大洋に浮かぶ独島でたった一人で生活していて進歩するのは、よほど意志力のある人でないとできないことだ。ロビンソン?クルーソーはその点でもたいへんな人物だ。しかし、彼とて進歩があったわけではない。人類文化の遺産をそのまま生活に生かす知恵を活用しただけだ。
われわれ凡人は、なにかを学びマスターしていくためには、必ず先人が必要だ。学ぶはまねること、つぎに自分で工夫し、模倣の殻を破り、元の型から離れて、独自の領域を築いていく。能では、この修行の過程を修、破、離という。
会社にはいる。上役や先輩が仕事を教える。上役のもてる技術?知識を吸取する。そして、やった結果を周囲の人のものと比べてみる。比べるものがあるから、標準がつかめ、良かったか悪かったかがわかるのだ。「競争社会」というと、たしかにイメージは悪い。いかにも血なまぐさい、無用な競争をしているかのように思われる。しかし、人間は、現実にこのような競争、比較があるから、進歩し、向上心に拍車がかかるのだ。血なまぐさくなるのは、結果を公正に評価しょうとせず、悪らつな手段を弄してでも、競争に勝とうとするからだ。
スポーツにおける競争のつもりで、競争すればよい。記録を更新した選手の功績をいきぎよくたたえ、健闘して破れる選手の努力にも心から拍手を送るのが、スポッツの競争である。仕事の上でも、これと同じような気持で公正に素直に結果を認め、評価する精神が必要である。 ビジネスは結果である。結果は自分で評価するものでなく、他人が、多くの目が評価するものだ。しかし、絶対的評価はない。すべては相対評価である。
人間は神様を目標においても、とても神様とは太刀打ちできない。あきらめるのがおちだ。しかし、隣の人ががんばっていれば、「なにくそ、おれも負けるもんか」とやる気が出る。励みになる。だから、仕事上のライバスを想定して、よい意味での競争をすることが、現実的な仕事上達法である。「○○君、ぼくと競争しよう」と公開で明朗にやるとよい。
しかし、 競争心がへんな方向にいくと、しっと、ねたみ、羨望、優越感、劣等感、敵愾心など、マイナスにはたらく心理も起こりがちだ。最終目的は、自己への挑戦であり、自分との戦いであることを忘れるからだ。ライバルを想定するのは、自分が、昨日の自分から今日の自分へと脱皮するための有力な手段なのである。