『ひとを“嫌う”ということ』(角川書店)の著者で、哲学博士の中島義道氏は、「嫌い」という感情を抱く自己正当化の原因は8つに分類できるという。妻と息子に激しく嫌われるようになったことがきっかけで、突如「嫌い」が人生最大のテーマになったという同氏。いわく、その苦しみから逃れる一番の方法は、人を好きになることと同様、人を嫌いになることの自然性を容認し、嫌いを抑圧しない代わりに、嫌いが生ずる仕方をつぶさに冷静に観察することだという。
なぜ自分は人から「嫌われ」、また、人を「嫌って」しまうのか。早速、その要因を検証してみよう。
(1)相手が自分の期待に応えてくれない
家庭における弱者が、強者に対して抱く大きな期待に応えてもらえなかった場合に起きがち。
子供は自分を捨てた親、可愛がってくれなかった親、ないがしろにした親を許さないし、また、妻は仕事でうだつのあがらない亭主、人生の戦いに負けた亭主、家庭を省ない亭主を許さないなど。
(2)相手が現在あるいは将来自分に危害(損失)を加える恐れがある
かつて自分に危害を加えた相手はもちろん、いつか近い将来、自分に危害を与えるのではないかという漠然とした不安を抱かせるような特定の人や、自分の弱みを握る人が対象に。また、自分が困っていた時に世話をしてくれた相手に感謝しつつも、次第に複雑かつ窮屈な心情に支配される恩をめぐる「嫌い」もある。
(3)相手に対する嫉妬
好きなように生きていそうな人に嫉妬する。自分より卓越した地位を築き、かつ見栄えのする人に対する嫉妬。とくに同じ価値観をもって同じゴールを目指して競い合っている同業者同士で嫉妬はつきもの。もともと自分により多く与えられていたものが、逆転して(さまざまな理由で)自分に近い者により多く与えられるとき、嫉妬は最高潮に達する。嫉妬には相手の没落を望む気持ちが影のようにつきまとう。
(4)相手に対する軽蔑
ほとんどの場合、瞬時に軽蔑の感情を抱く。その思想や信条に関係なく、その人の服装や身のこなしや言葉遣いやテーブルマナー等が発端となることが多い。軽蔑は嫉妬に比べるとはるかにドライな感情。自分は相手に対して優越感があるため、快適にすら感じる。
(5)相手が「自分を軽蔑している」という感じがする
自分の内にある「嫌い」の感情を発見したときに、それを正当化したい時に抱くケースも。「嫌い」という感情は、本来倫理的には称賛されず、不快な感情であるがゆえ、その原因を自分の内に求めるのではなく、相手のうちに求めようとする。自信のなさと怖れからくる。
(6)相手が自分を「嫌っている」という感じがする
相手が自分を嫌っているに違いないと思い込んだら、ほとんど必然的にそう思えてしまう。被害者が加害者を嫌うのは当然だが、あきらかに自分が加害者と認めている人もまた、被害者を嫌うことが少なくない。
(7)相手に対する絶対的無関心
あらゆる観点から相手に興味がなく、嫌いという感情すらなくても、相手にそれを見透かされ、自分に反感をもつ相手に対する本物の「嫌い」へと発展することがある。また、その人がいてもいなくてもいいと思っていても、目の前にその人がいると、他者との関わりの妨げになると感じる。
(8)相手に対する生理的・観念的な拒絶反応
その人のいかなる属性を上げるのでもなく、その人が属する集団を上げるのでもなく、まさに「その人だから嫌い」という感情。人は元来、観念的動物であり、一度嫌ってしまうとその人がどう努力しても観念を変えることはない。観念的・生理的な嫌悪感は、原因は解明されていない。
中島氏いわく、ほとんどのケースは(1)が基盤となり、(3)ないし(4)へと移行していき、最終的には(8)へと発展していって「嫌い」は完成されるという。
「嫌い」という感情に翻弄されそうになった時は、上記8つの要因のうち、どれにあたるのかをまずは観察してみよう。人を嫌いになることや、人に嫌われることを客観視できるようになれば、気持ちがグンと楽になる。過剰に自己嫌悪に陥りがちな人や、人にどう思われるかが不安で好きなことができないという人は特におすすめだ。
難しい言葉:
【うだつが上がらない】抬不起头来;翻不了身。
¶うだつの上がらない男/一个倒霉的男人。
¶あんな男は一生うだつが上がらない/那样人一辈子也翻不了身。