壬申の乱
巧みに拠点を抑え政権を握った天智天皇の皇太弟
◆古代最大のクーデターが勃発する
国力の充実に努めた天智天皇だったが、やがて病に倒れる。すでに天皇は、我が子であ
る大おお友ともの皇み子こを太だ政じよう大だい臣じんにしていた。次期天皇とされてい
た弟の大海人皇子を政権中枢から外し、大友皇子を後継者とするための布石だったと見ら
れる。
これを察知した大海人皇子は、死の床で「息子を頼む」と遺言する兄の天智天皇に対し
出家を宣言し、吉野へと隠棲してしまう。その後大海人皇子は、吉野にて中央の動静を見
守った。だが、まもなく天智天皇が崩御すると、その直後、大海人皇子のもとに、天智天
皇の御陵を築くために集められた人足たちに武器が与えられたという情報が入る。さら
に、吉野に運び込まれるはずの食料も止められたと聞く。
六七二年六月、大海人皇子は吉野脱出を決意。伊賀で高たけ市ちの皇み子この一行と合
流し、伊い勢せで鈴すず鹿か関せきを封鎖すると、伊勢神宮では戦勝祈願の遥よう拝はい
を行なう。ほどなく大おお津つの皇み子こ一行と合流すると、美濃へ入って不ふ破わ関せ
き封鎖の報告を受けた。こうして大海人皇子軍は勢力を拡大し、東国のほとんどを支配下
に置いた。そして、野の上かみに本営を設けたのだった。一方、大海人皇子の動きを知っ
た大友皇子ら近江朝側は、激しく動揺するが、すぐに大軍を集めて反撃体制を整えた。
大海人皇子は大和と近江の双方に数万の兵を向けた。古代最大の内乱とされる「壬申の
乱」の勃発である。近江においては一進一退の激戦が展開されたが、大海人皇子軍が勝利
した。一方、大和でも、当初は大海人皇子側が苦境に陥ったが、途中から形勢が逆転し勝
利を収めた。七月二十二日、大津の瀬せ田た橋ばしでの決戦で勝利した大海人皇子軍は、
翌日大おお津つ京きようを陥落させ、逃げ場を失った大友皇子は自害した。
![壬申の乱](http://xyz.tingroom.com/file/upload//202403/26/100846481.jpg)
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大海人皇子の勝因は、先手を打ったことにある。反乱はかなり前から計画され、十分な
準備をしていたと見られる。乱後に近江朝側の人物への刑罰が意外に軽かったのも、勝利
後の政治まで事前に構想していたためとも考えられる。
これに対して近江朝側は、首脳部が大友皇子のもとに結束しておらず、それが敗北につ
ながったといわれる。大友皇子は天智天皇の長男ではあるが、母は身分の低い女官であ
り、そうしたことも朝廷内部の結束に影響を与えたのかもしれない。
こうして約一か月に及んだ壬申の乱は大海人皇子の勝利に終わる。皇子は即位(天武天
皇)し、皇子たちを登用して皇こう親しん政治を展開しながら、八や色くさの姓かばねの
制定、飛鳥あすか浄きよ御み原はら令りようの編纂、『古事記』『日本書紀』の編纂など
国家体制を整えていった。「天皇」の号が正式に用いられたのも天武天皇の時代からとい
われている。