それでも彼はみれんがましく、そのままの姿勢をしばらくつづけた。しずくが少しばかりたれたが、グラスの水位はあまりあがらなかった。男はあきらめ、水道の水を加えてグラスを一杯にした。
彼はそれを持ってソファーに戻り、急いで一口すすり、あとはゆっくり飲みながら、窓のそとを|眺《なが》めた。ここはメロン・マンションの六階の一室。小さな部屋だ。男は四十歳だが独身。ここにひとりで住んでいる。
いまは六月。そとではずっと雨が降りつづいている。一年のうちで最も気分の沈む月ではないだろうか。そう彼は思った。そしていまは午後の四時。一日のうちで最も気分の沈む時間ではないだろうか。彼はそうも思った。だが、それは酒がもうなくなったということからの感じかもしれなかった。
低くたれこめた雲から雨は降りつづき、緑の濃くなりかけている草や樹の葉をぬらし、地面の上をあちらこちらへと流れる。どこもかしこも水にぬれている。そして、水たちはふたたび、葉の表から、葉の裏から、地面から、建物の外側から、いたるところから蒸気となってたちのぼり、雨滴とすれちがいながら雲へと戻ってゆく。
雨季は水だけの世界。なにもかも水びたしになる。湿気は人の心にもしのびこみ、それを暗い雲のごとく不活発にする。
「おもしろくないな……」
男は言い、グラスを勢いよくあけようとしたが、残りの少ないことに気づいて、しばらくためらった。
彼はずっと景気がよくなかった。芸能エージェントのようなことをやっていた。かつては人気歌手を何人か所属させ、はぶりのよかった時期もあった。あれは何年前のことだったろう。ずいぶん前のことだったし、アル中になりかかっている彼の頭には、それがはっきり思い出せなかった。
だが、忘れてしまうことはできない。生活があわれになるにつれ、記憶のなかでかえって鮮明になってくる。きっかけがあり運がまわってきさえすれば、また金まわりがよくなるさ。いつもそう思っている。時どき彼は企画をたて、なにかをはじめる。しかし、利益をあげることはほとんどなかった。
利益をあげる時があったとしても、それは酒となって彼の体内に消える。こんなぐあいだから、生活はいっこう安定しなかった。酔いがさめると人生が不安になり、酔いのなかに閉じこもりつづけると、生活はますます不安定になってゆく。悪循環とわかってはいるのだが、どうしようもなかった。
電話のベルが鳴った。男が受話器をとると、相手は言った。
「こちらは銀行の消費者サービス口座の係でございます」
「どんな用件でしょうか」
「ウイスキー代金の請求書が、マーケットからこちらに回ってきました。しかし、あなたさまの口座にはその金額がございません。いかがいたしましょう」
「いちおう払っておいてくれないか」
「そうはまいりません。当行はあなたさまから担保をお預りしておりません。二十四時間だけお待ちします。それが過ぎたら、請求書はマーケットに送りかえします」
そうなると、支払い口座は取り消されてしまうのだ。小切手もクレジットカードも、彼はすでに使えなくなっている。この口座までなくなったら、すべての買物を現金でしなければならなくなる。
「なんとかしますから、少し待って下さい」
男はたのんだ。銀行の係は事務的な口調で承知し、電話を切った。彼に不安が襲ってくる。現金での買物は不便であり、みっともない。それよりもなによりも、まず酒に不自由してしまう。それは恐怖だった。酒のない状態に耐えられるかどうか、まるで自信がなかった。
なにはともあれ、銀行へまわってきた酒代の請求書の処理をしなければならない。さし迫っているのだ。人生の計画を根本的にたてなおす精神的な余裕はない。あわただしい事態なのだ。とりあえず、だれかから金を借りなければならない。
男は友人のひとりに電話をかけ、あいさつをした。
「このところごぶさたをしてしまって。雨が降りつづいて、いやな天気だが、仕事のぐあいはどうです……」
「まあまあだな……」
友人は警戒するような声をだした。しかし、男にとってそんなことにためらってはいられない。話を進めた。
「じつはね、金を貸してもらえないだろうか。少しでいいんだ、すぐ返すよ」
「だめだよ。いままで何回も貸したが、みんなそのままになっているじゃないか」
「そういわないで、たのむよ。助けてくれ。友だちと思って、なんとか……」
恥も外聞もなく、彼はたのんだ。しかし、友人は冷静な応対。
「そんな一時しのぎじゃだめだよ。友情がないわけじゃない。前にも忠告したろう。酒をやめるんだよ。自力でむりなら公営のアル中療養所を利用すればいい。そうすれば、責任をもって就職を世話するよ。いいか、それがきみ自身のためでもある」
「そんなこといわずに、たのむよ。いま、いい企画があるんだ、それさえ当たれば……」
と男はでまかせを言った。しかし、もうその言葉もききめを発揮しなくなっている。
「そんな夢を追っていたら、苦しくなるばかりだ。悪いことは言わない。ぼくの忠告に従うべきだよ」
「それはわかっているよ。だめかなあ。そのうち決心をかためて、きみのところへうかがうとするよ」
男はあきらめ、ぶつぶつ言って電話を切った。それから、べつな友人に電話をしてみた。だが、だれも同様な答。なかには、声を聞いただけで自動応対器に切り換え、居留守を使ってしまう者もあった。収穫はなく、それで終わりだった。金についてたのめる友人は、ほとんどいなくなっていたのだ。
「友だちがいのない、ひどいやつらばかりだなあ……」
男はがっかりした口調でつぶやいた。他人をうらむのが筋ちがいであるとはわかっている。だが、どうすればいいのだ……。
じわじわと不安がわきあがってきた。酒がきれ、酔いのさめることへの恐れだ。それと戦いつつ金のつごうをつけるのは至難のわざだ。金よりもさらに切迫しているのが酒なのだ。なによりもまず、これを解決しなければならない。
男は考え、せっぱつまってひとつの案を思いついた。彼はひげをそり、服の乱れをなおした。大きなグラスを手にしかけたが、それをやめ、からの酒ビンを持った。そして、ドアから出てとなりの室のベルを押した。応対に出たそこの夫人に言う。
「となりに住んでいる者です。すみません、酒を出す蛇口がこわれちゃったのです。友人が来ているんですけど、そんなわけで飲めない。お酒を少し貸して下さい。あすにでもおかえしします」
「それはお困りでしょう。どうぞ」
顔みしりであり、なんとかひとびんの酒を手に入れることができた。はたしてあす返せるかどうかはわからないが、それはあとで考えればいい。
酒は高級で、いい味だった。男は不安を少しだけ先に追い払った。彼はほっとし、酔い、悩みはうすれていった。金銭をつごうすることなど、どうでもいい気分になった。
「ああ、おれはだめな人間だ……」
そう口にしてみる。事実そのとおりなのだが、あまり実感はともなわなかった。酒の魔力。ソファーにねそべり、小声で歌う。
床の上をアリがはいまわっていた。アリの出る季節になったんだな。男はどうでもいいことを考える。それにしても、アリはよく働く。ビルのこんな上の階まであがってきて、どこからともなく室に入ってくる。どういうつもりで、そう働いているんだね。そんなことをぶつぶつしゃべってみる。そんなあくせく働くこともないじゃないか。まあ、一杯飲めよ。男は気まぐれで、ウイスキーの一滴をアリにたらしてみたりした……。
また電話が鳴りだした。彼は立ちあがる。
「やれやれ、どうせろくな電話でないにきまっている。金をかえせだの、支払えだのというさいそくだろう。もっとも、こっちからかけるのも、金を貸してくれの話ばかりだ。まったく、ろくでもない機械だな、電話というものは。いい話ばかりがぞくぞくとかかってくる電話というやつを、だれか開発してくれないものか。科学の時代だぜ……」
男は酔い心地で、しばらくベルを聞いていた。応答するのは、あまり気が進まぬ。しかし、さっきの友人の気が変わり、金を貸してもいいという話になったのかもしれない。酔うと彼は楽観主義者になるのだ。
「はい。どなたです」
男は陽気に言った。相手の声が言う。
「いいか。おまえの願いをかなえてやるぞ」
低い男の声だった。とらえどころのない口調で、そっけなく言ったのだ。男は聞きかえす。
「なんだと。おかしなことを言うやつだな。ひとをからかうのは、ほどほどにしたほうがいいぞ。それとも酔ってるのか」
「酔っているのは、おまえのほうだろう。いいか、もう一回くりかえしてやる。願いをかなえてやるぞ」
相手は口調を変えずに言った。普通の人ならぶきみに感じただろう。しかし、彼はいい気分だったし、やけぎみでもあり、どうなろうとこわいものはなかった。
「なんだかしらないが、ばかげた話だな。悪魔が魂を買いにきたのだろうか。そんな物語を読んだことがある。それが現実におこったのかな。いや、ありえないことだ。酒でこっちの頭がおかしくなったせいかな」
男がぶつぶつ言うのを、相手はさえぎった。
「返事はどうなのか。ことわるのならそれでもいい」
「いえいえ、お願いしますよ。こうなったら、魂だろうがなんだろうが売ってしまう。売り得にちがいない。ひとつ、お金のつごうをしていただきたいものですな。多ければ多いほどいい。もっとも、そういうことがおできになればの話ですがね……」
「わかった。では、また連絡をする」
あっさりした返事とともに、電話は切れた。男は肩をすくめた。
「なんだ、いまのは。だれかいじの悪いやつが、金に困っているおれをからかったのだろうか。しかし、手数のかかるいたずらだ。ごくろうさまなことだな……」
彼はまたソファーに戻り、ねそべった。夜になっていたが、窓のそとでは雨が降りつづいていた。ガラスに当たる雨の音を聞いているうちに、彼は眠った。いやな夢も見ずに……。
つぎの朝はいい天気だった。このところつづいた雨が、きれいに晴れあがっていた。
電話のベルが鳴っている。その音で男は目をさました。ねむけが去り頭がはっきりするにつれ、後悔の念がふくれあがる。金のつごうをしなければならないのだ。それなのに、昨夜を無意味にすごしてしまった。こうしておれはだめになっていく。やはり酒はやめるべきかな。友人の忠告に従わなくてはいけないようだ。目ざめるたびに、いつもこの思いで胸が痛くなる。
受話器をとると、相手の声が言った。
「銀行の消費者サービスの口座の係でございます」
「あ、申しわけありません。もう少し待って下さい。夕方までには必ずなんとかするつもりです。当方にもいろいろ事情が……」
と男は恐縮した声を出した。しかし、意外な返事があった。
「お電話いたしましたのは、ご報告のためでございます。口座に入金がございました。昨日の請求書の件はそれで決済がつきましたので、それをお知らせいたします」
「なんですって、本当ですか」
男は叫んだ。入金したおぼえはない。
「はい、さようでございます。金額は……」
それを聞き、男は目を白黒させた。一年間はゆうゆう遊んで暮らせるほどの金だ。わけがわからずだまっていると、銀行の人はそれで話を終わりにした。
男はせまい室内を呆然として歩きまわり、またソファーに横たわった。びんに残っている酒を飲み、いくらか人心地になった。頭も働きだした。
これは、どういうことなのだろう。たしかにきのうと同じ銀行の係の声だった。銀行がでまかせを言うはずはない。それでも彼は、もう一回銀行に電話をかけ、たしかめた。やはり事実だった。本当だったのだ。
男は窓のそばに立ち、そとを眺めた。青空からの日光は、みどりの樹々を照らし、すべてが新鮮だった。すがすがしさ。頭上にのしかかるような重い雨雲も、きょうはない。しめりけは蒸発し、上昇して消えてゆく。
彼の心もそんな感じだった。内部の悩みが徐々に軽くなってゆく。入金の現実をなっとくするにつれ、当然のこととして、きのうの正体不明の電話の主のことが頭にうかんでくる。偶然の一致ではない。関連のあることは疑いない。しかし、だれなのだろう。なぜ、こんなことを。どうして、おれのために……。
まるで見当がつかなかった。心当たりはない。そんな親切な友人のいるわけがなかった。まあいいさ。彼はだれともしれぬ相手に対し、感謝の乾杯をした。こんなにこころよく酒を飲むのは、何年ぶりだろう。いつもは不安をごまかすために飲むのだが、今回はちがうのだ。それだけに妙な気分だったが、うれしいことであり、悪くないことなのだ。
やがて、また電話が鳴りだす。
男はもはや、びくつくことはなかった。調子のいい声で応答する。
「いよう。どちらさま」
「どうだ。願いはかなったろう」
きのうの謎の声だった。恩着せがましい感じもなく、平然とした話し方。しかし、彼のほうは感情のあふれる声でお礼を言った。
「ああ、なんと申しあげたものやら、ありがたさで胸が一杯でございます。お目にかかって、感謝の気持ちを示したいと思います。どなたさまでしょうか。ぜひ、お名前を……」
「こちらのことなど、どうでもいい。どうだ。もっと願いをかなえてやるぞ。言ってみろ」
「本当でございますか。あなたさまのおっしゃることなら、たしかでございましょう。ご好意に甘えるようですが……」
あまりの意外さに、男はなにを言ったものか、とっさに思いうかばなかった。そのため、しごく平凡な言葉になった。
「……できれば、美しい女性でも」
「わかった」
電話は終わった。男は微笑し、いい気になるべきではないと自戒しながらむずかしい表情をし、また微笑した。たのしさがこみあげてくるのだ。いまの電話の予告。実現についての根拠はなにもないのだが、心は期待であふれてしまう。
彼は電話で酒を注文した。やがて配達される。支払い口座は健在で、そこに問題は残っていないのだ。
みずみずしい緑の広場を見おろしながら、窓のそばで飲みつづける。新しい人生の計画でも練るとするかな、と男は思った。しかし、それはゆっくりでもいいことだ。急がなければならない理由はない。それに、さっきの電話の主の言葉が本当なら……。
室の入口でベルの音がした。
男が立っていって開けると、そこに若い女がいた。彼は驚きはしたが、当然のことだとも思った。なかへ迎え入れる。
「いらっしゃるとわかっていましたよ。さあ、いっしょに飲んで楽しくやりましょう。ひとりで飲むより、ふたりのほうがどんなにいいことか……」
「でもあたし、あんまり飲めないのよ」
と女が言った。若々しく純情そうだった。それでいて人をひきつける魅力もある。女は室内を見まわし、散らかっているものを片づけ、器具を使って掃除をした。その動作もまた感じがよかった。
「これで少しはよくなったわ。お酒の用意、あたしがしてあげるわ」
室内の雑然さ、アル中の男の一人ぐらしのムードが一掃された。整理がすみ、女は電話をかけて材料をとりよせ、料理を作った。
午後の時間は楽しく過ぎていった。きのうのいまごろを考えると、あまりの変わりよう。男の心を時たま、信じられないといった思いが横切る。
「どうも夢のような気がしてならない」
「そんなことないわ。現実じゃないの」
「いったい、きみはどこから来たんだい。なぜここへ来たんだ……」
男は聞く。女は、その質問への答ははぐらかしてしまう。
「そんなこと、どうでもいいじゃないの。それとも、これじゃあ不満だとでもおっしゃるの」
そして、また陽気に歌いはじめる。男もくどくは聞かなかった。よけいなことは聞かないほうがいいのかもしれない。幸運をへたに突ついて、だめにしたらもともこもない。楽しければ、そんなことはどうでもいいことだ。
夜になり、空の星は美しかった。雨で洗われ、空気がすきとおっているからだろう。室内をステレオの音楽でいっぱいにし、ふたりは飲み、さわいだ。こんなこと、何年ぶりだろう。男は解放感を味わった。景気のよかった過去の思い出が、ここによみがえってきた気分だった。
夜がふけ、女は帰っていった。また来るわと言って出ていった。そのあとも、彼はひとりではしゃいでいた。いつまでも、ずっとこのにぎやかさをつづけたかった。よし、あしたは友人たちを呼び、いままでの不義理のおわびをかねて、大いにさわごう。
電話がかかってきた。
「おい、願いはかなったろう」
またも、あの声の主だ。
「はい。ありがとうございます。じつにすばらしい女性で……」
「ほかにも、かなえてもらいたい願いはないか」
「ほ、本当でございますか。できましたら、地位がいただきたい。金と女だけでは、いかにも安っぽいのです」
と男は言った。三回目ともなると、図々しい心境になっていた。といって、辞退しなければならない理由もないのだ。しかし、相手の声は立腹の感情もなく、例の事務的ともいえるそっけない口調だった。
「わかった」
電話は切れる。男はいい気分で横になった。そして、この幸運の訪れてきたわけ、あの声の主について、あれこれ想像してみた。大金を気前よく動かす力を持った者、美しい女にここへ来るよう命じる力を持った者。しかし、そんな人物がこの世にいるのだろうか。まるで手がかりがつかめなかった。しかも、なぜ自分のような人間が選ばれてこうなったのか……。
そのうち眠り、あとは夢になった。夢のなかで男は王子様になり、幸運の神に会った。しかし、幸運の神の顔にはベールがかかっていて、どんな表情なのか見ることはできなかった。
そのつぎの日も晴れていた。午前の明るさのなかで電話が鳴った。男は受話器をとる。むこうの声が言った。
「こちらはマーキュリー芸能財団でございます」
大きな劇場をいくつも持ち、世界的な活動をしている組織のことだ。なにかの問い合せだろうか。仕事をまわしてもらえるのだったら、どんなにいいだろう。彼は緊張して言った。
「はい、どんなことでしょうか」
「じつは、運営役員会議におきまして、あなたさまが企画局長の第一候補にきまりました。ご承諾のお気持ちがおありかどうか、内々でうかがっておきたいと思いまして……」
「なんですって、わたしが局長にとは。どうしてそんなことに……」
「役員たちの意見でございます。それ以上のことは、わたくしにはわかりません。もしご承諾のお気持ちでしたら、当方はその方針で進めます。しかし、正式な決定までは内密に……」
「わかりました。もちろん承諾しますよ」
男はますます楽しかった。運がむいてきたというわけだ。おれの才能をみとめてくれる人たちが、世の中にいたのだ。才能はあるんだ。真価を発揮できるような立場におかれれば、すばらしいことをやってみせる。おれはそういう人間なのだ。
その日、きのうの女はやってこなかった。しかし、男はそんなことはどうでもよかった。局長の地位への話は、さらに喜ばしいことだった。うきうきした気分で、祝盃をあげつづけた。
翌日は曇っていた。青空はごく少なくなり、雨はまだ降りはじめていないが、太陽の光は見えなかった。
昼ちかく、電話がかかってきた。
「こちらは信用調査会社でございます。ちょっとおたずねしたいことがございます。あなたは急に景気がよくなられたそうで、その事情をお教えいただきたいのです。もちろん、おさしつかえがありましたら、お答えいただかなくてけっこうでございます」
「うむ、それは簡単には言えないな」
「けっこうでございます。ついでですけれど、もうひとつ。最近ご交際をはじめられた女性について、できましたらお名前でも……」
「それは答えられないなあ」
事実、説明のしようがないのだ。調査会社の人はあきらめて電話を切った。男はちょっと、いやなものを感じた。相手はいまの答をどう受取ったろう。誤解されなければいいが。
なにか不安になり、それをまぎらそうと酒を飲んでいると、ドアのベルが鳴り、出てみるとこのビルの管理人だった。中年のまじめそうな人物だ。こんなことを言う。
「若い女のかたがおいでだそうで……」
「このあいだひとり遊びに来たよ。しかし、なんでそんなことを……」
「わたしの事務所へ来て、そんなことをしきりに聞いていった人がいましたのでね。なんでしょう。刑事かなにかじゃないですか」
「しかし、なぜ刑事と……」
「女の帰るのを見た人はいるかなんて聞いてましたよ。いいですか、犯罪のたぐいは困りますよ。変なうわさも……」
「とんでもない」
男は強く言い、帰ってもらった。不安がまた大きくなった。おれが金に困っていたことは、友人たちを聞きまわったらすぐわかることだ。あの女がやってきたことも、ビルのなかで見たと言う者が多いだろう。そして、急に景気がよくなったらしいとも……。
それらを結びつけると、どうなる。犯罪めいたものがひそんでいるとの印象を抱く人だってでてくるだろう。結婚詐欺、さらには殺人などと……。
男は背中につめたいものを感じた。さっきの調査会社のやつが、念のために警察へ問い合せたのかもしれない。彼は自分の立場を考え、身ぶるいした。そんなことはないとの反論ができないのだ。願いをかなえてやるとの電話、それと原因不明の入金、さらに申し出たら美女が訪れてきた。名前を聞きそこね、いっしょにさわいで帰っていった。こんな説明を、だれが信用してくれるだろう。疑いを深める役に立つだけではないか。
つじつまのあう形にするには、どうしたらいいのだろう。どうにも他人をなっとくさせる構成の方法がない。警察で取調べられるかもしれない。そこであやふやな答をすれば、ますます嫌疑が濃くなる。では、どうすればいい……。
男は酒を飲んだ。だが、その不安は消えなかった。気が小さい性格で、想像は悪いほうへと進む。あの女がやってきてくれればいいのだが、いくら待ってもあらわれなかった。名前も住所もわからず、こっちからはさがしようがない。
「どうなるんだろう」
つぶやき、酒を飲む。不吉な運命が近よってくるようだ。それを押しとどめようと、彼は酔いをめざした。なにもかも忘れてしまいたい。
また電話がかかってきた。
「地位の件の話はあったろう」
例の声だった。地位という言葉の重さを知らないようなそっけない声。男はいった。
「それどころではありません。ひどいことになりそうです。へたをしたら警察につかまり、裁判にかけられることにもなりかねません。あなたのせいだ。あの金、あの女、とんでもないことになりそうです」
「願いどころではないというわけか」
「そうですよ。なんとかしてください。へんなことに巻きこまれたくない。お願いです」
「よし、わかった。金も女も知らないと言え。問題のないよう処理してやるぞ」
「よろしくたのみますよ」
電話は終わった。そして、例の声の電話はもはやかかってこなかった。それからずっと。
雨はまた降りはじめた。暗い低い雲が空にひろがり、雨は降りつづけた。あの女はもはや訪れてこなかった。男は芸能財団に電話をしてみた。その返事はたよりなかった。そのようなことは知らないという。調査会社からの信用報告により、不適とみとめられたのだろうか。男はそうも想像し、はじめから幻のような話だったのかとも思ってみた。
銀行からは請求書の連絡があった。口座には大金があるはずだと聞きかえしたが、そんなものはないとの返事。出かけていって交渉しようにも、入金の立証のしようがないのだ。すべては以前の状態に戻ってしまった。
男は残り少ないグラスの酒をなめ、ソファーにねそべり、することもなく床をはいまわるアリを眺める。このあいだ、アリにウイスキーをたらしてみたな。アリはどう思っただろう。
男はぼんやりと思うのだった。この数日の事件。自分がアリであり、だれかがウイスキーをたらしたようなものじゃないのだろうか。反応を調べたいという、気まぐれなこころみ。いったい、それをしたのはなんなのだろう。しかし、とてつもない大きな存在としか想像できない。だれかに話してみようか。それはやめたほうがいいだろう。アル中のせいにされるにきまっているのだ。
そして、また羨望と嫌悪の念で考える。あんな電話が、いまごろはどこかの家にかかっているのではないかと。