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第一卷 第二話  ビーフシチュー 1

时间: 2024-02-27    进入日语论坛
核心提示:第二話  ビーフシチュー     1 東本願寺の門前に植わる銀杏いちょうの木もすっかり葉を落とした。 師走しわすに入った
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  第二話  ビーフシチュー
  1
  東本願寺の門前に植わる銀杏いちょうの木もすっかり葉を落とした。
  師走しわすに入ったせいか、文字どおり僧侶たちが走り回る中で、艶あでやかな和服姿の老女ふたりは否いやが応でも目を引く。正面通の法ほう衣い店から、大きな紙箱を抱えて出て来た店員が、何者かというように、ふたりに目を向けた。
  着物姿には似つかわしくないほどの早足で歩くふたりは、侘わびた風情のしもた屋の前で立ち止まった。
  「食を捜してくれる探偵さんが居る店って、ここのこと?」藤色のケープをまとった、灘なだ家や信のぶ子こがぽかんと口を開いている。
  「看板はないけど『鴨川食堂』っていうのよ」来くる栖す妙たえがアルミの引き戸を横に引くと、信子が渋々といった風に敷居をまたいだ。
  「いらっしゃいませ。妙さん、遅いから心配してたんですよ」黒いパンツスーツに白いエプロンを着けた、鴨川こいしが笑顔を向けた。
  「お東さんへ寄り道をしてましたの。素通りするわけにはまいりませんから」鳶とび色いろのショールを取って、妙が椅子の背に掛けた。
  「寒おしたやろ」
  厨ちゅう房ぼうから鴨川流が顔を覗のぞかせた。
  「流さん、紹介するわ。こちら女子校のときからのお友だちで、灘家信子さん」妙に背中を押されて、信子はおっとりと頭を下げた。
  「鴨川流です。これは娘のこいしです」
  厨房から出て来た流は、前掛けで手を拭きながら頭を下げた。
  「ようここまで辿たどり着きはりましたね」
  こいしが信子と妙の顔を交互に見た。
  「この際ひとこと言っておきますけどね、あんな中途半端な広告はお止やめになった方がいいんじゃありませんこと? 信のぶちゃんから『料理春秋』を見せられて、たまたまわたしが鴨川と言う名前に覚えがあったから来れましたけど、そうじゃなきゃ、普通の方があの広告だけでここまで来られるはずがないじゃありませんか」妙が口調を強めた。
  「けど、こうやってお越しいただいとる。縁っちゅうのは、そういうもんなんと違いますか。『料理春秋』の一行広告だけで繫つながるご縁を大事にしたいと思うとります」流が唇を一文字に結んだ。
  「いいんじゃないの。こうやって無事に来れたんだし」信子がとりなした。
  「お友だちは妙さんと違ちごうて、静かな方ですな」「随分な言われ方ですこと」
  妙が小鼻を膨らませた。
  「まるで性格が違うのに、昔からなんだかとても気が合いまして」信子が妙の横顔を窺うかがう。
  「お飲み物はどうさせてもらいましょ?」
  こいしが訊きいた。
  「ちょっと冷えるから、一本つけてもらおうかしら」「お昼間にお酒なんて。今日はやめておきましょう」信子が妙をいさめるように言った。
  「どうしたのよ、信ちゃん。具合でも悪いの?」「そういうわけじゃないけど、今日は何だか、飲む気になれなくて」信子がテーブルに目を落とした。
  「リクエストしていただいた、点心てなほど立派なもんやないんですが、虫むし養やしないには、ちょうどええ按あん配ばいやと思います」流が松花堂弁当を妙の前に置いた。
  「ご無理を申しました」
  中腰になって、妙が一礼した。
  「えらい悩んではったんですよ、うちのお父ちゃん。大事なお友だちを連れて来はる妙さんに、恥をかかさんようにせなあかん、言うて」こいしが妙の耳元で言った。
  「余計なこと言わんでええ」
  信子の前にも弁当を置いて、流がしかめっ面を、こいしに向けた。
  「このお弁当箱は……」
  黒塗りの弁当箱を見て、信子が目を見開いた。
  「輪島です」
  「お弁当箱ひとつとっても、こうなんですから。わかったでしょ、信ちゃん、このお店のことが」
  誇らしげに妙が胸を張った。
  「容いれ物だけじゃないわよ。中身がまた……」蓋を取って信子が目を輝かせる。
  「素敵なお弁当だこと」
  妙が料理のひとつひとつに目を奪われている。
  「いちおう松花堂の内容を説明させてもらいますと、十字に仕切った右上は口取り、八寸みたいなもんです。こまごま入れさせてもろてます。右下は焼きもん、今日は寒ブリの照り焼きです。左上はお造りと酢のもん。明石の鯛たいと赤身は紀州のマグロ、唐津のアワビはさっと火を通してあります。宮島の穴子を炙あぶって、胡瓜きゅうりとミョウガで酢のもんにしてます。左の下は松まつ茸たけご飯。信州産ですけど、ええ香りしてます。あとで吸いもんを持って来ますんで、どうぞゆっくり召し上がってください」ふたりに一礼して、流が背中を向けた。
  「いただきます」
  妙が合掌してから、箸を取った。
  「美お味いしい」
  先に箸を付けた信子が鯛を嚙かみしめている。
  「お造りもいいけど、この八寸が素敵よ。カマスの棒ぼう寿ず司しでしょ、だし巻き、つくねは鶉うずらかしら。このタコの桜煮なんか舌に載せただけで、とろけちゃうわよ」妙がうっとりした表情で口を動かしている。
  「何年か前にお茶席で『辻つじ富とみ』さんのお弁当をいただいて以来かしら、こんな素敵なお料理」
  信子がタコに箸を伸ばした。
  「そうね。あのときのお弁当も美味しかったけど、こっちも負けてないわ。この香り、たまらない」
  松茸ご飯を口に含んで妙が目を閉じた。
  「ちょっとほめ過ぎと違います?」
  湯ゆ吞のみに茶を注ぎながら、こいしが横目で厨房を見た。
  「そうそう、信ちゃん、探偵事務所の所長さんは、このお嬢さんなの。こいしちゃん、後で話を聞いてあげてくださいましね」
  箸を置いて、妙がかしこまった。
  「わたしはただの聞き役で、実際に捜すのはお父ちゃんですけど」こいしが、はにかんだ。
  「遅ぅなりました」
  流が弁当箱の横に椀を置いた。
  「こちらは?」
  根ね来ごろ椀わんの蓋を取って、妙が訊いた。
  「グジと蟹かに身の椀です。寒うなりましたさかいに、葛くずを引いて、みぞれ仕立てにしました。熱いうちにどうぞ」
  盆を小脇に挟んで、流が答えた。
  「柚子の香りがいいですね」
  信子が椀に顔を寄せた。
  「西山の方に水尾という里がありましてな、そこの柚子ですさかい、香りはええと思います。さ、どうぞ」
  「かぶら蒸しみたいな感じね。熱々でおいしい」椀を持って、妙がこいしに言った。
  「やさしい味でしょ。うちの家ではこれをお鍋にするんです。みぞれ鍋。軽ぅに炙あぶったグジと蟹をお鍋の底に沈めといて、お出だ汁しを足したら、おろしたかぶらをたっぷり入れる。柚子と七味を薬味にして食べたら、身体からだがぽかぽかして来ますねんよ」よだれを垂らさんばかりに、こいしが熱く語った。
  「さ、早くいただいてしまいましょ」
  話に区切りを付けるように、妙が信子に言った。
  「デザートも、あ、水菓子もご用意してますんで、どうぞごゆっくり」こいしが肩をすくめた。
  「そう。日本料理にデザートなんてものはありません。フレンチじゃあるまいし」妙が小鼻を膨らませた。
  「妙さんはいつまでも昔のままね。おかしなことにこだわるのよ。そんなのどうだっていいと、わたしは思うんだけど」
  信子が椀を置いた。
  「どうでもよくはないわよ。文化が崩れていくのは言葉から。スイーツなんて平気で呼ばせているから、和菓子も堕落してしまうんでしょ」妙がブリを皮ごと口に入れるのを見て、信子もそれを真ま似ねる。
  「こうして妙さんと、ゆっくりお食事するのって、何年ぶりかしらね」「三み月つきほど前に横浜の『埜の田だ岩いわ』で鰻うなぎを食べたばかりじゃない。あのときもよく飲んだわね」
  箸を置いて、妙が茶を啜すすった。
  「すっかり忘れていたわ。なんだかこの半年ほどは、ぼーっとしてしまっていて」「その、ぼーっとして暮らして来た原因が、例のお料理ってわけね」「半年ほど前に、ふと思い出してしまって」
  食べ終えた信子が弁当箱に蓋をした。
  「お抹茶はどうしましょう」
  水菓子を運んで来て、こいしが妙に訊いた。
  「今日は遠慮しておきます。信ちゃんも気が急せいているでしょうから」妙の言葉に、信子が小さくうなずいた。
  「あら、代白柿じゃないの。今年はもう終わったかと思ってましたわ」「ダイシロガキ?」
  スプーンを持って、信子が首をかしげている。
  「関東じゃ、あまり見かけないでしょ」
  妙が夢中でスプーンを動かしている。
  「また器がいいわね。バカラのお皿に柿の色がよく映えて」「ただのバカラじゃないわよ。春はる海みバカラ。割かっ烹ぽうや料亭でも滅多に見ないわね。よくこんな器を持ってらっしゃる」
  妙が言うと、こいしがにこりと笑う。
  「お父ちゃんの自慢の器ですねん。まだ、ようけ持ってるみたいですよ。しょっちゅう、お母ちゃんに怒られてました。『またローンで買こうてからに』て」こいしが舌を出した。
  「こいし、余計なこと言うてんと、早はよぅ用意せんかい」流が厨房から顔を覗かせた。
  「はいはい。わかってるやん」と肩をすくめて見せた後、こいしは「ほな、奥でお待ちしてますんで」と、白いエプロンを外した。
  「ほんまに口の減らん娘で往生しますわ」
  厨房から出て来て、流がこいしの背中を目で追った。
  「いつもながら利発で、素敵なお嬢さんですこと」妙が少しばかり嫌味を含んだ口調で言った。
  「お口に合いましたやろか」
  弁当箱を下げて、流が信子に訊いた。
  「とてもおいしゅうございました。さすが妙さん行きつけのお店だと、ずっと感心しておりました」
  信子が言うと、妙がくすりと笑った。
  「そろそろ奥にご案内しましょか」
  流が柱時計を見た。信子は妙の横顔を窺っている。
  「ほな、ちょっとここで待っててくださいな」妙に向けた流の言葉に、信子は渋々立ち上がった。
  案内をする流の後を、信子が数歩以上も遅れて歩く。
  「気乗りせんのですか」
  立ち止まって流が振り向いた。
  「なんだか今になって怖くなってしまって」
  信子が床に目を落とした。
  「せっかくお越しになったんですさかい、話だけでもなさったらどうですか」信子から目を離し、流がまた歩き出した。
  壁一面を埋め尽くすように貼られた写真を見ながら、信子はゆっくりと歩く。
  「これまで作って来た料理やら、昔撮った写真ですわ」「……」
  一枚の写真に信子の目が釘くぎ付づけになっている。
  「叡えい電でんの踏切です。家内とふたりで初めて乗った記念に撮った写真です」信子の視線を追って、流が照れ笑いを浮かべた。
  「お連れしたで」
  ドアを開けるとソファが二台向かい合って置かれていて、奥には既にこいしが腰掛けていた。
  「どうぞお入りください」
  おずおずと信子が部屋に入る。
  「そない端っこに座らんと、真ん中に来てください。取って食べたりしませんよって」苦笑いを浮かべて、こいしが信子に言った。
  「慣れないことですので」
  「こんなことに慣れてる人なんかいてませんよ。とりあえずここに、お名前、年齢、生年月日、ご住所と連絡先を書いていただけますか」こいしがローテーブルにバインダーを置いた。
  ようやく心を決めたのか、信子はさらさらとペンを走らせる。
  「達筆やなぁ。わたしらと違うて字が上手や」「こいしさんって、愉快な人ね」
  信子がバインダーを返した。
  「どんな食をお捜しなんです?」
  ノートを広げてこいしが切り出した。
  「実はよく覚えてないんです。何しろ五十年以上も前、一度きりしか食べたことがなくて」
  信子が困惑した表情で答えた。
  「覚えておられることだけでいいので、お話しいただけますか。お肉なのか魚なのか、野菜なのか」
  「お肉と野菜を煮込んであったと思います」
  「和風ですか、洋風ですか」
  「洋風です。今から思えばビーフシチューだったのかなと」「どこで食べはったんです? お店ですか?」てきぱきとこいしが質問を重ね、わずかな間を置いて信子がそれに答える。
  「お店です。京都の」
  「京都のどちらのお店でした?」
  「それをまったく覚えていなくて」
  「大まかな場所だけでもいいんですが」
  「それもまったく……」
  信子がローテーブルに視線を落とした。
  「せめて場所のヒントくらい無いと」
  「そのお料理をいただいているときに、とても大きなショックを受けてしまって、前後の記憶がすっかり飛んでしまっているんです。気がついたら叔父の家に……」「叔父さんの家はどちらです?」
  「北浜というところにありました」
  「京都と違うんですか」
  こいしはノートから信子へ視線を移した。
  「ええ、大阪です」
  「でも、そのビーフシチューらしきものを食べたのは京都の店、なんですね。……差支えがないようやったら、そのショックを受けはった状況を、もう少し詳しいにお話ししてもらえます?」
  こいしが上目遣いに信子を見た。
  「昭和三十二年、今から五十五年ほど前に、わたしは横浜の女子大に通っていました。そこで妙さんとお友だちになったんです。日本の古典文学を学んでおりました。『源氏物語』や『方丈記』、それから『平家物語』。のめり込むようにして勉強していたんです。
  そんなときに、京都大学で同じ分野の研究をなさっている学生さんの論文を読んで、共感することが多かったので、お便りを出しました。それ以来何度かお手紙を交わし合って、初めてお会いすることになったのが、この京都だったんです。一週間ほど叔父の家に泊まりに行ったときのことでした」
  喉の渇きを癒すように、信子が湯吞みの茶を一気に飲み干した。
  「そのときが初対面で初デートということですか」こいしが目を見開いた。
  「今の方なら、それをデートだと思うんでしょうけど、ただ日本文学について、お互いの意見を戦わせる、いい機会だと思っただけで」「でも、話は弾んだんでしょう?」
  「それはもう。特に『方丈記』のことなどは、夢中になって語り合いました。というより、一方的に教わったというのが正しいでしょうね」信子が目を輝かせ、こいしはペンを走らせる。
  「話だけやのうて、相手の男性にも夢中にならはったんと違います?」ノートに目を向けたままのこいしの問い掛けに、信子は頰を真っ赤に染め、まるで少女のような恥じらいを見せた。
  「そんなこと……」
  「それやったら、ショックを受けるような話には思えへんのですけど」こいしが首をかしげた。
  「今のように自由な時代ではありませんでしたから、ずいぶん話しこんだあと、夕食に誘われたときも、正直なところ随分迷いました。なんだか、ふしだらに思えて」「そんな時代に生まれんでよかった」
  素直な言葉を口にし、こいしは慌てて口をふさいだ。
  「それだけでも負担に感じておりましたのに、食事中にいきなり切り出されて、頭が突然真っ白になってしまって」
  「お付き合いしてください、とでも言われはったんですか?」こいしが信子の顔を覗き込んだ。
  「それくらいのことで店を飛び出すような失礼はいたしません」「まさかのプロポーズですか?」
  大きな目を見開いたこいしの言葉に、信子は否定も肯定もせず、黙ってうつむいた。
  「で、お返事は?」
  こいしが身体を乗り出す。
  「お返事もできないまま、お店を飛び出してしまって」うつむいたまま、信子が答える。
  「その方は今どないしてはるんです?」
  「それっきりです」
  「ひえー。プロポーズされて、そのまま連絡もなしで、五十五年後の今に至る、ですか」こいしがソファにもたれかかった。
  「じゃあ、どうすればよかったと、おっしゃるんです?」信子がやっと顔を上げた。
  「すみません。そういう話やないんですよね。人生相談やなしに、食捜し。話を戻しますけど、それはどんなビーフシチューやったんですか」こいしが座り直して、膝を前に出した。
  「半分ほど食べたところで席を立ってしまったので、ほとんど覚えていないんです」「昭和三十二年ころの京都に、ビーフシチューを出す店って、どれくらいあったんやろ」こいしが自問自答するようにペンを走らせる。
  「ジャガイモとニンジン」
  信子が消え入るような声で言った。
  「は? 何ですて」
  聞き取れなかったのか、ペンを持ったこいしが耳をそばだてる。
  「注文を聞いてから、料理人の方がジャガイモとニンジンの皮を剝むいて、それを大きな鍋に入れた……」
  目を閉じたまま、信子が答えた。
  「そんな悠長なことして、お客さん怒らへんのかな。煮込んどいたんを温め直して出したらええのに」
  こいしが小首をかしげる。
  「お料理が出来上がるまでの間、とてもいい匂いが漂っていました」天井に目を遊ばせて、信子が記憶を辿っている。
  「それやったらプロポーズと違うて、お付き合いしてください、という意味やないんですか?」
  「わたしもそう思いました。やがてお料理が運ばれて来て、ひと口いただいたとき、あまりの美お味いしさに驚きました。初めて食べる味だったことは覚えております。父が肉好きだったものですから、うちでも似たような煮込み料理が出ましたが、それとはまるで別物でした。しつこくなくて、それでいてコクがある、そんなお味だったかと。そして半分ほどいただいたところで、あの方が突然……」「プロポーズされたんですね。で、動転して、お店を飛び出してしまわはった。で、その方のお名前は?」
  こいしがペンを構えた。
  「子ね元もとさんだったか、子ね島じまさん、いや、子ね川かわさんだったような」信子が天井を見上げた。
  「プロポーズされた人の名前を忘れはったんですか」呆あきれたようにこいしが訊くと、信子はこっくりとうなずいた。
  「苗字みょうじに子年の子が付くことだけはたしかです。子年生まれの子ナントカだと、駄だ洒じゃ落れをおっしゃっていたので。お住まいはたしか上京区だったかと」こいしがペンを走らせる。
  「わたしの様子がよほど異様だったんでしょうね、大阪の家に戻ると、叔父や叔母から、何があったのか訊かれ、ありのままを話したら、すぐに両親に連絡されて、手紙やら何もかも、あの方に関わるものはすべて処分されてしまいました。その時、記憶も消さなきゃいけないと自分に言い聞かせたのだと思います」「その方を捜すのが、一番早道やと思うたんですけど……。もうちょっとヒントをください。なんでもええんです、そのお店に行く前にどこかへ行ったとか」こいしがペンを二度、三度振った。
  「お店に行く前……。たくさん歩いたような……、そう、森の中を歩きました。深く暗い森だった」
  「森、ですか。京都は三方を山に囲まれているさかい、周りはみな森だらけ。森を歩いた、というだけでは、大したヒントにはならへんやろなぁ」こいしがノートに書き留める。
  「そう、森を抜けるとお宮さんがありました。そこで願いごとをして……」「鎮守の森も数え切れんくらい、京都にはあるやろなぁ」こいしがペンを走らせて続ける。
  「ちょっとずつ思い出してくれはるのは有難いんですが。なんぼ、お父ちゃんでも、これだけではなぁ」
  ページを繰りながら、こいしがため息を吐ついた。
  「難しいですか」
  信子が肩を落とした。
  「けど、なんで今になって、そのビーフシチューを食べたいと思わはったんです?」こいしの問いかけに、信子は大きくまたひとつため息を吐いてから語り始める。
  「今年四十になったばかりの、ひとり娘が居るのですが、ずっと独身を続けておりました。わたしが夫を早くに亡くしたものですから、行きそびれていたのだと思います。その娘が半年ほど前にプロポーズを受けましてね」目を輝かせて、信子が続ける。
  「お受けするかどうか、迷っていると申しました。そして〈お母さんは、どんなプロポーズをされたの?〉と訊かれて戸惑ったんです。夫とはお見合いで結ばれましたので、そういう機会はありませんでした。プロポーズと言って思い出すのは……」「五十五年前のこと」
  こいしの言葉に信子はこっくりとうなずく。
  「プロポーズされて、答えを出さないままでした。もちろん今更返事をどうこうというわけではないのですが、もしも食事を続けていたらその後の自分の人生は変わっていたのだろうか、と、たしかめてみたくなったんです」「わかりました。お父ちゃんの腕に期待しましょ」こいしがノートを閉じた。
  「よろしくお願いします」
  頭を下げてから、おずおずと信子が立ち上がった。
  廊下を歩いて、ふたりが食堂に戻ると、流と妙が向かい合って座り、何やら話し込んでいる。
  「ちゃんとお伝えできたの?」
  妙が信子に訊いた。
  「ええ。丁寧に聞いてくださって」
  信子が無表情に答えた。
  「次のお約束はしたんか?」
  流がこいしに訊いた。
  「肝心なことを忘れてたわ。信子さん、捜し出してそれを食べていただくのに、普通は二週間いただくんですが、再来週の今日でもよろしいか」「それでお願いできれば」
  こいしの提案に信子はすんなりと応じた。
  「間際になったら、改めてお日にちと時間をご連絡させていただきます」こいしがバインダーとノートをテーブルに置いた。
  「お代はいかほど」
  信子がバッグを開けた。
  「探偵料は後払いになっていますので、次回お越しになったときに。食事の方は……」こいしが流の顔色を窺う。
  「妙さんからおふたり分、ちょうだいしました」「あら、ダメじゃないの。ちゃんと別々にお支払いしないと」信子が財布を妙に差し出した。
  「この前のお返しよ。高い鰻をご馳ち走そうになったんだから」短いやりとりを終えて、妙が立ち上がった。
  「思いがけん、ゆっくりお話しさせて貰うて、楽しおした」流が妙と目を合わせた。
  「こちらこそ。余計なことまでお話ししてしまって」妙が横目で信子を見た。
  「これ! 入って来たらあかんよ、ひるね」
  こいしが引き戸を開けると同時に、トラ猫が敷居に足を掛けた。
  「ええか、ひるね。綺き麗れいなおべべ着てはるんやから、近付いたらあかんぞ」流がトラ猫をにらみ付けた。
  妙と信子は店を出て、ゆっくりと西に向かって歩き出す。流とこいしは、ふたりが角を曲がるまで、その後ろ姿を見ていた。
  「今回はけっこう難問やと思うで、お父ちゃん」こいしがノートを差し出した。
  「今回は、て、いっつも難問やないか」
  食堂のテーブルを挟んで、流がこいしと向かい合って座り、ノートを開く。
  「捜すのはビーフシチューなんやけどね、ちょっと訳アリなんよ。せやから、灘家さんが覚えてはることが断片的で」
  こいしが流の手元を覗き込んで、文字を指差す。
  「ビーフシチューか。しばらく食べてへんな。それで、なんやて。森と神社。注文してから野菜の皮剝き。干え支とはネズミ。大阪の北浜。なんのこっちゃねん」流がこいしに言った。
  「こんなんで捜せるかなぁ」
  腕組みをして、こいしが首をかしげた。
  「もうちょっと詳しいに話してくれるか」
  流がふたつの掌てのひらで頰を押さえ、テーブルに両りょう肘ひじをついた。
  こいしは順を追って、信子から聞いた話をありのままに伝える。そのつど、流はメモを取りながら、うなずく。沈黙を続ける流の顔を、こいしが覗き込む。
  「このビーフシチューを再現するのは、そない難しいことと違う」ノートに目を落としたまま、流が言った。
  「ほんまに?」
  こいしが目を丸くした。
  「それはええんやが……」
  流が額にしわを寄せた。
  「なんか問題あるん?」
  こいしが不審そうに訊く。
  「ま、いろいろや。とりあえずはビーフシチューを捜さんとな」言葉を濁して、流が立ち上がった。
 
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