上役から聞かれ、平十郎は言う。
「はあ、三回ぐらいあったようです。何回目の書類がご入用で……」
「わからん。すまんが、みんな持ってきてくれ」
「はあ……」
平十郎は上役の前をさがり、書物蔵のなかに入ってゆく。いたるところにつみあげられている書類、書類、書類。そのなかから命じられたものをさがし出し、持ってゆくのが仕事だった。
平十郎は三十五歳。江戸城へ出勤するのが日課だった。書物方同心の職にある。書物方とは、書物の管理や資料の編集整理をおもに分担している部門だ。なんといっても天下の実権をにぎっている幕府、さまざまな珍しい古書を、大量に収集している。数万冊、いや、もっとあるかもしれない。それに、書画のたぐいもある。
火災にあってはいけないというので、城内のもみじ山に何棟もの土蔵を作り、それにしまってある。ここの管理者が書物奉行で、七人ほどいる。学問や文章にすぐれた頭のいい旗本たちだ。就任して数年間その職にいるが、やがて昇進して、もっといい地位へ移ってゆく。彼らにとって書物奉行という地位は、出世の途中の一段階にすぎない。
その下に同心が、約二十人いる。同心とは下級職員のことで、禄高の低い武士がなる軽い役。つまり、手伝いだ。世襲が慣例ということになっている。
十七歳の時から、平十郎は父にともなわれてここに出勤し、仕事の見習いをさせられた。それ以前の幼年のころ、彼は子供らしい望みを持っていた。努力をすれば出世できるにちがいないという期待。そのため習字の勉強をやった。それが栄達の条件のひとつだろうと思ったのだ。けっこう上達した。器用すぎると、父親が顔をしかめるほどの才能だった。
父のそばで仕事をおぼえるのも早かった。どこになにがあるのか、それを頭におさめるのは大変なことだったが、彼には若さと熱心さがあり、苦しむことなく身につけた。
二十五歳のとき父が死亡し、平十郎は家督を相続し、正式に書物方の同心となった。さて、実力によって昇進の夢をはたそうと考えたが、あらためてあたりを見まわすと、それはむずかしいようだった。同僚の同心に言う。
「わたしたち、書物奉行にはなれないのか」
「つまらんことを考えるなよ。そんな前例はない。いい地位につけるのは、家柄や親類の立派な旗本たち。われわれ下っぱは、親代々この同心さ。しかし、気楽じゃないか。出世もしないかわり、へまをしなければ、子供にこの職をうけつがせることができる。無難なものさ」
「すると、同じ毎日をくりかえす一生か」
「だから平穏に生活できるのさ」
同僚は平然としていたが、平十郎は現実を知ってがっかりした。せっかくの字を書く才能も発揮できなかった。書物奉行たちは、自分で文章を考え、自分で報告書や意見書を作りたがる。同心の入り込む余地はない。
幕政に関する書類作成は、奥|右《ゆう》|筆《ひつ》と表右筆とがおこなっている。表右筆は機密にかかわらない調査、記録、法令などの文書を作る。奥右筆はもっと重大で微妙な、請願受付け、事件調査、人事決定などをやる。この奥右筆の権威と実力はかなりのもので、ことを早く進めてもらうよう、自己に不利な決定にならぬよう、各所から進物や賄賂がとどけられる。あの一員になりたいものだと平十郎も思うが、できるものではない。
そんなことはともかく、作られる書類の量は、幕府ぜんたいで大変なものだった。数年間は各部門で保管されているが、置き場がなくなるにつれ、古いのから順に書物奉行のほうへ回ってくる。
「資料として保存しておいていただきたい。必要があったら、見せてもらいに来る」
「よろしい、ひきうけた」
書物奉行は気軽に答える。ことわって相手の感情を害したくないのだ。当人はいずれ昇進するつもりでいるし、それに、同心にそのまま命じればいいのだ。いつごろからこんな慣例になったのかわからないが、これが現状だった。
ほかの同心たちもそうだが、平十郎はまさに紙くず屋だった。ほうぼうの役所から、書類の束がとどく。どれもご用ずみのものばかりで、秘密のものなどあるわけがない。また、興味ある秘密はないものかと考え、読みふけったりしていたら、仕事は片づかない。
同心たちは、なれたもの。ぱっぱっとよりわけ、重ね、油紙に包み、目印として簡単な見出しの文字をつけ、蔵に運んでつみあげる。親代々うけつがれてきた仕事だけあって、みな手ぎわがよかった。
そして、時どき、前例を知りたいと、書類さがしを依頼される。平十郎はとくに重宝がられた。同心たち、それぞれ癖のある字で見出しを書いているわけだが、彼には文字への感覚があるので、それを読みわけることができるのだった。また、いかに達筆な文書でも、さっと内容を読みとれるのだ。同僚は同情してくれる。
「すまんなあ。いつも、おまえばかり命じられているようだ」
「まあ、これが仕事ですから」
「適当にやってればいいんだよ。そんな文書はありませんと答えればいい。自分でやろうとしても、上役にはできっこないんだ」
「そうしたいんですが、なにがどこにあるのか、すぐ頭に浮んできてしまう」
というわけで、平十郎は蔵のなかに出たり入ったりして、毎日をすごしていた。古びた紙のにおいにも、いつしかなれてしまった。夏はいくらかすずしかった。冬も、風の当る戸外の仕事よりましだろう。
しかし、これといった役得は、まるでなかった。この文書を早くさがしてくれと、つけとどけを受けることなど、年に一回あるかないかだ。
値うちのある書画を持ち出せないことはないが、発覚したら自分ばかりでなく、同僚たちまで処罰されるだろう。定期的に虫干しがあり、その時に点検がなされるのだ。蔵のなかで、そっとながめることは可能だが、それ以上のことは無理だ。
そして、平十郎はいつのまにか三十五歳になってしまった。
十歳とししたの妻がいる。まだ子供はなかった。妻は内職として印判を彫る仕事をやり、それがいくらか家計のたしになっていた。最初は趣味として、小さな木彫りの人形を作っていたのだが、やがてその人形を売るようになった。だが器用さをみとめられ、印判を作るほうが金になるとすすめられ、印判屋からその仕事が回ってくるようになったのだ。
こういう地味な部門の同心のくらしは、ささやかなものだった。
平十郎の気ばらしは、つとめの帰りに、時たま酒を飲むことぐらいだった。行きつけの店は、梅の屋という小料理屋。ほぼ同年配のそこの主人とは、なぜか気があい、冗談を話しあったりすることもある。
その日、ひとりで飲んでいると、平十郎は店の給仕女から、こんなことをたのまれた。
「郷里の父母にたよりを出したいんですけど、手紙を書いていただけないかしら。あたし、字が書けないんです。元気でいると知らせ、お金を送りたいの」
「感心だな。書いてあげるよ。紙と筆を持っておいで」
平十郎は代筆をしてやった。それをのぞきこんでいた主人は、感嘆の声をもらした。
「うまいもんですな。じつに、みごとです。この字だけ見ていると……」
「同心とは思えないと言いたいんだろう」
「まあ、そんなところで」
「奉行や老中にだって、ずいぶんへたな字のやつがいる。将軍だって……」
いつも扱っている古い書類の署名を思いだしながら言い、苦笑いしてつづけた。
「……しかし、いかに字が巧妙でも、出世の役に立たぬことがわかってきた。字なんかより、そろばんを習っておくべきだった。勘定方だと、そろばんの腕でかなりの地位までゆけるらしい。だが、いまさらどうにもならぬ。十日に一回、ここへ来て酒を飲むだけが生きがいだ」
「いかがでしょう。ここの座敷に飾る字を、なにか書いていただけませんか。酔ったお客によごされたり、持ってかれたりで、困っているのです。なにか、もっともらしい感じのを書いて下さい。表具師にたのんで、安い掛物に仕上げる。どうされても惜しくないものがほしいのです」
「ばかにされてるような気分だぞ」
「これは失礼。しかし、お礼として、お酒を一回だけ飲みほうだいにしますから」
主人のこの提案を、平十郎は承知した。これは悪くない取引きかもしれない。
だが、武士だけあって、平十郎はまじめだった。いいかげんなものを作る気にはなれない。つとめのひまを見て、書物蔵に入り、一休和尚の書を出してながめ、特徴を研究した。そして、帰宅して書きあげた。われながら、うまいできだった。
日光にさらしたり、天井裏のほこりをこすりつけたりして、古びた感じをつけ、梅の屋に持ってゆく。
「こんなのでどうだ」
「いいでしょう。ようするに、なんでもいいんですから。いただきます。では、お酒のほうをどうぞ……」
平十郎は支払いの心配なしに、いい気分になれた。
十日後、平十郎はまた梅の屋に寄った。掛物になっているのを見たい気もしたのだ。すると、主人がまじめな表情と声で言った。
「じつは、このあいだの書ですが、座敷に飾っておいたら、お客のひとりが、ぜひゆずってくれと持っていってしまいました。かなりのお金をおいて……」
「おまえも、わたしを見なおすべきだな」
「どうやら、本物の一休さんの書と思ったようですよ。掘出し物だなんて、つぶやいていた。どうなんです、まさか、お城から持ち出してきたのじゃ……」
「とんでもない。本物を持ち出したのだったら、だれがこんなけちな小料理屋に……」
「でしょうな。ほっとしました。ひとつ、きょうはおごりますから、そのことについていろいろとご相談を……」
主人は、さらに何枚かあれを書いてくれと言った。売れた代金は山分けということでと。平十郎はまんざらでもない。
「才能をみとめられたということは、悪くない気分だ。しかし、同じのをすぐに飾っては、そのお客だって変に思うだろう。べつな人の書を作るとしよう」
平十郎の副業も、しだいに本格的になっていった。お城づとめにいくらはげんでも、出世の見込みはないのだ。この副業のほうに力がはいってしまう。紙や筆や墨に資本をつぎこむ。材料がよくなくてはならない。書物蔵のなかで故人の筆跡を研究し、帰宅してから製作する。
有名な高僧、歌人、公卿、武将などの書ができあがっていった。印の必要なのもあるが、それは妻が製作した。妻もなかなか器用、すぐにこつをのみこんだ。できあがると、つぎつぎに梅の屋に持ちこむ。
主人も、その販売先を開拓していった。うまいぐあいに金にかわる。梅の屋は店を大きく美しく改装した。平十郎も金まわりがよくなった。彼は金の一部を、上役へのつけとどけに使った。そんな必要はないのだが、このところ筆跡の研究で、仕事の能率が落ちている。そのことでおこられるのを防ぐためだ。
また、同僚たちを梅の屋に招待した。ただし、本当のことは説明できない。
「先日、ここの主人が酔った浪人者にからまれて困っていたのを、助けてあげた。お礼にごちそうをしたいと言うが、わたしひとりで飲んでもつまらない。みなさんといっしょに楽しくやろうというわけです」
仲間たちのごきげんも、とっておいたほうがいいというものだ。
ある日、平十郎は作りあげた実朝の書を持って、梅の屋に行った。金はもらえるし、飲みほうだい。すべて順調で、楽しくてならなかった。すると、主人がある商店主を紹介した。このかたが非常にお困りなので、相談にのってあげて下さいという。商店主は言った。
「じつは、五年ほど前に、ある大名家に金を貸しました。近くその返済にくるとの連絡がありましたが、その証文を、わたくしども火事で焼いてしまっている。商人どうしなら、信用にかかわることなので、払ってくれるでしょう。しかし、大名となると、証文がないと知ったら、これさいわいと金を払わないかも……」
「ありうることですな」
「そうなったら、店はつぶれます。この梅の屋のご主人に打ちあけると、あなたさまならお力を貸してくれるかもしれないとか。お助け下さい。お礼はいくらでも……」
と泣かんばかり。そばで梅の屋の主人も口ぞえをする。平十郎は質問した。
「しかし、見本がないとね。なにか参考になるものはないのですか」
「そのあと、二年前にも金を貸しました。文面は前のと同じ、それを書いた人も同じ。しかし、署名人の城代家老が交代している。五年前の城代家老は、独特な字で署名なさったかたでしたが、すでになくなられました。ですから、お目にかけられないのです」
「なるほど。話はわかりました。なんとかやってみましょう。いまある証文をお貸し下さい。十日ばかりかかりますよ」
平十郎は引き受けた。書物蔵に入り、見当をつけて書類をさがす。その藩にむけての幕府からの問いあわせに答えた、その城代家老の文書がでてきた。
「あった、あった。なるほど、ふしぎな字を書くやつだな。このまねはちょっとむずかしいぞ」
それをふところに入れて持ち帰った。書物や書画のほうの蔵からの持ち出しはうるさいが、古書類の蔵のほうはさほどでもない。平十郎はそっくりの印を妻に彫らせ、たぶんこうであったはずだという証文を作りあげた。それを商店主に渡す。
「まあ、こんなところで大丈夫と思います。しかし、持ち帰られると面倒だ。あなたは返済金の受取りを渡し、これはその場で焼き捨てるようになさったほうがいい。それから、お礼の件を忘れないように願いますよ」
何日かたつと、商店主はかなりの金を持って報告に来た。
「おかげさまで、すべてうまくゆきました。金を持ってきたお使者は、なくなられた家老の署名を見て、なつかしがっておりました。作っていただいた証文は焼いてしまいました」
現実に貸借関係はあったわけだし、使者もまさか証文がにせとは思わなかったのだろう。証文あらためは、形式的なことですんだらしい。商店主はさらに別な包みを出した。
「これは先日、ある|骨《こっ》|董《とう》商から入手した、珍しい品です。よろしかったら、さしあげます」
あけてみると、一休さんの書。なんと平十郎の作ったものだった。
「これはこれは。こんな貴重な品はいただけません。家宝になさって、大事にしまっておくべきです。お気がすまないのでしたら、そのぶんをお金で下さい」
そのようにしてもらった。
平十郎は時どき、同僚たちにおごった。家の大掃除をしたら、古い刀が出てきた。これがなんと名刀で、高く売れた。いまや泰平の世、刀より友人が大切な時代だと思う。理屈はなんとでもついたし、おごられるほうは、理屈なんかさほど気にしない。仲間うちでの評判は一段とよくなり、蔵のなかでなにをしようと自由だった。また、酔って夜道を歩いてるところを見られても、名刀の金がまだ残ってるようだなと声をかけられるだけですんだ。
新しく書物奉行が就任してくると、そこへもつけとどけをする。どの奉行も、自分の昇進にばかり熱心で、平十郎の昇進など考えてくれなかったが、むしろそのほうがいいのだ。いまのように面白く、自分の才能の生かせる地位は、ほかにないだろう。
昼間はお城で、下級職員としてぱっとしない存在だが、夜はどんな豪遊もできた。
気がむいて、武芸の免許皆伝書を作ってみたこともあった。将軍の子息にだれかが献上したものだろう。蔵のなかでみつけたそれを見本に、そっくりなものを作ったのだ。梅の屋の主人に見せる。
「こんなのはどうだ。当人の名前さえ書き加えれば、一流の武芸者ができあがるぞ。売れないかね」
「売れますとも。腕がありながら、浪人している人が多い。だが、これさえあれば、武術指南役として、仕官できましょう。実力より証明書の時代ですからな。しかし、試合で負けてぼろを出しますかな」
「そんなことはあるまい。実力より権威の時代ならだ、それがあるというだけで、相手のほうがびくついてくれるだろうよ」
「それにしても、平十郎さまは万能ですなあ。こつはなんですか」
「字をまねるのは、芝居の役者のようなものさ。その役になりきらなければならない。だから、気分の切りかえが大変だな。坊さんになったり、歌人になったり、家老になったり、武芸者になったりだ。ところで、にせものだとの文句をつけられたことはあったかい」
「ありませんな。この道にかけては、平十郎さまは天才です」
「もっとも、見る人が見れば、にせものとわかるはずだ。字には巧妙さではまねられない風格というものがあるのだから。しかし、いまの世には、字そのものを虚心にながめる人がいなくなったということなのだろうな」
うまく進行しつづけていると、なんとなくものたりなくもなってくる。しかし、梅の屋の主人が、口ごもりながらこんなことを言いだした。
「平十郎さま、とてつもない大仕事がありますよ。手を出さないほうがいいように思いますがね」
「どうせなら、でかいことをやってみたい気分になっている。いちおう聞かせてくれ」
「ある大名家なんですがね。なにかやらかしたらしく、おとりつぶしになるらしい。そこの江戸家老、なんとかくいとめようと、必死になって各方面に運動しているが、楽観できない情勢です。このままだと、あのご家老、腹を切りかねません。うちの店をよくご利用になり、実朝の書も買っていただき、いいかたなんですが」
「なるほど。うむ。以前からやってみたかったことだ。ひとつ、このさい……」
「どんな方法で助けるのですか」
「家康公のお墨付きを作って、その家老に売りつけるのだ」
「なんですって。へたしたら首がいくつあってもたりませんよ。いままでのとは、わけがちがう。仲介はいたしますが、あとはお二人だけでやって下さい」
「おまえに迷惑はかけない。ここのところが、武士と町人のちがいだろうな……」
平十郎は帰宅して妻に相談する。彼女もすっかり、この仕事が好きになってしまっている。身分が低いとはいえ、あたしも武士の妻、いつでも覚悟はできていると言う。
やがて、その大名家の江戸家老と平十郎は、梅の屋の一室でひそかに会った。その時には、家康公のお墨付きなるものは、すでに完成していた。それを見せる。
〈そちのみごとな働きと忠実さ、ほめてとらす。子々孫々の代にいたるまで、徳川家につくせ……〉
家康の署名と|花《か》|押《おう》があり、あて名はその大名家の初代の名。平十郎がこれまでになく苦心して作ったものだ。家康公の気分になるのは、下っぱ役人の彼にとって、けっこうむずかしかったのだ。
「どうです。これがあれば、おとりつぶしは防げるでしょう。ほかに手はありませんよ」
「しかし、あまりにも大それたことだ」
江戸家老は青くなっている。それをはげまして言う。
「大それたことだから、効果があるのですよ。盲点というやつです。殿の祖先の手柄を自慢したくないから、いままで内部だけの秘密にしておいたが、これにおすがりする以外になくなったと言って、提出するのです。表ざたになれば、幕府も手かげんせざるをえない。家康公のお墨付きが無価値となれば、ほかの大名にも不安がおよぶ。幕府の根本がぐらつくから、そうはできない」
「うまくゆくでしょうか」
「武士らしく、思い切ってやってみたらどうです。ほっとけばどうせだめで、あなたがた浪人になるんですよ。ためらっている場合じゃない。それに、いいかげんな|賭《か》けとはちがいます。わたしだって、そのための万全の手は打っているんです。それなりのお礼をいただきたいと思ってね」
「おおせの通りにいたしましょう」
その江戸家老は、やけぎみなのか奔走で疲れはてているためか、こころみてみる気になった。ほかにいい知恵はないのだ。
二十日ほどして、上役の書物奉行に平十郎は呼び出された。
「老中からの依頼だ。家康公がある大名に与えたお墨付きの真偽について、急いで調べよとのことだ。記録には残っていない。念のために書物蔵をさがしてみてくれと……」
「はい。しかし、時間がかかりましょう」
「ぐずぐずしていられないのだ。全員でとりかかってくれ」
書物方の同心の全員が、古い書類の山を調べはじめた。いつもは命令するだけの奉行たちも、そばへやってきてのぞきこんでいる。平十郎が蔵の内部を指さして言う。
「時期から考えて、だいたいこの見当だ。手分けしてやろう」
そのうち、ひとりの同心が大声をあげた。
「あったぞ……」
家康公の当時の側近の書いた、お墨付きと同文の控えがでてきた。さらに、その前後の文書をさがすと、その大名家の初代の書いた、お墨付きへの礼状と献上品の目録も出てきた。すべて、平十郎が作りあげ、あらかじめ巧みにまぜておいたものだ。筆跡も署名も、完全ににせてある。古びた紙を入手するのに、ちょっと金がかかったが。
奉行たちもざわめいた。平十郎はひそかに喜んだ。大さわぎにならないと困るのだ。これらの文書を老中がにぎりつぶすことも考えられるからだ。しかし、まあ大丈夫だろう。書物奉行は、文書発見の経過について、誇らしげな報告書を作りはじめている。
平十郎は、その江戸家老を呼び出して会い、このことを報告する。
「というわけです。格下げになるかもしれませんが、おとりつぶしだけはまぬかれましょう。ご安心を。公式に解決してからでけっこうですから、それなりのお礼を。おっと、お礼を惜しんだり、秘密を知るわたしを消そうなど、つまらない気をおこしてはいけません。大変なことになりますよ」
「もちろん、謝礼はする。しかし、参考のために、その大変なこととはなにかを聞かせてくれぬか」
「わたしの才能はおわかりでしょう。また、あなたをはじめ、そちらの藩の重臣たちの署名を見ることのできる立場にいることも。それをもとに、幕府に対する反乱の連判状を作った。わたしを殺せば、それがおもてに出ます。そうなったら、おとりつぶしどころか全員が死罪です」
「そんな連判状を信用する人がいるかね」
「家康公のお墨付きについて、あなたも最初はそうお考えじゃありませんでしたかね」
「そうだな。わかった。お礼は必ず……」
「それから、書類さがしに、書物方の同心たち、さんざん働かされました。少しずつでけっこうですから、みなに酒代をとどけてくれませんか。おいやなら、連判状を……」
「承知した。同心への酒代を惜しんで、そんな危険をおかす気はないよ」
その結果、同心たちは思いがけぬ収入に大喜びした。もちろん、平十郎のもとにはとてつもない大金が入った。
書物奉行のところへ運びこまれる書類の量は、相当なもの。とぎれることもない。どこの役人も、自分の業績を後世へ記録として残したいものらしい。書物奉行が大英断で、大はばに焼き捨てればよさそうなものだが、その責任をしょいたくないのか、だれもやらない。
平十郎が呼ばれて命じられた。
「蔵がいっぱいになったようだな。増築が必要となった。その手続きはどうすればいいのか」
「ご依頼の文書を、作事奉行にお出し下さい。前回の書式の控えがそのへんにあります」
作事奉行とは建築関係を担当する役職。平十郎はその事務を押しつけられた。やっかいな仕事だが、ある興味を持って見ていると、ずいぶんと参考になった。
作事奉行が支出要求書を作り、勘定吟味役にまわり、その監査の印が押されると、つぎは勘定奉行で、この印が押されて決定となる。しかし、簡単に進行するわけではない。何回も作事奉行や書物奉行に戻され、設計変更、金額訂正など、多くの担当者の署名や印が加わり、書類らしくなってゆく。
最終的に勘定奉行の印があればいいのだ。それを御金蔵に持ってゆくと、建築材料の購入費が渡される。信用されるのは人間より書類であり、この段階はあっさりしたものだ。
平十郎は、心のなかでむずむずしたものを感じた。やってみたくてならなくなった。これができるかどうかで、自分の才能の評価がきまる。その思いは彼を実行にかりたてた。
書物蔵のなかに、参考になる書類はいくらでもある。勘定奉行や勘定吟味役の印のついたものもある。そこの部分を切り取って家に持ち帰り、妻に作らせた。また、現在の奉行たちの筆跡も調べた。平十郎はこのことに熱中した。
江戸城の庭のすみに、幕府のためにつくして職務上たおれた人たちの霊をまつる、小さな堂をたてる。その架空の計画書を作りあげた。図面があり、予算表があり、べたべたと小さな印が各所に押され、形式がととのっていった。寺社奉行にも関連することなので、その署名と印も加えた。
それを持って御金蔵へ行く。そこの係は、ぱらぱらとめくり、勘定奉行の印を確認し、すぐ平十郎に支出してくれた。偽造への努力が、あっけないほどだった。係としては、こんなことがなされるなど、想像もしていなかったわけだろう。
彼はそれを、いったん書物蔵に運びこみ、そこから毎日、少しずつ家に運んだ。一度に大金を持ち出すと、城門で怪しまれる。そう巨額というわけではなかったが、いずれにせよ、みごとに公金を出させたのだ。たぶんうやむやになるはずだし、だれが犯人か、わかるわけがない。書物方の同心がやったなどとは……。
幕府の役人にも悪いのがいる。利権とひきかえに賄賂を取ったり、商人にたかってうまい汁を吸ったりしている。しかし、平十郎はそんなまわりくどいことをせず、さっと金を手にしたのだ。
この成功によって、彼は気が大きくなった。ものものしく登城してくる大名を見ても、うらやましさや恐れを感じなくなった。
〈そのほう、おこない不届きにつき、切腹を申しつける……〉
という文書だって本物そのままに書けるし、そのあとに老中、若年寄、大目付の署名を並べることもできる。つまり、上意の文書を作りあげることが、自分にはできるのだ。
もっとも、ひとりではだめだ。芝居気のある浪人者をやとい、それにふさわしい服装をさせ、きめられた人数をそろえる必要はあるが。
その上意の文書を持って、地方のお城へ乗りこめば、そこの領主はすぐ切腹するだろう。抗議をしたという話は聞いたことがないし、本物かどうか署名をたしかめさせろと要求したなんてのも前例がないはずだ。かりに調べられても、にせと気づかないだけの自信もある。
関八州取締役の辞令だって作れる。いばりちらしながら旅ができるのだ。また、大商人に対して、金をさし出せとの命令書をつきつけることもできる。その気になって怪文書を作り、うまく使えば老中を失脚させることだってできるだろう。人物評価、人事異動についての意見書をだれかの名で作り、廊下に落しておけば、城中での刃傷事件が発生するかもしれない。さらには、身分の高い人のご|落《らく》|胤《いん》を作りあげることも……。
こんな空想を楽しんでいるうちに、満足感を通り越して、平十郎はなんだかむなしくなってきた。幕府の強大な権力といっても、紙きれだ。幕政の中心、この広い江戸城も、早くいえば紙の城だ。武士だといばっていても、紙きれにあやつられているにすぎない。こんなところで働いているのが、ばからしくなってきた。
金はけっこうたまったのだし、長崎へ行って、珍しいものの見聞でもしたほうがましかもしれない。それを話すと、妻もいっしょに行きたいという。
長崎には、外国製の性能のいい短銃とやらがあるそうだ。護身用にいくつか欲しいものだな。その購入書類を作りあげた。これさえあれば、堂々と買えるし、持っていてもとがめられない。
また、どこの関所も通過できる書類を作りあげた。大名の領地へはいりこむ書類も作った。領内に不審な点あり、ひそかに調査するという、大目付の署名入りの文書だ。そのほか、さまざまな辞令や身分証明書も。
旅行の用意はできた。梅の屋の主人にだけ、別れのあいさつをした。
「しばらく旅に出るよ。上役にも同僚にもだまって、夜逃げのごとく、ひそかに出発するつもりだ。元気でな」
「どちらへ、なにをなさりに……」
「まだ、よく考えていない。失敗して帰ってきたら、また一休さんの書などを作るから、うまく売ってくれな」
「はい。では、楽しんでいらっしゃい」
「そのつもりだ」
これまでためた金を大坂へ送りたいと思い、両替店へも寄った。すると、振出手形というものをくれた。これは為替ともいい、大坂の本店でお出しになれば、金にかえてもらえますとのことだった。
東海道を西へむかって歩きながら、平十郎は妻に言う。
「大坂は米問屋をはじめ、各種の問屋が集っていて、活気のあるところらしい。長崎を見たあと、大坂で商売でもやってみるか。江戸でかせいだこの金をもとに……」
彼は振出手形を出してながめる。
「……それにしても、これで金が送れるとは、便利なものだ。わたしは、そろばんはできないが、これそっくりの字なら書けるぞ」
妻も笑いながら言う。
「あたくしも、それそっくりの印なら作れますわ」