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第七卷 第一話 ビフテキ 1

时间: 2024-03-05    进入日语论坛
核心提示:  1  東海道新幹線の〈のぞみ九号〉は新横浜駅を朝七時二十九分に発車して、九時二十二分に京都駅に着く。  老いた親との
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  東海道新幹線の〈のぞみ九号〉は新横浜駅を朝七時二十九分に発車して、九時二十二分に京都駅に着く。
  老いた親との旅はグリーン車が安心だ。八号車の十番C席が大だい道どう寺じ茜あかねの席で、窓側のD席には、茜の父である茂しげるが座り、両手をいっぱいに広げて新聞を読んでいる。
  茜と茂が向かっているのは、京都『東ひがし本ほん願がん寺じ』近くにある『鴨かも川がわ探偵事務所』。
  茜が編集長を務めている「料りょう理り春しゅん秋じゅう」に──食捜します──という一行広告を出稿しているのが『鴨川探偵事務所』で、ふたりは食を捜しに行くところだ。
  「茜。東京で来年ァ£ンピックが開かれるって、おまえは知ってたのか?」茂は紙面から遠ざけた目を茜に向けた。
  「そうらしいわね。ニュースではよく目にするけど、あんまり興味ないから」車内販売のコーヒーを飲みながら、茜はスマートフォンから目を離さずにいる。十月に入ったとは言え、蒸し暑い日が続いている。茜は黒い半袖のワンピースにミュール履きという夏っぽい装いだ。
  「東京ァ£ンピックなんてものは、ひとの一生に一度でいい。二番煎じなんぞは要いらん。茜もそう思うだろ」
  広げた新聞越しで茜に向けた目がきらりと光る。
  長く教きょう鞭べんをとり、教育界の重鎮として鋭く光らせてきた眼光は、八十歳を超えた今に至っても、まったく輝きを失っていない。茜から見れば明らかに認知症に思えるのだが、たまに筋の通ったことを言うから、主治医は深刻な状態ではないと言う。加えて傍若無人ぶりも健在だ。娘だから我慢しているが、これが夫や恋人だったら、目の前に迫ってくる、新聞を広げる手をぴしゃりと叩たたいているところだ。
  「一九六四年の東京ァ£ンピックって、わたしはまだ子どもだったから何も覚えてないよ。お父さんから聞いたり、映像を見たりしたことで、なんとなく経験したような気になっているだけでさ。だから、二度目っていうふうには思えないんだよね」やんわりと茂の手を押し返した。
  「それはいいが、これからどこに行くんだ? 今乗ってるのは新幹線だろ」どんなに眼光は鋭くても、頭のなかはどんよりとにごっている。たった三十分前に言い聞かせたことが、もう茂の頭には残っていない。
  グレーのジャケットにエンジ色のネクタイを締めた茂は、険しい目つきで窓の外を眺めている。
  「京都に行くのよ。美お味いしいものを食べにね」さっき言ったでしょ、とか、もう忘れたの、とか、責めるような言葉はけっして使わない。かならず諍いさかいになるからだ。
  「そうだ。そうだったな。京都には旨うまいものが山ほどあるから」茂の顔が一気にやわらいだ。
  ほんとうなら富士山が見えるはずなのだが、厚い雲に覆われた空に顔を見せる気配はまるでない。
  「京都に着いたら何が食べたい?」
  無駄な問いかけだと分かっていても、聞かずにおれないのは、娘だからなのか。それとも編集者の性さがなのか。
  「なんでもいいよ、百ゆ合り子この好きなものにしなさい」言葉だけでなく、口調もいつもと寸分たがわぬ様子だ。
  完全リタイアした十年前から、茂の様子が少しずつ変化してきた。認知症とおぼしき症状が徐々に進行してきているのだ。八年前に妻の百合子を亡くしてからは、いっそう拍車が掛かったように見える。ここ一、二年は茜と百合子を混同することが目に見えて増えてきた。
  たしかに自分でも百合子に似てきたと思っている。お盆に会った叔母には瓜うりふたつだと言われたし、そこに母が居るのかと、鏡を見てぞっとすることもよくある。茂にしても、最初はただ名前を呼び間違えているだけだと思ったが、茜を百合子と思いこんでいるのだと分かってきた。
  食べ物にうるさい茂は、こと細かに百合子に注文を付けていた。茜が子どもだったころには、気に入らない料理が出ると、ちゃぶ台返しのような乱暴なこともしていた。畳の上に散乱している皿や料理を、無言で片付ける百合子を見て、なんと哀れな母親なのだろうと思ったのを、まるで昨日のことのように思いだしている。
  「なんでもいいよ」
  窓の外を眺めながら、また茂がつぶやいた。
  あれほど食にうるさかった父が、今では自分が何を食べたいかということすら分からなくなっている。百合子の積年の恨みがそうさせているのではないかとさえ思ってしまうほど、今の父は哀れだ。
  見合い結婚だと聞いたが、百合子はなにを思って茂と一緒になったのだろう。仕事に明け暮れていた茂の面倒をみるためだけの暮らしのどこに、百合子は生きがいを見つけていたのか。今もって茜にはまったく理解ができない。
  新聞を膝に置いたまま寝息を立てはじめた茂は、京都に近づくまでずっとおなじ姿勢で眠り続けた。
  〈のぞみ九号〉を降りたふたりは、JR京都駅の八はち条じょう口を出てタクシーに乗りこんだ。
  「近くて申しわけないけど、間あい之の町まち通から正しょう面めん通を西に入ってもらえますか」
  地図を見せながら、茜がドライバーに行先を告げた。
  「お仏壇でも探してはるんでっか」
  白髪のドライバーの言葉は本気か冗談か判別がつかない。
  たしかに仏壇屋や仏具商が軒を並べる界かい隈わいだが、高齢者を連れた客に言う言葉かと思う。近距離客に嫌味のひとつも言いたかったのだろうが、無言で発進する不愛想なドライバーよりはましかと、茜は苦笑いした。そのあいだも茂は表情ひとつ変えず、ずっと窓の外を見つめている。おそらくここが京都だということすら分かっていないのだろう。
  仕事以外の目的で京都を訪ねるのは何年ぶりになるのか。少なくとも十年は経たっているはずだ。電話で声を聞くことはあるが、鴨川流ながれと最後に会ってからもおなじくらいの歳月が過ぎている。
  案じていた老齢のドライバーだが、運転と土地鑑はしごくまともで、スムーズに『鴨川食堂』の前にタクシーを横付けしてくれた。
  ただの民家にしか見えないこの店の奥に、目指す『鴨川探偵事務所』がある。茜はトートバッグから財布を出して、タクシー代を支払った。
  「ようこそ、茜さん。お父ちゃんがお待ちかねですよ」気配を感じて、鴨川こいしが店から飛びだしてきた。
  「こいしちゃんだよね。すっかりいいおんなになって。見違えちゃった」タクシーから降りて、茜はこいしの肩を抱いた。
  「茜さんこそ。前からべっぴんさんやったけど、ますますきれいにならはって、めっちゃスタイルもええし、女優さんみたいですやん」腕を伸ばしたこいしが、茜の頭の上から足先まで視線を下ろした。
  「大道寺はん、ようこそ。覚えてくれてはりますかいなぁ。鴨川流です」こいしに続いて出てきた流が、タクシーの後部座席に上半身を入れ、茂を抱きかかえようとする。
  和帽子の下から覗のぞく頭髪には白いものが目立ち、藍色の作さ務む衣えに包まれた背中はずいぶんと丸みを帯びている。歳月は人の姿を変えることを茜は思い知らされた。
  「大丈夫。父さんは足だけは丈夫なの」
  茜が流の背中を軽く叩いた。
  「ここで降りて何をするんだ」
  渋々タクシーから降りて、茂は不機嫌そうな顔を茜に向けた。
  「お父さんの好きな美味しいものを食べるんでしょ」茂の腕を取って、茜は店のなかに引っ張りこもうとしている。
  「そうだったな」
  表情を一変させて、茂は自ら進んで店のなかに入っていった。
  「いろいろ大変みたいですね」
  肩をすくめて、茜の耳元でこいしが小声でささやいた。
  流に奨すすめられてパイプ椅子に腰かけた茂は、顔をしかめて何度も咳せきばらいをしている。
  「『料理春秋』の広告では、いっつも世話になって、すまんこっちゃなぁ」「少しはお役に立ててるのかしら」
  「〈──食捜します 鴨川探偵事務所──〉あの一行広告を見て、ようけお客さん来てくれはるんですよ」
  こいしが茜と茂に茶を出した。
  「わたしまで、その客のひとりになるとは思いもしなかったけど」茜が苦笑いして、茂の横顔に目を遣やった。
  状況を理解できないだけでなく、分かろうともしない茂は表情を変えもせず、ただじっと前を見つめている。こいしとはもちろん初対面だが、流とは何度か会ったことがある。
  茂がそれを覚えているとは思えないが。
  「お腹なかの具合はどないや? 昼までまだ時間があるさかい、軽いブランチでも出そか」
  声を掛けながらも、流が茜と目を合わそうとしないのは、長いブランクの埋めかたを探しあぐねているからに違いない。
  「お父ちゃんがブランチてな洒落しゃれた言葉を使つこうたん、はじめて聞いたわ」こいしが意味ありげな笑みを茜に向けた。
  「こういう時間帯にお客さんが来はったことないさかいや。茜が好き嫌いないことはよう知っとるけど、お父さんはなんでも食べはるんか?」流が茜に訊きいた。
  「ええ。なんでも大丈夫」
  「ほな、ちょっと待っとってや。軽いもんを見つくろうて出すさかい」相変わらず茜とは目を合わすことなく、流が厨ちゅう房ぼうに入っていった。
  「ちっとも昔と変わってはらへんでしょ」
  流の背中を見送って、こいしが茜に顔を向けた。
  「いろいろ丸くなったみたいね。お互いさまだけど」厨房との境に掛かる暖の簾れんが揺れている。茜はそれがおさまったのを確かめて舌を出した。
  「なにか飲まはります? 日本酒もワインもひと通りそろえてますけど」「久しぶりに流さんと一緒に飲みたいけど、父も一緒だから、ビールくらいにしておくわ」
  「お父さんは?」
  「父もビールをお願いします」
  「分かりました」
  暖簾を揺らして、こいしが厨房に入っていった。
  消え去りそうな遠い記憶をたぐりよせ、茜は目の前の情景と重ね合わせた。
  デコラテーブルをはさんで、流と掬きく子こが向かい合っている。たがいにひと言も発しない。茜が小さくため息をつくと、掬子が口の端で笑った。思いだせるのはそこまでだ。そのあとのことは茜の記憶から消え去っている。掬子と言い争って、まだ黒々としていた短髪をかきむしるようにし、流が怒鳴り声をあげたような気もするし、柔和な笑みを浮かべていたような気もする。
  「そろそろ帰ろうか」
  いきなり立ちあがった茂が、茜のたぐりよせた糸をぷつりと切った。
  「まだ帰らないよ。もうすぐ美味しいものが出てくるんだから」茂の両肩を茜が押さえつけた。
  「先にビールを飲んでてくださいね」
  こいしが瓶ビールを持ってきて、ふたつのグラスに注つぎわけた。
  「お父さん、乾杯」
  茜がグラスを上げると、茂は表情も変えずに大きな音を立ててグラスを合わせた。
  喉を鳴らして一気に飲みほした茂は、満足げにうなずいた。それを横目にして、茜はホッとしたように目を細めた。
  「お待たせしましたな」
  銀盆に二段重をふた組載せて、流がふたりの横に立った。
  「なんかすごい豪華」
  茜は茂のグラスにビールを注いだ。
  「料理雑誌の編集長はんに、何を出したらええか迷いましたわ」流がはじめて茜に顔を向けた。
  「流さんの料理をいただくなんて、何年ぶりかしら」茜が穏やかな視線を返した。
  「簡単に料理の説明をさせてもらいます。上の段は和風の料理を盛り合わせました。名な残ごり鱧はもと胡瓜きゅうりの酢のもん、さつまいもの柚ゆ子ず煮に、鯛たいの昆こ布ぶ〆じめ、秋あき茄な子すの煮浸し、車くるま海え老びのあられ揚げ。どれも味が付けてあるさかい、そのまま食べてください。下の段は、ちょっと洋風に仕立てときました。牛ヒレのローストビーフ、舌平目のレモンバター焼き、桜海老のクリームコロッケ、つくねふうハンバーグ、具ぐ沢だく山さんのポテトサラダ、松まつ茸たけのコンソメスープ、ホタテのドリア。数はようけあるけど、どれもひと口サイズやさかい、お腹にはもたれんと思うで」
  流の説明を聞きながら、茂は目を白黒させて重箱を見まわしている。
  「これをぜんぶわしが食うのか」
  「無理してもらわんでもええんでっせ。食べたいもんだけ食べてもろて、遠慮のう残してもろたらけっこうです」
  「父さんが要らないんだったら、わたしが食べるから。やっぱりワインを一杯だけいただこうかしら。こんな料理を前にして、ビールだけって野暮だわよね」重箱を見つめて茜が生つばを吞のみこんだ。
  「赤がよろしいか。冷えた白もありますけど」こいしが訊いた。
  「迷うところだけど、赤にするわ」
  「お父さんは?」
  こいしの問いかけに、茜は黙って首を横に振った。
  茜はビールを飲みほし、瓶に残った分は茂のグラスに注いだ。
  こいしと流が厨房に戻っていくと、食堂は急に静かになった。
  「無理しないでいいから、食べたいと思うものだけでいいのよ」茜の言葉にうなずいた茂が最初に箸を付けたのは、ローストビーフだった。
  薄切りにされたローストビーフには、ポン酢で味付けされたタマネギのみじん切りが載せられ、それを箸で取った茂はそのまま口に入れた。
  茜はその様子を見守りながら、おなじものを口にした。
  ヒレを使っていると流が言っていたが、その柔らかさには驚くばかりだ。嚙かみ応えというものがほとんどない。かと言ってパサついているのではなく、舌の上には肉の旨みがしっかり残っている。タマネギが載っていたことを忘れてしまうほどに、肉と一体になっているのにも感心せざるを得なかった。
  仕事柄、茜の夕食はほとんどが外食だ。取材の下見であったり、打ち合わせだったりと内容は違っても、都内では名の知れた店や、話題の店、ニューオープンの店など、先端を行く店ばかりで食事をしている。最近の肉ブームのせいか、週に二、三度は牛肉料理を食べている。いっときのブームは過ぎ去った感があるが、それでもローストビーフを食べる機会は少なくない。予約の取れない店、いつも行列ができている店。そんな人気店で食べるそれとは、比べものにならないほどの完成度の高さに舌を巻く。
  理屈抜きでそれを感じたのだろう。茂はあっという間に二枚のローストビーフを食べ終えて、デミカップに入った松茸のコンソメスープを飲んでいる。
  茜もおなじようにデミカップを手にした。
  カップはヘレンドのロスチャイルドバード。こんな、と言っては失礼極まりないけれど、食堂の佇たたずまいにはまるで似合っていない。愛くるしい鳥がちりばめられた繊細なカップを洗うのは流だろうか。それともこいしなのか。なぜか、そんなことが気になってしまう。
  器も一流だが、これほどていねいに取られたコンソメも稀け有うと言っていいだろう。
  日本料理の出だ汁しとおなじく、洋食のコンソメは手間を惜しまないのが命だ。どれほどの時間と手間を掛ければ、これほど澄み切った味わいになるのか。
  ついつい、先々月にオープンした外資系の超高級ホテルと比べてしまう。メインダイニングで〈古典的ァ∷ァ◇グラタンスープ〉と名付けられた料理に、茜は何度も首をかしげたのだ。古典的と言うからには、クラシックなレシピを踏襲しなければならない。深みのないスープからは、どう味わってもインスタントなテイストしか感じられなかった。
  とことんタマネギを炒いため、その甘みだけを引き出すのは、昆布出汁を引くより根気の要る仕事だ。むかしと変わらず、流は地道な仕事をずっと続けている。そう思っただけで、茜の胸は熱くなった。
  流の腕に夢中だったあのころを思いだす。ただ引き出しが多いだけでなく、そのなかにしまってあるものは、すべてが宝石のようにきらきらと輝いていた。
  京都ではなく、東京でもいい。流の腕を以もってすれば、東京屈指の料理屋になるのは間違いない。何度もそう説得しようとしたのだが、流は聞く耳を持たなかった。
  茂が次に口にしたのは、竹串に刺さった、つくねふうのハンバーグだった。
  急いでおなじものを食べてみたが、やはりこれもただものではなかった。
  見た目はハンバーグっぽいのだが、食べてみると流が言うように、たしかにつくねの味がする。照り焼きふうのタレをまぶしているからそう思うのだろうか。ふたつ串刺しにされたうちのひとつを串からはずし、箸で割ってみると、牛ミンチの合間に鶏とりの軟骨らしき白いかけらが見える。なるほど、そういう仕掛けだったのか。
  相変わらず、というか、流の料理はあのころに比べて更に進化している。なのになぜ、ちゃんとした料理屋にしないのか。不思議に思ういっぽうで、流らしいスタイルだなとも思ってしまう。
  それにしても、茂は洋食ばかりを食べて、和食にはいっさい手を付けていない。たしかに淡白なものより、濃厚な味付けのほうを好むのはむかしからなのだが、ここまで極端だったか。それとも和風のお重が目に入っていないのか。
  茂はしごく当たり前のようにして、クリームコロッケを箸でつまみ、ひと口大のそれを丸のまま口に入れた。
  「どないです。お口に合おうてますかいな」
  流が茂の傍そばに屈かがみこんだ。
  「これはあんたが作ったのか?」
  「はい。わしが作ったもんです」
  「いい腕をしておる」
  「ありがとうございます」
  流がホッとしたように立ちあがった。
  ちゃんと会話が成立したことに、茜は少なからず驚いている。父と娘なのに話が嚙み合わないことはしょっちゅうだったので、流が料理人であることを見抜いたうえでその腕をほめるなど、思いもしなかったことだ。
  「洋食がお好きなようでっけど、よかったら和食のほうも召しあがってください。お茶をお持ちしますんで」
  言いおいて流が厨房に戻っていった。
  箸を手にしたまま、じっと料理を見つめていた茂が、おもむろに箸を伸ばし、さつまいもの柚子煮を舌に載せた。
  茜もすぐさまおなじものを口にした。
  茂の下あごがゆっくりと上下するも、表情はまったく変わらない。味わっているようにも見えるが、ただ機械的に嚙んでいるようでもある。
  さつまいものレモン煮やァ§ンジ煮は食べたことがあっても、柚子の風味を加えたものははじめてだ。まるでむかしからずっとあったような自然な味わいで、さつまいもの持つ甘みを、柚子の酸味とほろ苦さが、ふわりと包みこんでいる。
  「ほうじ茶をお持ちしました。熱ぉすさかい火傷やけどせんように気ぃ付けとぉくれやっしゃ」
  益まし子こ焼の土瓶と萩はぎ焼の湯ゆ吞のみをふたつ置いて、流はすぐに戻っていった。
  料理には作り手の人柄が出るとよく言われるが、流はほんとうに穏やかな性格になったのだろう。たえず何かと戦っていたようなあのころなら、こんなやさしい料理は作れなかったに違いない。
  「茜」
  茂が急に大きな声をあげた。
  「はい」
  何を言いだすのかと茜は身構えた。
  「いい店を知ってるじゃないか」
  茂が相好をくずしたのを見て、茜は肩の力を抜いた。
  ひょっとして、流は茂に催眠術でも掛けたのではなかろうか。そう思ってしまうほどの変貌ぶりである。表情にこそ表さないものの、自分の置かれている状況を把握し、茂がまともに受け答えしている。
  最も驚くべきは、その食べっぷりだ。食事が始まってから、茜は一度も食べることを奨めていない。茂が自ら進んで食べているのだ。デイサービスに行っても、ショートステイでも、いつも後から聞かされるのは、茂の無気力な食事のことだ。ずっと横について奨めないと何も食べようとしない。美味しいともまずいとも言わない。ただただ奨められたものだけを口にし、一定の時間が経過すると席を立つ。取り付く島もないと担当者が嘆くのはいつものことだ。
  鱧と胡瓜の酢のものに茂が箸を付けたことにも驚く。むかしから長モノは嫌いだと言って、鰻うなぎも穴子も口にしなかった茂は、鱧が長モノだと気付いていないのかもしれない。
  鱧の切り身は軽く炙あぶってあるようで、白い身に薄うっすらと焦げ目がついている。
  骨切りの技が完璧なのだろう。まったく小骨を感じないどころか、マシュマロのように、ほわほわの鱧だ。そして添えられた胡瓜は、筒切りにしてあるのかと思いきや、桂かつら剝むきにしてから巻いてあるのだ。
  大根の桂剝きならよく見かけるが、胡瓜の桂剝きを食べるのははじめてだ。ティッシュペーパーと言うのは大げさ過ぎるかもしれないが、透けて見える胡瓜は紙のように薄い。
  こうした形で酢のものにすると、胡瓜の青臭さが消えて、二杯酢の味がしっかりと染みこむ。
  洋食にも驚かされたが、和食は更にその上をいくといったふうで、今どきのパフォーマンスだらけの割かっ烹ぽうとは格段の差がある。こんな店が東京にあったらなぁと、また思ってしまった。
  茂は相変わらず、黙々というか、淡々と食べ進めていて、二段重のなかは半分ほどに減っている。
  思いがけない展開に、茜は少なからず戸惑いを覚えている。
  食べる気力を失ってしまった茂に、むかしの味を思いださせることで、もう一度食の愉たのしみを与えてやりたい。そう思って、はるばる京都まで連れて来たのだが、その目的はもう果たしてしまったようにも思える。
  「百合子、これはなんの魚だ?」
  茂が洋食の魚料理を指さした。
  「舌平目。レモンバター焼きだって言ってましたよ」ときどき母にもならなければならない。
  「そうか」
  茂は舌平目を箸で半分に切って口に運んだ。
  熱いうちに食べるべきだったかと後悔したが、それでも茂にならって食べてみると、冷めたバター焼きとは思えないほど、あっさりした味わいだ。塩しお胡こ椒しょうとバター、レモン以外の味は感じない。正統派というか、古典的なムニエルを出してきたことに、流は何かしらの意味を込めているのだろうか。
  「食事のほうはどないや? 〆にお茶漬けを用意しとるんやが」厨房から出てきて流が茜に訊いた。
  「早くこいしちゃんに話を聞いてもらわないといけないから、わたしは〆抜きで。こっちの都合もあるしね」
  茜はウェストまわりをさすって、太るのを気にしているとアピールした。
  「お父さんはどないしよ。一緒に奥に行ってもらうか?」「流さんさえよかったら、ここで待たせておいてもいいかしら。横にいられると話しにくいこともあるし」
  「わしはかまわんで。ここでテレビでも観みといてもらうわ」「トイレのことだけは自分で意思表示するから、そのときは連れて行ってやって。あとは放っておいて大丈夫だから」
  「わかった。お父さんはわしがあんじょう見とくさかい、ゆっくりこいしに話をしてきてくれたらええ」
  流がこぶしで胸を叩いた。
  「よろしくお願いします」
  立ちあがって茜が一礼した。
  「廊下をまっすぐ行って突き当たりやさかい、奥のドアをノックしてくれるか。こいしが待っとるはずや」
  首を伸ばした流が廊下の奥を指さした。
  こうした京都の家の作りを、鰻の寝床と呼ぶのだと教えてくれたのは流だった。間口は四間あるかないかなのに、奥行きは十数間ありそうだ。
  こつこつと靴音を立てて廊下を歩く茜は、両側の壁にびっしり貼られた写真を順に見ている。
  作った料理のレシピを書き残すことなく、写真におさめていると聞いてはいたものの、これほど膨大な量だとは思わなかった。
  和食、洋食だけでなく中華料理もよく作っているようだ。きれいに焼き色の付いた餃子ギョーザや、いかにも辛そうな麻マー婆ボー豆腐の写真を見ると、食事を終えたばかりなのにお腹が鳴る。いやしんぼなのか、仕事に忠実なのか。たぶんその両方なのだろう。
  ふいに目に飛びこんできたのは、高原らしき林のなかに佇む掬子の姿だった。白しら樺かばの木にもたれかかり、気持ちよさそうに黒髪をなびかせている。なんともしあわせそうな表情だ。
  にぎやかな料理写真のなかに、ぽつんと貼られた写真に流の心情が表れていて、茜の胸を熱くする。
  時計の針を戻して歩くうち、廊下の奥までたどり着いた。
  「どうぞお入りください」
  流の指示どおり突き当たりのドアをノックすると、すぐにこいしがドアを開いて招き入れた。
  「ここがこいしちゃんの仕事場なんだ。思ったより広いんだね」ロングソファに座って、茜は部屋のなかをぐるりと見まわしている。
  「たいていはこうして、依頼人のひととふたりで向かい合うさかい、狭かったら息が詰まりますやん。深刻な話をしはることもようあるし。お茶かコーヒーか、どっちがよろしい?」
  「お茶をいただきます。京都はお茶の美味しい街だからね」「料理雑誌の編集長さんからそんなん言われたら、めっちゃプレッシャー掛かりますわ」サイドボードから銅の茶筒を出して、こいしはポットの湯を湯冷ましに注いだ。
  「お茶っ葉もだけど、お湯の温度によって味が変わるのよね」「いっつもお父ちゃんに怒られてますねんよ。こんな熱いお湯使うたらお茶の葉が泣きよる、て」
  「お茶の葉が泣く。流さんらしい言いかたね」「最初のころは温度計で計って、六十度やとか六十五度やとか比べてたんですけど、最近はもっぱら勘に頼ってますわ」
  こいしは空の急須に湯冷ましの湯を入れ、しばらく間を置いてまた湯冷ましに湯を戻す。
  「そうか。京都のお茶が美味しいって言うより、京都の人がていねいに淹いれるからお茶が美味しいんだ。で、やっぱりお茶っ葉は『一保堂』?」茜はトートバッグから手帳を取りだした。
  「やっぱりよう分かってはる。『鶴かく齢れい』ていう玉露なんですよ。お茶っ葉を入れてお湯入れて九十秒待ったら美味しいなるんです」「玉露って高いんだよね」
  茜はずっとメモを続けている。
  「お茶はケチったらあかん、て、いっつもお父ちゃんが言うてはります」「ペットボトルのお茶なんて、京都の人にはとんでもない代物なんでしょ?」「京都でもふつうの人は平気で飲んではりますよ。有名な老舗の料理人はんらがテレビのコマーシャルでペットボトルの宣伝してはったら、お父ちゃんは怒って消さはりますけど」
  「それも流さんらしいわね」
  「いっぷくお茶を飲んでもろたら、簡単でええのでこれに記入してもらえますか」「探偵依頼書。本格的じゃない。ちょっと緊張する」ローテーブルに置かれたバインダーを茜が手にした。
  「パソコン使うて新しいのに作り替えたんです。茜さんが第一号」「光栄の至りってとこか。やっぱりちゃんと淹れたお茶って美味しい。うちで飲むのとぜんぜん違う。苦過ぎないし、へんなあと口もなくて、すっきりしている」「よかった。茜さんにへんなお茶出したら、お父ちゃんに何言われるか分かりません」こいしが二煎目のお湯を急須に注いだ。
  「どうしよう。いちおう父の依頼なんだけど、捜して欲しいと言ってるのはわたしだから、わたしの名前でいいよね」
  「はい。お父さんの名前も横に書いといてくれはったらいいですよ」こいしは急須の茶を湯吞に注いだ。
  「あれ? 九十秒待たなくていいの?」
  「お茶の葉が開いてるさかい、二煎目は待たんでもええんですよ」「勉強になるなぁ」
  バインダーの横に置いた手帳に茜が素早く書きこんだ。
  「さて。本題に入りますわね。大道寺茜さん。どんな食を捜してはるんですか」「ビーフステーキなんです」
  茜が改まった口調で答えた。
  「どんなビーフステーキです?」
  ノートを広げて、こいしがペンをかまえた。
  「それがまったく分からないの。父は〈テキ〉とだけしか言わなかったから」「依頼人は茜さんやけど、捜してはるのはお父さんの茂さんなんですよね。もうちょっと詳しいに話してもらえますか」
  「父の茂はもう八十を超えたんだけど、十年ほど前から少しずつアヤシクなってきてね」茜が自分の頭を指さした。
  「八十にもなったら、誰でもちょっとぐらいアヤシイなって当たり前ですやん。よう頑張ってきはったほうやと思います」
  「七十歳までは名誉職的な仕事ではあるけど、いちおう現役の教職者だったの。それまでは頭脳明めい晰せきを絵に描いたような人だったから、父は死ぬまで認知症とは無縁だろうと思いこんでいただけに、娘としてはショックが大きかったわ」「そういうもんなんや。うちのお父ちゃん、大丈夫やろか。なんや心配になってきた」「流さんはまだまだ大丈夫よ。あんな繊細な料理を作れるんだから。しょっちゅう手先を動かしているとボケないみたいよ」
  「それやったらええんやけど。あんなうるさい人の面倒を一生みんならんかと思うたらゾッとしますわ」
  「流さんは絶対ひとに迷惑を掛けるようなことはしないひとよ。それだけは間違いないと思う」
  「ビーフステーキに話を戻してよろしい?」
  こいしが遠慮がちに口を開いた。
  「脱線してしまってごめん。話を続けるわね」茜は湯吞を両手で包みこんで、ゆっくりとかたむけてから続ける。
  「仕事があるから、ふだんは放ほったらかしになっているんだけど、デイサービスとか、ショートステイでお世話になってるひとたちからは、しょっちゅう父の様子を聞かされているの。ひとさまに迷惑を掛けるようなことはしていないようだけど、いつも言われるのは覇気がないこと。特に食べることにはまったく興味を示さないし、美味しいともまずいとも言わない。これが改善されればきっと、もっと生き生きとした暮らしができる。そうアドバイスされて、娘としては放っておくわけにはいかないじゃない。そうか。食か。そう言えば『料理春秋』でも、高齢者にとっていかに食がだいじか、っていう特集はよく組んでるのに、身近な父にそれをあてはめることがなかったなぁと、深く反省して、今日に至ったわけよ」
  茜が湯吞を置いた。
  「茜さんのお父さんのことやとは、それとのうお父ちゃんから聞いてたんですけど、ビーフステーキていう具体的な料理のことまでは聞いてへんかったんで、何をどう捜したらええのか」
  こいしが頭を抱えた。
  「なにか食べたいものある? って訊いても、いつも答えはおなじ。なんでもいい。楽と言えばこれほど楽な話もないのだけれど、なんだかしっくりこなくて。そんなときに、いきなり父が口にしたの。──うまい〈テキ〉が食いたい──って。テレビの野球中継を観ているときに突然言いだしたから、びっくりした。グルメ番組とかを見てるのなら分かるけど、なんで野球を観て〈テキ〉を食べたいなんて言いだしたんだろうって」「お父さんは学生時代に野球をやってはったとか? 甲子園とかでよう言うてはりますやん。宿舎の夕食にビフテキとトンカツが出る、て。テキにカツていう洒落やていう話」こいしはノートに野球選手のイラストを描いている。
  「父は運動音痴だから野球なんかやってなかったと思う。スポーツは見るほう専門」茜が部屋の隅に置かれたテレビに目を遣った。
  「むかしのひとはビーフステーキを、〈テキ〉て言うてはったみたいですね。うちのおじいちゃんも、〈テキ〉て言うてはった。ちなみにお父さんの生まれはどちらです? 関西ですか?」
  こいしがノートのページを繰ってペンをかまえた。
  「生まれは広島。でも小学校に上がる前に富山に引っ越しして、島根の松江とか、大阪の堺さかいとか、三重県の四日市だとか、最終的に横浜に定住するまで十カ所ほども転居したみたい。そうそう、短いあいだだけど京都にも住んだことがあった。祖父も教育関係の仕事をしていたから、きっと何度も転勤して、父もそれに付いて行ったのだと思う」「そうかぁ。学校の先生も偉いさんはたいへんなんや。場所が多すぎてあんまりヒントにはならへんかなぁ。分かる範囲でええんで、いつごろ何ど処こに住んではったかを書いてもらえます?」
  バインダーに白紙をはさみこんで、こいしはそれを茜に手渡した。
  腕組みをして考えこんだり、天井に目を遊ばせて記憶をたどったりしながら、茜は地名と年代を書きこんでいる。
  「なにかの参考になるかもしれないから、そのときのトピックも少し書きこんでおくわね」
  「そうしてもろたら助かります。お父さんの履歴書みたいな感じでお願いします」こいしが茜の手元を覗きこんだ。
  「いっそ、うちの雑誌でステーキ特集を組もうかと考えたの。いろんなお店のステーキを取材すれば、そのなかに父が食べたがっているステーキがあるかもしれないでしょ」書き終えて、茜がこいしにバインダーを返した。
  「ナイスアイデアですやん。肉ブームやさかい、きっと『料理春秋』も売れるやろし一石二鳥やわ。茜さんもあちこちのお店へ取材に行って、いろんなステーキを試食できる。一石三鳥ですね」
  「でも、現実はそう甘いもんじゃないのよね。うちは編集部の人数も少ないから、外部のライターやカメラマンさんに仕事を委託するんだけど、真っ当な仕事をしてくれる人って限られてるの。何を書いてるのか分からないライターとか、ひとりよがりの気取った写真ばかり撮るカメラマンとか。ギャラなんか払いたくない、って思うことはしょっちゅうよ」
  茜はゆがめた顔をこいしに向けた。
  「そうなんですか。うちなんかは、美味しそうやなぁと思うて雑誌見てますけど、そういうたら、お父ちゃんはぶつぶつ言うてはるなぁ」「でしょ? いつ流さんが広告の出稿を止やめるって言いだすか、毎号はらはらしてる。
  特にこの前の号の寿す司し特集なんかひどかった。恥ずかしくて編集長の名前を油性ペンで消したかったくらい」
  「それでステーキ特集は順調に進んでるんですか?」放っておくと茜の愚痴を聞き続けなければならないと思ったのか、こいしがさらりと話を本筋に戻した。
  「会議に掛けたらみんな大賛成だったんだけど……、止めちゃった」茜が小さくため息をついた。
  「なんでですの? 絶好のチャンスやのに」
  「公私混同っていう言葉が頭に浮かんだ。動機が不純だしね」「そらそうやけど」
  「そんなことに自分の雑誌を使うより、流さんに頼んで捜してもらうほうがいいと思ったの。そうすれば流さんとこいしちゃんにも会えるしね」身を乗りだして、茜が目を輝かせた。
  「ありがたいことです。問題は、お父さんが食べたいと思うてはるステーキですね。ステーキのレシピなんて何千、何万とあるやろし、どんなんを食べたいと思うてはるか、どうやって捜したらええか。なんぼお父ちゃんでも雲つかむような話と違うやろか。なんかもうちょっとヒントがないとなぁ」
  ソファにもたれかかって、こいしが首をひねった。
  「そうだよねぇ。でも、ほんと、なにも分からないの。どんな〈テキ〉が食べたいの? って、いちおう聞いてみたんだけど」
  「あきませんでしたか」
  茜が首を横に振ると、こいしは肩を落とした。
  「ヒントになるかどうか分からないけど、父はむかしから濃い味のものが好きだった。お寿司よりすき焼き。かやくご飯より焼飯、ざるそばよりラーメン、っていう感じだったわね。母の好みとは正反対だった」
  「おとこの人はたいていそうですけどね。うちのお母ちゃんも、じょうずに合わしてはったけど、ほんまはこってりしたもんは苦痛やったんと違うかなぁ」「うちもおなじ。外食のときでも、母は自分から何か食べたいとかって絶対に言わなかった。さもそれが当然のように」
  「今の時代に生まれてよかったなぁ、てつくづく思いますわ」「そうかしら。もしかしたら、母の時代のほうがしあわせなのかもしれない。ときどきそう思うことがある」
  茜がぼんやりと宙を見つめると、こいしもおなじようなところに視線を浮かべた。
  「それはええとして、さあて、お父さんの捜してはる〈テキ〉や。このままやったら、めっちゃ難問になりそうやな。ほんまになにかないんですか? 手がかりになるようなこと」
  しばらくの沈黙が続いたあとにこいしが訊いた。
  「わたしが子どものころ、というか大学を卒業するころまで、父は本当に忙しくしていて、家で一緒に食事をすることはほとんどなかった。父がリタイアしてからは、逆にわたしが家でご飯を食べることがなかったから、食に対する父の好みやなんかはほとんど知らないに等しいのよ。父と食のことを話した記憶もないし。ただ一度だけ……」「一度だけ、なんです?」
  こいしはペンを持つ手に力を込めた。
  「食いもののことを書く仕事をするんだったら、その土地のことをだいじにしろ、と言われた。身しん土ど不ふ二じっていう言葉を忘れるな、ってね」「ヒントになるような、ならへんような、やけど、お父ちゃんもおんなじことをよう言うてはるから、手がかりになるかもしれません」「そうそう、もうひとつ思いだした。なんのためだか未いまだに分からないんだけど、母は父さんの食日記みたいなものをずっとつけていたの。大学ノートで二十冊くらいあるかなぁ。あまり役には立たないと思うけど、いちおう送っとこうか?」「お願いします」
  「しつこいようだけど、たぶんヒントにはならないわよ」「なんでです? 手がかりがいっぱいある思いますけど」「父の夕食って、ほぼ百パーセント外食だったの。だからそのノートにもね、──夕食(外食宴席)としか書いてないわけ。日記を書く意味ないじゃん、って突っこみながら読んだんだけど。たぶん母はMね。父さんに言われるまま、尽くしていることでカタルシスを得ていた」
  「うちのお母ちゃんもよう似てたと思いますけど、Mっちゅうのとは違うような気がします。茜さんがそう感じてはったんやとしたら、それは違う、てよう言いませんけど。二十冊のノートに賭けるしかないですね」
  吹っ切れたように言って、こいしはノートを閉じた。
  「あとは流さんの推理力に頼る」
  「そういうことですやろね」
  不本意だと言わんばかりに顔をしかめて、こいしが腰を浮かせた。
  ふたりが廊下を歩いて戻ると、流の笑い声が食堂から聞こえてきて、こいしは思わず茜と顔を見合わせた。
  「えらい愉しそうやね」
  食堂に戻ってこいしが流の肩をはたいた。
  「大道寺はんの話がおもしろうてな。よう笑わせてもらいました」言葉どおり、流は目じりの笑い涙を指で拭っている。
  「いや。おもしろいのはあんたのほうだ」
  茂は目尻のしわを深くして、覇気のある声を出した。
  ふたりのやり取りを聞いて、茜は目を白黒させている。
  新幹線に乗っているあいだはもちろんのこと、ふだんの暮らしのなかでも、茂がこれほど表情を明るくすることは皆無といってもいい。加えてこの張りのある声は現役時代をほうふつさせる。いったい茂になにが起こったのか。
  「ほんで、肝心なことはあんじょうお聞きしたんか」流がこいしに顔を向けた。
  「聞かせてもろたんは、聞かせてもろたんやけど」こいしが声のトーンを二段階ほど落とした。
  「むずかしい捜査をお願いして申しわけありません」茜が深く頭を下げた。
  「なんの捜査か分からんけど、せいだい気張って捜させてもらいますわ。お父さんからも事情聴取させてもろたぁるさかい、なんとかなるやろ」流は茂の横顔に目を向けた。
  「捜しものが見つかったら連絡くださるんですよね」「だいたい二週間くらいでお父ちゃんが捜してきはるんで。茜さんの携帯に連絡させてもらいます」
  「誰が何を捜しているんだ?」
  茂が眉をあげた。
  「お父さんのだいじなもの」
  茂の耳元で茜がささやいた。
  「わしは失うせものなどしとらんぞ」
  不満そうな顔をして、茂は背中を伸ばす。
  ちゃんと会話が成立していることに、また茜は驚いた。
  一方的に何かを主張したりすることはあっても、相手と会話のキャッチボールを続けることはめったにない。十年前の茂にかなり近づいたような気がする。
  「今日いただいたお食事のお支払いを」
  肩に掛けたトートバッグから、茜が財布を取りだした。
  「探偵料と一緒にいただくことになってますねん」「分かりました。では次回一緒に」
  茜は財布をもとに戻した。
  「お供呼ばんでもよろしい?」
  「調子がいいようだから、散歩がてら烏丸からすま通まで歩くことにします。今日は四条烏丸のホテルに一泊する予定なので、そこからタクシーに乗ればいいでしょ?」こいしの問いに茜が答えると、流が言葉をはさむ。
  「まだ昼前やさかいホテルにチェックインはできひんのと違うか?」「いつも取材のときにお願いしている『からすま京都ホテル』なので、アーリーインをお願いしてある。この時間ならもう大丈夫だと思う」腕時計を見て、茜が流に笑顔を向けた。
  「やっぱり東京の人はスマートやなぁ。無駄のないようによう考えてはるわ」「正確には東京じゃなくて横浜だけどね」
  茜がいたずらっぽい笑みを浮かべた。
  「神奈川県横浜市神奈川区片倉一丁目三十四。百合子、住所は正確に言わんといかんぞ」武骨な顔つきで茂が住所を口にすると、三人は驚いた顔を見合わせている。
  「なんだかよく分からないけど、とにかく行きますね」またしても母と混同しているようだが、茂は住所を正確に記憶している。茜は苦笑いを左右にかたむけながら、茂の腕を引いて店の外に出た。
  「荷物は駅にあずけてはるんですか?」
  茜が右肩に掛けるトートバッグは、ふたりが一泊する荷物としては小さすぎる。こいしが不思議そうに訊いた。
  「キャリーバッグは宅配便でホテルに送っておいたの」「東京、いや横浜の人はどこまでもスマートやなぁ」正面通を西に向かって歩くふたりの背中に、こいしが笑い声をかけた。
  ふたりを見送って店に戻った流は、すぐにこいしに訊いた。
  「ものはなんやった?」
  「〈テキ〉て言うてはったらしいから、ビーフステーキやと思う」「どんなビフテキや?」
  「それがさっぱり」
  カウンターに腰かけて、こいしがノートを開いて見せた。
  「なんや、わけの分からん絵ばっかり描いとるなぁ」隣に座って、流が眉間にしわを寄せた。
  「せやかて、茜さんの話聞いてたら、こんなんくらいしか浮かばへんかったんやもん」頰をふくらませたこいしが唇をとがらせた。
  「あっちこっちに転居してはるんやなぁ。こらほんまに難問や」頭を抱えると、こいしが立ちあがって流の肩を二、三度叩いた。
  「大丈夫。名刑事やったお父ちゃんやったら絶対捜せるって。お父さんからも直接いろいろ聞いたんやろ?」
  「聞いたけど、食いもんの話はいっさいしとらん。昔の思い出話ばっかりやったわ」「そこからヒントを探しだすのが、お父ちゃんの得意技やんか」「こいしはほんまに調子のええやっちゃ」
  苦笑いを浮かべて流はノートを繰った。
 
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