「お父さん!おかくち(赤口)ってなんのこと?ボクの誕生日のところにあるよ」
一人息子のオマエは、朝ごはんをこぼしながら新しくなった二月のカレンダーの二十七日を指差していた。
毎日のように読める漢字を見つけてはやたらと訊いてきた。
それまでは、何を訊かれてもすぐに答えられたから、お父さんは何でも知っているとおもっていただろう。
ところがカレンダーの六曜には、まったくうとい。大安、仏滅、友引はまだしも、赤口、先負、先勝は読み方さえも知らない。まずいものを見つけてしまったな、とおもわず顔に出てしまったようだ。
国語辞典でしらべているところを、オマエが不安そうな眼差しで見つめていた。それは私にはじめて失望した顔だった。
「・・・・あかくち(赤口)ってなに?」と訊いたオマエも今ではすっかり父親の顔になり、自分の息子に「何でも食べないと、大きくならないよ」と諭している。小さい頃ピーマンは嫌い、トマトは嫌い、とお母さんを困らせていたことなど覚えてはいまい。
男の子は父親の真似をしたがるものだ。ボール投げでも、ボール蹴りでも、初めは父親のようには上手くできない。だから、息子は「お父さんはすごい!」とびっくりする。
息子にとって父親は万能なのだ。だから、オマエの言うことは素直に何でもよく聞く。
オマエも、子どもは思い通りになるものだ、と有頂天になっている。だがいつまでも続きはしない。
地区の運動会の障害物競走で転んだりすれば、息子はショックだ。オールマイティーの虚像は空しく崩れてしまう。
でも、心配するな。実像が虚像より小さくなってしまっても、その分にあり余る愛情を注いてやればいい。