【第八章の人々】
蘇そ我がの入いる鹿か
古人大兄皇子の即位を企み、山背大兄王一族を滅ぼした大臣
蘇我蝦夷えみし(毛人)の子で、学問にも優れ、唐から帰国した新いまきの漢あや人ひ
と旻みんによって、第一級の人物と評されるほどだった。若くして国政を執り、六四二年
に皇こう極ぎよく天皇が即位した頃は、父親の蝦夷をしのぐほどの権勢であった。
六四三年に父から大臣の位を受け継ぐが、このときすでに舒じよ明めい天皇の皇子であ
る古ふる人ひとの大おお兄えの皇み子この即位を企んでいた。だが、聖徳太子の子の山や
ま背しろの大おお兄えの王おうはこれに抵抗。入鹿は斑いか鳩るが宮を急襲し、山背大兄
王一族をことごとく滅亡させた。この報を聞くと、父親の蝦夷ですら嘆いたといい、群臣
の反発も強まった。
このあと、入鹿の専横の記録が多くなる。自らの屋敷を「宮み門かど」、子供らを「王
み子こ」と称したなど、王位をうかがう者としてとらえられている。そして六四五年、朝
鮮半島(三韓)からの公使を迎えての儀式の場、皇極天皇の前で入鹿は惨殺され、蝦夷も
屋敷に火を放って自殺するに至る。これが乙いつ巳しの変である。
首謀者である中なかの大おお兄えの皇み子こ(のちの天智天皇)と中なか臣とみの鎌か
ま足たり(藤原氏の始祖)は、乙巳の変を口火として大化の改新を断行し、天皇制を中心
とした律令制国家を築き上げたとされてきた。
以来、入鹿は大悪人としてのイメージが浸透した。平安時代以降は聖徳太子信仰が起こ
り、その影響を強く受けたためか、太子の子である山背大兄王を滅ぼした非道の者とさ
れ、中央集権の時代には皇位を簒奪しようとした逆臣とされた。後世に創作された物語や
演劇の中では超人的な力を持ち、斬られた首が皇極天皇のもとに飛んでいって自分に罪が
ないことを訴えたり、火か焔えんを吐きながら飛び回ったりしている。「入鹿」の名も蔑
称とされ、本来は「鞍くら作つくり」と呼ばれていたようである。
しかし、入鹿にまつわる記述の多くは、天智天皇と藤原氏を国家形成の功労者と見なす
時代に書かれたものであり、実像はまだまだ不明である。
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