|闇《やみ》の夜も吉原ばかり月夜かな
どこもはなやかさで満ちている。このようなところへ来たのは、はじめてだった。ついさっきまで、こういった世界があるとは知らなかった。
六左衛門は、江戸からかなりはなれた海ぞいの地方にある、五万石ちょっとの藩の家臣。おだやかな気候の土地だった。藩内の状態もまた、おだやかだった。彼は百二十石。約三百名の家臣のなかでは、中級の上といったところの家格だった。
藩内が無事におさまっているのは、ここの城代家老の人柄のせいだった。家柄によって若くしてその職をつぎ、今日におよんでいる。学問や武芸に長じているが、それをひけらかすような性格でなく、人徳があった。もっとも、これはどの藩でも同じことだろう。家老は家老なのだ。それ以上になれるわけでなく、それ以下に落されることもない。あせることなく、その職務をつくせばいいのだ。安定した地位はそれにふさわしい人柄を作り上げる。
領主である殿さまも、名君とはいえないまでも、とくにおろかでもなく、まあまあの人物だった。|譜《ふ》|代《だい》の家柄でないため、幕府の要職にはつけない。たまに儀礼的な役をふりむけられるぐらい。参勤交代の制度で、国もとの城に住んだり、江戸屋敷に住んだりをくりかえしている。
お家騒動のきざしなどなかった。めったにあることでなく、万一そのたぐいが発生したら、どんなばかげた結果になるか、それはだれもがよく承知している。泰平の世には、目に立つような無茶をしないのが第一。家臣たちはお家大事とつとめている。
六左衛門の少年時代も、そんななかで平凡なものだった。ほかの家臣の少年たちと同様に、文武の道をひと通りおさめ、それに加えて、彼はそろばんを習った。父が勘定方づとめであり、やがてはその職をつぐという必要上からだった。
よく遊びもした。といって、たいした娯楽があるわけでもない。野や山をかけまわり、川で魚を釣り、夏には海で泳いだりした。おだやかな風土のなかで成長した。
しかし、六左衛門には、ひとつだけ平凡でない点があった。非凡という意味でなく、ひけ目を感じなければならない肉体的な特徴のことだ。幼少の時に、ほうそうにかかった。生命は助かったというものの、顔にあばたのあとが残った。
顔つきなど、武士にとってどうでもいいことだ。そう思いこむようつとめたが、思春期ともなると、やはり心のなかの大きな悩みとなった。城下の町を歩いていて女とすれちがう時、女たちの視線は彼を無視した。くやしさで歯ぎしりしたくなる。
同類が多ければ、いくらか救いになったかもしれない。しかし、あばたの顔はあまりいなかった。彼の感染した時のほうそうは悪質で、発病した者の大部分が死んでしまったという。
そのため、命をとりとめただけでも幸運だと言われるのだが、六左衛門には幸運の実感など、まるでなかった。どう考えても不幸だ。あばたのあとの残る自分の顔を、どうしようもなく持てあましている。
やがて父が死に、六左衛門は勘定方の職をついだ。産業や会計をあつかう役だ。
毎日お城へ出勤し、仕事にはげんだ。どうせ女性にはもてないのだ。彼は自己の存在価値をここで示そうと、それだけ職務に熱を入れるのだった。だから、しだいに周囲からみとめられてきた。
領内の耕地をひろげる計画や、特産品の増産など、調べたり、くふうしたり、いちおうの成績をあげることができた。そして、自分なりの満足をあじわう。
そのような六左衛門に、藩の財政関係を担当する家老が目をつけた。ある日、彼を呼び寄せて言った。
「よく働いてくれるな。かげひなたのない仕事ぶりだ。感心している」
「おほめにあずかるようなことではございません。これが家臣としてのつとめ。このところ仕事第一で、武芸の習練がおろそかになっており、それが気になってなりません」
「そんなことは、どうでもいい。もはや、戦乱の世に戻ることなど、ありえない。勇ましさのたぐいなど、なんの役にも立たない。藩をゆたかにすることのほうが大事なのだ。その人材こそ重要である」
「お言葉、ありがたく存じます」
「ところでだ。きょうの話は、役目の上とは関係のないことだ。六左衛門はまだ独身のようだが、すでに約束した相手でもあるのか」
「ございません。仕事が第一と考えております。また、わたくしは女にもてませんので……」
いささかあきらめの心境に、六左衛門はなっていた。それにしても、話の風むきがおかしい。ほめられたり、独身かと聞かれたりだ。家老は言う。
「けんそんすることはないぞ。男の価値は才能にある。どうだ、嫁をもらう気にはならぬか」
「その気はございますが、来てくれる女がおりましょうか」
「心当りがないこともない」
「本当でございますか。どなたです」
「じつは、わしの娘だ。知っての通り、わしには女の子が多い。縁づけるのに苦労しておる。まだ末の娘がひとり残っている。それをもらってはくれぬか」
「まさか……」
六左衛門は冗談か聞きちがいだろうと思った。しかし、財政関係の家老はくりかえして言った。
「ふざけているのではない。わしの娘をもらってほしいと申しておるのだ」
「あ、ありがたいことで……」
家老じきじきの話となると、ことわることはできない。第一、あきらめかけていた結婚が、こんなふうに実現するとは。自分のところへ来てくれる女がいるなど、まったく期待していなかった。飛び上がりたいような気分だった。しかも、家老の娘とくる。どんな女なのかは知らないが。
「ふつつかものだが、よろしくたのむ」
家老としては、六左衛門のような男なら、仕事ぶりはまじめ、浮気もしないだろう、万事好都合だとの判断からだった。一方、六左衛門にとっては、いやもおうもない。この話は成立した。
しかし、予期したほどのいい結果にはならなかった。家老が口にしたごとく、まさしくふつつかな女だったのだ。不美人でもないが、美人でもない。まあ、六左衛門にとってそれはどうでもよかった。自分は、あばたづらなのだ。
問題は性格のほうにあった。結婚してからも、家老の娘ということを鼻にかける。あばたづらのところへ来てやったのだと、なにかにつけて恩着せがましく態度に出す。父に強制され、こんな男のところへ来てしまった。もっと美男と結婚したかった。そのことでの不満のせいかもしれなかった。わがままで、武士の妻にふさわしくなかった。
もっときびしく、しつけておいてくれればよかったのだ。しかし、財政関係の家老となると、家風にそれが薄いのもむりもないといえるだろう。しかも末の娘とくる。甘やかされて育ったにちがいない。
家老が六左衛門に「よろしくたのむ」と言ったのは、再教育をたのむとの意味だったようだ。
ひどいものを押しつけられた。といって、いまさら家老に文句も言えない。なにしろ上司なのだ。妻にむかって「出て行け」と申し渡すこともできない。こうなってみると、独身だったころのほうが、まだ気楽だった。六左衛門は後悔した。
ふつつかな上に、|嫉《しっ》|妬《と》ぶかいとくる。女性にもてるわけがないだろうと説明しても、なんだかんだとうるさく言う。お城でのつとめをすませ、帰れば悪妻。途中で同僚と酒を飲むこともできない。気をまぎらす時間もなく、いいことはひとつもなかった。悪妻である上に健康で、とても死にそうにない。
だからといって、藩へ辞表を出し、よその藩に仕官するなど、できない時代だ。六左衛門は、そんな状態に耐える以外になかった。内心の不満は、仕事にうちこむことで発散させた。
「あんなまじめなやつは珍しい」
これが彼についての定評となっていった。ひとつの幸運へと発展した。上層部の会議の席で、六左衛門の名が出た。
「あの男のほかにいないだろうな。江戸づめの適任者となると……」
「さよう。江戸という地は、誘惑の多いところだ。うわついた性格の人間だと、たちまちだめになる」
「そういえば、あいつが酒を飲むのを見たことがない。あばたのせいだろうが、色っぽいうわさも聞かない」
「それに、江戸から産業についての新しい知識を持ち帰ってもらわねばならぬ。軍学や武術など、どうでもいいのだ。これからは藩をいかにゆたかにするかが問題だ」
「となると、きまったようなものだな」
かくして、六左衛門は二年間の江戸づめを命じられた。すなわち長期間の出張。しばらくのあいだ妻から自由になることができる。彼女はぶつくさ言ったが、藩の決定はくつがえせない。彼は参勤交代による殿の出府にしたがって出発した。
藩の江戸屋敷。六左衛門はそこのなかの一室に住み、江戸における政治的、経済的、その他の動静を調べ、国もとへ報告するのが仕事だった。なれるまでしばらくの日時を要したが、彼は藩にいた時と同様、まじめにその職務にはげんだ。
ここでも、あいつはまじめだとの定評ができ、江戸屋敷の者はだれも、彼を遊びにさそわなかった。さそってもついてこないだろうし、ついてこられたら座が白ける。
面白い日常とはいえなかったが、六左衛門にとって、うるさい妻がいないだけ心が休まった。
そして、ある日。江戸屋敷へやってきた出入りの商人が、六左衛門にこう話しかけた。
「ご領内の特産品について、いろいろとお話をお聞きしたいのですが……」
「お話しいたしますよ。どんなことを知りたいのですか」
「こみいった話ですので、このようなところではやりにくい。ひとつ、食事でもしながら、いかがでしょう。商人の生活の実際など、直接にごらんになるのも、なにかの参考になりましょう」
「それもそうであるな。見聞をひろめるのは、よいことであろう」
商人に案内され、六左衛門はついていった。にぎやかな町についた。一軒の家に入り座敷へ通される。
「夕刻だというのに、明るく景気のよさそうな家が並んでおるな。このへんは、どのような商売をしているところなのか。夜まで仕事をさせられるのは、気の毒であろうな」
「そんなことおっしゃっちゃ、いけません。ここは吉原でございます。遊ぶところでございます」
「なにをいたして遊ぶのか。鬼ごっこ、碁、将棋……」
「まあ、おまかせ下さい……」
商人は手をたたく。
「……おねえさんがた、よろしくお相手をたのみますよ」
入ってきた女たちに、商人が合図をする。いっせいに花が咲いたかのように、なまめかしい明るさがひろがる。女のひとりが、六左衛門のそばへ来て言う。
「どうぞ、お酒を……」
もちろん、悪い気分ではない。それどころか、夢のなかにいるようなここち。こんなところが、この世にあったとは……。
女はどれも美人だった。
「さあ、もっとお酒を。なんてすばらしい、とのがたなんでしょう……」
そう話しかけてきた女もあった。六左衛門にとって、生れてはじめて耳にする言葉。死ぬまで聞けないのではないかと思っていた言葉。
「なんとおっしゃられた。もう一度お聞かせいただきたい」
「すばらしいかたねと、申し上げたのですわ」
「なるほど、いい文句であるな。だれのことをさしてなのか。あの商人のことか」
「おとぼけになっちゃ、いやですわ。あなたさまのことに、きまってるじゃありませんか。お会いして、ひと目みたとたんに……」
話の内容を頭のなかでくりかえし調べ、自分のことだと知ったとたん、彼の心のなかで驚きが爆発した。
「ま、まさか。み、みどもは、そんな……」
どもりながら、首を振る。
「その、まじめなところがいいのよ。普通の男はみな、うぬぼれが強く、口先ばかりうまくて……」
「お、おせじを申すな」
「一本気なかたね。ほかの男だと、すぐいい気になってしまうのに。そこにほれちゃったのよ。ほんとに毎日でもお会いしたい気分よ……」
その一晩で、六左衛門の人生観は大きくぐらついた。あばたづらのおれを、みとめてくれ、ほめてくれる女が存在したのだ。夢なんかでなく、現実にだ。それからしばらく、江戸屋敷で仕事をしながら、その思いを味わいかえすのだった。
何日かたつと、また行きたいとの衝動にかられはじめた。あの女は、毎日でも会いたいと言っていた。あの女も喜ぶだろうし、おれも楽しい。行くべきだろう。場所もおぼえたし、女の名も忘れていない。
しかし、たずねて行くと、そっけないあしらい。すげなく入口の男にことわられた。
「だめですよ」
「そう申さずに、ぜひ取りついでいただきたい。あの女も、みどもに会いたがっているはずなのだ」
「困ったかたですね。とんでもないことをおっしゃる。だから、|浅《あさ》|黄《ぎ》|裏《うら》はあつかいにくい。やぼはいけませんよ」
浅黄裏とは、江戸勤番のいなか武士のこと。手くだとはなんのことだと浅黄裏。ふられてもしゃにむに浅黄かかるなり。かげでどうからかわれても、当人にはぴんとこない。
吉原も江戸初期には武士の遊び場だったが、町人の財力が強くなるにつれ、とってかわられてしまっていた。
「では、どうあっても会わせてくれぬと申すのか」
「いえ、そんなことはありませんよ。持つべきものを持っておいでになれば……」
「はて、どのようなものを持参せねばならぬのか」
「しまつにおえませんね。はっきり言わなくては通じないようだ。いいですか。お金ですよ。お金……」
「さようであったか」
ていよく追いかえされ、六左衛門は金銭の価値をあらためて知った。なるほど、金銭にはこのような効用もあったのか。藩にいた時には、まるで知らなかったことだ。帳簿に数字を書き、収入や支出を計算していた金銭の実体を、まざまざと感じさせられた。衣食住、武具の整備、お城の修理。それら以外に、こんな使用法があったとは……。
それから数日後、ふらりと商人がやってきて言う。
「いかがでしょう。また、このあいだのところへ参りませんか。あの女が会いたがっておりますよ」
「しかし、それには金がいるようだ」
「まあまあ、あなたさまは武士。そんなことに心をわずらわしてはいけません。てまえにおまかせ下さればよろしいので……」
またも六左衛門は、楽しい気分を味わうことができた。酒、美女、耳にこころよい言葉。まったく、いい気分だ。
何回目かに、商人が切り出す。
「いかがなものでしょう。ご領内の特産品の江戸での扱いを、うちの店におまかせ願えませんか。よそより高価に買わせていただきます。これこそ、六左衛門さまの藩への忠節というもので……」
「それもそうだな。なんとかしよう」
六左衛門はとりはからった。江戸屋敷での、まじめな勤務ぶり。国もとからも人柄を保証する文書がとどいている。彼の判断なら妥当なのだろうと、周囲から異議はでなかった。
しかし、商人は利益の範囲内でしか金を使わない。六左衛門の招待は、月一回ぐらいのものだった。遊びの面白さをおぼえた彼は、その程度では満足できない。女たちの美しい姿、あいそのいい話、なまめかしい姿。それらは夢にあらわれ、彼を呼びよせる。いてもたってもいられなくなる。
ついふらふらとでもいうべきか、意を決してというべきか、六左衛門は金を自分でつごうして、女遊びに出かけることにした。つまり、藩の金を流用しはじめたのだ。金を使えば、女たちはちやほやしてくれる。
そばに商人がいないので、さらに楽しい。もちろん、一回だけではすまない。しだいに遊びなれてくる。うそのかたまり誠の情け、そのまんなかにかきくれて、降る白雪と人ごころ、つもる思いとつめたいと……。
やがて、江戸づめの家老が不審をいだいた。六左衛門を呼んで聞く。
「このところ、外泊が多いようだな。それに、金の支出もふえている。そちのことだから信用しているが、なにに使っているのだ」
「果樹や薬草の栽培について、調査をしているのでございます。江戸近郊や房州方面へ出かけております。わたくしは藩内の耕地開拓で、領内の風土をよく知っております。それにふさわしいものをと研究しています。これが成功すれば、藩の財政は一段とゆたかになり……」
と口からでまかせ。遊女とつきあっているうちに、うそもうまくなった。江戸家老は信じこむ。六左衛門をまじめな人物と思いこんでいるせいもあるが、藩がゆたかになるとの言葉は、最大の殺し文句だった。どの大名家も、内情は金に苦しいのだ。
「……その栽培の秘法を聞き出すのに、けっこう金がかかりますが、産業として成功させるには……」
「そうであろう。ごくろうだが、なんとかものにするよう努力してくれ」
「はい。さすがは江戸のご家老さま。ご理解が早い。それでこそ、お家安泰。われわれも忠節のつくしがいがあります。国もとの家臣たちも、みなおほめいたしております」
おせじもうまくなった。あばたづらの、きまじめそうな六左衛門が言うと、なんとなく真実さがにじみ出て、家老もまんざらでない表情。
しかし、果樹と薬草の名目では、使える金にも限度がある。一方、女遊びのほうは、味をしめるととめどがない。そのうち、江戸家老にさいそくされる。
「そちが江戸づめになって、そろそろ二年だ。国もとへ戻って、これまでの研究を産業のために役立ててくれ」
「そのつもりでございますが、じつは、もっとすばらしい問題をみつけ、手がけはじめておりますので……」
六左衛門は帰国したくなかった。悪妻のいる、ほかになんの楽しみのない藩に戻るのはいかなる手段に訴えても、一日でも引きのばしたかった。家老は言う。
「どのようなことだ」
「わが藩は、海に面しております。そこで思いついたのですが、サンゴの栽培を海中でおこなったらどうかと……」
これまた出まかせだったが、江戸家老は目を丸くした。
「あの、美しいサンゴのことか。その栽培が可能となれば、それこそ大変な産業になる。その秘法をものにしてくれ」
「はい。おっしゃるまでもございません。わが国に一冊しかない、オランダ語の本にのっているので、それを見せてもらう謝礼やらなにやら……」
「わかっておる」
「また、本物のサンゴを買って、砕いたりして比較し検討する必要も……」
「それぐらいの費用は、やむをえまい」
許可が出て、またしばらく命がのびた。六左衛門はサンゴの細工品を買って、女のところへ持ってゆく。きみと寝ようか五千石とろか、なんの五千石きみと寝よ。女の魅力の前には、藩のことなど頭から消えてしまう。
しかし、江戸家老もばかではなく、当事者としての責任もある。
「サンゴ栽培法のみこみはどうだ。そうそう金もつぎこめない。みこみがないのなら、いいかげんで打ち切れ」
「いえ、もう少しでございます。これ以上、もう費用のご心配はおかけしません。あとしばらくの日時を……」
とにかく江戸をはなれたくないのだ。もはや江戸屋敷の金は使えなくなった。しかし、女遊びはつづけたい。六左衛門はほうぼうの商人から金を借りた。
「ちょっと国もとへ帰ってくる。いくらか金を貸してくれぬか。みやげ物を知人たちに買って行きたいのだ。江戸へ戻ったら、すぐ返済するから」
借用書を入れ、その金で相変らずの女遊び。いささか、やけぎみでもあった。しかし、この手での金の調達も、たちまちゆきづまる。彼は金を作るあてがなくなった。せっぱつまって、追いはぎを二度ほどやった。
それをもとに、なんとか金をふやそうと、ばくちに手を出した。たちのよくない旗本が、内職として屋敷内で|賭《と》|場《ば》を開いている。ここなら、町奉行所の力も及ばない。
そこへ出かけたのだ。しかし、ものごと、そううまくもうかるわけがない。たちまち負け、借金を作った。おどかされる。
「金はいつ払ってくれる。返答によっては、ただではすまぬぞ」
「国もとに帰って、金を取ってくる。わが家には、祖先から伝わる名刀が、何本もあるのだ。武士に二言はない。つぎにわたしを見かけ、返済できなかったら、首をはねられても不服はない。それまで待ってくれ」
その場のがれの弁解。一方、追いはぎの|詮《せん》|議《ぎ》もきびしくなる。人相がきが各所にはり出された。あまり似ていないが、被害者に会ったら、ごまかしきれそうにない。いよいよ江戸にいられなくなった。
「そろそろ国もとへ帰り、さまざまな計画を実行に移したいと思います」
六左衛門は江戸家老に申し出て、出発した。もっともっといたい江戸だが、あれやこれやで、これ以上はむりなのだ。遊女たちと別れて、悪妻のいる藩に戻りたくないが、家臣は藩か江戸屋敷以外には住めない。
帰国した六左衛門は、ふたたび勘定方としてお城づとめ、物産部門の担当者となった。上役の勘定奉行が言う。
「江戸屋敷からの連絡によると、ずいぶんいろいろな研究をしてきたようだな。サンゴの栽培法とはすばらしい」
「お家のためでございます」
「どういうふうにやるものなのか、責任者として見ておきたい」
「はい……」
いたしかたない。上役とともに小舟で海へ出て、六左衛門はぱらぱらとまいた。ただの砂なのだが、もっともらしく錦の袋に入れてあり、外国の字の説明書がついている。勘定奉行は感心する。
「それがサンゴのもとか。育ってものになるまで、何年ぐらいかかる」
「五年ぐらいでしょうか。それからは毎年、美しいサンゴがとれるわけでございます。そのための肥料や管理に、費用がかかります。また、この秘法を他藩に盗まれたら一大事。その警備費用もいります。その点よろしく」
「サンゴがとれるのなら、それぐらいの支出はやむをえまい」
ここでは昔と同じく、六左衛門は信用あるまじめな人物と思われているのだ。金を引き出せた。彼には江戸でのくせが残っている。また、ゆきがかり上、出まかせをつづけざるをえなかった。
そのうち、城下の商人がやってきて、そっとささやく。
「なにやら、すばらしい計画を進めておいでだそうで……」
「どこから聞いた」
「じつは、勘定奉行さまからで」
勘定奉行が藩の金ぐりのため、この商人から借入れをしたらしい。その時、景気のいい話題として、その話をもらしたものとみえる。
「まあ、そういうことだ」
「いかがでございましょう。将来、その売りさばきのほうを、おまかせいただきたいもので……」
「考えておこう」
江戸で商人たちとつきあっていたため、六左衛門の応対もいくらかあか抜けたものとなっていた。魚心あればと、意味ありげに答える。それは相手にも通じた。
「なにとぞ、よろしく」
そでの下が入ってくる。受け取る要領も身についている。しかし、ここでは派手に遊べなかった。江戸なら、旗本はじめ各藩の江戸づめの武士がいて、目立たない。ここはわずか三百人の家臣、あいつは金まわりがいいとたちまちうわさがひろまってしまう。それに妻の目もうるさかった。宝の持ちぐされ……。
しかし、六左衛門は金のありがたみを、身にしみて知っている。これさえあれば、どんな楽しいこともできるのだ。彼は金をひそかにたくわえた。妻にもだまって。
果樹や薬草の栽培計画にもとりかかった。これもやらないわけにいかなかった。勘定奉行が聞く。
「どれくらいで収穫がはじまるのか」
「|桃《もも》|栗《くり》三年、柿八年と申します。そのあたりの見当としておいて下さい。薬草はもう少しかかりましょう。大変な薬草なのです」
「なんにきくのだ」
「ほうそうです。その病気のため、わたくしはこんな顔になってしまった。この苦痛だけは、ほかの人に味わわせたくない。それが悲願でございまして……」
「そうであろうな」
勘定奉行も、ついほろりとする。そこへつけこみ、構想をさらに大きく展開してみせる。
「それらが軌道に乗れば、藩の財政は一段とゆたかになります。大商人たちに金を貸しつけ、利息を取るということにもなりましょう。長い目でごらん下さい。たとえばですよ、薬草入りの果実酒など、天下一の特産品となります。将軍家への献上品として、これ以上のものはございません」
資金が支出された。六左衛門は信用がある。それに、財政関係の家老の娘をもらっている。勘定奉行はすっかり安心し、なにもかもまかせてくれた。
平穏な日がすぎてゆく。地方の藩に、そうそう大事件などあるわけがない。また、刺激的な楽しみもない。六左衛門は金をためることにつとめた。それが趣味、それだけが生きがいとなった。ひそかなる満足感。金さえあれば、いつでも美女をものにできるのだ。それを思うと、わがままな妻にも耐えることができた。腹のなかで笑っていられる。
ためた金は床下に埋めてあるのだが、その上で眠ると、よく江戸の夢を見た。めざめてから、時たま、六左衛門はふと思う。ためた金を、いつ使うのだと。
ここにいては使えない。江戸へ出る機会がなくてはだめだ。しかし、好きな時に出かける自由など、家臣にはない。また、江戸へ行ったら、待ちかまえている債権者に取り上げられる。利息もかなりふえているだろう。追いはぎの犯人として、手配されているかもしれない。
しかし、六左衛門は金をためるのをやめなかった。
もともと、地方の藩の家臣にとって、金は無意味なもの。分に応じた地位が保証され、生活は|禄《ろく》で保証されている。住居も藩で建ててくれたもの。よくも悪くも、安定のなかに組みこまれている。金をためこもうと考える者などない。
そのなかにあって、六左衛門だけは例外だった。おれはほかの連中とはちがうのだ。それを自分自身に示したい気分だった。彼にとって、金すなわち美女なのだ。かつての江戸での遊びを思い出し、美女を愛するごとく、金を愛した。ためること自体が楽しくなった。
どこかへ行って、商人になりたいとも思う。もっと自由に金をかせげるだろう。しかし、そんなことは許されない。軽輩ならともかく、中級武士となると、やめることはできない。藩の内情をよそにもらすのではないか、なにか理由があるはずだと、徹底的に調べられる。そうなると、ぼろが出てしまう。また、勝手に旅に出れば、脱藩者として追手がかけられる。
金の魅力など知らないほうがよかったのだろうが、六左衛門はそれを知ってしまった。もはや、どうにもならない。なにかにとりつかれたごとく、彼は金をためることに熱中した。
平穏な日がすぎてゆく。しかし、六左衛門にとって、よからぬきざしがあらわれはじめた。勘定奉行にこう言われた。
「江戸でかなり金を使ったそうだな」
「はい。藩のためにでございます」
「そうであろう。そのくわしい報告書を出してくれ。そのうち城代家老へ提出しなければならない」
「すぐにとおっしゃられても困ります。やるべき仕事がたくさんございます。いずれ、ひまをみて書きあげましょう」
二カ月おきぐらいに、さいそくされる。
「江戸での報告書はまだできぬか」
なんとなく雲行きがおかしくなってきた。江戸づめになった後任の者が、不審な点をみつけたのだろうか。女遊びにふけって金を使いこんだことが発覚したら、処罰はまぬがれない。禄をへらされ、格下げとなるかもしれない。
ただならぬ事態は、それだけではなかった。
江戸の商人から、手紙がとどく。ずっとお待ちしているが、いまだにおいでにならない。だいぶ年月がたち、利息もふえている。どうしてくださる、と。
しばらく待ってくれ。来年には江戸へ出られる。その時に返済する。江戸屋敷へ訴え出ることだけはやめてくれ。それをされると、上役におこられ、江戸へ行けなくなる。そちらも損でしょう。
そんな内容の、その場のがれの返事を出しておく。たとえ少額でも、この愛する金を出すのはいやだった。
しかし、ことはそれだけでなかった。ある日、六左衛門は城下町で、町人に声をかけられた。
「もし、内密で重要なお話が……」
「なんのことだ」
「最初におことわりしておきますが、無礼討ちはいけませんよ。そんなことをなさると、秘密の手紙が奉行所にとどけられるようになっている。おたがいのためになりません」
「それは、どんな手紙だ」
「サンゴの栽培はでたらめ。海にもぐってみたが、なんにもない。ひどいもんですな。果樹も薬草も、いいかげんなものだ。さむらい連中はだませても、あっしの目は……」
「だから、どうだというのだ」
「これは物わかりがいい。そうこなくてはいけません。口どめ料として、分け前を……」
「しばらく待ってくれ。考えてみる」
「しばらくのあいだだけですぜ。これが上に知れたら、旦那は切腹ものですよ。城代家老はきびしいかたですからな。そのへんを、よくお考えの上でね」
「そのうちなんとかするから、さわぎたてないでくれ」
またも、その場のがれ。サンゴの件だけなら、水温の変化でとか、上役をごまかせないこともない。
しかし、果樹も薬草もとなっている。江戸での件もある。すべてが表ざたになったら、たしかに切腹ものかもしれない。
防ぎようのない幕切れが、各方面からいっぺんに迫ってきた。といって、いい案も浮かばない。平穏そのものの周囲といい対照をなして、六左衛門の立場はどうしようもなく深刻になってきた。
自分から非を申し出るわけにもいかない。せっかくためた金を取り上げられ、そのうえ切腹だろう。逃走もできない。密告防止のため口どめ料を出せば、町人のことだ、豪遊して怪しまれ、問いつめられてしゃべってしまうにちがいない。
六左衛門は、いまや絶体絶命。首をくくりたい気分だが、金を残してと思うと、死んでも死にきれない。どうしたものだろう。
「早くして下さいよ。あと三日だけ待ちますが、それ以上はだめですよ」
町人からさいそくされた。
その翌日、家臣たちすべてに登城せよとの知らせがあった。
六左衛門も出かけ、みなにまざって広間へ集る。城代家老がしかつめらしい表情で言った。
「江戸より連絡があった。まことに困った、許しがたいことである……」
それを聞いて、六左衛門は青ざめ、息がとまった。さては、なにもかもばれたのか。みせしめのために、みなの前で首を切られるにちがいない。残念だ。せっかく、あれだけの金をためこんだというのに……。
城代家老はつづけた。
「……じつは、殿が江戸城内において、吉良上野介に切りかかった。そのため、即日切腹、お家断絶ときまった。わが藩もこれで終り。おとりつぶしとなる」
「本当でござるか、大石どの……」
と財政関係の家老が話しかけ、それをきっかけに、ざわめきがおこった。不意に悪夢のなかに引きこまれたかのごとく、悲しむ者あり、おこる者あり、さまざまだった。城代家老はそれを静めて言う。
「われわれ家臣は、武士の意地をつらぬかねばならぬ。おのおのがた。覚悟していただきたい。決死で籠城するか、切腹して幕府へ抗議をするかだ。しかし、これは城代家老としての意見で、殿の命令ではない。だから、強制はしない。参加したくない者は、この場から藩外に立ちのいてもいいぞ……」
大混乱のなか、だれも気づくどころではなかったが、にこりと笑った者がひとりだけいた。