「ホームズ君」私は少々馬鹿馬鹿しくなってきた。「そんなこと、あり得ないよ」
「そうだ、うまい! なかなか見事だよ。いま言ったようなことは不可能なんだ。だから
僕の説明には、どこか間違いがある。君はこれに気がついた。で、君は間違いを指摘でき
るかね?」
「転んだとき、頭蓋骨を砕 くだ いたんじゃあるまいね」
「ええっ! あの沼地で……ワトスン君?」
「こうなると、もうわからないよ」
「ちえッ! もっとむずかしい奴だって解決してきたのになあ……これだけ材料があるん
だ。要はこれを使いこなすことだよ。さあ、パーマー・タイヤのほうは調べつくしたか
ら、綴りのあるダンロップ・タイヤが何かを提供してくれるかどうか、やってみよう」
ダンロップ・タイヤの跡をたどって、その進んだ方向に行くと、水路を離れて、荒地は
ヒースの茂るゆるやかな上り坂になった。タイヤの跡からは、これ以上期待はできないよ
うだった。その跡が消えたあたりから、左手に進めば、ホールダネス屋敷の堂々たる塔が
二、三マイル先に建っている。前方へ下ると、低い灰色の部落が横たわり、チェスタ
フィールド街道の位置をはっきりと示している。
われわれはなおも進んで、ドアの上に闘鶏 とうけい の看板がかかっている、不気味で汚ならし
い宿屋に近づいた。そのとき、ホームズは突然、あっと声をたてて私の肩をつかみ、倒れ
る身体を支えた。くるぶしの筋をひどく違えて、一歩も歩けないのだ。びっこをひきひ
き、やっとのことで戸口にたどり着くと、肥っちょで色黒の老人が黒い陶製のパイプをふ
かしていた。
「こんにちは、ルーベン・ヘイズさん」ホームズが声をかけた。
「どなたかね? どうしてまた、わしの名前を覚えてらっしゃるだかね」ずるそうな目で
うさんくさそうに農夫は答えた。
「頭の上の看板にちゃんと書いてありますよ。一家のご主人となると、やはりひと目でわ
かりますなあ。お宅に何か馬車のようなものはありませんか」
「いいや、ねえだ」
「足が地につけられないくらい痛んで……」
「地につけねえこった」
「そしたら、歩けないよ」
「うん、なら、片足跳 と びだね」
主人ルーベン・ヘイズの態度は、まったく愛想のないものであったが、ホームズは驚く
ほど上機嫌だった。
「見て下さいよ、この態 ざま ったらありゃしない。いくらかかっても構 かま わないんですがね」
「こっちだって、構わねえ」どこまでも気むずかしいおやじの答えだ。
「いやあ、非常に重要な用件でねえ、自転車を貸してもらえれば一ソヴリン出すがねえ」
と聞いて、おやじは聞き耳をたてた。
「どこまで行きなさるだね?」
「ホールダネス屋敷まで」
「御前 ごぜん さまのお友だちかね?」おやじは皮肉な目で、泥に汚れたわれわれの服をじろり
と見るが、ホームズはにっこり笑って、「とにかく、行けば喜んで下さるよ」
「どうしてだね?」
「いなくなった息子さんのことで知らせに行くんでね」
おやじは、はっきりそれとわかるほどびっくりした。
「何だって! 若様の居所を突き止めた?」
「リヴァプールにいらっしゃるとわかった。いまにもその知らせが来るはずだが」
ふたたび鈍重な鬚面 ひげづら にすばやい変化が起こった。おやじの態度はうって変わって隠や
かになった。
「あっしはね、他人より御前様をよく思うわけはねえだよ。というのはな、一度あそこの
馬丁頭を勤めたことがありますだ。ひどい仕うちを受けましただよ。あのうそつき雑穀屋
の言葉なんぞ信用してさね、人物証明書(前雇い主が使用人に与える)もくれねえでお払
い箱でさ。だが若様がリヴァプールで見つかったと聞いてわしも嬉しいだよ。だから、お
前さんがたがお屋敷へ知らせに行きなさるのを手伝ってあげますだ」
「そいつあ、どうも……まず何か食べさせてもらおう。それから自転車を貸して下さい
よ」
「自転車なんかねえだよ」
ホームズはソヴリン金貨を出した。
「もってねえもんは、ねえだよ。だから屋敷まで馬を二頭貸しますだ」
「そうだね、じゃその話は何か食ってからにするか」
石の敷きつめられた台所に通され、ふたりきりになると、筋を違えたはずの、ホームズ
の踝 くるぶし がすぐに直ってしまったのにはびっくりした。
外はそろそろ暮れかかっていた。ふたりは朝から何も食べていなかったので、食事のた
めに幾らか時間を費やした。ホームズは考え込んでいた。二度ばかり窓のところまで歩い
ていっては、熱心に外をのぞいていた。窓の外は汚らしい中庭で、その向う端に鍛冶場 かじば
があって、煤 すす に汚れた少年がひとり仕事をしている。その反対側には馬小屋がある。
ホームズは窓から外を眺めては、また椅子に腰を下ろした。そのとき、彼は大きな声をあ
げて椅子から飛び上がった。
「そうだ! ワトスン君、わかりかけてきたよ。そうだ……そうだよ。それに違いない。
君、今日、牛の足跡があったのを覚えているだろう?」
「だいぶあったね」
「どこだ?」
「そう…各所にあったよ。沼地にも、道の上にも、ハイデッガーが殺されたところにも
あったよ」
「そうだね……ところで君、荒地で牛を何頭か見かけたかね?」
「いっこう、見かけた覚えがないがね」
「おかしいよ、ワトスン君。今日行く先々で足跡を見たのに、荒地のどこにも牛はいな
かったろう? こいつぁ、おかしいよ、ねえ?」
「そうだ、変だね」
「ところで、よく考えてごらんよ。小径についてた牛の跡が思い出せるかい?」
「思い出せるよ」
「あそこでは、時々、こんなふうになってたろう、わかったかい?」と言いながら、パン
屑を並べ始めた。――「それから、またこんなんだったろう」――「こんなのもあった
ね」――「思い出せるかい?」
「いいや」