「おれになにをさせたいんだ、健一?」
電話回線の向こうで元成貴がいった。声ははっきりしていた。まだ朝も早いのに、しっかり目覚めているらしい。
「今日の夕方、富春を連れていく」
おれは煙草の煙を受話器に吹きかけた。
「どこにだ?」
元成貴の声がかすかに緊張した。元成貴の疑り深い目が脳裏に浮かんで消えた。
「〈桃源酒家〉を知ってるか?」
「ああ、組合の周天文がやってる店だろう。それがどうした」
「今日の七時に、そこに富春を連れていくよ」
「おい、健一、頭がいかれたのか? 周天文はおまえの弟分じゃねえか。そんなとこに、おれがのこのこ出かけていくと思ってるのか」
また煙草を吸った。少し、間を取りたかったのだ。
「天文は組合の理事だ。下手なことはしない。それに、楊偉民が立会人になる」
楊偉民の名前を出した瞬間、元成貴が息をのんだ。
「おれの方からあんたのとこへ出向くわけにはいかない。わかるだろう? 富春と一緒に撃たれたんじゃ、洒落《しゃれ》にならないからな」
「そんなことをおれがするか」
「するかもしれない」
おれはすかさずいった。返事の代わりに、唸り声みたいなのが聞こえてきた。
「楊偉民と天文がいるところでなら、あんたも富春だけで諦めるはずだ」
「健一、なにを誤解してるのか知らんが、おれはおまえを殺すつもりはないぞ」
「保険だよ。おれのやり方はわかってるだろう。心配なら、楊偉民に確認を取ればいい。あの爺さんは立会人を請け負った。やばいことはなにも起こらないはずだ」
「それで、おれひとりで来いっていうんじゃないだろうな」
「まさか」
鼻で笑ってやった。
「天下の元成貴にボディガードも連れてくるなとはいえないだろう。二、三人だな。ボディガードがそれだけいれば、あんたも安心だろう」
「少なすぎる。おれは——」
「見張りを立てておく。あんたが大人数でぞろぞろやってきたら、おれは富春を連れて逃げる」
おれは元成貴の声を遮った。微妙な間があいた。元成貴がため息を漏らすのが聞こえてきた。
「楊偉民は本当に請け負ったんだな?」
「ああ。あの爺さんが面子にこだわるのは知ってるだろう? 自分の目の前で面倒ごとが起こるのを黙ってみてるタイプじゃない。おれも、小細工をするなって釘を刺されたよ。安心してくれ。おれはなにもしない。ただ、あんたに富春の馬鹿を渡すだけだ」
元成貴は迷っていた。受話器の向こうからそれが伝わってきた。
「楊偉民と周天文に確認を取るぞ」
「いいとも」
「呉富春はどこにいるんだ?」
「馬鹿な質問をするなよ」
「あいつがのこのこ〈桃源酒家〉にやって来るって保証は?」
「そんなものはない。おれはあんたを怒らせたくはない。そこんところを信じてもらうしかないな」
「七時だな。必ずあの馬鹿野郎を連れてくるんだ。健一、おまえはこの元成貴をいいように振り回してるんだ。いいか、もし、今夜、呉富春がおれの手に入らなかったら、歌舞伎町におまえの居所はないぞ」
「そんなに脅すなよ。それぐらい、おれにだってわかってるさ」
おれはいった。遅かった。元成貴は電話を切っていた。
指に挟んだ煙草が根元まで燃え尽きていた。受話器を戻した拍子に、灰がぽとりと落ちた。煙草を投げ棄てた。それから、ベッドの上に倒れこんだ。
八時にはホテルを出た。タクシーで参宮橋のマンションへ戻った。夏美の荷物を手にしただけですぐにマンションを出、参宮橋から小田急に乗って新宿へ向かった。京王プラザのクロークに夏美の荷物をあずけ、ついでにツインの部屋を予約した。ホテルのエントランス付近でタクシーをつかまえ、四谷四丁目の交差点の喫茶店に入った。夏美は文句もいわずについてきた——文句どころか、一度も口を開かなかった。
おれはコーヒーを、夏美はモーニングセットを頼んだ。煙草を吸い、コーヒーをすすりながら夏美の旺盛な食欲を眺めた。夏美が食いおわると、いった。
「今からいう番号に電話をかけてきてくれ」
黄秀紅《ホヮンシウホン》の電話番号を伝えた。
「北京語で話すんだ。相手は黄秀紅って女だ。宝石屋の高橋の使いの者だが、どこかでお話はできないでしょうかって聞いてくるんだ」
「宝石屋の高橋?」
「あまり知ってるやつはいないが、おれの本名は高橋健一なんだ」
「へー。ぜんぜんイメージじゃない。ちょっと待ってて」
夏美はそそくさとコーヒーを飲み干して立ち上がった。おれは夏美の様子を見守った。ときおりこっちをうかがいながら、流暢な北京語を受話器に送り込んでいた。
別にこれといった考えがあるわけじゃなかったが、黄秀紅には今夜起こることを伝えておきたかった。秀紅が元成貴と切れたがっているのはわかっていた。元成貴がくたばることを教えてやれば、おれに必要な情報が引き出せるかもしれなかった。
夏美はすぐに戻ってきた。
「一時間後に弟さんのアパートでだって。意味わかる?」
うなずいた。そのためにここでタクシーをおりたのだ。
「出るぞ」
おれは伝票を掴んで立ち上がった。
「ねえ、黄秀紅って健一とはどういう関係?」
勘定の支払いが終わるのを待ちきれないというように夏美がきいてきた。
「関係なんかない。あいつは元成貴の女だ」
「ふーん」
まだなにか聞きたそうな夏美を促して外へ出た。新宿通りを新宿に向かって戻り、丸ノ内線の御苑前駅へ下る階段の手前の路地を折れた。花園公園を右手に見ながら直進し、少し先の路地を左に曲がった。真新しい白いマンションが見えた。最近じゃすっかり評判が悪くなったワンルーム・マンションだ。相場はすっかり下落したが、それでもここらじゃ月十万は取られる。
おれは一階の一番奥の部屋を乱暴にノックした。秀賢《シウシェン》——秀紅の弟がこんな時間に起きているはずがなかったし、ブザーの電源を切っていることも知っていた。
しつこくドアを叩いている内に、猫が喉を鳴らしてるようなくぐもった音が部星の中から聞こえてきた。ノックするのをやめて、待った。ドアが開いた。眠そうに目を擦った秀賢がつっ立っていた。
「なんだ、あんたか」
欠伸《あくび》といっしょに秀賢は言葉を吐きだした。賢姉愚弟の典型だ。秀賢は姉にたかって生きている。毎日毎日働きもせず、昼は競馬新聞と首っ引き、夜は酒場で女の尻を追いかけまわしている。秀紅はこの馬鹿な弟のために千万単位の借金を肩代わりしていた。そのせいで、秀紅は元成貴に飼われることになったのだ。
肩で秀賢を押しやるようにして部屋の中に入った。秀賢の部屋は煙草と酒と安いコロンの匂いがまじり合っていた。部屋は意外と片付いている。最近引っかけた女の中に掃除好きがいたのだろう。普段の秀賢の部屋はゴミ溜めと変わらない。
「こんな時間になんだよ?」
秀賢はいったが、眠たげな眼は夏美に釘づけだった。
「秀紅と待ち合わせだ」
秀紅には大抵の場合お供がついていた。もちろん、そいつらには元成貴の息がかかっている。ボディガード兼監視係というやつだ。自分の部屋と店にいるとき以外、そいつらはぴったり秀紅にくっついている。元成貴の猜疑心《さいぎしん》を象徴して。だが、なんにだって例外がある。秀紅とお供に関しては秀賢がその例外だった。いくらなんでも身内の話——秀賢が絡んでいる場合は大抵は身内の恥に関する話題になる——を他人に聞かれたくはないと秀紅が泣きつき、元成貴がしかたなしにうなずいたのだ。それ以来、弟のマンションは秀紅にとって、監視の目を気兼ねしないでもすむ三番目の場所になった。
おれはキッチンの横に立てかけられていたパイプ椅子を持ってきて腰を掛けた。夏美が興味深そうな表情でおれと秀賢の顔を交互に見比べていた。
「もうちょっと時間を考えてくれないかなあ」
秀賢は夏美を見つめたままだった。口調とは裏腹に、その顔からは眠気が失せていた。
「お茶でも出せよ」
ぶっきらぼうにいった。正直な話、秀賢のような手合いは好きじゃない。秀紅の弟じゃなかったら絞るだけ絞ってげっぷも出ないようにしてやるただのカモだ。
秀賢は軽く舌打ちした。おれの方へ視線を向けるのを避けながらキッチンに立って湯を沸かしはじめた。
夏美がおれに向かって肩をすくめてみせた。それから、シーツと布団がごちゃごちゃに絡み合ってるソファベッドの端っこを手でぽんぽんと払い、そこに腰を下ろした。
「なあ、健一さん」
秀賢がいった。おれには背を向けたままだった。
「なんだ」
「ちょっと金を都合してくれないかな。すぐに返すからさ」
「ふざけるな。返ってこないとわかってる金を貸すやつなんかいないぜ」
「そこをなんとかしてくれよ。おれとあんたの仲じゃないか」
秀賢はこっちを向いた。手には湯気の立つ茶碗をふたつ持っていた。おれの前のテーブルの上にそれを置いた。露骨に媚びをふくんだ表情だった。
おれは煙草に火をつけた。
「おれとおまえがどんな仲なんだ?」
「そんなにいじめるなよ」
「おまえになんかいじめる価値もない」
煙草を指で叩いて灰を床に落とした。
「おい、なにしてるんだよ。灰皿を使えよ」
秀賢の表情に怒気が宿った。
「悪いな。どこに灰皿があるかわからなかった」
おれが醒めた声でいうと、秀賢の怒気もすぐに消えた。調子のいい笑みを浮かべ、悪いのは自分の方だったといわんばかりに頭を掻いた。
「ああ、灰皿を忘れてたね。ごめんごめん」
秀賢はキッチンの流しからコカ・コーラの空き缶を取っておれの前に置いた。
「これを使ってくれ……金、なんとかならないかな?」
「おれは商売人だ。おまえに売るものがあるなら、買ってもいいぞ」
「そんなものがあるなら、あんたに頼んだりはしないよ……」
秀賢は救いを求めるように夏美に顔を向けた。夏美は素知らぬ顔で部屋の中を見渡していた。ときおりちらっとおれを見る。いつまでここにいなけりゃならないのかと聞いているのだ。
「そりゃ残念だな」
夏美を無視して、秀賢に小さく笑ってみせた。秀賢は金のためならなんだってする。追い詰められたら姉の秀紅だって売るだろう。そんなやつに金になる情報を流すやつなんているわけがない。
「商談不成立ってとこだが、ゆっくり秀紅を待たせてもらうぜ」
おれが秀紅の名を口にした途端、秀賢の表情になにかがよぎった。
「そうか! 売り物ならあるぜ」
「なんだ?」
秀賢は小狡《こずる》そうに眉をひそめた。
「健一さん、これは高い売り物だよ。値は張ってもらわなきゃ」
秀賢の変わりようが気になった。秀賢は頭のめぐりが遅けりゃ度胸もないといったろくでなしだが、金の匂いにだけは敏感だ。その秀賢がこれだけ大きな態度を取るとしたら、やつが持っている情報にはそれだけの意味があるってことになる。
「ふざけるな。おまえの売り物なんてたかが知れてる」
「それがそうでもないんだよな。おれしか知らないはずだし」
それでぴんときた。秀賢が握ってる情報は姉の秀紅に関するものなのだ。おれの勘がなんとしてもその情報を聞き出せとわめきたてた。まるで頭の中で警報ベルが鳴り響いてるようだった。
「いくらなら話す?」
短くなった煙草をコーラの缶の中に放り投げた。興味があるという素振りをちょっとでも見せたら、秀賢はどこまでもつけあがる。
「これぐらいはほしいな」
秀賢は片手を広げた。五十万だ。ずいぶんと吹っ掛けたものだ。おれは腰に手を回し、黒星を秀賢に向けた。
「な……」
秀賢は顔を背けながら両手を前に突き出した。
「動くな」
秀賢は電池の切れたロボット人形のように動きをとめた。おれは立ち上がり、黒星をしっかり秀賢に向けて近づいた。
「話せ」
「汚ぇぞ」
「いいから話せ。金はあとでくれてやる」
「お、おれを殺せば、姉貴が——」
銃口を秀賢の脇腹に押しつけた。セイフティはかけたままだった。秀賢がそれに気づくとも思えなかった。
「おまえがくたばれば秀紅は悲しむだろう。だが、それだけだ。元成貴はおまえの仇を取ろうとはしない。わかりきったことだ」
秀賢は目を剥いて黒星を見つめていた。
「さあ、話せ」
「姉貴に……男がいるみたいなんだ」
「まさか」
おれは笑い飛ばした。秀紅は頭のいい女だ。必ず露見するとわかっている隠し事を元成貴に対してするはずがない。
「ほんとだってば。おれ、聞いたんだよ。姉貴が電話してるのを」
「どこで?」
「ここでさ。姉貴がここに来てて、おれ、シャワーを浴びてたんだ。途中で石鹸《せっけん》がないことに気づいてドアを開けたらさ、姉貴、こんな顔になって電話でのろけてた」
秀賢はしなをつくってみせた。
「相手は?」
「知らない。ほんの二、三秒だったんだ。おれがいるのに気づいたら、姉貴のやつ、慌てて電話を切ったから」
秀賢の目を覗きこんだ。怯えに多少の期待が混ざった瞳があるだけだった。秀賢は嘘はついていない。
「なにか、言葉を聞いたのか?」
「�大丈夫よ、あなた�。聞こえたのはそれだけだよ」
「相手が元成貴じゃないってどうしてわかる」
「なんでおれんところから元成貴に電話しなくちゃならないんだよ? 姉貴は一度もあいつに電話したことなんかないよ。それに、あいつといっしょにいたってあんな話し方はしたことない」
おれは黒星を腰に戻した。秀賢はほっとして息を大きく吐きだした。その横っ面に拳を叩きつけた。秀賢はぶっ飛んだ。背中をキッチンの流しにぶつけ、その反動で正面から床に倒れこんだ。
「な、なにを……」
秀賢は左頬に手を当てておれを見あげた。顔が苦痛に歪んでいた。
「いまのが代金だ」
おれは右手の関節をさすった。人差し指の根元の皮がすりむけ、感覚が鈍くなっていた。人を殴ったのは二年振りだった。だからといって、興奮してるわけでもなかった。これは一種のポーズだ。大部分の中国人は、身内を売ったやつはそれなりの償いを受けなきゃならないと信じてる。おれはその中国人のルールにのっとって行動しただけだ。本音のところじゃ、こんな馬鹿をいつまでも抱えている秀紅の愚かさを笑い飛ばしたかったし、貴重な情報を与えてくれた秀賢になにがしかの金を払ってやってもいいと思っていた。
だが、おれは中国人社会の中で生きている。そこじゃ、ルールがなによりもものをいう。健一はルールを守らないという噂が流れれば、商売どころか生きていくのさえ難しくなるのだ。
「金はあとで届ける。だが、身内を売るのはこれぐらいにしておけ」
秀賢の手を引いて立たせてやった。秀賢は恨みがましい目でおれを見たが、なにもいわなかった。
おれは元の椅子に腰を下ろした。そして、秀賢の話を吟味した。
ドアがノックされたのは、約束の十分前だった。おれはさっと立ち上がり、夏美の手を引いてバスルームに隠れた。秀賢がそれを待ってからドアを開けた。夏美はおれの腕の中で小さくなっていた。どうするべきかはすっかり心得ていた。それどころか、この状況を楽しんでいるふしさえあった。
玄関でふたことみことのやりとりが交わされ、ドアが閉まる音がした。
「もういいよ」
秀賢が声をかけてきた。おれたちはバスルームを出た。秀紅はひとりだった。お供はマンションの外で待っているはずだ。
今日の秀紅は赤地に様々な花をあしらったサマードレス姿だった。剥き出しになった鎖骨がひ弱さと被虐的な官能美をかもしだしていた。真夏の日光の下にさらされた氷の造花——そんな風情だ。
「あなたが殴ったの?」
秀紅はいきなりきいてきた。鼻孔がかすかに開き、目が潤んでいた。おれは秀賢に目をやった。殴られた痕がドス黒く変色しつつあった。
「おれが来たときにはあんなだったよ」
秀紅に視線を戻した。
「……そう。ならいいわ」
秀紅は諦めたように首を振り、さっきまでおれが座っていた椅子に腰をおろした。
「それで、なんの用かしら?」
おれはちらりと秀賢を見た。秀賢はわかっているというようにうなずいた。布団とシーツを丸めて脇に置き、ソファベッドをソファの形に組み立てた。それから、床に転がっていたウォークマンと競馬新聞を取り上げ、大型のヘッドフォンをかぶって部屋の隅に行って腰を下ろした。ヘッドフォンから金属的なリズム音が漏れてきた。
普段なら秀賢はトイレにこもる。そうしないのは、おれに対するあてつけってわけだ。
「見張ってろ」
早口の日本語で夏美に告げた。夏美は秀賢が組み立てたソファの端に腰を下ろした。その目は秀賢にじっと注がれていた。
おれもソファに腰を下ろして秀紅と向き合った。
「今夜、元成貴を殺すことに決めた」
「そう」
秀紅はバッグから煙草を取り出した。煙草の先端が震えていた。
「気にならないのかい」
「気になるわよ。わたしのパトロンですもの」
男、とはいわなかった。
「でも、あなたにできるの?」
「殺《や》るのはおれじゃない」
「そうよね。あなたはいつも他人を使うことしか考えない人だもの」
「臆病だからな」
「違うわ。世の中の仕組みをよく知ってるのよ、あなたや、楊偉民のような人は。元成貴はだめ。威張り散らすだけで、足元を見ようとしない。自分の力に酔ってるだけなんだもの。いつか別の力を持った人間に殺されるんだわ」
「今日はやけに悲観的じゃないか」
「どうしてわたしに話したの? わたし、あなたを助けたりはしないわよ」
「今日の元成貴の動きと、元成貴がくたばったあとの上海のやつらの動きを知りたいんだ」
「元成貴がくたばったら——」
秀紅は言葉を切ってふっと笑った。
「嫌ないい方ね、くたばるなんて……とにかく、元成貴が死んだら、だれもわたしなんて見向きもしなくなるわ」
「聞こえてくる範囲のことだけでいい」
「それで、わたしになんの得があるの?」
「元成貴と切れられる」
「そして、借金だらけの弟が残るわけね」
「好きな男といっしょに暮らせるさ」
かまをかけてみた。どんぴしゃりだった。秀紅は柳眉をきっと立てて弟を睨んだ。
おれはだれにもわからないように首を振った。秀紅は頭の回転がよくて律義な女だ。その秀紅が男を作っている。どっちにしろ、元成貴はくたばる時期だったのかもしれない。
「今夜は、元成貴のそばに寄るなって、伝えておいた方がいい」
「いいたいことはそれだけ?」
秀紅はおれに視線を戻した。吐きだすような声だった。
「ああ」
「じゃあ、わたしはいくわ」
秀紅は立ち上がった。一度玄関の方へ足を踏み出し、思い出したように振り返って夏美に声をかけた。
「あなた、自分の男がどんな人間かわかってる?」
夏美はゆっくり振り返った。
「わかってるわよ」
挑発的な声だった。
「どうだか……いい、この人の頭にあるのは自分が生き残ることだけ。そのためだったら、身内どころか自分の女だって平気で利用するわ。あなたもいつ利用されて捨てられるかわからないわよ。気をつけなさい」
「なによ、偉そうに。そんなこと知ってるわよ。わかってないみたいだから教えてあげるけど、わたし、健一の女なのよ。知り合ってからは短いけど、健一のことは私が一番知ってるの。余計なことしゃべってる暇があったら、自分のこと考えなさいよ。ボスの女を寝取る男なんてろくなもんじゃないわ」
夏美と秀紅はしばらく睨みあっていた。やがて、秀紅が大きく息を吐きだし、踵を返した。
秀紅はなにもいわずに出ていった。