その日の夕ぐれも、青年は一軒のバーにいた。はじめて入った店だった。繁華街からはなれた静かな裏通り。たまにはこのようなところで飲むのもいいなと思い、また店のつくりがしゃれていて、そんなことが気をひかれた理由だった。なかでは数人のお客が、それぞれ品よく飲んでいた。
青年は奥のほうの椅子にかけ、グラスを重ねた。そして、つぶやくのだった。いい作品をとりたいものだな。いい被写体にめぐりあって、存分にシャッターを押してみたい。人びとがあっというようなものを作りあげてみたい……。
いいことが近づいてくるようなけはいを感じた。もう少し酔おうかな。青年はからになったグラスをバーテンに押しやろうとしたが、その手をとめた。とまってしまったのだ。彼の目は一点にむかって静止した。入口にちかいカウンターの席に。
そこにはひとりの女がいた。若い女だった。さっきまでいなかったのだから、ほんのいましがた入ってきたのだろう。赤みがかったカクテルのグラスを口に運ぼうとしていた。二十歳をちょっとすぎたぐらいの年齢だろうか。
青年の目は彼女に吸いつけられ、つづけざまに何回もまばたきをした。連続してシャッターが切られているような感じだった。事実、彼は心のなかのフィルムに、その姿を鮮明に残そうとしていたのだ。これなのだ。彼は自分に言いきかせていた。これなのだ、さがしつづけていた被写体は……。
美しくはあったが、とびきりの美人というわけではなかった。美しいだけの女なら、いくらでもある。プロのモデルなどがそうだ。整形美容と化粧技術とで、かなりのところまで作りあげることができる。
しかし、いまカクテルを口にしているその女には、美しさ以上に重要なものがあった。表情。心の底からこみあげ、顔からあふれだしている表情。それがあったのだ。そしてその表情の示すものは、恋。
恋そのものがそこにあった。なんの説明もいらない。咲きかけの花、暗やみにただよう香水のかおり、月光の噴水、ほのかな雨。火のようで、波のようで、やわらかく強く、やさしく苦しく、美しく緊張して、はげしさといらだちが……。
どちらかといえば地味な服装が、女の表情をいっそうきわだたせていた。目がうるんでいる。押えようとしている息づかいさえも、はっきりこちらに伝わってくるようだ。
青年はまぶしげに目をつぶった。普通だったら、彼女がああも熱烈に恋をしている男性はどんな相手だろうと想像するところだろうが、この青年の場合はちがう。どう作品にしあげるかを確認する気分だった。いや、確認もなにもない。もうすでに完成しているではないか。あとは人びとから賞賛の声をあびるだけだ。それが目に見えるようだった。
最も原始的で、いつも新鮮な感情、恋。それを完全に表現し、とらえた写真。国内のみならず世界中で評判になるだろう。
青年はふたたび目をあけた。しかし、女の姿はさっきの席から消えていた。見まわしてみたが、店のなかにもいない。幻覚だったのだろうかと、青年は思った。こころよい酔いのうみだした一瞬の夢だったのだろうか。あんなにさっと飲んで出てゆく女客など、ありえないんじゃないだろうか。待合せの時間を思い出したのだろうか。いやいや、いかに恋に|呆《ぼう》|然《ぜん》としていても、その恋人の待合せの時間を忘れるなどということはないだろう。
青年は残念がった。画家だったら、いまのイメージを絵にすることができるだろう。しかし、カメラマンとなるとそうはいかないのだ。彼はくやしがり、やけぎみになってさらに酒を飲んだ。
あれは幻覚だったのだと思いこもうとしても、なかなかあきらめきれるものではない。つぎの日、青年はなにも手がつかずむだに時間をすごしたあげく、夕方にまたそのバーを訪れた。幻覚でもいい、もう一回だけ見たいものだと。
そして、また見ることができたのだ。恋の表情を持つあの女を。女が入ってくるのには気がつかなかった。ふと目をやると、このあいだのように、いつのまにかそこに出現していたのだ。
こんどは見のがさないぞ。煙のごとく消えるのかどうか、たしかめてやる。青年は見つめつづけた。グラスに口もつけず、タバコに火をつけるのもやめて。目をそらせたすきに消えてしまうかもしれないのだ。
女の表情はすばらしかった。恋のすべてがそこから発散している。それはいきいきとしたメロディとなって、空気を限りなくふるわせつづけているようだ。しかも、しだいに強く、はげしくなり……。
女はカクテルを飲み終った。そして、しとやかだがすばやく立ちあがり、金をおき、ドアから出ていった。つばめが風をくぐって飛び去っていったという感じだった。あ、出ていった。青年は頭の片すみでそう思った。バーテンが金をしまい、グラスを片づけている。とすると、幻覚ではない、現実の女だったのだ。
しかし、そう気づいた時には、もはや追いかけてもむだなほどの時間がたっていた。青年は立ちあがるのをやめ、酒の注文をしながらバーテンに聞いてみた。
「いまの女の人、どういう人なんでしょうか」
「さあ、なんとも申しあげられませんね。お客さんのせんさくはしないことにしております。しかも、いつもひとり。お客さんどうしの会話から推察することもできませんしね」
「ここにはよく来るんですか」
「時どきですね。しかし、カクテル一杯ですぐお帰りになってしまいます。ですから、ほかの男のお客さんも、話しかけるひまがない。それに、なんだかすごい恋人がいそうな感じでしょう。とても割り込めそうもないと、みなさん、ためらってしまうんですねえ。考えてみると、ふしぎな女の人ですよ」
その話で、青年は元気づいた。やはり実在の女なのだ。写真をとらせてもらうことはできるだろう。その交渉には彼も自信があった。商売柄なれていることでもある。べつに服をぬいでもらうこともない。表情だけとらせてもらえばいいのだ。また、恋の相手になってくれというわけでもない。なんだったら、相手の男性の了解を求めてもいい。簡単なことだし、順調に進むにちがいない。
それから三日ほど青年はバーにかよったが、女にあうことはできなかった。もうあえないのではないかとの不安。しかし、待ちつづけるうちに、また女があらわれた。人の心を迷わせる夕ぐれの空気が凝縮し、バーのドアから形となって入ってきたかのようだ。女はカクテルを注文する。青年はそばの席に移った。近くで見ると、印象はさらに強かった。恋はまつげの一本々々の先にやどり、白い歯の表面に結晶し、口もとにも、髪の毛にも、いたるところに恋がひそんでいるかのようだ。
どう話しかけたものかと、彼はためらった。いざとなると、うまく言えない。だが、急がなくては。時間はあまりないのだ。見つめてばかりいるわけにはいかない。ためらったあげく、彼はやっと言った。だが、はっきりした言葉にはならなかった。
「あのう……」
「なんでしょうか」
女はカクテルを半分ほど飲み、こちらをむいた。なにか遠くを見つめているような目つきだった。恋に燃えている目つきだ。青年はそう思い、また時間が少し流れた。
「ぼくはカメラマンです。こんなことをお聞きするのは失礼なんでしょうが、あなたはどんなお仕事を……」
「あたし、あたしは恋の女神……」
女は言った。答えるのがめんどくさそうな、あっさりした口調だった。しかし、その言葉に青年は驚いた。こっちがつぎに言おうとしていたおせじの文句を、さきに言われてしまったからだ。彼はうなずく。そう。そうとしか言いようがないではないか。恋の女神。
「あたし、もう行かなくては……」
女は金を払い、いつものようにすばやく出ていった。またも青年はあとを追いそこねた。恋の女神という言葉を、あれこれ考えていたのだ。結婚を受付ける役所の窓口の係だろうか。デパートの異性へのおくりものコーナーにでもつとめているのだろうか。それとも恋愛のカウンセラーかなにかだろうか。しかし、どうもちがうようだ。そんな職業に恋の表情は必要ない。では、なんなのだろう……。
いや、そんなことはどうでもいいのだ。問題はカメラの前に立ってもらえるかどうかなのだ。いやいや、ぜがひでも立たせなくてはいけないのだ。このつぎには必ずそうしてみせる。たとえ、地の果てまであとを追いつづけてでも……。
そのつぎの日、決意をかためて待っていると、恋の女はまたあらわれた。そして、動作はきまっていた。ドアに近いカウンターの席に腰をおろし、カクテルを三口ほどで飲みほし、高まる恋の表情とともに、またすばやく出てゆくのだ。
青年はあとを追った。好奇心と仕事への熱意が彼をかりたてた。あの女、どこへ行くのだろう。どんな男と会うのだろう。どんな家に住んでいるのだろう。また、バーから急いで帰るわけは。いずれにせよ、それらの謎がとけるのだ。
女の足は意外と早かった。歩きなれた道のせいだからか夕ぐれのなかを泳ぐ魚のように軽やかで、青年は時どきかけ出さないと見失いかねなかった。女は商店街からはなれ、住宅地にむかい、さあ十分ぐらい歩いただろうか。アパートの入口に入っていった。コンクリートの五階建てで、そう高級でもなければ、そう安っぽくもない。新築でもないが、古びてぼろぼろというわけでもない。そんな感じの、あたりの風景と調和した目立たないアパートだった。
青年はさらに足を早めた。道路とちがい、建物内だと見失いやすい。ここの住人なら管理人に聞くという手もあるが、訪問者だったら、どうしようもないのだ。入口で待ちつづけ、徹夜になってしまうことになりかねないのだ。
青年は女のすぐうしろに迫った。だが、女はまったく気がつかない。急ぐのに熱心なのだ。恋に盲目になっていて、ほかのことには注意が及ばないという感じだった。この女、何階に住んでいるのだろう。
女はアパートの入口をはいったが、そこにある階段をあがらなかった。おりていったのだ。地下への階段をおりたのだ。コンクリートに足音が反響する。地下は廊下をはさんで、上の住人たちのための倉庫や、道具置場や水道のメーターの室などが両側にある。こんなところで、なにをするのだろう。うすぐらく人影はないが、ランデブーの場所としてはロマンチックでなく、ふさわしくない。青年は首をかしげたが、すぐにやめた。あくまで押しきらねばならないのだ。
女はドアのひとつをあけ、くぐり抜け、うしろ手でしめた。それがしまる寸前、青年はあとを追ってあけて入った。そこにはさらに下への階段があり、それをおりたつきあたりの部屋に女は飛びこんだ。
青年もつづく。ノックをしたが返事がないので、勝手に入った。殺風景な室だった。壁にはなんの飾りもない。入口のそばには長椅子があった。天井には照明があり、やわらかな光がまんべんなくあたりにとどいていた。
女の姿もあった。彼女はこちらに背をむけ、机にむかってなにかをしていた。小さな金属的な音が何回かつづけざまにした。あせった感じのこもった音だった。ほっとしたように息をするのが、そのうしろ姿からわかった。青年の驚きはつづいていた。なぜこんな部屋があり、なぜ彼女が作業のようなことをしているのだろう。しかし、いまさら引きかえす気もない。彼は言った。
「あの、こんにちは……」
「なんでしょうか」
女はゆっくりとふりむいた。不意の侵入者をとがめる口調でもなかった。それに元気づけられ、青年は話をした。
「ぼく、少し前にバーでお会いした者です。カメラマンなのです。失礼とは思いましたが、ぜひお願いしたいことがありまして、あとについてここまで来てしまったのです」
「そうでしたの。で、どんなご用でしょう」
女はすなおに聞きかえした。青年には質問したいことがいろいろあったが、まず用件を言った。
「じつは、写真のモデルになっていただきたいのです。お顔だけでもいいのです。あなたはすばらしい。本当に恋の女神そのものですよ。あなたの写真は世界中の人の目にふれ、永遠に残るでしょう。ぜひ、とらせて下さい。お礼はどのようにもいたします。もし、ご希望があったら、遠慮なくおっしゃって下さい」
「じゃあ、これを手伝っていただけるかしら……」
いやにあっさりとした承諾だった。あっさりしすぎているし、また予想外の申し出でもあった。かなりの額の金銭の用意もしてきたのだが、こんな答をするとは。青年は好奇心にかられ、そばへ近よってのぞきこんだ。
「なんなのですか、それは……」
「こういうふうにやるの。簡単なお仕事よ」
机の左には二つの|籠《かご》があった。それぞれに金属製のプレートのようなものがたくさん入っている。一方はかすかに金色をおび、一方の籠のは銀色だった。女は手をのばし、その一枚ずつを取って重ねあわせた。机の上にはホッチキッスを大型にしたようなものがあり、その重ねた二枚をはさみ、押す。書類をとじるのと同じように、音がして二枚がくっつく。それを机の右にある籠に入れるのだ。右の籠にはそんなのがたくさん入っていた。
「ちょっとやらせて下さい」
と青年は言った。自分にもできそうな気がした。しかし女は、初心者がやりそこなうといけないと心配してか、籠のなかをさがし金色をおびたプレートを一枚つまみあげた。それから、自分のポケットから銀色のを出し、青年に渡した。
「これでやってごらんなさい」
青年はやってみた。やりそこなわないよう注意し、さっき見た通りにやってみた。重ねあわせ、ホッチキッスを押し、右の籠にそっと入れる。重ねあわせる時、ホッチキッスを押す時、ちょっとした快感が手に伝わった。なまなましく、なにか生き物に触れたような気がした。
「こんなぐあいでいいんでしょうか」
彼が聞くと、女はうれしそうに言った。
「いいわ、その調子よ。本当にお上手だわ。つづけてやっていただけないかしら」
「いいですとも」
青年は女のきげんを損じないようにと、二、三回それをくりかえした。お気に召しましたかと聞こうとふりむくと、女の姿はなかった。部屋から出ていったらしかった。しかし、青年はそれをつづけた。いまは大事な時なのだ。女が帰ってきた時に、仕事がはかどっているかどうかで、首をたてにふるか横にふるかがきまるかもしれないのだ。たてにふらせなければならない。作品ができるかどうかの境目なのだ。
彼は熱心につづけた。わけはわからないが、おもしろみも感じられる作業だった。女はなかなか戻ってこなかったが、青年は空腹ものどのかわきもおぼえなかった。どれくらい時間がたったのだろう。腕時計はとまっていてわからなかった。ねじを巻き忘れていたようだ。地下室なのであけがたになったのかどうかはわからなかったが、かすかにねむけが襲ってきた。彼はドアのそばの長椅子にねそべり、少しまどろんだ。
目がさめると、胸のなかでなにかが燃えるようにうごめいていた。いや、胸のなかで熱いかたまりが大きくなり、それが彼を目ざめさせたというべきだろう。青年はその異常な感じに驚いた。からだのなかからわきあがる衝動なのだ。なにへの衝動なのかは、すぐにわかった。説明なしにだれにもわかる感情。恋への衝動なのだ。
あの、恋の女が戻ってきたのかな。青年はあたりを見まわしたが、そうではなかった。しかし、女からたのまれた作業のことを思い出し、また内部で燃えはじめた恋への衝動を持てあまし、気をまぎらそうと、プレートを重ねてホッチキッスを押すことをやった。
カメラマンには、こういった仕事はつきものなのだ。いつだったか、農家のがんこな老人の写真をとるため、田植えを手伝ったことだってある。
いくつかやっているうちに、さっきのたえがたいほどの恋への衝動はいくらかおさまっていった。ほかにすることもなく、青年はその作業を進めた。しかし、それにしても、なんに使う品なのだろう。電気製品の部品とも思えなかった。輸出むけのクリスマスの飾りとも、子供むけのオモチャとも思えなかった。
なにかもっと意義のありそうな感じがするのだが、それがなにかはわからなかった。よくながめると、プレートの表面には微細な彫刻で抽象的な模様が描かれている、それは、それぞれちがっているようだ。高度な電子計算に使うパンチカード、厳重な部門での身分証明書。そんな感じ。多くの意味がその表面におさめられているようだった。
金色がかったのと銀色のプレートとを重ねあわせる時、磁性でもおびているかのように、さっとくっつく。その感触は微妙で弾力にみち、くすぐったいような、ほっとするような快いものだった。ホッチキッスでとめる時も、しびれるようなものが伝わってくる。やっていて、つまらないことではなかった。
時間がたっていった。しかし、女は帰ってこず、だれかが訪れてくることもなかった。青年の心に不安がめばえた。だまされたのかもしれない。彼は立ちあがった。そして、ドアに手をかけた時、恐怖めいたものを背中に感じた。ここにとじこめられてしまったのかもしれない……。
しかし、ドアは開いた。階段をあがり、地下一階の廊下に出て、アパートの出入口まで行ってみる。時刻は夕方だった。彼は道を歩き、バーに急いだ。あそこに行けば、女のようすがわかるかもしれない。だが、バーに近づくにつれ、からだのなかで、さっきの恋への衝動がまたも高まってくる。それを押えつけながら急ぎ、バーへ飛びこむなり言った。
「ウイスキーをくれ。あの、それから、あの女の人はどうしたか知らないかい。いつもカクテルを一杯飲んで、さっと帰る女のことだよ」
「あ、あのかたでございますか。きのうでしたね、あなたがあとを追って出ていかれたのは。あれからまた戻っておいでになり、珍しくゆっくりお飲みになりましたよ。あんなこと、はじめてです。そのうち、男のお客さんが話しかけてきて、意気投合なさったようで、楽しげに笑いあっていましたよ。育ちのよさそうな、品のいい男のかたでした」
「それからどうした」
「ごいっしょに出ていかれました。あとは存じません。想像はできますがね……」
「そうか……」
青年はウイスキーを口にほうりこんだ。酔い心地にはなったが、からだのなかで大きくなりつづける衝動は、それをはるかにうわまわっていた。そして、それを押える方法はあれしかないことも感じていた。あの地下室に戻り、作業をつづけることだ。
青年は金を払い、かけだした。地下の部屋に飛びこみ、プレートの作業をいくつかやる。気分はしだいにおさまってゆく。そのかわり、女への怒りが高まってきた。勝手な女だ。この奇妙な仕事をひとに押しつけ、遊びまわっているらしい。しかし、それにしてもおかしい。バーで知りあった男性と仲よくなるとは。いままでの、恋にあふれた表情はなんだったのだろう。
青年はアパートの管理人室をたずねた。少し待たされたが、会うことはできた。
「じつは、この建物に住んでいる女の人についてなんですけど、背の高さは普通で……」
青年は特徴を説明した。しかし、管理人は首をかしげて言う。
「そんなかた、いないようですな」
「住んでいるのではないかもしれません。この建物の地下二階で……」
「地下二階ですって。そんなもの、ありませんよ。地下は一階だけです。なにかのまちがいでしょう」
むりに引っぱってゆくこともできず、どう説明したものかもわからない。そのうち、例の衝動が高まり、青年は室にかけもどらなければならなかった。プレートを重ねる作業をはじめると、気分はおさまる。
地下二階などないと、管理人は言っていた。どういうことなのだろう。ここはなんなのだ。青年の頭のなかでしだいに疑問が形となってきていた。ここは特殊な空間なのかもしれない。ずっと食事をしていないにもかかわらず、空腹感はおこらないのだ。現実とはべつな世界なのかもしれぬ。
青年はおもしろくない気分で、籠のなかのものをぶちまけた。部屋じゅうにまきちらし、長椅子の上で眠る。しかし、やがてあの衝動によって目ざめ、あたりを見まわすと、すべてはきちんと元通りになっていた。ひとつの籠には金色のプレート、もうひとつには銀色のが、机の右のには重ねあわされたプレート。そして、机の上にはホッチキッス。いつでも仕事がはじめられるようになっており、それをうながしているようだ。また、うながされなくても作業をやらないことには、衝動は解消しない。
異常であるばかりか、しゃくにさわる事態だった。青年はすなおに従う気がなくなった。金色のプレートどうしを重ね、ホッチキッスでとめることをやってみた。この仕事はなぜかやりにくかった。銀色どうしもやはり同じ。まぜこぜにして六枚ほど重ね、むりやりホッチキッスにかけてもみた。こんなことが反抗になるかどうかは、さっぱりわからなかったが。
警察に連絡し助けてもらうとするか、と青年は思った。外へ出て公衆電話をさがし、ダイヤルをまわす。しかし、彼が説明すればするほど、警察は不信の口調になるのだった。
「そういうことは、病院へおいでになってお話し下さい。こちらはいそがしいのです。いま、同性愛が急にふえ、乱交がはやりその問題で大変なのです。なんで、こう変な現象が発生するのか……」
電話は切られ、かけなおしても相手になってくれなかった。また、例の衝動も高まり、それを静めるため地下の部屋へ戻らねばならなかった。青年は作業をつづけ、つづけながら考えた。事情が少しずつのみこめてきたようだった。あの女は本当に恋の女神であり、これがその仕事だったのかもしれぬと……。
この金色のプレートが男、銀色のが女。逆かもしれないが、なんとなくそう思った。それをホッチキッスでとめる。これが恋の作業なのだ。ここでこれをすることによって、そとのどこかで男女が恋におちいる。
愛するか愛さないかは、われわれの自由にはならない。恋をこのように断じた人があった。人間の自由にならないとすれば、だれのしわざなのだ。すなわち、ここだ。
恋はハシカのごとく、かからねばならない病気である。恋は人間の最大の愚行である。恋は偶然であり奇跡である。古人はいろいろと形容した。意志や理性から恋はうまれない。友情や利害からも恋はうまれない。どこからうまれるのだ。そんなことを考えてもみなかったが、いま、その問題と答とがいっぺんに理解できた。すなわち、ここなのだ。
ほうっておいても人間はいつかは死ぬ。いちいち殺してまわる死神などは存在しなくてもいいのだ。富は才能と努力の集積である。だから、福の神なども存在しなくてもいいのだ。しかし、恋の神だけは必要なのだ。どこかでせわをやいてやる者がいなければ、どうにもならぬ。人間には、恋を自分でコントロールするハンドルがついていないのだ。
籠のなかのたくさんのプレート。それらが早くせわをしてくれとの要求をしている。恋を、恋を、恋をと。それが熱気となり、エネルギーとなり、念力となって、むりやり作業にかりたてるのだ。
かりたてられて、青年は作業を進めた。金と銀のプレートはうれしそうにくっつきあい、ホッチキッスでとめられ、とめられる瞬間にはよろこびの声のようなひびきをたて、右の籠のなかに空中で踊りながらほうりこまれる。だれかがやらねばならないのだ。いいことをしているのかもしれないなと、青年はちょっとだけ思った。
しかし、あまりいい仕事でないことは、すぐにわかってきた。いかに作業をすれども、左の二つの籠のなかのプレートはへらないのだ。それはそうだろう。恋への欲求が世から消えることはないのだ。
また、ホッチキッスのとめ方がいいかげんだったりして、右の籠のなかでプレートがはなれると、いつのまにか左の籠に戻っている場合もあるらしい。ホッチキッスの穴のあるプレートが、左の籠から出てくることもあるのだ。終ることのない作業。
恋の支配者なんだ、と思ってみる。たしかに支配はしている。しかし、だれも恐れてくれない、感謝もしてくれない。みな自分の力でなしとげたことと思いこんでいるのだ。こんなむなしいことってあるだろうか。みなおれのおかげをこうむっていい目にあっていながら、ここにこうやってせわをやいている者が存在していることを、考えてもみないのだ。死神にとらえられ、いやおうなしにこき使われるという物語があったようだ。そのほうがまだいい。
これが恋の作業でなく、破局の作業だったらどんなにいいだろう。みなもつらいだろうが、おれもつらいのだという、均衡みたいなものができてくれる。しかし、これは、みながうまいことをやっており、こっちだけがだれに知られることなくひとり苦しむのだ。
青年は単調に作業を進めた。同性愛や乱交を製造するのは、手数ばかりかかって、こっちにいいことは少しもない。それでも、腹が立つたびにいくつか作りだしてもみる。
あの、恋の女神はどうしたのだろう。ここへ戻ってきてくれないものだろうか。彼はそんな期待を抱き心から祈りさえもしたが、戻ってきてはくれなかった。最初に押させられたプレート。あの一枚が彼女のぶんだったのだろうな。思いあわせると、それ以外に考えられなかった。
あの恋の女神、いつからこの作業をしていたのだろう。それを想像すると、うんざりした気分になる。遠い遠いむかしからにちがいない。その長い長い時間ずっと同じ仕事のくりかえしだったのだ。休みをとりたくもなり、人間なみに恋をしたくもなるだろう。しかし、気も遠くなるほどの長い時間ののちの休暇だ。ひと月やふた月ではすまないだろう。一年や二年でも。へたをすると……。彼はその先を推察するのがこわかった。
恋の女神の手助けをするキューピッド。かわいらしい子供の姿でおなじみだ。背中の翼で飛びまわり、金色の矢でハートとハートをぬいあわせる。ほほえましいものだったが、おれがそれにされてしまったのだ。実体はこれ。あわれな救いのないキューピッド。そして、あわれな無報酬の作業。孤独と絶望のなかの、ばかばかしくてもやめられない作業。
それでも、青年は時どき部屋から出て、バーに行った。もっと近くにあればと思うのだが、ないのだった。行動半径ぎりぎりにあるバー。往復をいかに急いでも、落着いて飲むひまはほとんどなかった。なにもしらぬバーテンが声をかけてくる。
「なにか楽しそうなご様子ですね。お客さん。恋をなさっておいでなんでしょう……」
「まあね」
くわしく話すひまはないのだ。バーの壁にある鏡には、自分の顔がうつっている。恋の表情に輝いている顔だ。ここへ来る途中恋への衝動が高まりつづけ、ここで最も強くなる。グラスを急いであけ、酔いで衝動をごまかしながら、席を立ってあの地下室へと帰らなければならないのだった。
だれかが好奇心を持ってあとをつけてきてくれないかなと思う。しかし、被写体をさがして血まなこになっている女性カメラマンらしいのが店にいたことはなかった。
また、無意味で残酷な恋の仕事をつづける。いったい、他人の恋が、おれにとってなんだというのだ。なんの価値もありゃしない。ばかばかしいしろもの。うぬぼれとエゴイズムのかたまり、この色きちがいのプレートどもめ。青年は時たま腹を立て、籠をひっくりかえす。だが、そんなことをしても役に立たず、ひと眠りするとすべてはもとに戻り、強い情欲で彼を仕事にかりたてるのだ。
思い出したように外出し、警察へ電話をしたりもした。だが、声をおぼえられており、話しはじめただけで、笑いを押えたいいかげんなあしらいになってしまう。バーへ寄った時に新聞をもらってきて読んだりもした。しかし、それもまもなくやめてしまった。恋だの愛だのの文字を見ると不快になる。いい気なものだ、おれがこれだけ苦しんでせわをしてやっているのに、やつらは自己の力による成果と思いこんでいるのだ。
むかむかすると、わざとぞんざいに仕事をしたりする。右の籠にほうりこむとまもなく、プレートがはなればなれになるのだ。そとの世界のどこかで、とたんに恋が終るのだ。ざまあみろと思うが、そんな感情が当人たちに通じはしない。やつらは、やはり自己の判断で恋を終らせたのだと思っているのだろう。そう想像するとばかばかしくなり、あらためてホッチキッスでしっかりとめなおしたりもするのだ。
すなおに仕事を進め、立腹し、ささやかな悪趣味を満足させ、また人びとの幸福を祈り、そんなくりかえしがつづいた。時どき心の底から叫ぶ。これが終ってほしいと。しかし、そんなことはないのだった。いかに数をこなしても、プレートはどこからともなく補充され、なくなることがない。そして、能率が落ちると、大ぜいの恋への欲求が彼を容赦なくむちうつ。
そのつらさに青年はなれることがなかった。なれるどころか、苦痛は徐々にふえていった。左の二つの籠のプレートのふえかたがしだいに大きくなってきたようだった。一方、彼の処理する能率の限界というものがあった。さばききれない。おれは人間なのだ。女神とはちがう。女神なら能率をあげ、なんとかする法だって知っているだろう。このような分工場をどこかに作れもするだろう。早く帰ってきてくれ。しかし、恋を楽しんでいる女神は、こっちのことを忘れているのだろう。依然として戻ってこなかった。
青年は外出もしなくなった。ほとんど眠らなくなった。特殊な空間にいるため体力はおとろえなかったが、それはいいことではなかった。倒れて気を失うこともできないのだ。機械がうらやましい。機械ならある限度以上はやらなくてもいい。
うつらうつらしても、すぐ情欲の嵐のむちでたたきおこされる。必死になってさばいても、プレートはふえつづけ、籠からあふれはじめている。数えきれぬプレートたちの要求は、すさまじい勢いだった。
青年のからだじゅうで、花火がはじけつづけ、熱湯があばれまわり、無数の虫がうごめき、なにかこまかく鋭いものがぶつかりあい、巨大なドラムが大きな音をたててふるえつづけた。すべては凶暴化し、にくしみとなり、爆発を求めて……。
狂うのではないかと青年は思った。いや、狂いたいと祈った。特殊な空間であり、体力のおとろえぬごとく、狂うこともできないのだろう。だからこそ祈ったのだ。
そして、ある時、彼はばったりと倒れた。なにもかも投げ捨てた眠り。しかし、その眠りも長くはつづかなかった。情欲のむちのためではない。あれだけつづいた情欲のむちを感じないことへの不審さのためだった。なぜだろう。
おそるおそる籠のほうを見る。あれだけあったプレートがからになっていた。どの籠もからだった。数分ののち、彼は思った。のろいから解放されたようだ。きっと、どこかよそでもっといいキューピッド役が作られ、工場がそっちへ移されたのだろう。すばらしいことだ。
青年は籠に近より、ひっくりかえしてみた。金色のプレートが一枚だけあった。それを拾いあげた時、彼はそれが自分のプレートだと直感した。そして、もうひとつの籠。そこにも銀色のプレートがあった。その感触も好ましいものだった。いままでいじったどの銀色のプレートよりも好ましい。
青年はそれを重ねあわせた。いつくしみながら、ていねいにホッチキッスでとめる。そして右の籠に入れる。右の籠もからだったが、その一組を静かにうけとめた。これで終ったのだ。
軽い足どりで、彼は階段をのぼる。口笛を吹きたくなるような気分だった。アパートの出入口。あかるい陽ざし。だが、そこで彼の足はとまり、口笛もやんだ。
そとにはなにもなかった。廃墟[#電子文庫化時コメント 底本「廃虚」単行本の表記に従って訂正]がひろがっているばかり。すべてが崩れ、焼けこげ、むざんなながめがつづいている。
「ついにやりやがった」
青年はつぶやき、気の抜けたように歩きはじめた。歩いたところで、行くあてはなにもないのだが。
どこからともなく呼び声がする。近くの崩れたビルのかげから、女がひとり歩いてきた。弱りきった力をふりしぼり、やっと歩いているという感じだった。青年はかけより、倒れかかる女を抱きとめた。胸が高鳴る。恋なのだ。これが自分自身の恋なのだ。
「お会いしたかったわ」
女が言った。青年を見つめる目。やはり恋にあふれていた。そして、それには見おぼえがあった。ずっとずっと昔、バーで会い、こんなはめになったきっかけの女。恋の女神だった。
「きみだったのか」
「あなたには悪いことをしたわね。でも、あたし、あなたのおかげでやっと、恋というものがどんなものなのか知ることができたわ。あの長い年月の末に……」
女の呼吸は弱くなった。青年は言う。
「おい、しっかりしてくれ。どんなに会いたかったことか。きみを忘れたことはなかった」
「でも、だめなの。人間の生活をつづけたためか、からだが弱くなってしまって、いままで生きのびたのがせい一杯なのよ」
「死んじゃだめだ。唯一の女。きみを愛している」
「あたしもよ……」
しかし、彼女の声はそれで終った。
しばらくののち、青年は立ちあがり、ビルの地下へ戻ろうとした。
いまとなると、あの作業もなつかしい。階段をおりる。地下二階への階段へ通じるドアを開く。しかし、そこにはコンクリートの壁があるばかり。階段もなく、ゆきどまりなのだ。地下二階のあの部屋は、もう存在の必要を失ったのだ。彼はたたずみ、目をつぶる。そこにはなつかしい室がみえる。右側の籠、そのなかで銀色のプレートが、いま消えてゆく。そして、ただひとつ残ったもの、自分のである一枚の金色のプレートが、まもなく訪れる消える瞬間を待って……。