「なるほど、そう……と」やっと口をきいた。「もちろん、悪知恵の働く奴なら、跡をご
まかすためにタイヤを取り換えるぐらいのことはやりかねない。そのくらいの男なら、相
手にとって不足はないね。とにかく、問題はこのままにしておいて、もういちど沼地へ引
き返してみよう。まだ調べてないものがたくさんあるんだから……」
われわれは荒地の湿地帯の部分を、順を追って調べていった。やがて、その忍耐は見事
に報いられたのである。沼地の低い部分に、一つの、とくにぬかった所があり、ホームズ
はそこに近づくと、やにわに歓声をあげた。電話線の束のようなわだちがくっきりと小径
の中央に残っているのだ。パーマー・タイヤの跡だ!
「ハイデッガー先生だよ。間違いなし!」
ホームズは悦 えつ に入って叫んだ。「僕の推理も、なかなかたいしたもんじゃないか、ワ
トスン君」
「お見事ですな」
「しかしまだ、道遠しだよ。すまないが、径を避けて歩いてくれ。さあ、このわだちをた
どってみよう、遠くまで続いちゃいないだろうが……」
その辺は水気の多いところがあって、時々跡を見失いはしたが、続いて先をたどって行
くことができた。
「わかるかい? ここいらではずいぶんスピードを出してるね、間違いないよ。ほう、こ
の跡を見まえ。前後輪ともはっきり跡が出てるだろう。どちらも変わらないくらい深い
ね。自転車をとばしながら、ハンドルの上に屈 かが みこんでる証拠だよ。おやっ?……ころ
んだな!」
そこら二、三ヤードは車の跡が不規則に乱れていた。続いて足跡が四つ五つ。それから
またタイヤの跡になっている。
「横すべりしたんだね」と私は註をつけた。
ホームズが花のついたハリエニシダの枝の踏みつぶされたのを持ち上げると、驚いたこ
とに、その黄色の花は点々と紅に染められているのがわかった。径の上にも、いやヒース
の中にも、赤褐色 あかかっしょく に凝固した血が飛び散っていた。
「いけない!」ホームズが制した。「こいつぁいけない! ワトスン君、あまり近よらん
ように……不必要な足跡をつけるな! この筋をどう読むか? 転んで怪我をした、立
つ、ふたたび乗る。そしてまた進んでいる。ほかに足跡らしいものはない。こっちの脇道
に牛がいて、角で突き刺されたんではないか? いや、あり得ないことだ。ほかに跡がな
いんだ。ワトスン君、もう少し進んでみよう。血痕とわだちをたどっていけば、もう逃が
しっこないぞ!」
捜査は手間どらなかった。タイヤの跡は、濡れて光っている小径の上を狂ったように曲
がりくねっている。と、前方を見ると、深いハリエニシダの茂みの中にキラリと光るもの
が私の目をとらえた、……そこから、われわれは自転車を引き出したのである。
パーマー・タイヤ……片方のペダルは曲がり、車の前面はべっとり血に汚れていた。茂
みの反対側に、靴が突き出ている!
飛んでいってみると、無残にも乗り手がたおれていた。背が高く、顎鬚 あごひげ の濃い顔に、
眼鏡をかけているが、片方のガラスはなくなっている。頭に一撃、頭蓋骨の一部を打ち砕
かれたのが死因だ。これだけの傷をうけながらも、なお走り続けたのは、よほど元気のあ
る男であろう。靴ははいているが、靴下はない。はだけた上衣の上から、寝間着が見えて
いる……疑いもなくドイツ人教師だ。
ホームズは静かに死体をひっくり返して、じっと調べていたが、また、じっと考え込ん
だ。額 ひたい に皺 しわ を寄せているのは、この気味の悪い発見が彼の捜査に大きな進展をもたら
すわけではないからだ、と私はみた。
「これからどうしたらいいのか、少々むずかしくなって来たね」やっと話しはじめた。
「僕の気持としては、このまま調査を進めてゆきたいんだ。われわれの立ち遅れから、も
うぐずぐずしてるわけには行かんからね。一方にはまた、この発見を警察に通知して、気
の毒な死体を処置する義務があるしね」
「僕が報告をもってゆくよ」
「いや、君はここにいて手伝ってほしい。待てよ! あすこに泥炭を掘り出してる者がい
るよ。あの男を連れてきてくれ。あれに警察を案内させよう……」
私が農夫を連れてくると、ホームズは怖気 おじけ づいている彼に、ハックスタブル博士宛の
手紙を持たせた。
「ところで、ワトスン君、今朝は手掛りをふたつ見つけたね。ひとつはパーマー・タイヤ
の自転車で、それが行き着いた所まで見てしまった。もうひとつは綴りのあるダンロッ
プ・タイヤの跡だ。これを調べる前にわれわれにわかっているものが何と何か、もういち
ど考え直してみよう。そこから何かつかめるだろうし、また本質的なものと、偶発的なも
のとの区別もはっきりさせることができるだろう。
何よりもまず、少年が自由意志で学校を出たこと……これはほぼ確実だ。これを頭に入
れておいてもらいたい。自分で窓から降りて、逃げた。一人だったか、連れがあったかは
別としてもね。確実だよ、これは」
私も同意した。
「ところで、次にこの気の毒なドイツ人教師に移る。少年は身なりを整えて抜け出し
た……つまり計画的にやったんだが教師のほうは靴下もはかないで飛び出している。これ
はたしかに慌 あわ てたことを意味しているよ」
「たしかにそうだね」
「ではなぜ彼は飛び出したか? つまり寝室の窓から少年の脱走を見たんだよ、追いつい
て、連れ戻そうと思ったんだね。だから、自転車をつかんで少年を追ったが、その途中で
彼は死んでいる」
「そうだろうね」
「これからが僕の重大論証になる……大人が子供を追っかける場合、普通なら走ってゆく
だろう、追いつけることがわかっているからね。しかし、このドイツ人はそうはしなかっ
た。彼は自転車を持ち出した。非常に自転車がうまいということだからね。少年がきわめ
て速い逃亡の手段をとらない限り、彼とてこんなことはしなかっただろうよ」
「つまり、少年が自転車で……」
「もう少しまとめてみよう。学校から五マイルのところで彼は死んでいる……原因は銃弾
ではない。いいかい? 銃器だったら、子供でも射てないことはないが、これはものすご
い力で、一撃に殴り倒されているんだ。それで少年には連れがあったことになる。熟達し
た自転車乗りが、追いつくのに五マイルも走っているから、逃げるほうもずいぶん速かっ
た。そこで、この悲劇の現場を調べてみて、われわれは何を発見したか? 牛の足跡が少
しあるだけで、他に何もない。付近をひとわたり掃 は くように広く探したが、十五マイル四
方、他に小径もない。つまり、もう一台の自転車は、この殺人とは直接関係はない。にも
かかわらず、付近には足跡がないのだ」