もっとも、それだけ会社での仕事は忙しくなっている。彼は二日がかりの出張旅行に出かけ、商談をまとめ、きのうの夜に帰ってきたというわけだった。
男はトーストとコーヒーの簡単な朝食をすませ、タバコを一服し、|長《なが》|椅《い》|子《す》にねそべってテレビをつけた。これが休みの日の彼の習慣といってよかった。
画面があらわれる。主婦むけらしい討論番組をやっていた。司会者がしゃべっている。
〈では、これからの流行はどう変ってゆくか、どうあるべきかについて……〉
スタジオには評論家らしき男女が、もっともらしい顔つきで並んでいる。
「あい変らずだな。どうせ、ああでもない、こうでもない、みなさん、おたがいによく考えてみましょうで時間となる筋立てだ。流行なんか、予測できるわけがない。くだらん企画だ。どうってこともない……」
男はつぶやき、チャンネルを回した。画面では映画をやっていた。若い連中が犯行計画を相談しているシーンだった。
「ふん、犯罪物か。あの計画も途中まではうまく進行するが、やがて警察側がやつらの手ぬかりをうまく突き、二、三回はらはらさせる場面があるが、犯人たちのうつ弾丸はいっこうに当らず、最後にはみな逮捕。めでたしめでたしというしかけにきまっている……」
またチャンネルを回す。西部劇だった。馬にまたがったガンマンが、砂漠のなかの街へやってくるところ。
「あの顔つきと身だしなみからみて、こいつは善玉だな。そのうち、うまいぐあいに美女と仲よくなり、それから街のボス一味との対決になる……」
チャンネルを回す。
連続メロドラマらしかった。男は少し眺める。妻子ある男と、若い女、その女をほのかに恋する少年。その三者の組合せで進行していた。
「なるほど、ちょっと新手だな。これでしばらく気をもませようという手法だな。時間かせぎだ。本当の展開は、彼女にふさわしい青年が出てきてからだ。しかし、出てきたらきたで、型にはまった話になってしまうのだろうな。その青年に恋人がくっついているといったぐあいで。男と女の組合せ。そうそう変ったものなど、あるわけがない……」
またダイヤルを回す。派手な身ぶりで、若い歌手が声をはりあげていた。しかし、男はそんなのに熱中するほど、年齢がおさなくなかった。
興味のある番組は、ひとつもやっていなかった。しかし、男はべつにがっかりしなかった。こういうものなのだ。与えられる番組というものは、こんな程度。やむをえないものなのだ。
男はテレビを消さなかった。指をのばして、スイッチを切換える。いままでは〈一般放送〉だったが、それを〈有線放送〉へと。
画面には、へいがあらわれた。コンクリートの高いへい。刑務所のへいなのだ。脱走にそなえて、監視塔にテレビカメラがすえつけられている。それのとらえている光景なのだ。単調そのもの、変化がまるでない。へいの上にスズメがとまり、しばらくして飛び去っていった。いくら待っても、それ以上のことは起らない。
男は〈有線放送〉のほうのダイヤルを回した。
デパートの内部の、ある階がうつった。オモチャ売場。色とりどり、大小さまざまなオモチャが動き、幼児を連れた婦人たちが大ぜいいた。子供の声がきこえる。
どのデパートにも、店内監視用テレビがそなえつけられている。万引などの犯罪防止。火災など事故の早期発見。人のこみぐあいや流れの統計をとり、効率のいい陳列法の資料とする。それが本来の目的だった。
最初は店内管理用だけのものだったが、あるデパートがそれを〈有線放送〉の回線にのせ、一般に公開した。宣伝に役立つかもしれないと考えてだ。つまり、だれでもそれを見ることができるようになった。一時的、実験的なつもりだったが、意外に人気が出て、それにならうデパートが続出した。
〈オモチャ売場でございます。安全で教育的、お子さまの興味をひく品々がとりそろえてございます。ダイヤルを一つお回しになれば、この上の階がごらんになれます。そこは家具売場、新しいデザインのものが入荷しております……〉
と、時どきテープによる声が入る。ダイヤルを回してゆけば、このデパートの各階を見ることができるのだ。もっとも、絵画展のような催し物は見られない。それを見せてしまっては、客足がへってしまう。
というわけで、〈有線放送〉によって、各地のデパートの各階を見ることができるのだ。
なにもデパートだけに限らない。いまや、企業、官庁、そのほかあらゆる方面でのテレビカメラが、この〈有線放送〉に連絡されている。情報時代のひとつの成果。
いながらにして、たいていのところを見ることができるのだ。たとえば、さっきの刑務所のへいのようなところでさえ……。
テレビセットには〈有線放送〉用として、チャンネル切換え用のダイヤルが六つついており、それぞれ、〇から九までの数がついている。その数を適当に合わせればいいのだ。〈一般放送〉とちがって、その点いくらか手間がかかるが。
例をあげれば、〇〇〇〇〇一に合わせたとする。大気圏外の静止衛星のカメラがうつしているわが国を見ることができる。気象庁の担当者にとっては重要な資料。
しかし、その映像を官庁だけが独占しているというのは、どうであろうか。大衆の気象への関心を高めるため、広く開放すべきではないか。そんな要求によって〈有線放送〉へ流されるようになったのだ。
〈高気圧が本土の上空を横切りつつあります……〉
ある時間をおいて、テープの声が入る。しかし、最初のうちはともかく、いまはもう退屈きわまる眺めとなった。気象マニアでない一般の人は、三十秒と見ている気になれない。変化がなく、つまらないのだ。
こんなふうに、六つのダイヤルの数字を組合わせれば、各地各所にあるテレビカメラによって、なんらかの映像を見ることができる。つまり、何十万種類だ。近くダイヤルがひとつ追加されるという。そうなると百万単位の数となる。
電話なみといえないこともない。もっとも電話とちがい、やはりテレビの宿命で〈有線放送〉も一方通行、こっちの意志は伝えられない。ただ見物するだけ、告げられるだけ……。
しかし、その男にとっては、これがけっこう面白いのだった。〈一般放送〉にくらべ、選択のはばがある。
「ねそべって画面を見ているのもいいが、これでは、からだがなまってしまうかもしれないな。たまには車で、郊外へでも出かけたほうがいいのかも……」
つぶやきながら男は、〈有線放送〉のガイドブックを開いて調べ、六つのダイヤルをいじって、高速道路の出入口の光景を画面に出した。
このテレビカメラ、もともとは高速道路の関係者と警察のためのものだった。料金不払いで逃げようとする車、積荷の状態の不完全なトラック、盗難車、それらを発見するためにそなえつけられたカメラだったが、〈有線放送〉に開放され、一般の者も見ることができるようになった。
「道路はそうこんでいないようだな……」
そう言いながら、男は六つ並んだ右はじのダイヤルを一つ進めた。高速道路のある個所がうつった。これももとはスピード違反、事故、路面状況を監視するためのものだった。現実にもその目的で使用中なのだ。
「渋滞もなく、車は順調に進んでいるな。出かけてもいいが、目的地のモミジの色づきぐあいはどうなのだろうか」
そこにダイヤルをまわす。山と谷川のある景色が画面にうつった。これは、その地方の観光協会が宣伝用にそなえつけたもの。
〈お遊びにお出かけ下さいませ。本日は、旅館もまだ部屋があいております。温泉におはいりになり、休養なさるのも、たまにはよろしいのでは……〉
テープの声がくりかえして告げている。宣伝用のため、演出効果を考えてか、湯けむりが画面を左から右へと流れつづけている。
「温泉か。悪くないな。さぞ、のんびりするだろう。しかし、湯けむりのため、モミジの色のぐあいがよくわからない……」
男はダイヤルを一つ進めた。けわしい谷川が画面に出る。モミジの色が美しかった。かつて、この場所から身を投げる自殺者のつづいたことがあった。その発見防止用にと、役場がとりつけたテレビカメラで、ついでにと〈有線放送〉の回路につながれたものだ。
男はしばらく、その画面を眺めていた。川の流れ、飛びかう鳥、がけの草花、それにモミジといった光景を味わっていたのだ。また、数名の観光客の歩いている姿も見ることができた。
「飛びおり自殺をしてくれるやつはいないかな。それを現実に見ることができたら、強烈な印象だろうな……」
それは本心でもあった。そのうち、若い女がひとり画面にあらわれた。男は期待する。あれが失恋したばかりの女性であって、その心の痛みを忘れようとひとり温泉へ来たのだが、孤独感はかえって高まるばかり。そして、思いつめたあげく……。
だが、そううまくはいかなかった。女は足をとめたが、小型カメラをかまえ、シャッターを押し、楽しげに歩きつづけていってしまった。まあ、それが当然なのだ。うまいぐあいに自殺を見物できる確率など、ゼロに近い。
男はダイヤルを動かす。川の流れだけという、なんということもない光景が出た。大雨による増水を知るための、テレビカメラからの映像のようだった。
「山の上の眺めはどうだろう」
男はガイドブックをめくって、その画面を出した。霧が出ているかどうかを見るため、旅館組合がとりつけたカメラだった。お客から「山の上へ行って、遠くが見られるだろうか」と何度も聞かれるので、正確にそれに回答するためのもの。いまはこれも〈有線放送〉に入れられ、こうしてここで見ることができる。
きょうは晴れていて、遠くまで見渡せた。
「いい景色だなあ……」
男はうなずく。霧のぐあいを見るためのものだから、カメラは一方向を向いたまま。だから、この存在によって観光客のへることはなかった。この地の自然をすべて目にするには、そこへ出かけ、あちらこちらに首をまわさなければならないのだ。
旅行の好きな人は、時間と金を使って出かけて行くものだし、さほどでもない人は容易に腰を上げない。男は後者のほうだった。
さっきから、高速道路、谷川、山の上など、少しずつ眺めているうちに、なんだか行ったような気分になってしまった。
「わざわざ出かけるのも、めんどくさいな。きょうはやめておくか」
そろそろお昼だった。男は六つのダイヤルをいじり、別なところへ合わせる。
あるレストランの光景があらわれた。本日のメニューとして、各種の料理が並べられ、その値段がうつっている。外食する人にとって、どこでどんなものを食べられるかの情報は、ありがたい。その要求と、店の側の宣伝との一致で実現したものだ。
男はダイヤルを、さらに一つ進める。そのレストランの調理場がうつった。当店は清潔であり、入念に料理を作っているのだということを示す、お客むけのテレビ回線。それも〈有線放送〉に流されているのだ。
それを眺めながら、男はねそべったまま簡単な食事をし、それで満足した。彼にはそんな性格があるのだった。画面を見つめていただけで、旅行をしてしまった気分になる。それと同じく、料理と調理場を見ているだけで、いい味を楽しんだような気分になるのだった。
食後のタバコを吸いながら、男はまたダイヤルに手をのばす。これは玉石のいりまじった鉱脈なのだ。衝動というべきか好奇心というべきか、掘ってみたいという気分は押さえきれない。なにか面白い光景はないだろうか……。
画面にスーパーマーケットの店内があらわれた。かなり混雑している。なにげなく見ていると、お客のなかに挙動のおかしいのがいた。
「店の監視係め。いねむりをしているのかもしれない。ひとつ知らせてやるか」
男は受話器を取り、画面の右下に出ている電話番号にかけてみた。
「もしもし……」
「はい。スーパーマーケットでございます。毎度ご利用いただき……」
「そんなことより、注意が第一ですよ。いま万引をしている人がいるぞ。みどりの服を着た四十歳ぐらいの女だ」
「ご通報、ありがとうございます。あなたさまのようなかたがおいでなので、この店もおかげさまでなんとか……」
「あいさつより、早くつかまえるほうが……」
「しかし、あの女はちがうのでございます。テレビカメラを意識し、わざと不審げな動作をし、店員にとがめさせ、そこでいなおり、金をゆするのです。その常習犯……」
店の人も店内監視テレビを見ているようだった。男は少し驚く。
「そんなのがいるのですか」
「ええ。各マーケットで連絡をとりあい、その手にひっかからないよう、警戒している人物のひとりです。もっとも、こういうのは例外でございますが、もし本当に万引の現場を発見なさったら、ご連絡ください。当店の監視係の発見よりあとでも、謝礼をさしあげます。当店での万引は不可能との評判がひろまるというわけでございます。不正を芽のうちにつむことで、社会をよりよくいたしましょう……」
「わかりました。そうしましょう」
ちぇっ、もうけそこなってしまった。万引発見で礼金を得るにも、それだけの研究と努力がいるというわけか。しかし、あんなふうに、監視カメラを逆手にとる妙な常習犯が横行しているとは……。
「もっと大物をねらうとするか……」
男はダイヤルを操作する。画面には、指名手配中の逃走犯人の写真がつぎつぎにあらわれた。各警察間の連絡テレビ用だったものだが、一般の〈有線放送〉に開放されたのだ。
それにスポンサーとして保険会社がついた。それぞれに懸賞金がついている。テープの声がそれをしゃべっている。
〈テレビをごらんのみなさま。ダイヤルをお回しになっていて、どこかでこれらの犯人を発見なさいましたら、もよりの警察にお電話なさって下さい。賞金をさしあげます。あなたの繁栄、社会の平穏につながります。それがわが社のねがいなのです……〉
いずれもかなりの金額だった。逃走犯人にとって大きな精神的圧迫となっているだろう。だから、警察も賞金をみとめたのだ。
「一回でいいから、ああいう大物を釣りあげてみたいものだな……」
男はそう思う。現実に、それで賞金をかせいだ者もいる。偶然の結果かもしれなかったし、あるいは、ひまと頭と勘とを使って、こういう人物はこう逃げるはずだとダイヤルを回して追い、さがし出したのかもしれない。
しかし、いずれにせよ、男にはそれほどの熱意がなかった。しばらくのあいだ、犯人発見の空想にひたっただけ。
それでも、ものはためしと、やってみる。幸運ということだってある。ダイヤルを回すと、画面に公園があらわれた。
公園内にはキャッチボール、花を折ることなど、禁止されている行為がある。それを監視するテレビカメラの光景が〈有線放送〉にも流されているのだ。池の金魚に石をぶつける者はぐんと減った。やはりカメラの効用というべきだろう。
散歩をしている人びとが見える。あのなかに、犯人がいるかもしれない。男は少し注意をする。しかし、もちろんそううまく出現してくれるわけはない。
さっきから、ひとりの若者が、ぼんやりと立ちつづけている。なにをしようとしているのだろう。それは、やがてわかった。
若い女がやってきて、声をかけあい、つれだって歩き、画面から消えた。デートの待合せだったらしい。もしかしたら、いまの女、若者がいることをテレビでたしかめ、それから出かけてきたのかもしれないな。このごろは、ちゃっかりした女がふえている。
男の頭には、いまの若者の顔が残っている。そうだ、いまのうちにと、彼はあるダイヤルに合わせた。警察用の家出人さがしの画面に。
〈これらの人を見かけたら、すぐお知らせ下さい。依頼人から謝礼が出ます……〉
男はひとつひとつダイヤルを進め、つぎつぎに家出人の顔を見た。しかし、いまの若者はそのなかになかった。
「ものごと、そううまくはいかないというわけか……」
男はあきらめ、いまの若者の顔はそれで忘れた。
いままでとまったく変ったものを見ようかなと、男はダイヤルをいくつかいじった。画面にお寺の本堂がうつる。葬式をやっていた。坊さんがお経を読む声、涙にくれる遺族や友人の姿、弔辞を読む有名人。それらに、いながらにして接することができた。
葬式をビデオに記録し、とっておきたいという遺族もいる。また、どうしても仕事のつごうで列席できず、テレビを通じて礼拝したいという人もある。それらの要求をみたすため、お寺がそなえつけたテレビカメラ。
ダイヤルをつぎつぎに進めれば、各地のお寺や教会での葬式を見物することもできる。世の中には、その見物が趣味という人がいるらしいが、男はそうでなかった。
一分間ほど見て、このところ知人に葬式のない幸福をかみしめ、べつなものに画面を変えた。
ホテルでパーティをやっていた。広い部屋、楽しげな人たち。どこかの会社の創立五十年記念の会だった。みな、ほどよく酔い、社長や来客が、きまり文句のあいさつをしゃべり、拍手がつづいた。
どこのホテルも、内部の各所にテレビカメラがしかけられている。各階の廊下が主だ。犯罪防止のためだが、それは〈有線放送〉には流されない。プライバシー保護のためだ。面会人を避け、ひとりの時間を持つためホテルに宿泊する人もある。それを見られては、お客さまのためにならない。
どこのボウリング場の内部も、この〈有線放送〉で見ることができる。いま、どの程度にこんでいるのかを、来ようとする人に知らせるためのものだが、へたくそなボウリングを眺めるのも、ちょっと面白い。
ボウリング場のみならず、テニスコート、ゴルフ場、季節によってはスキー、スケート場まで見ることができる。
娯楽関係だけに限らない。裁判の光景だって見ることができる。裁判は公開が原則。傍聴席にカメラをおいて、どこが悪い。裁判所にしても、公正さを世に示したほうがいいというものだ。
それで〈有線放送〉に乗るようになったのだが、全国の地方裁判所、刑事民事のすべてにわたってとなると、もうだれも熱心に見る者はいなくなった。知人が巻きこまれた事件なら話はべつだが、自分に関係のない裁判など、だれが関心を持つものか。重要な裁判は、新聞が整理し解説し、要点をまとめて知らせてくれるのだから。
〈有線放送〉が普及する前もあとも、その点あまり変りはなかった。
政治も同様。すべての議会を〈有線放送〉で見ることができる。国会をはじめ、都議会、区議会、しかも本会議ばかりでなく、どの委員会の部屋にもテレビカメラがそなえつけられている。
こうなると、中継しないのと同じこと、ほとんどの人は関心を示さない。時間つぶしに見る人さえない。しかし、議員たちはカメラを取り去ることに反対だった。だれかが見ていてくれると考えているらしい。現実には、その家族ぐらいしか、いや、その家族さえ見つづけてはいまい。
かつて〈一般放送〉だけだった時代、国会中継となると代議士が芝居がかった行動をしたものだが、いまやなんということもない。どことなくむなしい。
それでも、どの議員も自分の事務所に〈有線放送〉のカメラを持っている。そこへダイヤルを合わせてみる。
〈有権者のみなさま。わたくしがいま、とくに訴えたいことは……〉
ビデオの録画による政見発表が、くりかえし放映されている。街頭で大声をはりあげられるよりいいとはいうものの、これまたむなしい気分にさせられる。同じ見るのなら、遠くはなれた山のなかの、村会議員のそれのほうが興味があるというものだ。
また、ダイヤルを回すことによって、どの学校の、どの講義をも聞くことができる。その気になれば、一流大学の教授の講義をも聞けるのだ。しかし、それで資格が取れるわけではない。月謝を払わないで、卒業免状をもらえるわけがない。理科系だったら、実験をしなければ知識が身につかない。
学問とは、月謝を払って校内へ出かけること。かつて〈一般放送〉で、教育番組の重要性が叫ばれた時代もあった。しかし、視聴率はひどいものに終った。そういうものなのだ。家にねそべっていて学問をしようというのが無理なのだ。
男は、それでも、ある大学の講義を五分ほど聞いた。学生時代の先生の、その後を知りたいと思ったのだ。
「あい変らずお元気だな。少しとしをとられたようだ。定年まであと何年かな……」
べつな番号にダイヤルを回す。
どこか名も知れぬ小さな劇団の芝居がうつった。奇声をあげ、奇妙な動作をし、筋もなんにもなかった。そのうちに終り、ひとりが画面にむかって言う。
〈ごらんいただけましたでしょうか。これこそ新しい芸術。これがわからないようでは、現代人じゃない。このみごとな前衛性は、すばらしかったでしょう〉
男は肩をすくめてつぶやく。
「たまたま、ごらんになってはいたけどね。なにがなにやら、さっぱりわからん。頭のおかしいのは、そっちじゃないのかね。本気でやってたのなら、ごくろうさまなことだ」
あれこれダイヤルを回しているうちに、時間が流れ、男はなにかを食べ、いつしか夜になる。
男は、ある盛り場の道にダイヤルを合わせる。このところ、これがくせになっている。何日か前、ここで偶然にけんかを見た。酔っぱらいのなぐりあいだった。まもなく、かけつけた警官に制止されはしたが。
〈おぼえていろ、こんど会ったら、ぶちのめしてやるから……〉
と、どなりあって別れたのだ。まったく、あのシーンはすごかった。胸のどきどきする迫力があった。芝居でなく、本物なのだ。流れる血も、痛がる声も、つくりごとではない。それに、これを見ているのは自分のほかにほとんどいないのだと思うと、その興奮は一段と強かった。
もう一回あれを見たいものだとの期待は押さえられない。やつらは「こんど会ったら」と言いあっていた。それに望みをつなぎ、つい、この盛り場を画面に出してしまうのだった。
しかし、今夜もなにも起こらなかった。ほろ酔いの人たちが歩いているだけ。
「だめか。あれは酔った上でのけんかで、さめたら忘れてしまったのかもしれないな」
男はあきらめ、時計を見る。
「そろそろ寝るとするか……」
ビールを持ってきて、それを飲む。そして、なんとなくまた、刑務所の監視塔のカメラにダイヤルを合わせてしまう。夜にまぎれて脱獄するのを、この目で見たいものだと……。
「やはり、だめだな。囚人たち、だらしのないやつばかりだ。ここに、こんな熱心なファンがいるのだから、一回ぐらい楽しませてくれてもいいだろうに。監視係がいねむりをしていても、おれは通報しないでやるぞ……」
はたして通報しないかな。賞金ほしさに、電話をかけてしまうかもしれないな。しかし、そうそう脱獄などあるわけがない。
やがて男はあきらめ、テレビのスイッチを切り、眠りにつく。あしたは会社に出勤しなければならない。
おれは、のびをしながらつぶやく。
「あきれたね。あの男、一日中ねそべって〈有線放送〉を眺めつづけだった。ほかには、なんにもしなかった。なんともいいようのない、とんでもないやつだ……」
おれは留守番監視サービス会社の社員。出張や行楽などの旅行で留守をする個人の住宅内にテレビカメラをとりつけ、泥棒が入らないよう警戒し料金をもらう企業だ。
ひとりで百軒ほど受け持つ。どの画面も、動く人かげがひとつもない、からっぽな部屋ばかり。だから百軒も受け持てるのだ。どこかの画面に人があらわれれば、警備保障の会社のパトロール車に連絡すればいいのだ。
しかし、あの男は出張から帰っても、解約の電話を入れるのを忘れ、カメラにカバーをかけていない。会社では写真により、そこの住人の帰宅とみとめて、監視対象からはずしている。
しかし、おれはちょっと興味を持った。あいつの日常を見物してやろうと。おれは会社のそばの寮に住んでいる。そして、きょうは非番。会社からここまでを配線でつなぎ、テレビで眺めることにしたのだ。
こういう機会でもないと、いかに〈有線放送〉の時代とはいえ、個人の生活を見ることはできない。プライバシーは決して〈有線放送〉に乗らないのだ。
大いに期待したわけだが、なんということ、いっこうに動かず、ねそべったままテレビを見つづけの人物とは……。
おれは〈一般放送〉の番組へと切り換えた。落語家がしゃべっていた。
〈ええ、まず、江戸小話をひとつ。ご隠居さん、世の中にはのんびりした人がいるもんですね。八っつぁん、なんでまた、そんなことを言い出したんだね。いやね、一日中、ずっと川に釣糸をたらし、ウキをながめつづけというやつがいたんですよ。そんな人がいるかねえ。うそじゃありませんよ、ご隠居さん、あっしが、はじめから終りまで、ずっと見てたんですから……〉
ふん、何回も聞いた、お古い小話じゃないか。つまらん。ああ、あ、おれもそろそろ眠るとするか。