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第六卷 第三話 じゃがたま 1

时间: 2024-03-05    进入日语论坛
核心提示:  1  東海道新幹線のぞみ号のドアが開くと、ステップに杖つえをついて、桐きり野の尭たか男おは慎重にホームに降り立った。
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  東海道新幹線のぞみ号のドアが開くと、ステップに杖つえをついて、桐きり野の尭たか男おは慎重にホームに降り立った。
  想像以上に京都の空気は冷たい。柱の陰に身を寄せた桐野は、タータンチェックのマフラーを締めなおし、フラノのコートの襟を閉じた。
  用心のために杖を持ってはいるものの、ふつうに歩く分には要らない。むしろ邪魔になるくらいなのだが、坂道を歩くときや、階段の昇り降りなどには、無いと不安になる。
  小さな黒いキャリーバッグの取っ手に杖を掛け、桐野はコンコースをゆっくり歩いて改札口に向かった。
  「この地図の場所に行きたいのだが」
  改札口の右端に立つ女性駅員に訊きいた。
  「ここが東本願寺さんていうことは、ここが烏から丸すま通で、こっちが七条通。これは正面通になるんかなぁ」
  手描きの地図の向きを何度も変えながら、女性駅員はひとりごちている。
  「ここから出てどう行けばいいかだけ教えてくれればいい」もどかしさを覚えた桐野は、ぶっきらぼうに言葉を掛けた。
  「ここまでやったら、ちょっと歩かんとあきませんけど、どないしはります? タクシーで行かはるんやったら、一階へ降りてもろてタクシー乗場に行ってもらわんとあきませんし、歩いて行かはるんやったら、東乗換口を出てもろて、地下へ降りて、真っすぐ北のほうへ歩いてもろたほうがええと思います」
  杖を横目で見て、女性駅員がていねいに答えた。
  「ありがとう。じゃ、タクシーで行くよ」
  桐野は八条口のタクシー乗場へ向かった。
  いかに観光都市京都であっても、真冬の平日となると駅のなかも閑散としている。キャリーバッグの音を立てながら、がらんとした通路をしばらく歩くとタクシー乗場が見えてきたが、客は並んでおらず、タクシーだけが長い列を作っているようだ。
  「この地図のところまでお願いします」
  タクシーに乗りこんで、桐野が年輩の運転手に地図を見せた。
  「本願寺はんの前の通りっちゅうことは正面通やなぁ。西行きの一方通行やさかい、間あい之の町まち通から行こか」
  眼鏡を額にあげた運転手は、桐野に地図を返してからサイドブレーキを外した。
  「近いところで悪いね」
  桐野はコートの内ポケットに地図をしまった。
  「それはかましまへんけど、地図に描いてた食堂てなもん、あの辺にはありまへんで。三年ほど前まではありましたけどな」
  運転手はルームミラーを通して、桐野と目を合わせた。
  「食堂には見えない店構えらしいから大丈夫だと思う。秘密の食堂ってとこかな」桐野はまだ見ぬ『鴨川食堂』を頭のなかで描いていた。
  「地図やとこの辺りになりますねんけど」
  スピードをゆるめて、運転手が通りの両側を見わたしている。
  「じゃ、ここで停とめてください。あとは自分で捜しますから。お釣りはいいです」そう言って桐野は運転手に千円札を渡した。
  「おおきに。ほな遠慮のう」
  後部座席のドアを開けて、運転手が満面の笑顔で桐野を見送った。
  「さてと。自分で捜すと言ったものの、食堂らしき店はどこにもないな」小さなキャリーバッグを引きながら、桐野は正面通の両側を順に見て歩いた。
  ──道に迷ったら、立ちどまって誰かに訊たずねるのが一番だ──桐野は自分が書いた小説の一節を思いだした。
  「すみません。この辺りに『鴨川食堂』というお店はありませんか」同年輩とおぼしき和服姿の女性に訊いた。
  「五軒ほど先の左側にありますよ。看板もありませんけど、引き戸を開けてお入りになれば大丈夫です。お食事ですか?」
  巾着袋を手にした女性が前方を指さした。
  「いえ。探偵さんに頼みごとがありましてね」「食をお捜しになっているんですね。うまくみつかることをお祈りしております」一礼して女性は背中を向けた。
  「失礼なことをお訊きしますが、『鴨川食堂』にはよく行かれるのですか?」「ええ。お昼は毎日のように。あなたは初めてでらっしゃるんでしょ。どちらからいらしたの……。ひょっとして桐野先生じゃありません?」女性が身体からだの向きを変えながら答えた。
  「桐野ですが、どこかでお会いしましたかな。もしや市いち岡おか妙たえ……」「よく覚えていてくださいました。来くる栖すに嫁ぎましたので来栖妙ですが」「え? 来栖くんと結婚したのかね」
  「もう亡くなりましたが」
  「そうでしたか。それにしても懐かしい。こんな偶然があるものなんだね」「先生もお元気そうで。いつもご活躍は拝見しておりますし、ご著書はぜんぶ買わせていただいておりますよ」
  「まさか市岡、いや来栖妙が『鴨川食堂』の常連だったとは」「それはわたしのせりふですよ。まさか桐野先生が食を捜しにいらっしゃるとは」巾着袋を胸に抱いて、妙が目を輝かせた。
  古典文学のサークルで二年後輩だった妙は、当時マドンナ的な存在だったが、今でも桐野の目にはまぶしく映る。
  「何十年ぶりだろうね。来栖さんはいつ横浜から京都に来たの?」「来栖が亡くなってからですから、京都に移り住んだのは十年ほど前です。それより、昔のように妙と呼んでください」
  「妙なんて呼び捨てにしてましたっけ」
  「鴨川さんとは時間のお約束とかなさってます?」頰を淡く染めて、妙が話の向きを変えた。
  「いえ。まったく。連絡もしておりませんので不安なのですが」「ではご案内いたします。ついさっき食事を終えたばかりですから、まだいらっしゃると思いますよ」
  妙が桐野の背中に手を添えた。
  「たすかります。昔から人見知りするものだから、ひとりだと心細くて」キャリーバッグを後ろ手にして、桐野がゆっくりと歩きだした。
  「たしかお住まいは東京でしたね」
  「柄にもなく高層マンション住まいなんだ」
  「おみ足の具合が悪いんですか」
  妙が心配そうな顔で杖に目を遣やった。
  「たいしたことはないんだが、無いと不安でね。女房を亡くしてから何もかも不安だらけで」
  「新聞で拝見しました。あの文学賞を受賞される直前だったんですってね」「生きていればどんなに喜んでくれたかと思うと悔しくてね」「ヘンな言い方になりますけど、奥さまが亡くなられてからのご活躍は目ざましいものがありますね」
  「人からよく言われるし、わたしもそう思うことがよくあるんだ。いけにえになってくれたような」
  「受賞作を読ませていただいたときに、わたしもそんなふうに思ってしまいました。奥さまのご苦労が作品に深みを与えているような、なんてえらそうなことを言えるほどの読み手ではないのですが」
  「いやいや、あのころから妙は一流の読み手だったから、的を射ていると思うよ。もっとも書くほうはまるでダメだったけどな」
  「先生の正直なおっしゃりかたも、ちっとも変わってませんわね」妙が桐野の肩を軽くたたいた。
  「その、先生ってのはやめてくれないか。わたしも昔のように尭男さんて呼んでくれよ」「尭男さん、こちらが『鴨川食堂』ですよ。どうぞお入りくださいましな」妙が芝居じみた口調で引き戸を開け、桐野は苦笑いしながら敷居をまたいだ。
  「いらっしゃい。あれ? 妙さん、忘れもんですか?」「こいしちゃん、お客さまをお連れしたわよ。食を捜してらっしゃるんだって。桐野尭男さん。あなたは知らないかもしれないけど、有名な作家さんなのよ」桐野が会釈した。
  「どうぞお掛けください」
  頭を下げながら、鴨川こいしがテーブル席へふたりを招いた。
  「桐野はんて、あの桐野はんか?」
  鴨川流が暖の簾れんをかき分けて厨ちゅう房ぼうから飛びだしてきた。
  「桐野です。突然お邪魔して申しわけありません」桐野が中腰になって頭を下げた。
  「本物の桐野はんや。おこしやす。鴨川流です」和帽子を取って、流が深く腰を折った。
  グレーのカーディガン姿になった桐野は、脱いだコートの置き場所を目で捜している。
  「やっぱり流さんはご存じでしたね」
  コートを掛けて、妙が桐野の隣に座った。
  「ご存じも何も、前から桐野尭男の大ファンやがな。作品はみな読んどる。特に受賞作は何べん読んだか分からんぐらいや。あの寺が薩さつ摩ま病院と呼ばれとったころのくだりなんかは、涙なしでは読めん。ほんまに妙さんのお知り合いやったんですか」流が目を丸くした。
  「半世紀ぶりにお会いしましたのよ」
  「偶然会わはったんですか」
  こいしが茶を淹いれた。
  「『鴨川食堂』を捜していて、道を訊ねたらそれが偶然妙だったんだよ」桐野が相好を崩した。
  「美食家としても名高い桐野はんにお出しできるようなもんやおへんけど、よかったらなんぞお作りしまひょか。さいぜん妙さんに食べてもろた縁ふち高だかとおんなじでよかったら、すぐにできますけど」
  流がおそるおそるといったふうに訊いた。
  「願ってもないことです。是非お願いします」桐野が言葉に力をこめた。
  「桐野はんに食べてもらうやなんて、思うてもいまへんでしたさかい、えらい緊張しますわ」
  「さっきの縁高のお料理でしたら大丈夫。わたしが太鼓判押します。それにね、今でこそ美食家だなんて言われてますけど、若いころはカレーライスにソースをじゃぶじゃぶ掛けたり、味が薄いと言って焼飯にお醬しょう油ゆを掛けたりしてらしたんですから」「妙の言うとおりです。生まれが東北なところにもってきて、貧乏暮らしが長かったものですから。賞をいただいてからですよ。真っ当な食事をできるようになったのは」「余計なことを言ってごめんなさいね。でもわたしは好きでしたよ、あのころの尭男さんの食べっぷり。男はこうでなくちゃ、って感じでしたから」「とにかく食べてもらわんことには話にならん。すぐにご用意しますわ」和帽子をかぶって、流が厨房に入っていった。
  「じゃ、わたしはこれで失礼します。お会いできて嬉うれしゅうございました」妙が立ちあがると、桐野はあわてて茶を飲みほした。
  「もう帰っちゃうのかい。よかったらもう少し付き合ってくれよ」「だいじなお話もあるのですから遠慮しておきます。またきっとお会いできると思いますよ。尭男さんの連絡先をこいしちゃんに伝えておいてください。わたしのほうも、こいしちゃんに訊いてくだされば分かりますから」
  「残念だが、あなたもご都合があるだろうから」渋々といった顔つきで立ちあがった桐野が、店を出てゆく妙の背中を見送った。
  「お飲みもんはどないしはります? さぶいさかいに熱あつ燗かんでもお出ししましょか」
  間を置かずこいしが訊いた。
  「いいねぇ。って言っても下戸に近いから、ほんの少し、なめる程度でいいですから」「ほな一合徳どっ利くりをお持ちしますわ」
  小走りになったこいしが、厨房との境に掛かる暖簾をくぐった。
  石油ストーブの匂いがかすかに漂う店のなかを、桐野はあらためて見まわした。
  生まれ故郷の盛岡にも、学生時代を過ごした横浜にも、こんな食堂はいくらもあった。
  だが、いつもぎりぎりの暮らしをしていたこともあって、どこの店でも、安くて腹のふくれるメニューばかりを頼んでいた。
  横浜時代の唯一の例外ともいえる贅ぜい沢たくな食事は、サークル仲間との食事会だった。日程が決まると、その日に向けて貯金をし、更なる貧乏暮らしを続けた。白飯に醬油やソースだけを掛けて食べるのは日常茶飯のことで、米が足りなくなると、出がらしの茶で茶ちゃ粥がゆにして、塩を掛けて食べた。
  所帯を持ってからも、暮らし向きはたいして変わることはなかった。売れない小説を書き続けているあいだは、妻の美み根ね子このパート収入に頼りきりだった。たまに馴な染じみの編集者から依頼され、文芸誌に寄稿したあとに原稿料が入金されると、美根子と連れだって、近所の食堂に出かけるのが唯一のご馳ち走そうだった。その食堂によく似た作りの店だ。
  「お待たせしましたな。大だい徳とく寺じ縁高てな、たいそうなこと言うとりますが、弁当みたいなもんです」
  厨房から出てきた流は、桐野の前に春しゅん慶けい塗の器を置いた。
  「茶道にはうといのだが、茶席で出されたことがあるような」桐野が左右から器を眺めた。
  「妙さんのお好みに合わせた料理を盛りこんでおります。鰆さわらの幽ゆう庵あん焼、出だ汁し巻き玉子、利り休きゅう麩ふと椎しい茸たけの白しら和あえ、蒸しハマグリ、鹿肉の竜田揚げ、蛸たこの桜煮、車くるま海え老びの殻焼、細魚さよりの昆こ布ぶ〆じめ、鰻うなぎの八や幡わた巻まきと、物もっ相そうご飯は鯛たい飯めしになっとります。どうぞごゆっくりお召しあがりください」
  緊張した面持ちのまま一礼して、流が厨房に戻っていくと、入れ替わりにこいしが桐野の傍そばに立った。
  「姫ひめ路じの『八や重え垣がき』です。ちょっと熱いめに燗付けてます。あとでお椀わんをお出ししますよって、声を掛けてください」九谷焼の徳利と杯さかずきを置いて、こいしが流と同じような仕草をした。
  桐野は徳利から酒を注つぎ、杯で口を湿してから箸を取った。
  最初に箸を付けた細魚の昆布〆には、細切りにした塩昆布とワサビが載せてあり、そのまま口に放りこむと、上品な香りが鼻に抜けていった。
  幽庵焼はたしか柚ゆ子ず風味のポン酢に漬けて焼いたものだったと記憶する。串を打って焼いた跡が残っている切り身を、箸で半分に割り、小さいほうを口に入れた。これもまた細魚と同じように上品な後味が残る。
  ご馳走とはこういうもののことを言うのだと知ったのは、ごく最近のことだ。文学賞を受賞したあと、あちこちから声が掛かり、贅沢極まりない会食漬けの日々を送った。
  世の中にはこんなに旨うまいものが溢あふれているのか。驚きの連続だった。
  フカヒレだ、キャビアだ、フォアグラだ、トリュフだと、生まれて初めて食べる高級食材も、二度三度と重なると感激も薄れてしまい、もっと旨いものはないのか、と果てしない欲望が生まれてくる。
  そんな日々をつづった小説が売れるのだから、世の中は不思議に満ちている。
  桐野は鯛飯を口に入れ、蒸しハマグリ、鹿肉の竜田揚げと、速いペースで食べ進み、小こ半はん時ときと経たたずに縁高はほとんど空になった。
  「もっと早はよぅにお持ちしたらよかったですな。寒い時季でっさかいに粕かす汁じるにしました。鮭さけの身ぃをほぐしたんと、お揚げさん、大根と人にん参じんが入っとります。お好みで七味を振ってください」
  黒い合ごう鹿ろく椀を桐野の前に置いて、流が小さな竹筒をその横に添えた。
  「昔からの早飯のクセはなかなか抜けんもんですな。酒を飲むようになって、少しはゆっくりになったと思うんですが」
  「ゆっくり召しあがっていただいて、落ち着かはったら声を掛けてください。こいしが奥で待っとりますんで」
  「美お味いしい料理に夢中になってしまって、肝心のことをうっかり忘れるところでした。すぐにいただきますから」
  合鹿椀を左手に持ち、桐野は急いで粕汁をかきこんだ。
  「そない急いでもらわんでもええんでっせ。なんぼでも待ってまっさかい」桐野の食べっぷりを見て、流が苦笑いした。
  「自分が待つのがきらいなものだから、人を待たせるのも好きじゃないんだ」箸を置いて桐野が立ちあがった。
  「急せかしたみたいになってしもて、すんませんでしたなぁ」探偵事務所へと続く廊下を歩く流が振り向いて会釈した。
  「この料理はぜんぶ鴨川さんがお作りになったものですか」立ちどまって桐野が廊下にびっしり貼られた写真を見つめた。
  「覚え書きみたいなもんですわ。レシピっちゅうもんを作りまへんさかい、どんな料理を作ったか、すぐに忘れてしまいますねん」
  「それにしても幅が広いですな。和洋中なんでもござれ、といったところですか」桐野が写真に目を近づけた。
  「器用貧乏ていうやつです。見よう見まねでたいていの料理は作れるんでっけど、これっちゅう得意料理もありまへん」
  「あなたの隣で蕎そ麦ばをたぐっておられるのは奥さんですか?」「そうです。信州で食べた蕎麦の香りが弱いと言うとるとこですわ。口達者なやつでしたわ」
  写真に近づいて、流が目を細めた。
  「でした、とおっしゃるのは……」
  「この写真を撮った二年後くらいでしたかなぁ。病気で亡くなりました」「そうでしたか。あなたもおなじ男やもめだったんですな」「桐野先生の奥さんは、たしか受賞なさる直前に……」「こうして写真を残しておられるのはえらいですな。旅行なんか連れて行ったこともありませんし、ふたりで外食する機会もほとんどなかった」桐野が声をつまらせた。
  「後悔しだしたら、キリがありまへんわ」
  流が歩を進めた。
  離れて歩くふたりのあいだに重い空気が横たわる。
  それぞれの胸に去来するものは違っても、それらを受けとめる気持ちは同じなのだろう。ふたりの乾いた足音だけが細長い廊下にひびく。
  「あとはこいしにまかせますんで」
  突き当たりにあるドアをノックして、流は廊下を戻りはじめた。
  「どうぞお入りください」
  ドアを開けて、こいしが桐野を招き入れた。
  「京都の〈鰻の寝床〉というのはこういうことを言うんだね。外観からは想像もできないほど奥が深い」
  ロングソファに腰かけて、桐野は興味深げに部屋のなかを見まわした。
  「この辺のおうちはたいていこんな感じなんですよ。早速ですけどこちらに記入してもらえますか?」
  こいしがローテーブルにバインダーを置いた。
  「分かりました。うそ偽りなく」
  桐野が申込書にペンを走らせた。
  「お茶でよろしいか? それかコーヒーにしはります?」「あたたかいお茶をいただきます」
  書き終えて桐野がバインダーをローテーブルに戻した。
  「桐野尭男さん。本名なんですね。東京都新宿区でおひとり暮らし。お仕事は作家さん。
  で、どんな食をお捜しなんですか?」
  こいしがノートを広げた。
  「うちでは〈じゃがたま〉と呼んでいたのだが、ジャガイモとタマネギを炒いためて玉子でとじたシンプルな料理なんだ」
  「ほんまにシンプルですね。お店やのうて、おうちで食べてはったんですか」「女房の得意料理だったんだ。得意というのも少し違うかな。金がないときの苦肉の策というか、安くてボリュームがあって、簡単に作れる料理」桐野が口元をゆるめた。
  「奥さんが生きてはったら捜す必要はないんですよね」こいしの問いかけに桐野は黙ってうなずいた。
  「どんな味が付いてたんです?」
  「料理自体には味は付いていなかったように思う。ソースをたっぷり掛けて食べるんだよ。これがまたご飯によく合うんだ」
  「ジャガイモとタマネギはどんなふうに切ってあるんですか?」「薄切りというのかね。五ミリぐらいの厚さに切ったジャガイモと、タマネギはどうだったかなぁ。適当に切ってあったような気がする」「ァ∴レツとは違うんですね」
  「ァ∴レツって感じじゃなかったな。玉子料理じゃなくて、主役はあくまでジャガイモとタマネギなんだよ」
  「なんとなく想像できるような、できひんような」こいしがノートにイラストを描いた。
  「ちょっと違うなぁ」
  向かいから覗のぞき込こんで桐野が首をかしげた。
  「違いますか」
  こいしがイラストにバツじるしを描きたした。
  「ジャガイモはこんなふうな切り方がしてあって、タマネギはそうだなぁ、こんな感じかな。で、玉子はそんなに目立たない」
  桐野が自らペンを取ってイラストを描きつけた。
  「これに上からソースを掛けて、ご飯のおかずにするんですか。たしかに美味しそうやなぁ」
  桐野のイラストを見ながら、こいしが描きなおした。
  「そうそう。だんだん近づいてきた。こんな感じだったなぁ。一度醬油を掛けてみたことがあったんだが、まったくダメだったね。これはソースじゃないと美味しくないんだよ」桐野が生つばを吞のんだ。
  「たしかに材料費も安いし、簡単にすぐできて、ご飯にもよう合いそうやわ。奥さんがご自分で考えはった料理なんやろか」
  「女房は生まれも育ちも福島だったから、あっちの郷土料理か何かかと思って調べてみたことがあるのだが、見つからなかった。おそらくは自分で考えついたんだろうと思う。苦しい家計をやりくりするための苦肉の策だったんじゃないかな」「野菜がようけ採れる福島やったらありそうやけど、違ちごうたんですか。まぁ、ジャガイモとタマネギと玉子ていうたら、たいていの家にはいつでもあるし、誰でも思いつく簡単な料理やとも思いますけどね」
  自分で描いたイラストを見ながら、こいしが腕組みをした。
  「捜してもらえそうですか?」
  桐野が上目遣いでこいしの顔を覗き込んだ。
  「シンプル過ぎて難しいような気もしますけど、お父ちゃんやったら捜してきはると思います」
  「あれほど素晴らしい料理をお作りになるのですからね」桐野がホッとしたように、ソファの背に深くもたれかかった。
  「ところで、今になってこの料理を捜そうと思わはったんはなんでなんです?」こいしがノートのページを繰った。
  こいしの問いに、桐野は天井をあおぎ、長いため息をついた。
  そのままの姿勢でじっと天井に目を遣っていた桐野は、ゆっくりと背中を起こし、こいしに語りかけた。
  「今でこそ、そこそこ売れるようになって、食うことにはまったく不自由してないのだが、あの賞をいただくまでは、食うや食わずの時代がずっと続いていてね。いつかきっと売れっ子作家になって、旨いもんを好きなだけ食えるようになってやる。それがわたしの夢だったんだよ。いや、わたしだけじゃない。女房も同じ夢をみていたはずだ。だが、悔しいことに、わたしだけがその夢を叶かなえることができて、一番苦労を掛けた女房は夢を果たせなかった。本当に申しわけなくてね。だが、人間ってのは哀かなしいことに、だんだん記憶が薄れてゆくんだよ。女房にはすまないと思いながらも、毎日のように贅沢な食事を続けていてね、これまでの貧乏暮らしの分を取り戻すようにして、旨いもんを食べ歩いている。編集者のなかには、わたしに売れなかった時代があったことを知らない人もいるわけで、そういう人たちは、わたしが美食家だと思い込んでいる。だから銀座の鮨すし屋やだとか、京都の割かっ烹ぽうだとか、ときには香ホン港コンの中華の名店に誘ってくれるんだ。毎日のように贅沢な美食を続けていると、ふと昔が懐かしくなってきてね、初心に帰るっていうか、あのころのハングリーな自分に戻りたいと思うようになってきた。金がないときはないなりに、素食が旨いと思うときもあったんだ。それをたしかめたくなったんだよ」
  一気に語って、桐野はまたソファに背中をあずけた。
  「なるほど。よう分かりました。お父ちゃんにがんばってもろて、捜しだしてもらいます」
  こいしがノートを閉じた。
  「どうかよろしく頼む」
  身体を起こして、桐野がローテーブルに両手をついた。
  こいしが先を歩き、やや遅れて桐野が長い廊下を歩いてゆく。
  幾度も立ちどまり写真に目を近づける桐野を、こいしはその度に振り向いて歩をゆるめる。
  「お父さんがあれほど料理がじょうずだったら、お母さんはあまり料理をなさらなかったんじゃないですか?」
  「そんなことなかったですよ。うちではお母ちゃんが料理作って、お父ちゃんは食べるほうでした。お味み噌そ汁しるやとか、おうどんとかは絶対お母ちゃんのほうが美味しかった」
  こいしが語気を強めた。
  「そうでしたか。それは失礼しました。わたしは料理はもちろん、家事というものを一切やらない人間なので、夫婦のうちどちらか一方がやれば、もう片方は何もしないものだと思い込んでいました」
  二、三歩歩いてまた桐野が写真の前で足をとめた。
  「専業主婦いうのも大変みたいですけどね」
  こいしが前を向いてゆっくりと歩きはじめた。
  「うちの女房はパートに出て稼いでくれてましたから、専業主婦でもありませんでした。
  あのころのわたしはヒモのような存在だったと思います」「ようできた奥さんやったんや。どこで出会わはったんです?」「見合い結婚なんだよ。文学好きの女性でいい人だ、と言って叔母が奨すすめてくれて、会ってみたら息もぴったり合って、すぐに結婚を決めたんだ。生まれと育ちは福島の田舎のほうなんだが、京都の女子大で文学を学んだから、バランスも取れていて。わたしには過ぎた人だったよ」
  「京都の大学に行ってはったんですか?」
  振り向いて、こいしが高い声をあげた。
  「見合いの席でその話を聞いて、それも決め手のひとつになったかな。田舎暮らしに京都のエッセンスが加われば言うことはない。一緒に暮らすようになって、実感したよ」「たとえばどんなことですか?」
  「京都で学生生活を送っているときに、茶道を習っていたそうなんだ。それがちゃんと身についていて、ちょっとした仕草やなんかが上品で」「うちもお茶を習わんとあかんな」
  こいしが舌を出して苦笑いした。
  「あんじょうお聞きしたんか」
  食堂に戻ると、流が待ちかまえていた。
  「ばっちりやと思うけど、ちょっと難しいかもしれんなぁ」「どっちやねん」
  流がこいしの背中をはたいた。
  「わたしの説明が頼りないものですから、お手をわずらわせるかと思いますが、なにとぞよろしくお願いいたします」
  姿勢を正して、桐野がふたりに一礼した。
  「今日はこれからどうされるんです?」
  流が訊いた。
  「せっかくだから京都で一泊して帰ります。都合が合うようなら妙と夕食にでも、と思っているのだが」
  「きっとそうやないかと思うて、妙さんの携帯番号をメモしときました。たぶん妙さんも連絡を待ってはると思いますえ」
  こいしがメモ用紙を手渡した。
  「お気遣いいただいてありがとう。うまく時間が合えばいいのだが」桐野がメモ用紙をていねいに折りたたんで、カーディガンのポケットに仕舞った。
  「それにしてもびっくりしましたなぁ。妙さんと桐野先生がお知り合いやったなんて」流が店の外に送りに出てきた。
  「わたしもですよ。まさか妙とここで出会うとは」「ご縁て不思議ですね」
  桐野のねじれたマフラーを、こいしが巻き直した。
  「そうそう。次はどうすればいいんだ?」
  「だいたい二週間あったら捜しだせますんで、そのころに連絡させていただきます。お越しになれる日を言うていただいたら」
  「うっかり忘れていた。今日の食事代をお払いしなきゃ」桐野がコートの内ポケットを探った。
  「探偵料と一緒にいただくことになってますんで」「では次回に必ず」
  会釈して、桐野が正面通を西に向かって歩きだした。
  「お気を付けて」
  その背中に声を掛けて、ふたりは店に戻った。
  「先生は何を捜してはるんや」
  急かすように流がこいしに訊いた。
  「〈じゃがたま〉ていう家庭料理やねん。ジャガイモとタマネギを炒めて玉子でとじただけていうシンプルな料理やさかい、よけいに難しいかもしれんわ」こいしがノートを開いて、桐野が描いたイラストを見せた。
  「これはひょっとして桐野先生が描かはったんか?」「そうやけど」
  「今度サインしてもろとこ。お宝やで」
  「そうかもしれんけど、なんや頼みにくいことない?」「その〈じゃがたま〉たらいう料理を捜しだしたら記念にはなるわな」流がノートをていねいに閉じた。
 
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