片田舎 かたいなか の小駅に降りたつと、広くひろがる森の遺跡の間を数マイル馬車を走らせ
た。ここはその昔、サクソン侵入軍を食いとめた偉大な森の一部であり、ブリテンの砦 とりで
として、六十年の長きにわたって不抜を誇った《森林地帝》の跡である。その後、この地
方最初の鉄工業の中心地となり、大森林は熔鉱用に伐採され、さしもの森林も、大半は消
え去ってしまった。さらに北部の豊かな鉱産地帯が事業を吸収したので、荒廃した森林
と、大地に残された巨大な採掘跡とが、ありし日の繁栄を物語るのみである。緑の丘の中
腹に切り開かれた所があり、そこに低く高く長い石造りの家が見え、曲がりくねった車路
が畑の中を通じている。近づくにつれて、三方を茂みで囲まれた、一軒の小さな離れ家が
窓と戸をこちらに向けて立っていた。これが、あの殺人現場である。
スタンリー・ホプキンズは、われわれをまず母屋のほうへ案内し、やつれた白髪まじり
の女に紹介した。被害者の女房だった。ふちの赤くなった目の奥には、おどおどした動き
が見え、やせおとろえて皺 しわ の深く刻まれた顔は、彼女が耐え忍んで来た長い年月にわた
る苦難と虐待を物語っているのだ。彼女に付き添っている蒼白い金髪の娘は、われわれを
反抗的な目つきでにらみ、父が死んでむしろ嬉しいくらいだった、父を殺してくれた人を
祝福する、とさえいった。黒 ブラック ピーターは何と怖ろしい家庭を築いたことであろう……わ
れわれはふたたび太陽の中に出て、被害者の足に踏み慣らされた小径 こみち づたいに小屋のほ
うへ歩いて行きながら、むしろ、ほっとした気持を味わったくらいである。
離れ家というのは実に簡単な建物で、まわりの壁は板ばり、屋根は一重 ひとえ で、扉のそば
に窓がひとつと反対側にひとつあるだけだった。ホプキンズはポケットから鍵を出して、
鍵穴のほうに身を屈 かが めたとたん、はっと驚いて手を止めた。
「誰かここをこじ開けようとした者があります!」
まさしくその通りだった。木の部分に切り込みがあり、ペンキの上にもそのときできた
掻 か き疵 きず がいくつもある。ホームズは窓のほうをしらべていたが、
「こっちも、こじ開けようとしてるよ。誰にしろ、入れなかったのを見ると、よっぽどへ
まな泥棒君だね」
「こりゃあ、とんでもないことですよ。こんな疵 きず は昨晩まではなかったんですから」警
部がいった。
「たぶん、村の物好きな奴のしわざでしょう」と私が言うと、
「そんなのんきなこっちゃないですよ。よくよくの者でないと、庭へ足を踏み入れること
さえしないのに、ましてここに入り込もうなんて……で、ホームズさんはどうお考え
で?」
「いや、僕らはまったく運がよかったと思うよ」
「というと、この男がまたやってくるとでも?」
「可能性が多いですな。ドアが開いてる積りでやって来たが、閉まってたので、小さなペ
ンナイフでこじ開けようとした。それがごらんの通り駄目だったから、次はどうしますか
な?」
「次の夜を待って、もっと大きな道具で……」
「僕もそう思うね。待ち伏せしないなんて手はないよ。でも、ちょっと船室のなかを見せ
てもらいましょうかね」
惨事の跡始末はしてあったが、小屋の中の家具類は犯罪当日そっくりそのままだった。
ホームズは延々二時間にわたって、綿密、細心に部屋の中を次々と調べていたが、その顔
色から、調査がうまく進展していないのが読みとれる。ホームズはただ一度、その手を休
めて、こうたずねた。
「ホプキンズ君、この棚から何か取り出したかね?」
「いいえ、何も動かしませんが」
「何かなくなっている。この隅のところだけ埃 ほこり がうすいんだ。本がのせてあったのか
な? それとも箱かねえ? いや、もうこれ以上することはない。ワトスン君、この美し
い森を散歩して、しばらく小鳥や花の仲間になろうじゃないか。ホプキンズ君、またここ
で落ち合おう。そして、この夜の来訪者君と近づきになれるかどうか、やってみようよ」
三人が待機の場所についたのは、もう十一時すぎだった。ホプキンズは戸を開けておく
つもりだったが、敵に疑念を抱かせてはとホームズが反対した。錠 じょう はごく簡単なもの
で、ちょっと大きい刃物なら、すぐこじ開けられる。
また、ホームズは小屋の中で待伏せしないで、入口と反対側の窓を取り巻いている茂み
の中に隠れようといった。そうすれば、敵が入って来て灯をつけると、何をしにやって来
たものかよくわかるというのだ。
不寝番 ねずばん は長ったらしく、憂鬱だった。一方では池の近くに潜んで、渇きを癒 いや しにく
る猛獣を待ちうける猟人にも似たスリルはあった。暗闇のなかから、ぬっと姿を現わすの
は、いったいどんな曲者 くせもの であろうか? きらめく牙や爪 つめ と闘って、やっと取り押さえ
ることのできる猛虎のごとき曲者か? それとも弱い、備えのない者だけに忍び寄る豺 やまいぬ
のごときものであろうか? 絶対無言、息を殺して、われわれは茂みのなかにうずくま
り、果たして何が出てくるやら、と待ち続けたのである。
初めのうちは、遅く帰る村人の足音や、村から聞こえてくる人声などで気もまぎれてい
たが、やがて物音もひとつひとつ消えてゆき、まったくの静寂が訪れた。音といえば、た
だ遠い教会の鐘だけが夜の更けてゆくことを告げ、われわれをおおっている茂みの葉をな
らして、かさかさと降る細い雨の音だけである。二時半の鐘が鳴り、夜明け前の、夜の最
も更 ふ けわたった時刻。とそのとき、門のほうでカチッと低い音がして、三人ともびくっと
した。誰かが車路に入ったのか? それからまた静かになったので、僕は空耳かと思った
その瞬間、ひそやかな足音が小屋の向こうに聞こえ、次いでカチッとひっかくような金属
性の音! 曲者が戸をこじ開けようとしているのだ! 今晩は、やり方がよかったのか、
それとも道具が大きかったためか、パチッと音がして蝶番 ちょうつがい がキーッと鳴る。ややあっ
てマッチがすられ、ゆっくりゆらめくローソクの光が小屋の内部を照らした。三人の目は
薄織りのカーテンを通して、小屋の内部にひきつけられた。