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不夜城(04)

时间: 2018-05-31    进入日语论坛
核心提示:4 ベッドで眠りこけている女をそのままにして、ホテルを出た。腕時計は午前四時を指していた。靖国通りや新宿通りが鴉《からす
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 ベッドで眠りこけている女をそのままにして、ホテルを出た。腕時計は午前四時を指していた。靖国通りや新宿通りが鴉《からす》たちの王国になっている時間。残飯や反吐《へど》を狙《ねら》って集まってくる鴉の群れが人間を襲いだすのはいつのことだろう、いつものようにそう考えて、怖気《おぞけ》をふるった。
 職安通りを横切り、コマ劇場の裏手を回ってさくら通りに出た。
 その薬屋は、さくら通りの片隅にひっそりとたたずんでいる。看板の文字も、ウィンドゥに描かれた文字もすっかり色あせ、はげかかり、判読することもできない。もう、百年も前からそこにあるような店だ。おれたち——おれと歌舞伎町を根城にする台湾人——は、ただ、〈薬屋〉とだけ呼んでいる。
 がたのきたドアを開け、薬屋の中へ。楊偉民《ヤンウェイミン》は分厚い眼鏡《めがね》越しにこちらをちらっと見ただけで、すぐに朝刊に目を落とした。勝手に店の奥に入りこみ、透明な冷凍ケースから漢方のスタミナドリンクを取りだして、一息に飲み干した。
「なにか変わったことはないかい?」
 台湾の流氓《リウマン》が新宿の流行から遠ざかって、もうかなりになる。国にいた方が稼ぎになると、女たちが帰国してしまったからだ。強持《こわも》ての台湾マフィアも、異国の地では女なしではやっていけない。ヴァイタリティに溢《あふ》れる女たちが金とねぐらを用意してやってはじめて、男たちも心おきなく暴れることができるのだ。日本のやくざすら入りこめない歌舞伎町の裏の裏の甘い汁は、台湾人の手から、ほかの中国系マフィアの手に移ってしまっている。
 楊偉民。台湾人。流氓じゃないが、羽振りがよかったころの台湾マフィアも、楊偉民には一目置いていた。歌舞伎町にどっかりと根をおろしたこの老人は、流氓どもがやってくる遥か以前から自前の自警団を組織していて、流氓といえどもおいそれとは手を出せなかった。それは、いまでも変わらない。一度、事情を知らない北京のチンピラがみかじめ料をよこせと楊偉民に詰めよったことがあった。そのチンピラは、その日のうちに歌舞伎町から姿を消した。噂《うわさ》は瞬く間に新興のマフィアたちの間を駆け巡り、楊偉民に横槍《よこやり》をいれる阿呆《あほう》はどこにもいなくなったというわけだ。
 時偉民のもとには毎夜、いろんな情報が集まってくる。どこそこの飲み屋で麻雀《マージャン》の賭場《とば》が立っている、福建のだれかが上海のだれかを血眼《ちまなこ》になって探している——そんな情報だ。楊偉民はその情報を売ることで、ほとんどの中国系社会に——堅気にも流氓にも——恩を売っている。
 そんなわけで、おれは自分の足元がよく見えなくなると、必ず楊偉民のところにやってきて、ご機嫌うかがいをすることにしているのだ。
「ちょっと前に、どこかで死体が見つかったそうだ」
 朝刊に目を落としたまま、楊偉民がいった。流暢《りゅうちょう》な日本語。口を動かすたびに、瞼《まぶた》と頬《ほお》のたるんだ肉がひくひく震え、猛禽《もうきん》の爪のような深い皺《しわ》が三本、両の目尻にできた。
「だれの?」
 日本語で聞き返した。
「死体は死体だ。死ぬ前にそいつが何者だったかなど、いまとなっては意味がない。違うか?」
 眼鍵の奥で楊偉民の目玉がギョロリと動いた。深い海の底で何百年もの間、他の魚の生き死にを見守りつづけてきた老魚のような、濁り、暗く落ちこんだ目だ。
 とりあえずうなずいた。楊偉民の言葉を通訳すれば、おれたちの社会とは接点のない日本人が死んだだけだ、気にするな、ということになる。
「他には?」
 おれは煙草に火をつけた。楊偉民は悪霊を追い払うように激しく煙を振り払った。生きたまま死にかけている魚の目がおれを睨《にら》んだ。
 楊偉民は一度、肺癌《はいがん》でくたばりかけたことがある。それまでは重度のヘヴィスモーカーだった。いまでは、楊偉民の側で煙草を吸う馬鹿はいなくなった。おれを除いては。楊偉民はまず、おれに目くじらを立てたりはしない。
「呉富春《ウーフーチュン》が戻ってきたそうだ」
 煙草を落としそうになった。胃の真ん中にでっかい石が生じて、その石の重みが下腹部にずしりとのしかかっているようだった。楊偉民は、老人を大切にしないからそうなるんだといいたげに、唇を意地悪く歪《ゆが》めていた。
「まだほとぼりは冷めてないだろう。元成貴が黙ってないぜ」
「あいつの考えていることなど、だれにもわからんよ。それとも、おまえならわかるのかね、健一?」
 おれは黙って首を振った。頭の中がショートしそうだった。夏美という女からの電話だけでも頭が痛いというのに、富春までもがトラブルを携えて帰ってきている。さっきまで、おれは足元に大きな穴が開きかけていると感じていた。実際には、すでにその穴に落っこちてしまっているのかもしれない。
「この近辺をうろついているのを元成貴の手の者が見かけたらしい。元成貴は血眼になっている」
 楊偉民はどこかで珍しい動物が見つかったというよぅな口調で告げた。
 呉富春——精神異常のチンピラだ。それも、始末におえないタイプの。ちょうど一年前、富春は福建のやつらから金をもらって、上海の男を殺した。歌舞伎町を根城にする中国人ならだれでも知っていることだったが、そいつは元成貴の右腕だった。薬関係のトラブル。気の短い福建野郎が暴発してしまったのだ。頭のねじがゆるみっぱなしになったやつでも、元成貴の右腕を片付けようなんて馬鹿な考えはおこさない。福建野郎はその馬鹿なことを考え、富春が、たかが数十万の金で請け負ってしまったのだ。元成貴の怒りは凄《すさ》まじかった。富春に殺された右腕の後を継いだ銭波《チェンポー》という男が、元成貴の怒りを受けて歌舞伎町に嵐を運んできた。いっとき、通りという通りから福建人の姿が消えたほどだ。後先を考えられなかった福建野郎は全身をめった切りにされて殺された。だが、富春は元成貴の手をするりとかわして逃げた。名古屋へいっただとか、親のいる田舎へ帰ったのだとかいう噂が流れた。本当のところを知っている人間はだれもいなかった。
「元成貴はおまえに話を聞きにくるだろう。どうするつもりだ?」
 楊偉民がいった。目は新聞に戻っていた。
 おれは黙っていた。煙草をふかし、薄汚れた窓の外を見つめた。雨は小降りになっている。新品のスーツを着た若いサラリーマンが、自分の親父ほどの年齢の上司に肩を担がれ、よろめく足どりで、わかってんのかよじじい!? と叫んでいた。じじいと呼ばれた上司は、苦笑いを浮かべながらなにかをいい返すでもなく、ただ黙々と若造を担いでいる。
 おれと楊偉民の間にもそんなときがあった。もちろん、上司が楊偉民で、若造がおれだ。おれは自分がよれよれの千鳥足であることも気づかずに、歌舞伎町の中国人社会を渡り歩けるつもりで有頂天《うちょうてん》だった。
「元成貴は諦めの悪い男だ。おまえ、歌舞伎町にいられなくなるかもしれんぞ」
 おれは楊偉民の声にはっとして振り向いた。それは慈悲深い年寄りの声だった。まるで、おれの心の裡《うち》を見透かしたような。
「もうそろそろ意地を張るのはよして、わしの身内から嫁をもらえ、健一。そうすれば、おまえを守ってやれる」
 楊偉民の目は今度はまっすぐおれを射抜いていた。
 おれは煙草の煙を天井に向けて吹き上げ、にやりと笑ってみせた。
「おれの都合ってものもあるんだよ。また来る。じゃぁな」
 楊偉民に背を向けてドアに手を伸ばした。静かに頭を振り新聞に視線を戻す楊偉民の小さな姿が窓ガラスに映っていた。もう、その頭からは、おれのことなんかすっかり抜け落ちているに決まっていた。
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