紀伊國屋の前に車を停める直前、バックミラーに真っ赤なミニのシルエットが映った。夏美が息を弾ませて、三峰《みつみね》の角を曲がってきたところだった。
おれが助手席のドアを開けてやると、下りたときと同じように滑らかな動作で夏美が乗りこんできた。夏美がドアを閉める前に、おれはBMWを発進させた。
「薬屋のおやじはなにかいってたか?」
バックミラーで後方を確認しながら、夏美に訊いた。怪しい気配は何もなかった。
「えっとね、カリビアンは静かになった。そう伝えてくれって」
元成貴がおれとの約束を守ったのだ。今夜の捜索は空振りに終わったのだろう。富春を掴《つか》まえるには、おれを利用した方が早いと元成貴は決断したのだ。
「それから、ママさんがさっき釈放されたっていってたわ」
それで、黄秀紅に電話しなきゃならないことを思いだした。とりあえず秀紅は元成貴の元へ急ぐだろう。元成貴にしても、〈紅蓮〉で起こったことを詳しく知りたいはずだ。どちらにしても電話できるのは昼以降ということになる。
「はい、これ」
夏美が、デパートの包装紙に包まれた金をおれの膝《ひざ》の上に放り投げた。
「歌舞伎町の様子はどうだった?」
「恐い目をした中国人がいっぱい。店が終わったホステスがけっこう。酔っぱらいの日本人が少し」
ニュース原稿を読みあげているアナウンサーのような声だった。
「わたしにこの格好をさせたのはそのせいなのね?」
「なにが?」
「ホステスだと思わせるため」
「実際にホステスなんだろう?」
「まあ、そうだけど」
夏美はヘッドレストに頭を押しつけ、大きく息を吐きだした。
「疲れたわ。それに、お腹も減った」
車は甲州街道を走っていた。
「買ったマンションってのは、もう入居できるのか?」
「うん。まだ、家具もなんにもないけど」
「参宮橋だったな?」
「そうよ。住所はね、渋谷区代々木四丁目、だったかな?」
それで大体の位置は見当がついた。
「飯を食ってからそこにいく。まだ九月の終わりだ。布団がなくっても風邪を引くことはないだろう」
西参道の交差点を左に折れると、終日営業のプァミリーレストランがあった。
「えー、こんなとこで食べるの?」
駐車場に車を乗り入れると、夏美はいった。心底うんざりしたような声だった。
「まだ朝の四時だぜ。贅沢《ぜいたく》いうなよ」
夏美がガキのように駄々をこねだす前に、おれはさっさと車を下りた。
「百五十万しかない」
おれは金を数えていた手をやすめ、プロレスラーのような勢いでステーキを頬張《ほおば》っている夏美に顔を向けた。夏美はきょとんした顔でおれを見た。すぐに破顔して、おれがおもしろくもない冗談をいったというように笑ってみせた。
「ああ、十万円ね。もらっちゃった」
「おれはやるなんてひと言もいってないぞ」
「いいじゃない、それぐらい。メッセンジャーを務めた報酬《ほうしゅう》よ」
おれは黙って夏美を見つめつづけた。
「なにかいいたいことがあるんなら、はっきりいえば」
「返せ」
「やっぱり」
「富春のせいで、この数日は商売ができない。十万でもおれには貴重な金なんだよ」
「じゃ、ちょうだいとはいわないから、貸してよ」
夏美はフォークとナイフを操る手をとめて、媚びるような表情をおれに向けた。
「おれは十日で二割の利子でこの金を借りた。同じ利子でいいなら、貸してやるよ」
おれはいってやった。
「ケチ」
「商売人といってくれ」
夏美はそれでもなにかを期待するようにおれの顔を見ていた。だが、そこに探していたものが見つからないと悟ると、渋々といった感じでバッグに手を伸ばし、札束を取りだした。おれはその札を受け取った。十六個の束をいくつかに分け、ジージャンのポケットに突っ込んだ。
別に十万の金ぐらいくれてやってもいい。ただ、今は夏美にまとまった金を持たせたくなかった。金があれば自由に行動することができる。おれはしばらくの間、夏美を縛っておきたかった。
「いくら持ってるんだ?」
「三万ぐらいかな。銀行に行けば、まだ五十万ぐらいあるんだけど」
隙を見てキャッシュカードを奪いとっておかなければならないということだ。
「食わないのか?」
「もういい」
夏美の唇が尖っていた。拗《す》ねた女の子そのままだ。
「じゃあ、行くぞ」
コーヒーを飲み干して立ちあがった。
夏美が買ったというマンションは、西参道と山手通りのちょうど中間ぐらいの場所にあった。2DKの間取りで決して新しくはないが、日当たりもよく、悪くはない物件だった。これなら、四、五千万はするだろう。夏美は名古屋の店の売り上げを持ち逃げしてきた金で買ったといったが、どんな店であろうと一日の売り上げなどたかが知れている。貯金をおろしたか、おれには話していないなにかで当てた金を使ったに違いない。
部屋に入るなり、夏美はバスルームへ駆けこんだ。水が流れる音がしたが、シャワーじゃなかった。たぶん、化粧を落としているのだろう。おれは室内をざっと点検し、気に触るものがなにもないのを確かめて、煙草に火をつけた。煙はまずかった。口の中がざらざらで喉がいがらっぽかった。昨日からろくに寝ていないし、ほとんどなにも口に入れていない。ファミリーレストランでサンドイッチを注文したのだが、崔虎に殴られた口の中がいたくて、コーヒーだけで我慢したのだ。
夏美が出てきた。おれには目もくれずにスーツケースを置いた和室に足を向けた。
「着替えるから覗《のぞ》かないでね」
いったんおれに顔を向け、からかうような表情を見せてからぴしゃりと戸を閉めた。鼻唄が聞こえた。足音を殺してバスルームへ向かった。扉を開けて中を覗いた。洗面台の上にルイ・ヴィトンがちょこんと載っていた。
中には、財布、パスポート、免許証、化粧品が入った小さなポーチ、ハンカチ、ポケットティッシュ、ウォークマン。
財布を取りだし、中をざっとあらためた。札で三万二千円。小銭で四百数十円。銀行のキャッシュカードが二枚にVISAのクレジットカードとテレホンカードが一枚。キャッシュカードとクレジットカードを抜きとり、ジーンズの尻ポケットに突っ込んだ。
和室の方の気配をうかがってみたが、鼻唄と衣ずれの音が聞こえるだけだった。財布を元に戻し、今度はパスポートと免許証を取りだした。パスポートは形式が変更される前の、赤い大判のやつだった。今よりほんの少し長い髪の毛の夏美の写真が貼ってあった。発行年月日は一九九二年の五月、本籍地は岐阜県。査証のページはまっさらで、最後のページに夏美の名前と名古屋の住所が書き記されていた。免許の方も同じようなものだ。
パスポートの最初のページをめくり、写真をじっと睨んでみた。薄緑のシールに覆われた写真に、手を加えた跡は見当たらない。日本で偽造されるパスポートは、ほとんどが盗難品に写真を貼り変えたものだ。写真の表面を薄く剥がし、元の写真の上に張りつけて擦り、割り印を浮かびあがらせる。杜撰《ずさん》な仕事だとすぐにわかるが、熟練の職人の手にかかったものだと、素人目にはまったく区別がつかない。
引っ掛かっているのは渡航印がまったくないということだ。普通の人間は、海外へ行くためにパスポートを申請する。身分証明証代わりにパスポートを申請するやつなどまずいないだろう。そもそもパスポートの申請には七面倒くさい手続きが待っている。免許証か健康保険証で肩代わりできるのに、その苦役《くえき》を受け入れる必要はない。そうでないとすれば、そいつは自分の身分に不安を抱えているのだ。
たとえば、おれだ。おれは日本、中国、台湾のパスポートを持っている。本物は日本のだけで、あとは高い金を積んで作らせた偽造パスポートだ。名前もそれぞれ違う。おれはその二つのパスポートを使って国民保険に加入し、外国人登録証と免許を取得している。特に必要があるというわけじゃない。将来、日本人の高橋健一でいられなくなった場合の保険なのだ。流氓と繋がりのある在日中国人なら、だれだってひとつや二つの偽造パスポートは所持している。偽造パスポートを使って入国してくるやつの方が多いかもしれないぐらいだ。
鼻唄が変わった。パスポートと免許証を元の位置に戻し、バスルームを出た。
「出かけてくる。飯を食うのはかまわんが、なるたけ外へは出ないようにしてくれ。夕方には戻る」
和室に向かってそういい放ち、おれはそそくさとマンションを後にした。