磐井の乱
朝鮮遠征の圧迫に耐え続ける北九州の豪族が挑んだ独立戦争
◆北九州の盟主として磐井が立ち上がる
継体天皇の時代、朝鮮半島は激動の時期を迎えていた。倭と敵対関係にあった新羅が拡
大を始め、その侵攻を聞いた天皇は、五三一年、近おう江みの毛け野の臣に命じて六万の
兵を任那みまなへと派遣する。
ところが、この機会を見計らったかのように、同年、この軍勢派遣を妨げる者があっ
た。北九州に勢力を誇る筑紫君磐井である。
朝鮮半島への進出を積極的に行なう大和朝廷は、かねてから北九州の豪族たちに対し
て、兵士や必要な物資を調達させていた。これは、大きな負担となって現地の豪族たちを
苦しめた。次第に中央に対して不満を持つようになった豪族たちは同盟を結び、磐井を盟
主として立ち上がったのである。
早急に手を打つ必要に迫られた天皇は、軍事に精通していた物もの部のべの麁あら鹿か
火ひを大将に任じて、乱の鎮圧に向かわせた。反乱は壮絶なものであり、北九州全域に戦
火が拡大した。しかし、筑紫国御み井いでの戦いで大和朝廷軍が勝利し、反乱の指導者で
ある磐井は斬られてしまう。さらに、その子・ くず子こは父の罪に連座するのを恐れて助
命を乞い、これによって磐井の乱は終結したのである。
![磐井の乱](http://xyz.tingroom.com/file/upload//202403/26/093904221.jpg)
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九州地方では、大陸の影響を強く受けた独自の文化が発達するなど、中央とは一線を画
し、独立性の強い気風を有していた。とくに磐井は単なる地方豪族というよりは、筑紫の
王として半独立状態にあり、独自に新羅などとの外交活動も活発に行なっていたと考えら
れる。
しかし、大和朝廷の支配が全国に浸透するなかで、そんな独立性の強い土地において
も、徐々に大和朝廷の圧力が強まっていった。雄略天皇の時代までには、天皇が地方豪族
に官職を与えてその土地を治めさせ、上下関係によって実質的な支配権を拡大するように
なっていた。当初はこうした間接支配が行なわれていたが、より直接的な支配に変わろう
としていた。その一方で、雄略天皇の死をきっかけに大和朝廷は混乱し、中央の支配力は
一時的に弱まった。
そうしたなかで、今を逃せば機会はないと、北九州の豪族たちが大和政権からの独立の
ために挑んだ最後の戦いが磐井の乱だったのである。
しかし、壬申の乱以前の古墳時代で、最も大きな戦争ともいわれる磐井の乱の平定に
よって、大和朝廷の支配はより強いものとなった。それは北九州のみならず西日本全域、
さらには全国にまで浸透していったのである。