みんなに心を引いたのは先生がみらせた記事に出た弁当だった。その記事によると、日本の流行語のひとつに「弁当男子」があるそうだった。狭義には自作した弁当を会社に持っていく独身男性を指す言葉だ。流行の背景には、景気悪化による節約志向、メタボ対策などの健康志向、男性の料理習慣を許容する価値観の変化などがあると思われる。
日本の友達の伊藤さんはそういう人が恋人だったら、料理ができないことで、劣等感を持ってしまいそうだから少し嫌だと言った。
実は、私は料理が下手だけど、日本の弁当に興味を深く持つ。
初めて日本の弁当を食べるのは大学一年生頃のことだった。あの日、私はクラスメートと一緒に朝早く学部に行って手伝った。冬の風でホールでいる私たちはぶるぶると身震いがした。飢えと寒さにさいなまれる私たちはようやく昼食時間を迎えた。しかし、熱いスープがないと残念な思いがするとき、日本弁当の姿がちらっと見えた。白い飯ではいくつかのごまがあって、いいにおいがした。そのほか、赤、緑、黒と色鮮やかな野菜が置いてあった。また、丸ごとで焼いた魚が一つあった。まさか、これこそ伝説のサンマだと思って、食欲は急に盛りになった。いろんな色や形を楽しみながら、食べた。あっさりした味が私の気に入った。
ところで、弁当という言葉を聞いたら、よく子供頃のことが思い出された。あの時、毎朝母が作った料理を持って昼食をして、それに、料理の種類は日によって違った。今に思ったら、幸福のイメージが心に浮かぶ。毎日母の手料理を食べるのは本当に幸せなことだが、その時の母の手料理が妙に忘れられない。弁当の中に母の愛がある。そして、母の愛は子供がいくら頑張っても恩返しできないかもしれない。
そして、先学期ピクニックの前に私は自ら弁当を作ることにした。味も気ままで、持ちやすいし、ピクニックにもってこいだと思った。昔、「アネゴ」というドラマを見たとき、奈央子さんが黒沢さんに弁当を作ることが羨ましかった。実は私の日本弁当の認識は、このドラマから始まったのだ。そのため、いつか自分もこんな愛を込める弁当を作ってみせると思った。いいチャンスがようやく来たが、何を作るのがいいかと迷った。そうだ、去年新沼先生は日本の寿司の作り方を教えた。決めた次第、卵やキュウリなどの材料を買った。まず、人参ときゅうりを細長く切った。次に、卵も丸い餅のように焼いて細長く切った。それから、出来上がった飯を取って、酢と砂糖と適宜に混ぜ合わせた。早く冷やせるために、攪拌すると同時に団扇で扇いだ。最後、のりの上で、飯を平らに敷き、人参、きゅうり、卵としいたけをとり合わせてから切った。左右の太さが均等になるように力を加減して、一気に巻くことが一番難しいことだと思った。初めはよくめちゃくちゃになった。第二回、第三回は次第に良くなった。やはり、ことわざの通りに、習うより慣れよ。日本の弁当らしいではないが、嬉しかった。
自分が作った弁当を食べるのは節約のみでなく、満ち足りの気分になる。それも日本では弁当がはやっているの原因だろう。もちろん外食や出前を利用すると便利だが、それでは、もう少しで焦げたところだというドキドキする気持ちにふれることばできない。自分が焼きたての料理のひどく熱さは味わえないのである。また、弁当を作る趣との直接の接触を遮断する。
そのため、弁当は今にも依然として生活の一部分だと思う。私は弁当の素晴らしさと同時に人生の過ごし方も学んでいたような気がする。弁当と縁を結ぶと、幸せや楽しさとも縁を結ぶ。これは何と美しいことだろう。