父は転勤族であったため、私は四つの小学校に通うはめになった。四年生の春から通った、私にとって三つ目の小学校は、一時間近くの通学路に小さな山、狭い川、田畑が広がり、級友とざくろの実を採り、放し飼いの鶏を追い駆け、ザリガニを捕まえる日々を過ごしていた。
五年生の初夏、父に再び転勤の辞令が下りた。そのことを聞かされた夜、私は決死の覚悟で涙ながらに抗議した。ぼくは行かない、ここに残る、友達は誰も転校などしていない、なぜ自分ばかり何度も転校するんだ、と喉が裂けんばかりに叫び続けた。
手をあげるはずの父は、なぜか声すら荒げることなく、私の眼を見て、静かに話し始めた。なぜ会社は父を転勤させるのか、次に行く営業所で、支店長として何を期待されているのか。どうして転勤を拒否できないか、拒否しないのか。家族はどうして一緒に居た方がいいのか。ひとつひとつ、丁寧に、当時の私に完全には理解できないであろうことを承知で、難解な言葉も敢えて交えて、父は私に説明してくれた。そして、お前には辛い思いをさせて申し訳ないけれど、でも一緒に来てくれ、と懇願するかのように私に言った。私は父に申し訳ない気持になり、小さな声でわかりました、と言いながら父の腕に縋り、声を上げて泣いた。すまんな、という父の声は、今でも耳に残っている。
幾度もの転勤の時期の前後は、父の手帳には空白が多く、記述も簡素である。前任地と赴任地を行き来しながら、貸家を探し、引越しの段取りをつけ、仕事を引継ぎ、挨拶に回り、と諸事に忙殺されていたのだろう。そんななか、泣きわめく十歳の息子に、生来の短気の虫を抑え、静かに諭してくれた父の姿を、今でもありがたい気持ちで思い出す。