「四、五台あります」
「自転車で逃げたように見せかけるんだったら、やはり二台持ち出して隠しそうなもので
すが」
「そうですね」
「もちろんそうしますよ。それで瞞着説は成立しません。しかし、これは捜査の出発点と
しては立派なもんですよ、自転車なんてものは、たやすく隠したり、壊したりできません
からね。もうひとつ、失踪の前日に、誰か少年に会いに来ませんでしたか?」
「来ません」
「じゃあ、手紙は?」
「一通ありました」
「誰からです?」
「公爵からです」
「それを開封しましたか?」
「しません」
「どうして公爵からだとわかりました?」
「封筒には紋章が入っていますし、宛名書きも公爵独特の堅い字でした。なお、公爵も手
紙のことを思いだされましたよ」
「その前はいつ来ました?」
「四、五日来てないようです」
「フランスから便りはありましたか?」
「一度もありません」
「こうした質問の趣旨はおわかりでしょう。少年が暴力的に誘拐されたのか、または自発
的にやったのか。後者とすれば、まだ年端 としは もゆかない子供がこういう行為に出るのは、
外部から糸を引いている者があったからだとみなければなりません。面会人がなかったと
すれば、手紙でそれがなされたと思わねばなりません。だから手紙の相手をおききしてる
んです」
「残念ながら、それも無駄なことなのです。私の知る限りでは、公爵からだけですから」
「その父上から失踪の前日に便りがあった。親子の仲はよかったのですか?」
「公爵は誰とでも、特別親しくしておられるということはありません。大きな社会問題に
没頭しておられるし、普通の感情に動かされる、情にもろいといったことのないお人柄で
す。でもご令息には、公爵なりに優しかったようです」
「しかし、子供の気持は母親のほうに傾いていたんでしょう?」
「そうです」
「本人がそう言いましたか?」
「いいえ」
「じゃ公爵から?」
「まさか、そんなこと……」
「じゃ、どうしてわかるんです?」
「公爵秘書のジェイムズ・ワイルダー氏と親しく話をしたことがありますが……そのとき
ソールタイア卿の気持を知り得たわけです」
「なるほど……ところで、その公爵からの手紙は少年のいなくなった部屋に残されていま
したか?」
「いいえ、持って出たんですね。ところでホームズさん、そろそろユーストンへ行く時間
ですが……」
「馬車を呼びましょう。準備に十五分ばかりお待ち下さい。それからハックスタブル先
生、あちらに電報をお打ちになるようでしたら、まわりの人に捜査はリヴァプールあたり
で行なわれてるとか、または、どこでもよろしいですからよそに餌 えさ をまいて、そちらを
匂わせておいて下さい。その間に私がこっそり調査することにしましょう。まだ匂いが消
えてしまったわけではないから、このベイカー街のわれわれ老犬が二匹かかれば、何とか
嗅ぎつけると思いますよ」
ハックスタブル校長の有名な学校が建っている山岳地帯の夜気は、肌寒いくらいに爽快 そ
うかい だった。われわれの着いた頃には、もう夕闇が迫っていた。広間のテーブルの上には名
刺が一枚置いてあり、執事が何か校長にささやくと彼は生気のない顔に不安の色を浮かべ
た。
「公爵がお見えになっています。ワイルダーさんと書斎のほうにおられるようですから、
さあ、ご紹介しましょう」
この有名な政治家の顔は、もちろん写真などで知ってはいたが、本人に会ってみると、
写真とはだいぶ違うようだった。細面 ほそおもて の顔に鼻が妙に長く曲がっている。顔色は死人
のように青白くて、時計の鎖がきらきら光る純白のチョッキの上に垂れ下った長い鮮やか
な赤い顎鬚 あごひげ と驚くほど対照的である。ハックスタブル博士の書斎の炉前、絨毯 じゅうたん の
中央からじっとわれわれを見すえたのは、こういう顔の堂々たる人物であった。かたわら
には、うら若い青年が控えていたが、秘書のワイルダー氏であろう。彼のほうは小柄で神
経質だが利口そうな顔つきをしており、その青い眼は知的であった。さっそく、辛辣 しんらつ な
調子でおしつけがましく話しかけてきたのが、この青年である。
「ハックスタブル先生、ロンドン行きをおとめしようと思って、けさがた向かったんです
が、遅かったようですね。シャーロック・ホームズ氏を招いて、この事件を処理なさるご
意向のようですが、閣下も驚いていらっしゃいますよ、相談もしないで、そういう処置を
とるなんて……」
「警察のほうが失敗したと知ったものですから……」
「しかし閣下は失敗したとは信じておられませんよ」
「でも、ワイルダーさんは……」
「先生、閣下が世評のたつのをひどく嫌っていらっしゃることは、よくご承知のはずじゃ
ありませんか。秘密を明かす人はできるだけ少くしたいというのが閣下のお気持です」
「いや……これはまだ取り返しのつかないものでもありませんが……」博士はすっかり
しょげてしまった。「シャーロック・ホームズさんには明朝の汽車でロンドンへ帰って頂
きましょうか……」
「いや、それはちょっと……先生、待って下さい」ホームズは穏 おだ やかな声で言った。
「この北部の空気は爽快で気も晴れ晴れしますので、二、三日逗留 とうりゅう させて頂いて、で
きる限り考えてみたいと思います。宿のほうは、お宅に置いて頂いても、村の宿屋でも結
構ですから……」