「すぐに行くよ」
と言って医者は電話を切った。ここは病院の宿直用の室。しかし、彼はすぐに出かけようとはせず、しばらく考えこんでいた。やがて、やっと決心したという表情になり、電話のダイヤルをまわした。
「もしもし、変な時間に電話をして申しわけないが……」
と名をつげた。それから小声で言う。
「……じつは、できたての死体がある」
「それはありがたい。なんとかなりそうな人の死体か」
電話のむこうで、彼の友人である眼科医のうれしそうな声がした。事情を要約するとこうなる。その眼科医のとくいさきに、資産家があった。だが、事故にあって失明している。角膜を移植すれば見えるようになるのだが、これが簡単には手に入らない。アイ・バンクに申し込んではあっても、需要に対して供給が少なく、なかなか順番がまわってこない。うなるほどある金にものをいわせようにも、思うようにいかない。大金で買ったとなると、批難が集中する。ひそかに、非合法に、なんとかならないだろうか。礼は充分に払う。
というしだいだったのだ。医者はその話を思い出し、友人の眼科医にいまの連絡をこころみたのだ。相手の待ってましたとの口調に、医者はさきをつづけた。
「じつはだね、妹の亭主なんだ。了解してくれるだろうと思うし、絶対に了解させてみせるよ。万事はまかせてくれ」
「よろしくたのむ。うまく角膜が手に入れば、きみが独立して開業するぐらいの資金は出させるよ。ぼくも感謝されるし、いいことずくめだ。で、てはずはどうする。内科が専門のきみの手にはおえないだろう」
「ぼくのつとめているこの病院の裏口のへんで待っててくれ。公然とできることじゃないから、きみひとりでやってくれよ。あいている手術室を使ってやろう。移植のほうは急ぐこともないんだろう」
「ああ、切り取った角膜は、液につけて冷蔵庫に入れておけば保存できる。しかし、切り取るのは一刻も早いほうがいい。死後あまり時間がたつと、価値がなくなる」
「では、できるだけ早く運んでくる」
医者は電話を切り、急いで外出のしたくをした。カバンを持ち、患者輸送用の自動車を運転し、スピードをあげた。夜の道はすいており、一時間ほどで到着できた。
別荘に入ると、女が迎えた。
「兄さん、よく来てくれたわね。あたし、どうしようかと……」
「わかっている、わかっているさ。亭主が急死すれば、だれだって取り乱すものだよ。さあ、この薬を飲みなさい。あ、そちらの男のかたも。軽い鎮静剤で、気力もとりもどせる。まず気を落ち着かせるのが第一です。あとはわたしがうまくやりますよ。さあ……」
医者は女と男とに薬をのませた。軽い鎮静剤どころか、強力な睡眠薬だったのだ。
「兄さん、あの、じつは……」
女はそこまでつぶやきかけ、眠りにおちた。男も同じ。これで五時間は目がさめないだろう。死体を病院に運び、角膜を取り、ふたたびここへ戻すことができる。あとはそしらぬ顔をしていればいい。死体にあかんべえをさせ、角膜のなくなったのを調べるやつも葬式の客にはないだろう。
違法なことに妹を巻きこんでは気の毒だ。また、いささか欲ばりなところのある妹に、事情を打ち明ければ、わけ前の問題がからんでくる。第一、眼科医には約束してしまったのだ。説得の時間を節約するにはこれしかない。あれこれ考えたあげく、医者はこの非常手段に訴えることにしたのだ。
ベッドの上を見ると、それはそこにあった。男が入念にメーキャップをしたので、ほぼ女の亭主の顔になっている。それに、そう注意して調べているひまはなかった。なにしろ急がねばならないのだ。医者は車のなかにほうりこみ、またスピードをあげる。急げ急げだ。新鮮さが失われると、それだけ商品価値が下ってしまう。
どうやらスピードを出しすぎたらしい。途中で白バイが追いかけてきた。万事休すかと停車した医者に、警官が言った。
「制限速度を越えたようですな」
「申しわけありません。ごらんの通りなのです。急病人で、手術を急ぐのです」
患者輸送車、車体の病院名、医師の身分証明書。それらで警官はなっとくした。患者らしきものも乗っている。
「それはそれは。事情はわかりました。白バイのサイレンを鳴らして、先導してあげましょうか」
「いや、けっこうです。鋭い音を聞かせないほうがいい症状なのです。サイレンの音で起きあがったりしたら、大変なことになります。どうぞおかまいなく。患者のようすにあわせて、適当な速度で走りましょう」
「そうですか。では、どうぞ」
白バイの件はぶじにすんだ。病院の建物の裏口にたどりつくと、眼科医が待ちかねていた。二人で手押し車にのせ、廊下に運びこむ。眼科医は言う。
「眼科をやっていると、死体にお目にかかることはめったにない。しかし、こうやって見ると、まんざらでもないな。これであの金持ちへの義理がはたせるというものだ。きみの目には札束の|塊《かたまり》に見えるだろう」
「まあね」
「では、消毒器具の場所を教えてくれ。手術道具の消毒を入念にやろう。どこにあるんだね」
「いま案内するよ」
医者が運んできた手押し車を、そのへんのドアのなかにかくし、眼科医を案内した。すべての準備がととのい、眼科医が言った。
「じゃあ、はじめよう。札束の塊の人をここへお連れしてくれないか」
「いいとも」
医者は廊下に出て、さっきのドアをあけてなかに入る。だが、たしかこのへんと手さぐりをしたが、手押し車がない。スイッチを入れて電気をつける。しかし、そこにはなにもなかった。さっき、まちがいなくここへおいたはずなのに。空気中に蒸発してしまったごとく、消えうせていた。
医者はあわてて、表玄関へ走った。そこには守衛がいて、眠そうな顔で言った。
「あ、宿直の先生。なにかご用ですか」
「いや、用というほどではないが、いましがた変なやつがここを出入りしなかったか」
「わたしは職務に忠実、ずっとここにおりました。怪しげなやつの入ってくるわけがないでしょう」
「おかしいな。そんなはずはない……」
「もっとも、怪しくない人となるとべつですよ。いま警察の人がみえました」
「なんだと、警察だと。なにしにだ」
「そう驚いた声をお出しにならないで下さい。ご存知のはずですよ。あの、身よりのない人の死体の件ですよ。解剖の結果、病死と判明したとかいう。それを引き取りに来たのです。警察の人が受領書をおいていきました。これです。あそこのドアのなかにあったのが、その死体だったわけでしょう」
守衛の指さす方角を見て、医者は叫んだ。
「あ、それを渡してしまったのか……」
そのあとの言葉は出なかった。まちがえて渡してしまうとは。
「書類が不備なんですか。しかし、電話をかければなんとかなるでしょう。相手が警察ですから、変なことになるわけはないでしょう」
守衛はのんきなことを言っている。だが、医者は絶望的な気分になった。警察相手となると、手続きがやっかいだ。くわしい説明をしなくてはなるまい。もっともらしい説明を考え出さねばならぬ。時間がかかる。角膜を取るのがおくれる。そのあと、また死体をもとへ運ばねばならぬのだ。ぐずぐずしているうちに、別荘の二人が目をさますだろう。死体がないとなると、大さわぎになるかもしれない。さまざまな思いが頭のなかで一挙にあばれはじめ、医者はうずくまり、立ちあがる気力をなくしてしまった。