般若心経を写してゆく
かつては薄緑色の光を放った
まろやかだったこの箸の先で
子燕のように口を開く吾子に
銀色に輝く命の糧を与えた
おとこへの届かぬ想いに
鰯のはらわたを突き刺した
子等が巣立った台所で
淋しさをついばんだ
燃焼しきれないままに
沈澱していた
愛が
嫉妬が
悲が
経を写す箸の先から滴り落ちて
不協和音を奏でる
ありったけのエネルギーを
箸の先に注いで
ぎしぎしと経を写していく
余力をたっぷりとたくわえた
少し黄ばんだ和紙が
言葉にできなかった
わたしのすべてを
ゆっくりと ゆっくりと
汲み取ってくれる
写経百回
余分のエネルギーを使い果たした後の
身の涼しさ
長年の自縛を解かれた
心の軽やかさ
まろやかさを取り戻した箸の先から
幽かに 幽かに
霧笛が聞こえてくる