はうしろのほうで、ゆっくりと悲しそうに歩いていた。それにしても、これはどういうことなのだ。彼はなにかいやな予感がした。
会社へ出勤すると部長が言った。
「なんだか落着かないみたいだが、なにかあったのかい」
「いいえ、べつに……」
青年はうちけした。ありのままを話したりすると、部長は念のためにと社長の耳に伝えかねない。縁談の進展への警戒信号となってしまうかもしれないのだ。
その日、青年の仕事の能率はあまりあがらなかった。帰宅するのが不安だった。しかし、帰ってみると女の姿はどこにもなく、ドアのベルの鳴ることもなかった。
数日間、なにごともなかった。青年はしだいに忘れかけていった。あの京子という女、人ちがいだと気づいたのだろう。思いつめ涙ぐんでいたのだから、心も目も乱れていてかんちがいをやったのだろう。あるいは、言いたいことを言いつくすことで気がすみ、心のしこりによる妄想が消えたのかもしれない。そんなふうに想像し、彼は仕事にうちこむことができた。
受付係から面会人ですとのしらせがあった。青年が応接室へ行ってみると、見知らぬ女がいた。二十五歳ぐらいか、陽気そうな感じの女性だった。なれなれしい口調で言う。
「こんにちは」
「失礼ですが、どなたでしたでしょうか」
「あら、どなたとはひどいわね。でも、あの時はあたし、名前を言わなかったかもしれないわね。あたし|美《み》|江《え》っていうの。あの時はあなたのほうも、あたしの顔をおぼえるどころじゃなかったかもしれないわね……」
美江という女は、意味ありげにちょっと笑った。青年は顔をしかめた。ビジネスとは無縁の、あまりいい話ではなさそうだ。会社の応接室での長話も困る。部長の目にとまったり、社内で変な評判が立ってはぐあいが悪いのだ。彼は、ちょっと手のはなせない仕事があるから、少し先の喫茶店で待っててくれと言い、女は承知した。
青年が喫茶店に出かけて行くと、女は待っていた。彼はさっそく聞く。
「美江さんとおっしゃいましたね。ご用件はなんでしょう。それより、どこでお会いしたのでしょうか」
「京子さんのお部屋でよ。あたし、同じマンションのとなりの部屋に住んでるの。あたしたち仲よしなのよ。予備の鍵を交換しあっているわ。あの日も、京子さんあてのデパートからの配達品を留守中にあずかってたのを思い出し、渡してあげようと入っていったわけよ。そうしたら、あなたが京子さんとキスをして、結婚を申し込んでたわ。ほら、思い出したでしょ。あたしは引きとめられ、祝盃を一杯だけつきあわされちゃったじゃないの」
「信じられない……」
青年はつぶやき、ひたいに手を当てた。なんということだ。またも変なのが出現した。よりによって重大な時期に。
「あたしがおたずねしたのはね、さびしがっている京子さんを見るに見かねてなのよ。よけいな口出しかもしれないけど、あまりお気の毒なんですもの。彼女おとなしすぎるわ。それでね、あの時あなたから会社の名前を聞いていたので、友情からやってきたというわけなの」
美江という女は、おしゃべりだった。せわ好きな開放的な性格なのだろう。青年は首をふって言った。
「それは、ぼくじゃないんですよ。あなたにも会ったことはない。だいいち京子さんの部屋なるものに行ったこともない。知らないよ」
「そんなことおっしゃっちゃ、ひどいと思うわ。京子さんって、すなおで純情なのよ。いまどき珍しいぐらい。あなたのことを思いつめて、ぼんやりしているわ。やつれたみたい。あなたにだまされたと知ったら、自殺もしかねないわ」
「冗談じゃないですよ。そんなばかなこと。ああ、ぼくはどうすればいいんだ……」
うんざりする青年に、美江は聞いた。
「京子さんのこと、きらいになったの」
「好きもきらいも、身におぼえのないことなんですよ」
「男らしくないわよ。きらいになったというんならまだしも、しらをきるなんて」
「いや、ぼくは絶対にそんな無責任な人間じゃありませんよ。記憶にないことなんです。だから、どうしてあげようもない」
「もっとはっきりなさってよ。これから京子さんと会ってあげない。あたし心配なのよ」
「そうしようかな。ふしぎでならない」
青年は言った。退社時刻になっていたので、彼は会社にもどって机の上を片づけ、美江とともにタクシーに乗った。彼女が行先を告げた。その地名にも着いたマンションの名にも心おぼえはなかった。
ベルを押すと、京子が出てきた。彼女の顔は、彼を見て急に明るくなった。
「いらっしゃってくれたのね」
「いや、美江さんに連れてこられたといったところですよ」
「記憶のほうは戻ってきたの……」
京子が聞き、美江がうなずいて口を出した。
「あら、そうとは知らなかったわ。記憶喪失だったのね。あたし、どうも変な気がしてたの」
青年は部屋に入った。小さいが内部はいい趣味で飾られていた。すみのほうにはベッドがあった。その上で愛しあったことになっているベッドだ。彼は気味の悪いものに接したように、それから目をそらせた。室を見まわしたが、かつてここへ来たことを立証するものはないようだった。来なかったとの反証になりそうなものも、またなかった。しかし、彼にとって不利な存在は、この美江という証人。立ったまま腕組みをしている青年に、京子が言った。
「お酒でもお飲みにならない。こないだのが残ってるのよ」
「いや、やめておこう。もう少しはっきりさせてからでないと、そんな気になれない。きょうは帰らせてもらうよ」
青年ははっきり言った。京子はさからわず、ドアで見送った。しかし、別れぎわにいやなことを言った。
「あたし、いつまでもお待ちしますわ」
そんな日々のなかで、青年は社長の娘の亜矢子とのデイトをしなければならなかった。ならないというより、それが彼の生きがいであり、人生を捧げるべき唯一の目標だった。
しかし、いっしょにレストランで食事をしている時も、なにか落着かなかった。京子か美江の視線がどこからかそそがれているような気がするのだ。亜矢子は言った。
「どなたかさがしていらっしゃるの」
「いいえ、ただちょっと……」
青年はあわてて否定した。だが、むりに忘れようとしてもむずかしく、ぎごちなさが残る。
「なにかお困りのことがあるのだったら、お話ししてちょうだいよ」
「べつにございません」
「ございませんだなんて、そんな言葉づかいなさらないでよ」
亜矢子は笑った。ちょっとえくぼができ、それは水くさいじゃないのよと言っているようだった。しかし、彼としては、京子の事件を話題にするわけにはいかなかった。亜矢子の前に出すのにふさわしい品のいい話題ではなく、それに、どこまで信用してもらえるのかわからないのだ。少しでも亜矢子に疑惑をいだかれたくない。
帰宅し、ひとりになってから青年は考える。いったい、あの京子という女はどういうつもりなのだろう。だれかおれによく似た人間がいて、こんないたずらをやったのだろうか。しかし、いくらなんでも、そうまでそっくりな人間などいるはずはない。それとも……。
そのほかの仮定は思い浮かばなかった。そんな悩みとともに仕事をするのだから、青年の会社での能率はいささか落ちた。部長に変に思われないようにも気をつかわねばならない。そればかりか、美江が会社にたずねてきたりもするのだ。社内ではぐあいが悪いので、喫茶店で会う。美江は言うのだ。
「京子さんのこと、いつまで待たせておくつもりなのよ」
「迷惑ですよ。だいたい、あんなことになるわけがないんですよ。当分は結婚しないつもりなのですから」
亜矢子のことを口にしたら、問題はこじれるばかりだろう。美江はさらに聞いてくる。
「なぜ結婚しないつもりなの」
「月給が少なくて、むりなんです」
「でも、将来は昇給するわけでしょ。それに、京子さんだってかせぐし、なんとかなるんじゃないの。決心ひとつよ」
「じつは、借金があるんです」
「そんなの、整理できるわよ。いい弁護士さんを紹介してあげるわ」
「いいですよ、ひとりでやります」
「本当のとこ、つまらない女につきまとわれ、手が切れないんじゃないの。それだったら、あたしが代りに話をつけてあげるわ。あなたは切り出しにくいでしょうから」
「そんな女なんか、いませんよ」
青年はますますうんざりした。つきまとう変な女とは、このことではないか。美江はせわをやくことに快感をおぼえるらしく、なんとか手伝おうとする。いいかげんにあしらおうとすればするほど、逆に深みに引き込まれてゆくようだった。
美江は笑いながら言う。
「それとも、あなた、京子さんよりあたしのほうが好きになったんじゃないの。そうだったら、ちょっとことね」
「とんでもない……」
美江の来訪がなく、青年がきょうはぶじにすんだようだなと帰りかけた日、自宅のそばの道の途中で、京子がしょんぼりと待っていた。彼は言う。
「こんなところへ、なにしに来たんだ」
「あなたにお会いしたくて。ひとりでいると、いてもたってもいられなくなるの」
「こっちは迷惑なんだよ」
「会社へうかがってはお仕事のじゃまになると思って、ここで待ってたのよ。お話しできてうれしかったわ」
「ねえ、帰ってくれよ」
青年が強く言うと、京子はすなおに、さびしそうに帰って行く。かわいそうな気にもなるが、こっちの知ったことではないのだ。しかし、三日ほどたつと、また彼女が待っている。近所の話題になっても困る。引越したい思いだったが、どこへ越しても同じことだろう。なんとかしなければならない。断固として終止符を打たなければ、人生の前途に黒い幕がおりてしまう。
彼は決心し、近くの警察に行った。もっと早くそうすべきだったのかもしれない。このたちの悪いいたずらの元凶をつきとめ、なんとかしてもらうべきなのだ。
警察はいちおう青年の話を聞いてくれた。しかし、どこまで信じてくれたかは疑わしかった。訴えとは一方的なものなのだと思いこんでいる。この忙しいのにと言いたげだ。
京子を警察へ連れてゆくと、彼女はおどおどしていた。刑事らしい人が彼女に質問をしている。京子はめそめそと泣き、ぽつりぽつりと答えている。あの妄想を話しているのだろう。遠くから見ていて、青年はこっちに有利に展開しそうもないなと思った。
はたして、刑事は青年にこう言った。これは警察の介入すべきことではないようです。犯罪にならない。早くいえば恋愛のもつれでしょう。女があなたをおどしたのなら問題ですが、そうでもない。お二人でよく話しあうことですよ。警察は事件で手一杯なのです。愛しあったのが事実かどうかまで、調査のしようがありません。あなたのおっしゃる通りにでたらめなら、精神病院の分野のほうでしょう。
こんなことがあっても、京子はあい変らず帰り道にあらわれた。警察の件も気にしていない。青年を記憶喪失と思っているのなら、内心では同情し、それも仕方ないと甘受するわけだろう。彼は言った。
「すまないが、いっしょに病院へ行ってもらえないか。どうもなっとくできない」
「ええ、あなたのためになるんでしたら、あたし、どこへでも行くわ」
そして、神経科の病院へ連れていった。しかし、診断の結果は、京子は正常だとのことだった。パラノイアの傾向もない。となると、おれのほうがおかしいのだろうか。しかし、そんなことはありえないはずだ。
青年は思いあまって、知りあいの弁護士に相談にいった。
「なにもかも打ち明けてたのむんだが、困ってるんだ。社長の娘との縁談が進行中なのだが、へんな女たちにつきまとわれてね。まったく身に覚えのないことでね……」
彼は事情をくわしく話した。弁護士は言う。
「事実とすれば、なにかくさいところがあるな。巧妙な恐喝のような感じもする。いいカモと目をつけられたのかもしれないぞ。なにか金の要求でもにおわしたか。その尻尾をつかまえたいものだ」
「いや、金のことはなにも言っていない。それどころか、ともかせぎでみついでくれるようなことを言っている」
「なるほど、じらしたあげく、ごそっと要求するつもりなのかもしれないな。少しようすを見てみよう」
「そんなひまがないんだよ。縁談のほうにさしつかえる。あせっているんだ」
「そうだったな。しかし、縁談の件をむこうに話してないのはいいことだ。弱みにつけこまれ、要求される金額が高くなる。では、わたしが京子と美江とに会ってみよう。ばけの皮がはげるだろう」
「ありがたい。たのむよ」
青年は期待したが、その結果もいいものではなかった。弁護士はこう報告した。
「手のつけようがないよ。いくらほしいんだと切り出しても、金などいらないという。婚約不履行で訴えるのかと聞いても、決してそんなつもりはないという。愛情の問題だ。これでは弁護士の出る幕じゃない」
「しかしね、ぼくが京子と愛しあったなんて、でたらめなんだ」
「その立証ができないんだよ。京子の日記というのを見せてもらった。それには、きみへの思いが書きつらねてあった。あんなものが法廷に出ると、みっともないよ。それに美江という証人もいる。これはわたしの感想だがね、あの京子さんて、古風でいい人じゃないか。きみにとっては社長の娘さんと結婚したほうが有利であり、その気持ちはわかるかね」
「そうじゃないんだ……」
弁護士までなにか誤解している。しかし、青年がいくら叫んでも、法的に相手を押さえつけるのは困難のようだった。かりに法廷に持ちこんだところで、こっちにいいことはひとつもない。京子という女は、妙に他人の同情をひく才能を持っているようだ。裁判官の心証だって、むこうに傾くかもしれない。第一、表ざたにしたらなにもかも終りなのだ。
青年の毎日は、一段と苦痛にみちたものとなっていった。眠りも浅くなり、疲れも出る。ノイローゼの状態だった。それは部長の目にもとまる。
「なにか元気がないようだぜ」
「いいえ、大丈夫です」
部長に事情を話すことはできない。部長としては青年と社長への義理とをはかりにかけた場合、後者をとらざるをえないだろう。また、京子と美江との処理をうまくやってくれそうにも思えない。
青年は転勤を申し出たい気分だった。地方の支店へでも行きたい。社内での彼の評価からみて、海外への駐在も申し出ればみとめられるだろう。だが、そうしてみても、思いつめた京子が追いかけてくるかもしれない。それに、転勤には亜矢子との縁談をあきらめねばならないのだ。
亜矢子との縁談をじゃましようという、だれかの陰謀なのかなとも思ってみる。しかし、この縁談を知っている者はあまりいないはずだ。部長だって不成立を願っているわけではないだろう。また、じゃまするといっても、社内にそれらしいライバルも思い当らなかった。こう手のこんだ芝居を演出する才能の主はいそうにない。金だってけっこうかかっているはずだ。
休日にも青年はあまりのんびりはできなかった。京子が近くでじっと待っているのかもしれぬと考えると、外出する気にもならなかった。
家でぼんやりしていると、訪問者があった。こわごわドアをあけると、三十歳ぐらいの女性。こうあいさつをした。
「あたし女医ですの。お友だちの京子さんから、お話をおうかがいしましたわ。あなた、ちょっとした記憶喪失があるんですってね。あたし、そのほうの専門なの。早くよくなるよう、お手伝いさせていただくわ」
「ご好意はありがたいが、記憶喪失なんかじゃありませんよ」
青年は、ことわったが、女医は入ってきた。
「でも、なにか目の動きに落着きがございませんわ。失われたものを無意識に追い求めているような感じで……」
「それは眠れないせいですよ。むちゃくちゃな話だ。ひどい。みなで寄ってたかって、ぼくを気ちがいにしようとしている。なんのための陰謀なんです。いったい、ぼくになんのうらみがあるんです」
わめく青年に、女医は冷静に言った。
「陰謀だなんて、被害妄想のようなところがございますわ。あなたのようなかたをうらむ人なんて、世の中にはいません。あなたのためにと思って、あたしたち心配しているんですのよ」
「ぼくのためなら、ほっといてくれればいいんだ。ひとりにしてくれ」
「他人を排除し、自己のまわりに殻を作り、孤独への欲求が強い。それはいそがしすぎ、働きすぎのせいですわ。なにか口に言えない悩みごとがおありのようね。それをおっしゃってみたら……」
「ありませんよ……」
亜矢子との縁談の件を、京子の一味にむかって言うわけにはいかない。
「またそのうち、うかがうわ。いい鎮静剤があるの、これをお飲みなさいよ……」
女医は薬のびんをおいていった。しかし、青年はあとでそれを捨てた。なんの薬だかわかったものじゃない。へたに飲んだりしたら、京子と愛しあった事実をみとめる気分になってしまうかもしれない。
青年は、やわらかなもので四方からじわじわとしめつけられているような形だった。そのあいまに、亜矢子とのデイトも重ねなければならない。これは絶対にしくじってはいけないことなのだ。ぼろを出すと、なにもかも終り。亜矢子の冗談にあわせて笑わなければならない。心からの笑いを浮かべて。
依然として会社には時どき美江がたずねてくるし、帰り道には京子が待っていたりする。休日になると女医がやってくる。彼女たちがどこかに集まり、ひそひそと打合せをし、情報を交換し、こっちへの作戦を進めている光景を想像すると、まさに悪夢のようだ。青年は本当に気も狂いそうな身ぶるいを感じる。
それに、どういうつもりなのか、まったくわからないのだ。いったい、なんのためなのだ。なぜ、こんなはめになったのだ。
やつらが男性だったらなあと思う。男ならこんな軟体動物のようなことはしないだろう。言葉のいきちがいから、かっとなってなぐりあうこともあるだろうが、そのあとでなっとくしあえる結論になり、おたがいに忘れあうことだってできるのだが。
女たちの武器は手ごわいものばかり。うらめしげな目つき、涙ぐんだ声、めそめそ、おせっかい、せわ焼き、おしゃべり、図々しさ。対抗しにくいものばかりだ。
こうなったらやけくそだ。京子を訪れて、本当にベッドで愛しあい、美江を誘惑し、ここにやってきた時に女医と強引に関係する。青年はそんな空想をし、どんなにかさっぱりするだろうなと思う。だが、実行はできないのだ。これ以上さわぎが大きくなったら、亜矢子との縁談は絶望的となる。身動きのとれない状態だった。
いらいらは重なり、気力はおとろえ、書類を見ても頭に入らない。会社では、仕事を片づけるために残業をしなければならなかった。
電話が鳴る。彼は受話器をとる。女の声。
「あたしよ。そちらにいらっしゃるのかと思って、お電話してみたの……」
彼はどなる。当然のことだ。
「いいかげんにしてくれ。ほっといてくれ。消えてなくなってしまえ。ばか女め」
「まあ、なんてことおっしゃるの。あたし亜矢子よ。そんな口のききかたされるなんて、きらいよ……」
電話は切れた。あっと思ったが、もはやまにあわない。誤解です、いちおう事情を聞いて下さいと言おうとしたが、電話はとりついでもらえなかった。二度と口をききたくないと思っているのだろう。事情があるのなら、なぜ前に打ち明けてくれなかったのかと怒っているのだろう。
幕がおりてしまったのだ。青年は三日ほど無断で会社を休んだ。出勤する気にもなれない。どうにでもなれだ。
心配してたずねてきた部長に、彼はいきさつを話した。どこまで信じてくれたかはわからないが、会社にいづらくなった点だけは理解してくれた。部長は青年の才能を買っており、知人の会社に責任をもって就職の紹介をしてあげると約束した。それに従う以外にないだろう。
なにもかも新規まきなおしだ。青年がそうあきらめると、京子のことが心のなかに浮かびあがってくる。なにかのまちがいなのだろうが、こうまで思いつめてくれた女だ。たしかに純情で、このドライな世に珍しい存在かもしれない。
結婚するしないはべつとして、こんな時に話しあうと、気分がなぐさめられるかもしれない。会いにいってみようかな。
青年はいつか行ったマンションを訪れた。京子の室のベルを押そうとし、住人の標札の名が変っているのに気づいた。管理人室で聞くと、越していったという。となりの美江もそうだった。ふたりとも越した先はわからないという。
京子と美江と女医とは、豪華な邸の応接間のソファーにかけていた。テーブルをあいだにした反対側には、亜矢子とその母親、つまり社長夫人がいる。ここは社長の邸宅なのだ。社長夫人が言った。どんなことにもあわてることのない、貫録のある中年の婦人。
「ごくろうさまでした。みなさんには、ほんとうにお手数をかけましたわ。あの青年、もう少しみこみがあるかと思ったけど、失格となったようね。まじめで仕事熱心の点はたしかだけど、新しい事態に対処する能力がまるで欠けているわ。ただ、おろおろするだけでしたね」
京子が口を出した。
「でも、あたし気の毒でならなかったわ。会社にもいにくくなってしまったわけでしょ。ああまでテストしなくてもと……」
「そんな人情に負けてはいけません。企業の維持とは冷酷なものです。あたしがいまの主人と結婚する時、つまり会社をまかせる養子をきめる時ですけど、これと同じようなテストをして、あの人が合格して残ったのです。いまの社長のことよ。だからこそ、充実した一流企業としていままでつづいているわけです。亜矢子だってそうするのです。一時の愛情に溺れて企業が倒産してはいやでしょう」
亜矢子は笑いながら言った。品のいい明るい笑い声とともに。
「それはそうよ。会社がつぶれてお金がなくなったら、どうしようもないわ。まっぴらね、そんなことは」
社長夫人は京子と美江と女医とに封筒を渡しながら言った。
「最初のお約束どおり、みなさんに充分な謝礼をお払いします。はい、これがお金。それから、ごくろうですけど、さっそくつぎのテストにかかっていただきたいの。この写真の青年。経歴書はこれ、そして住所は……」