「なにか、みなをあっと言わせるような、大事件の記事を書いてみたいものだな……」
そういうつぶやきが出るのも、むりもなかった。なにかないだろうか、なにかあるはずだ。そう考える毎日だった。
ある日、社内でちょっとした話題を耳にした。半年ほど前、藤川というこの社の記者が、わけもわからずに消えてしまったというのだ。原因や理由について、だれも知らない。
そのことに、彼の心は動いた。上役に聞いてみる。
「藤川という人が消えてしまったとかいう話ですね。消されたとすれば、おだやかでない。気になります。真相はどうなんです」
「いや、そう大げさなことじゃないよ。ある事件を調べていたのだが、途中で辞表を出し、自分でやめてしまったというだけのことさ。いまなにをしているのか、だれも知らない。会ったやつも、年賀状をもらったやつさえいないんだからな。だから、妙な想像によるうわさが発生したというわけさ」
「いったい、どんな事件を調べていたというのですか」
「ある警察署の刑事が、勤務中に消息不明になってしまった。まじめで仕事熱心な性格の人だったという。藤川はその件に興味を持った。その足どりを追って、記事にしようと考えたわけだよ」
「で、なにか結論を得たのですか」
「本人はえらく張り切っていたが、わたしはなんの報告も受けなかった。もう少しで真相がつかめそうだという話を何回か聞いた。だが、そのうち、事情も言わず、辞表を出した。そして、それっきり社に来なくなった」
「なんだか、好奇心がわいてきました。なにか裏がありそうだ。ぼくにやらせて下さい。かならず解決してみせますから」
若い記者は身を乗り出したが、上役は首をふった。
「わたしの判断では、それほどの事件とは思えないね。いまの世の中、転職する連中は多い。うちの新聞の紙面でも、転職の特集をやったことがあるくらいだ。そんなのをいちいち追っかけていたら、きりがない。報道すべき、もっと重大な事件は多いのだ」
「しかし、事件を追っている途中の刑事や記者の転職となると……」
「いやに熱心だな。まあ一晩よく考えてみてくれ。あしたにでもあらためて……」
つぎの日、若い記者は上役に言った。
「考えれば考えるほど、なにか重大なことに関連があるような気がしてなりません。この件の調査をやってみてもいいでしょう。社に迷惑をかけないよう注意しますから」
「かなりの意気ごみだな。そんなにまでやりたければ、好きなようにしろ」
「で、なにか手がかりは……」
「それがあまりないんだな。よくバー・エックスにかよっていたというほかには……」
「では、そこからとりかかりましょう」
若い記者は、そのバーへかよった。
マダムは神秘的なかげのある美人だった。しかし、客あしらいはうまく、話題は豊富で、遊びごこちのいい店だった。だが、すぐ切り出すのもと思い、彼はしばらく機会を待った。けっこう金がかかった。
しかし、やがて核心にふれる質問をする。
「ちょっと、聞きたいことがあるんだが」
「なんなの、あらたまって……」
「じつは、藤川の消息についてなんだ」
マダムの表情が、少し変った。
「およしなさいよ。そんなお話を口になさるの……」
「いや、ぜひ知りたいんだ」
「ねえ、あなたの、いままでたまっている代金を帳消しにしてあげるわ。そればかりじゃない。今後は、いくらお飲みになっても、ずっとただにするわ。このお店の飲み心地、悪くないと思うけど……」
「ありがたいな。夢みたいだ。しかし、なにか条件があるんだろう」
「さっきのお話、忘れてちょうだい」
「ううむ……」
「よく考えてみてね」
若い記者は、帰ってから考えた。高級バーで、好きな時に無料で酒が飲めるとは、うまい話だった。ちょっとしたことと引き換えにだ。しかし、ここで妥協してはいけないのだとも思いかえす。
そうまでして藤川の調査をさまたげようとするのは、なにかあるからだ。それを追究しなければならない。ここで引きさがっては、せっかく乗り出した意味がなくなる。
彼は金をつごうし、バーに出かけた。それを迎えてマダムは言う。
「いらっしゃい。きょうからは、お会計を気にすることなく、好きなだけ飲めるのよ」
「いや、飲みに来たのじゃないんだ。ご期待にそえなくて申しわけないが、いままでの代金を払いに来た」
「あら。すると……」
「そう。藤川についての消息を聞きたいんだ。さあ、お金だ」
彼はそれを渡す。マダムは首をかしげる。
「そんなこと、おやめになったほうがいいと思うんだけどな……」
「ぜひ知りたいんだ。よくよく考えた上でのことなんだ。この決心は変らない。たのむ、なにか手がかりを話してくれ」
「そこまで思いつめているんじゃ、しようがないわね。負けたわ。以前、この店に秋子というのがいたの。彼女なら知ってるわ」
「本当なんだろうな。で、どこに……」
「地図を書いてあげるわ。わかりやすいところよ」
「ありがとう」
若い記者はそれを受けとった。
その図をたよりに訪れてみると、しゃれた婦人服の店があった。さまざまな色彩にみち、外国製のアクセサリーも売っていた。
「いらっしゃいませ」
若い女が彼を迎えた。男がひとりで入ってきたことに不審そうな表情だったが、お客はお客。美しく、頭のよさそうな女だった。あいそもいい。彼はためらいながら聞く。
「じつは、バー・エックスのマダムからうかがって来たのですが、あなたは秋子さんですか」
「ええ。夜あそこで働きながら、デザイナーになる勉強をしたの。それから独立し、ここにお店を開いたんですわ」
「商売はうまくいってるんですか」
「まあいいほうでしょうね。外国の流行をすばやく取り入れようとする店が多いわけよ。でも、あたしはちがうの。日本の伝統美をもとに、自分のアイデアでデザインしているの。そこをみとめてくれ、ひいきにして下さるかたが多いんですわ。とくに外国へ行かれるかたなど、わざわざここまでいらっしゃって下さったりして……」
「順調で、けっこうですね」
感心する若い記者に、秋子は言う。
「で、なにをお求めにおいでですの」
「ちょっとうかがいたいことが……」
「なんでしょう」
「藤川という男のことについて……」
そのとたん、女は手を横に振った。
「そんなこと、おっしゃってはいけませんわ」
「しかし、ぼくは聞くまで引きさがらないつもりですよ」
秋子はしばらくだまり、そして言った。
「それだったら、ずっとここにいらっしゃったら。あたしにはね、パトロンもいないし、変な男もついてないのよ。あなたのようなかたがいっしょだと、心強いわ。お仕事はうまくいっているのよ。恋人になってよ。よろしかったら、それ以上のものにも……」
「しかし……」
「男相手の商売じゃないから、あなたに気をもませることはないわ。楽しく生きましょうよ。ねえ、よくお考えになって下さらない」
「そうだな。考えておきますよ」
若い記者は、いったん引きあげた。しかし、ここで追究を中止する気にはならなかった。つぎの日、彼はふたたび訪れ、誠意あふれる態度でたのんだ。
「きみはじつに魅力的な人だ。ぼくもきみを好きになってきたし、できればそうしたい。しかし、ぼくは藤川のゆくえを知りたいのだ。どうしても知りたい。理屈じゃない。男の意地とでもいったらいいのか……」
「現実のあたしより、幻の人物のほうを選ぶのね。同感できないけど、その決断には感心したわ。でも、そうなるとね、きのうのお話はなかったことになるわよ」
「それは仕方ない。で、藤川は……」
「ねえ、考えなおさない。あなたのためを思っての忠告なのよ」
「ご好意はありがたい。しかし、自分でもどうしようもない気分なんだ」
「わかったわ。この道のむこうに、喫茶店があるでしょう。午後四時になると、少年が入って来るわ。それに聞いてごらんなさい」
「どうも、すまない……」
美しい女をあとに、若い記者はふりむきも、ためらいもせず、店を出た。
それはすばらしい美少年だった。すんなりしたからだつき。目が大きく、まつ毛が長く、気品があった。男でも、いや、男ならなおさら、一瞬、息をのむような気分になる。
「ねえ、きみ、むこうの婦人服の店の人から聞いてきたんだけど……」
若い記者は話しかけた。少年はものうげに、答えるともなく言った。
「ぼく、レモンの入ったミックス・ジュースを飲みたいんだけど……」
「いいとも、おごってあげるよ」
運ばれてきたそれを、少年は飲む。
「なにか、ぼくに用なの……」
「藤川という男について知りたいんだ」
「そんなこと調べるの、やめたほうがいいと思うんだけどな……」
少年はとしににあわず、複雑な笑い方をした。目のあたりがかすんだようになり、そういう趣味の者だったら、ぞくっとしたかもしれない。若い記者はどうあつかったものかと、とまどいながら言う。
「ぜひ、知りたいんだ」
「だけど、困っちゃうなあ。そう、すぐ答えろなんて言われても」
「じゃあ、いつ教えてくれる」
「あしたの晩、海岸のそばの公園で……」
まったく、あやしげな気分だった。若い記者は少しおかしくなりかけるのを、自分でも感じた。へたをすると、あの少年を、好きになりかねない。冷静にならなくてはだめだ。
つぎの日の夕方、彼は公園で待った。すこしおくれ、少年がやってきた。
「さあ、藤川のことを教えてくれ」
問いつめる若い記者を、少年は首をかしげて見あげながら言った。
「そんなに急ぐこと、ないんじゃない」
「じらすな。いいかげんにしろ。子供と遊んでいるひまはないんだ」
彼は少年の腕をねじあげ、痛めつけた。美少年をいじめることで、妙な気分が味わえたが、彼は目的の重大さを自分に言いきかせ、力をこめた。少年は悲鳴をあげた。
「やめて、やめてよ。言うから。毎朝ここへ体操をしにくる人がいる、その人が知っているよ」
「本当なんだろうな」
「本当ですよ。でも、やめたほうがあなたのためなんだがなあ」
「それはこっちできめることさ」
翌朝、若い記者はその公園にいった。すでに、スポーツマンらしい二十五歳ぐらいの男が来ていて、なわ飛びをしていた。ずっとつづけているが、きたえたからだのせいか、疲れたようすはなかった。ほかに人はいない。彼は近よって声をかけた。
「おはようございます。あの……」
「なんだ」
運動をやめ、相手は返事をした。
「うかがいたいことがあるんです。じつは、藤川という男についてですが……」
「なにかと思ったら、とんでもないことを言い出すやつだな。帰れ」
「いや、帰りません」
「むりにでも帰らせるさ」
とたんに相手はむかってきた。柔道の達人だった。記者は投げ飛ばされ、倒れたところを引き起こされ、また投げ飛ばされた。首をしめられかけ、彼は切札を口にした。
「ぼくは新聞記者ですよ」
「いじめると、ただじゃすまないと言いたいんだろう。しかし、そうはいかないよ。きのうの夜、おまえはここでなにをした。大きな口はきけないと思うがね」
つづけてまた、何回かなぐられた。
「あれをごらんになってたんですか」
「見ちゃいなかったが、あれはおれの弟だ」
「あなたの弟さん……」
「そうだ。性格はだいぶちがうがね、実の弟であることにまちがいない。新聞記者なら、たしかめるぐらい、わけはないだろう」
「そうとは知りませんでした。あやまります。許して下さい」
若い記者は泣かんばかりにあやまった。
「さあ、許したものかどうかな」
「たしかに弟さんをいじめました。悪かったのはこちらです。お気がすまないのでしたら、もっと投げ飛ばして下さい。もっとなぐってもかまいません」
すわりこむ記者に、相手は言った。
「みごとな覚悟だな。いいことを言うじゃないか。おれはスポーツ精神の持主なんだ。負けを表明した者に、それ以上のことはやらない。気に入った。許してやるよ。帰ってもいいぜ」
「ありがとうございます。しかし、帰る前に、さっきのことについて……」
「そりゃあ、虫がよすぎるぜ。これで貸し借りなし。同じスタート台に立ったようなものだ。よく考えて、出なおしてくるんだな」
「はあ、そうしましょう」
「念のために言っとくがね。スポーツに関して、おれは万能なんだ。柔道、ボクシングから、ヤリ投げなど陸上競技、水泳、ひと通り身につけている。フェンシングや射撃の腕もたしかだ。だから、何人つれてきても、腕ずくじゃどうにもならないぜ」
「わかりました。では、また……」
記者は引きあげざるをえなかった。そして、作戦を考える。まったく、またも壁にぶつかってしまった。あいつの強さは、身にしみてわかった。あいつにしゃべらせるのに、どんな方法があるだろう。
女を使った色じかけでやるか。しかし、協力してくれそうな女の心当りはなかった。それに、あれだけのスポーツマンともなれば、近よる女も多いにちがいない。女を使っての|小《こ》|細《ざい》|工《く》など、かえって逆効果になるだろう。となると……。
いい考えは浮かばなかった。金にものをいわせる以外には。若い記者は、自分のものをなにもかも売り払って金を作った。
それを持って、朝の公園に行く。このあいだと同じく、男はそこでなわ飛びをしていた。
「先日は申しわけございませんでした」
「いつまでもこだわるなよ。あれはあれですんだことだ」
「ところで、藤川のことなんですが……」
「なるほど、熱心なものだねえ。気に入ったぜ、男はそうでなくてはいけない。しかしどうだろう、こういう条件は……」
「どんなお話です」
「あんたの用心棒になってやるよ。どんな危険なところへでも取材に行けるぜ。いくらでも、特だねがとれる。おれがついていれば、絶対に安全だ。いくらでもいい記事が書けるというものだ。謝礼なんかいらないよ」
「ありがたい申し出です、信じられない」
「な、悪くないだろう。そのかわり、さっきのことは忘れるんだな。こんなサービスは、おれだってはじめてだ。いままでの修練を役立たせてみたい気分からでもあるわけだがね。よく考えてみてくれないか」
「はい。そうします……」
その日は、彼も引きさがった。しかし、決してあきらめないのだった。つぎの朝、若い記者はまた公園に出かける。
「またやってきましたよ」
「おれの申し出を受けてくれる気になったかい」
「それが、せっかくのお話、心苦しいんですが、やはり、ぼくは藤川のことを知りたいんです。ここにお金を持ってきました。たくさんはありませんが、なにもかも売り払ったぼくの全財産です。これをさしあげます。藤川についてご存知の情報を教えて下さい」
「ううん、全財産とはね。その言葉に、うそはないようだ。よほどのご執心とみえる。その誠意をみとめよう。そのお金はいただくことにするよ」
相手はさっと取り上げた。若い記者はあわてて言う。
「まさか、持ち逃げするのでは……」
「そうか。心配するのも無理もないな。その気になれば、おれにはそれができる。足は早いし、腕ずくでも負けないな。ひとつ、そうするか……」
「お願いです、お助け下さい……」
「あはは、冗談だよ。おれは、そんな悪質な人間じゃあない。メモと鉛筆を貸してくれ。番地と名を書いてやる。そのレストランに行ってみな、そこの主人が知っている」
そう大きくもなく、あまり有名でもなかったが、感じのいいレストランだった。静かな裏通りにあり、目だたないところに金のかかった室内装飾だった。いうまでもなく、味はすばらしかった。
それとなくまわりのお客を見ると、店にふさわしい人ばかりだった。上流階級の味にうるさい連中の来る店のようだった。帰りがけに代金を聞くと、かなり高かった。しかし、それだけのことはある料理だった。
若い記者は、また出かけた。そして、食事のあとボーイに言った。
「ここの主人に会いたいんだが……」
「しばらくお待ち下さい」
やがて、主人があらわれた。四十歳ぐらい。コックの服装をしていた。
「わたしが経営者でございます。なにか、味にお気に召さない点でも……」
「そんなことではない。おいしかった。正直なところ、こんなすばらしい料理を口にしたのははじめてだ」
「そうでございましょう。腕にはいささか自信がございます。ヨーロッパで五年ほど修業しました。普通の料理人は、そこまでしかしません。しかし、わたしはそのあと、さらに東南アジアで中国料理などの研究をしました。中国料理の特色は、いくらつづけて食べてもあきないという点にあります」
「その長所を取り入れたというわけか」
「はい。ですから、ここの洋食は、毎日めしあがっても、決してあきません。お値段がお高くなっておりますが、ごひいきにして下さるお客さまもいるというわけで……」
「そうだろうな」
「これからも、おいで下さいますよう……」
戻りかける主人に、彼は声をかけた。
「まってくれ。ほかに用がある。じつは、教えてもらいたいことが……」
「料理の材料かなにかのことで……」
「まったくべつなことだ。藤川という男の消息についてだ」
「なんで、わたしがそんなことを……」
「知らないとは言わせないぞ。たしかな筋から聞いてきたのだ」
「弱りましたな。とうとう、わたしのところまで来てしまったとは」
「やはり、なにか知っているのだな」
「いかがでしょう。この店の宣伝担当の相談役になっていただけませんか。ほんの形式的なものです。メニューやコースターのデザインについての、ご意見をのべていただければいいんです。そのかわり、お食事は無料といたします。毎日おいでいただいても、けっこうです。味にご不満はございませんでしょう」
「こんなおいしい店はほかにない」
「決して悪くないお話でしょう。あなたのために申し上げているのですよ。つまらないことは、お忘れ下さい」
「うむ……」
「よくお考えになってみて下さい」
「考えてみるよ」
そう言って、若い記者は帰った。店の主人の攻略法を考えるためだった。もはや金はない。あったとしても、金の力では動きそうにない。藤川についてしゃべらせる、適当な方法は思いつかなかった。
久しぶりに新聞社へ行く。そこの資料室で調べると、あった。十五年ほど前、食中毒で死者を出した店があった。その主人の名と同じではないか。彼は勢いづいた。ふたたびレストランへ出かけ、主人に言う。
「十五年前に、とんでもないことをしたな」
「どこで、そんなことを……」
「新聞記者なのでね」
「あの事件以後、二度とくりかえすまいと誓った。人びとを味で楽しませ、つぐないをしようと、外国で必死になって修業し、出なおしたのです。そして、やっとここまで来たというのに……」
「表ざたになっては困るだろう」
「新聞社の人が|恐喝《きょうかつ》をするのですか」
「そうなってはよくないと思ってね。さっき、辞表を社へ郵送しておいた。つまり、もはや記者ではない。ぼく個人の立場でやることなのだ。さあ、藤川のことを教えてくれ」
「驚きましたなあ。そんなに夢中になっているのですか。職を辞してまで……」
「そうなのだ」
「それでは、つぎの勤務先をさがさねばなりませんね。いまでしたら、ここの店で、このあいだの条件で……」
「ごまかさないでくれ。ぼくの知りたいことを、早く話してくれ」
「あなたには負けました。お教えしましょう。しかし、手がかりだけですよ」
そして、主人はある実業家の名を言った。その人が藤川の居所を知っているはずだと。
彼も名を知っているほどの、有名な実業家だった。いくつもの会社を経営している。彼はそれらの会社に関する資料を取りよせ、日数をかけ調べてみた。どれも業績がよかった。
「かなりの利益をあげているようだ。その利益の、資料にはのっていない裏の事情について、藤川はなにかをつかんだにちがいない。ひとつ、乗りこんで、直接に聞き出すか」
大きな邸宅だった。彼はその門を入ろうとしたが、近くに警察のあったことを思い出し、そこへ行ってこう言った。
「これから、あの実業家の家を訪問します。帰りにここへ寄らなかったら、なにかがあったと思って下さい」
「ふしぎな人だね。なにが起るというのだね。しかし、まあ、いいでしょう。記憶しておきましょう」
そして、彼は覚悟をきめ、門を入った。面会を申し込むと、若い男が出てきて言った。
「社長は自宅でも忙しいのです」
「お時間はとらせません。五分でけっこうですから、お目にかからせて下さい」
応接間に通される。やがて社長が出てきた。
「わたしになんの用かね。簡単に言ってくれたまえ」
「そういたします。じつは、藤川という男がいまどうしているか、それをうかがいたいだけです」
「その名を言ってくれるな。わたしは胸が痛くなるのだ」
「しかし、わたしは藤川の消息を追って、ここまで来たのです。その苦心は……」
「それはわかる。きみはまじめで、あくまで目標につき進む性格のようだ。みどころがある。どうだ、わたしの事業を手伝ってくれぬか。きみなら、きっと成績をあげるだろう。手腕を示せば、会社をひとつまかせてもいい」
「はあ……」
「わたしには、あとつぎの子がないのだ。だから、きみの実力いかんによっては、わたしの後継者にもなれるよ。ここをよく考えてみないかね」
「はあ……」
彼は考えた。事業を手伝うことについてでなく、藤川についてだ。やっと、ここまでたどりついたのだ。もう少しではないか。
「……しかし、やはり……」
「そう早くきめることはあるまい。一晩ゆっくり考えてからにしたまえ。わたしは逃げもかくれもしない」
「そういたしましょう。では、あす……」
彼は引きあげた。警察へ寄り、あしたもよろしくとあいさつをして。
いままでだってそうだった。ここまできて決心の変るわけがなかった。翌日、彼はまた邸を訪れた。
「藤川のことを教えて下さい」
「だめかねえ。きみのような人間に、ぜひ手伝ってもらいたいのだ。その気にならんかね。いまからでもまにあうよ」
「そんなことより、早く藤川のことを教えて下さい。ごまかしては困ります」
「その名を聞くと、心が痛むのだよ」
「きのうも、そんなことをおっしゃった。あなたは、部下に藤川を消させたにちがいない、企業の秘密かなにかを知られたので……」
「そんなことはない」
「しかし、藤川の消息はここで絶えているんです。生きているのなら、だれか会っているはずなのに、そんな話は聞かない。いったい、どこにいるんです」
「それを言わせようと言うのか」
「そうです。ぜひ知りたい」
彼は身を乗り出した。社長は壁の地図を指さして答えた。
「この小さな島にいるよ。わたしの会社のひとつが、将来のレジャー産業用にと買った島だ。そこの小屋で、見張り番をしている。未開発だから、まだ定期船は出ていないが、そのへんの漁船にたのんで乗せてもらえれば行ける。しかし、思いなおして、わたしの仕事を手伝う気にはならないかね。最後のチャンスだよ」
「申しわけありませんが、わたしにはわたしなりの生き方があるのです」
彼は島に渡った。空気もいいし、悪いところではなかった。開発されれば、いい保養地になるだろう。もっとも、そうするにはかなりの年月がかかるだろうが。
粗末な小屋があった。彼はそこへたどりつく。なかに、ひとりの男がねそべっていた。声をかける。
「こんにちは。あなた、藤川さんですか」
「いや、ちがうよ」
「じゃあ、どこにいるんです。教えて下さい。もったいをつけられたり、変な条件を出されるのは、もうたくさんだ」
「そんなことはしないよ。藤川なら、そのへんの岩の上で釣りをしているはずだ」
「どうもすみません」
たしかに、釣りをしている男がいた。
「あなた、藤川さんですか」
「そうだよ」
と男は気の抜けたような表情で答えた。
「あなたは、消えた刑事のあとを追ったまま、消息を絶ってしまいましたね」
「そうだよ」
「で、みつけたんですか、その刑事を」
「ああ、あの小屋のなかにいるやつがそうさ」
「その刑事が、なぜここに……」
「だれかをさがして来たらしい。そいつをここで見つけたってわけさ。しかし、そいつはまもなく、海へ身を投げて自殺してしまったそうだ。あるいは、そいつの前にも、だれか自殺しているかもしれない」
「なぜ、自殺なんかを……」
「おれには、よくわかるがね」
「しっかりして下さいよ。藤川さん。あの小屋にいる刑事もだ。帰りましょうよ。ばかばかしい。こんなところにいるなんて。苦労してここまで来たんでしょう」
「そうさ。きみと同じような苦労をしてな。ばかばかしい苦労をだ。で、いったい、帰ってなにをするんだね。帰れば、なにがあるというんだね」
「人生というものがあるじゃありませんか」
「そうかね。ここも悪くないぜ。あの社長が、最小限の必要品をとどけてくれる。まあ、一晩ここで考えてからにしてみたらいい」
「そうでしょうか。考えてみましょう……」
彼はその島で一晩をすごした。波の音で眠れぬまま、ひとり考えた。ここにたどりつくまでのことを回想した。
そのうち、ここで自殺したやつ、戻る気にならぬ藤川や刑事、その心境がなんとなくわかってきた。
社会へ戻って、どんな人生があるというのだ。人は、めぐり会うかもしれぬ幸運を期待しながら、なんとか生きている。それなのにおれは、現実に何回もめぐり会いながら、それを全部みずから拒絶し、捨ててしまった。おれに残されたものは、後悔しかない。