このごろのように、科学が進んだり、すごい武器ができたりすると、なおさらのこと。朝になって目がさめてみると、夜のうちにミサイルが命中し、自分は死んでいた、なんて……。
ここにひとりの青年がいて、名は五太郎。頭はとくに悪くもよくもないという、普通の人間。ある研究所につとめている。ある朝、いささか寝坊をした。ねむそうに片目をあけ、時計を見ながら言う。
「やれやれ、つい、ねすごしてしまった。きょうは、遅刻になりそうだ。先生、怒るかもしれない……」
ねぼけ声で、テレビをつける。交通機関のストか、大事故のニュースでもやらないかな。遅刻の、いい口実になるのだが。上司の安藤博士は、口やかましい人なのだ。
コマーシャルの声が流れてきた。
〈やい、そのへんのおいぼれや、くたばりそこないの野郎ども。この薬を買いやがれ。この一粒をてめえの馬鹿みたいにあけた口にほうりこみゃ、からだんなかに、馬鹿力や、くそ力がわいてくるてえもんだ……〉
五太郎はきもをつぶし、目がいっぺんにさめた。そのさめた目で画面を見ると、総合ビタミン剤とかの薬のビンがうつっている。
なるほど、ついにこういう、ショッキングなコマーシャルも出現するようになったのか。競争が激しくなると、人目を引く奇想天外なのも出るわけだろう。
そう考えていると、つぎのコマーシャルになった。画面に百科辞典がうつり、女の声が言う。
〈うすのろのガキを持てあましている、そのへんのおっかあどもよ。こいつのひとそろいを、買ってみやがれってんだ。そうすりゃあ、手のつけようのないうすのろも、半馬鹿ぐらいにゃあ浮かびあがらあ……〉
五太郎はあまりのことに、しばらくぼんやりしていた。そのうちニュースとなり、アナウンサーがしゃべっている。外国の元首が来日した画面。
〈グラニア共和国の親玉が子分を引きつれ、飛行機で空港につきやがった。そして、そのいいぐさがいいや。こんないい国、見たことない、なんてぬかしやがって……〉
五太郎は、この異変についてのなにかの報道があるかと期待して見ていたが、なんにもなかった。つづいて天気予報となる。
〈……高気圧だなんて、なまいきな野郎が、はり出していやがる。みやがれ。温暖前線はこんなざまだ。ふん。だがな、こんな高級なことは、てめえらとんちきには、わかるめえ。早くいやあ、おてんとさまカッカだが、どうかすると雲がのさばりやがる。ところにより、にわか雨なんて、ぐにもつかねえものが降りやがるかもしんねえ。てめえら、ぼろ傘でも持って出たほうが、気がきいてるってことさ……〉
五太郎は、一日中でもふしぎがっていたかったが、つとめの身ともなると、そうもいかない。出勤することにした。そとへ出たとたん、となりの家の夫人と顔があう。五太郎は声をかけられる。
「よう、となりの、とうのたった、とんちき坊やのあんちゃん……」
五太郎、あたりを見まわすが、ほかにだれもいない。自分が呼ばれたらしい。
「はあ……」
「ねぼけづらで、きょろきょろなんて、見ちゃいられんよ。あほたれ。まあ、しっかりやんな……」
この奥様、いつもは上品すぎるぐらいの言葉づかいなのに、これはまた、なんという変わりようだ。男だかなんだかわからない口調だ。それでいて、かくもぞんざいな話しぶりなのに、身なりや動作はいつもと変わらず、表情はにこやか。五太郎、なにがなんだかわからず「はあ」と答えて、急ぎ足で立ち去る。
あの夫人、気でもちがったのではないかと、うすきみ悪い。それとも、テレビの影響たちどころにあらわれ、というのかもしれぬ。女とは、テレビにすぐ毒されるものなのだ。いずれにせよ、かかわりあいにならないほうが、利口というものだ。
駅前の交番では、品のいい老紳士が警官に道をたずねている。
「やい、そこのおまわり。区役所へ行く道を教えやがれ」
「いいか、この、くそったれ町人め。てめえの目がふし穴でなけりゃあ、あそこのうすぎたねえビルが|見《め》えるだろう。あれがそうだ。さあ、とっとと、うせやがれ……」
あの紳士も警官も、頭がおかしいのだろうか。しかし、こう圧倒的に変人の数が多くなると、とてもたちうちできない。
五太郎、びくびくしながら改札を通り、ホームへ出る。拡声機が告げている。
「電車は、てめえら、あくびひとつしないうちに、へえってくるぜ。ホームにうろついている、うぞうむぞうども。白線の内側に、さがっとれ。ぼやぼやしてぶっとばされたって、しらねえぞ。ドアが開いたら、乗り降りは、もたもたせずにやんな……」
身ぶるいするような気分で、五太郎はなんとか研究所につく。足はすくむ一方。この調子だと、先生にどんなにどやされるか、わからない。
虎の尾をふみつけるような心境で、上司の安藤敬三博士にあいさつする。
「先生、おはようございます。どうも、おそくなってしまいまして。まことに、わたくしのいたらぬところで。じつは……」
「まあ、そう恐縮するな。たまには人間、眠くて起きられないこともあるさ」
博士のおだやかな口調を耳にし、五太郎はほっとする。ほっとしたとたん、さっきから押さえていた疑問が、わきあがってくる。
「先生、どういうことなんでしょう。きょうになってみると、世の中が一変してしまいました。だれもかれも、口のききかたが……」
「そこだよ。その原因なんだが、じつはここにあるんだ」
「ここですって……」
「きみも知っての通り、わたしはここで、各種の細菌の研究をつづけている。そのうちの一種が、きのう、うっかりして外部に流れ出してしまったのだ。ネチラタ菌という。この菌は伝染性が強く、あっというまにひろがる」
「大変なことですね。それに感染すると、どうなるんです。死にますか」
「そんな危険なものなら、もっと厳重な取り扱いをしているよ。完全に人畜無害だ。どうということもない。ただ、症状として、言葉つきがぞんざいになるだけだ……」
「なるほど、そうでしたか。事情がのみこめてきました。しかし、先生とわたしだけが、なんともないというのは……」
「前から菌をいじっているので、免疫になっているのだろう」
「そうかもしれませんね。で、このありさま、どうなさるおつもりです。もとに戻らず、このままなんですか」
「いや、もとに戻す方法はある。これと逆の症状を示す、タラチネ菌というのをばらまけばいいのだ。言葉づかいが上品になり、すなわち以前の状態に戻るわけだ」
「では、さっそく、それを……」
「なにも急ぐことはない。それは、あしたになってからにしよう。きょうのところは、いい機会だ。ネチラタ症状の、データを集めておきたい。すまんが、街へ出て観察し、調べてきてくれ」
「はい……」
五太郎はまた街へ出た。こんどは事情がわかって、いくらか安心。お寺へ寄ると、お葬式をやっていた。モーニング姿の男が、涙にむせびながら弔辞をのべている。
「やつはいい野郎だったが、ふんづまりが悪化し、とうとう、くたばりやがった。ああ、なんてえこった。あばよ。迷わず成仏しやがれ……」
五太郎は「なるほど、こういうふうになるのか」と感心する。
デパートに入ってみる。エレベーターに乗ると、若く美しい案内嬢が言う。
「やあ、変わりばえもせず、きやがったな。動かすぜ。途中、何階でおりたいか、言ってみやがれ。三階にはガキどもの使う、ガラクタが並べてあらあ。ざまあみろ。四階はあんちゃんや、おっさんの……」
四階でおりると、そこは紳士用品の売場。女の店員がお客に言っている。
「とんまめ。そんなとこでうろうろせず、手にとって見な。さわったって、減るものじゃねえ。やい、なにを売ってやろうか」
と、頭をさげている。客の男も、ショーケースに歩み寄る。
「このおかちめんこが、このぼろ店のアマか。えい、このネクタイを買ってやる。さあ、ゼニを渡すから、手を出しな」
「ふん。ちょうどあらあ。いま、紙に包んでくれる。ここで待ってやがれ……」
すべてこの調子。五太郎はこれらを、いちいちメモにとって歩く。そのうち、腹がへってきた。レストランをみつけ、なかに入り、テーブルにつく。ウェイトレスがやってきて言う。
「よくも、きやがったな、このでくのぼう。おい、なにを|食《く》らおうって気だ。欲しいものを、とっとと言いやがれ」
五太郎、ネチラタ症状による現象とはわかっていても、こう言われると、恐縮してしまう。
「はい。もし、お手数でなかったら、ライスカレーでも食べさせていただきたいと思います。なにとぞよろしく、|恐惶謹言《きょうこうきんげん》。どうぞお手やわらかに」
「これはお客さま。こんなことを申しあげては、失礼のきわみでございましょうが、そのようなお口のききかたをあそばすとは……」
ウェイトレスの口調が変わったので、五太郎はほっとした。タラチネ菌が働きだしたのだろうか。安藤博士は、あしたにするとか言っていたが……。
なにげなく、ウェイトレスの顔をみる。すると、目をつりあげ、歯をむきだし、からだをふるわせ、ただごとでない表情をしている。ほかのテーブルの客も、五太郎に非難の視線を集中している。
五太郎、しばらく|狐《きつね》につままれたような気分だったが、やがて気がつき、反省し、赤面する。
ネチラタ症状になっている人にむかって、ていねいな口をきくのは、このうえなく失礼な、ひどいことなのだ。すなわち、下品きわまる悪口雑言。そして、ネチラタ症状の人から、ていねいな口調で話しかけられるというのも、また……。