大化の改新
粛清の嵐が吹き荒れるなかで進められた改革政治
◆孝徳天皇、遷都ののちに改新の詔を発する
蘇我蝦夷が自害した翌日、皇極天皇は中大兄皇子に譲位を申し出る。天皇が存命中に位
を譲るのは、大和朝廷の歴史上初めてのことだった。しかし、中大兄皇子は中臣鎌足と相
談して、自らは即位せずに、皇極天皇の弟で叔父にあたる軽かるの皇み子こを推す。その
結果、軽皇子が即位して孝徳天皇となった。
中大兄皇子は皇太子となり、左大臣に阿あ倍べの内うち麻ま呂ろ、右大臣に蘇我倉山田
石川麻呂、内うちつ臣おみに中臣鎌足が就任した。日本初の年号とされる「大化」も定め
られた。
実は皇極天皇が譲位を持ちかけた際には、中大兄皇子だけでなく軽皇子も再三固辞して
いる。そして、もうひとりの有力候補である蘇我本宗家と密接な関係にあった古ふる人ひ
との大おお兄えの皇み子こを推すが、彼は自らに野心がないことを表明して、出家してい
る。しかしその後、古人大兄皇子に謀反の疑いがあるという密告があり、中大兄皇子はこ
れに乗じて皇子らを殺害し、反対勢力を一掃する。
そんななか、新たな都として難波なにわへの遷都が行なわれる。
![大化の改新](http://xyz.tingroom.com/file/upload//202403/26/094156661.jpg)
![大化の改新](http://xyz.tingroom.com/file/upload//202403/26/094156661.jpg)
「大化の改新」もそうした新しい政策のひとつである。六四六(大化二)年、四条からな
る大化の改新の詔みことのりが下された。第一条では土地と人民を国家に帰属させ、豪族
には食じき封ふなどを支給するという公地公民制が定められている。第二条では地方の行
政組織を整備するとともに、要所には関所や防さき人もりを置くことを定めている。ま
た、第三条では戸籍・計帳を作り、班はん田でん収しゆう授じゆの法ほうを実施するとされ
ている。さらに、第四条では賦ふ役えきを廃止して全国で統一した税制を設けることがう
たわれている。具体性には欠けるものの、これからの日本の進むべき道を示した指針とい
えよう。
こうして順調に始まった孝徳天皇の治世と大化の改新であるが、一方で政争からの粛清
という闇の側面も見せている。六四九(大化五)年、讒ざん言げんから右大臣蘇我倉山田
石川麻呂が謀反の疑いをかけられ、山田寺で自害した。
さらに、孝徳天皇に至っては、政権の中枢から外される憂き目を見ている。難波への遷
都からわずか二年後に、中大兄皇子が再び大和に遷都したいと言い出す。天皇の反対にも
かかわらず、母の皇極天皇、弟の大おお海あ人まの皇み子こ、皇子の妹で孝徳天皇の后で
ある間はし人ひとの皇ひめ女みこ、そして群臣の大半を連れて、大和へと移ってしまった
のである。
この一件は、中大兄皇子と、実権を中大兄皇子に握られ不満を募らせた天皇との不和を
物語る出来事だとされる。ひとり残された孝徳天皇は病に倒れ、崩御。六五八年には、孝
徳天皇の遺児有あり間まの皇み子こが謀反の誘いに乗せられ、粛清されている。