今からふりかえってみると、私も二十代は相当ガムシャラに思うことをやっていたらしい。当時の手帳をひっくりかえしてみると、「人のいうことをじっくり聞け」、「度量を大きく」などのことばが目につくところをみると、人のいうことを聞かないことを自分でも反省していたようにみえる。しかし、自分の主張をまげず、考えを貫こうとしていたのは、一面、それだけ真剣に仕事にぶつかっていたからではないか、とも考えられる。
学校を出て、仕事について四、五年たった二十代の半ばになると、仕事も一応はこなせる力をもつようになる。そうすると仕事がおもしろくなり、やる気も出てくる。自分のやり方、考え方が正しいと思って、強く主張するようになる。「あいつは生意気だ」といわれるのは、この年ごろである。
生意気と思われるのは、先輩やベテランに対して堂々と自己の考えを主張するからである。しかし、筋が通らなけらば、食ってかかるぐらいでないと、能力は伸びない。納得のいくまで主張する。へんな妥協はしないことだ。
若いうちは、「あいつは生意気だが、仕事には熱心だ」といわれるぐらいでよい。「あいつは人はいいが、仕事はどうも?????」といわれるようでは、先が見えている。
一つは、私心のない公憤というか、正義と道義に立った正論というか、ともかく、自己の利益や功名心に立った主張であってはないはい。同僚や上役と衝突しても、その主張が、青年らしい、明朗な、誠実な考え方であれば、たとえ少々極論であっても、「若いんだから」ということで気持ちよく許されよう。しかし、彼の行動がへんに世故にたけていて、個人的利己心がのぞかれるようなものであれば、もはや「血気のなせる業」として、許してはもらえない。
もう一つは、どんなに強く主張し、衝突してもよいが、先輩は先輩として、節度をもって説し、相手の主張にも十分耳を傾ける度量を忘れてはいけない。
別の項でもふれたが、人の言を十分に聞く素直な心がなければ、けっして自分が成長しない。人のいうことを十分聞き、それでもなお、自分が正しいと思ったら、それこそ「千万人といえども我行かん」の心意気で進むがよい。
「あいつは生意気だが、人間は誠実だし、やることに真実味がある」といわれたいものだ。