『無理もありません。目立たないように活動していますし、出資は非公開ですからね。あ
まりに好条件なので一般公開したくないんですよ。実を言うと、兄のハリー・ピナーが発
起人でして、出資額に応じた代表取締役という地位で経営陣に名を連ねています。わたし
はロンドンの実情に明るいので、若くて優秀で熱意あふれる人を見つけてくれと兄から頼
まれました。そこへ、さきほど話に出たパーカーさんからあなたの噂を聞いたので、さっ
そく今夜お訪ねしたわけです。最初は年俸五百ポンドぽっちしかお出しできませんが──』
『五百ポンドもですか!』ぼくは思わず叫びました。
『初めのうちはそれだけですが、担当地区での契約成立ごとに一パーセントの歩合が加算
されます。その金額はまちがいなく給料を上回るでしょう』
『でも、ぼくは金物に関してはずぶの素人です』
『なにをおっしゃる、数字にあれだけ強ければ怖いものなしですよ』
ぼくは気持ちが高ぶるあまり頭がのぼせて、じっと座っていられないほどでした。とこ
ろが、急に不安が押し寄せてきました。
『この際、率直に申しあげます』とピナー氏に言いました。『モースン商会のほうは年俸
は二百ポンドでも、業績のいい会社なので安心して働けます。それに対して、あなたがお
話しになった会社のことは、ほとんど知りま──』
『いやはや、頭の切れる方ですなあ!』ピナー氏は手放しの喜びようでした。『われわれ
にとって、まさに理想の人物ですよ! 思慮深く慎重で、相手の話に軽々しく乗るような
ことは決してない。きわめて賢明なご判断です。さあ、ここに百ポンドあります。当方の
申し出を承諾してくださるなら、給料の前払い金として遠慮なくお受け取りください』
『大変光栄なお話です』ぼくは快諾しました。『いつから勤務すればいいんですか?』
『明日からです。バーミンガムへ午後一時にお越しください。これは紹介状ですので、兄
に会ったときに渡していただけますか? コーポレーション街一二六Bの住所に会社の仮
事務所がありますので。むろん、採用に関する最終決定を下すのは兄ですが、もう決まっ
たも同然ですから、どうぞご安心のほどを』
『本当に感謝してもしきれないくらいです、ピナーさん』
『どういたしまして。あなたが得るべくして得た地位ですよ。さてと、では必要な手続き
を済ませましょう。といっても、ひとつかふたつ、単なる形式上のものです。そこにある
用紙にこう記入してください。〝わたしは最低年俸五百ポンドで、フランコ・ミッドラン
ド金物株式会社の営業部長に就任することを承諾する〟』
ぼくは言われたとおりに書き、ピナー氏はその紙をポケットにしまいました。
『細かいことですが、もう一点。モースン商会のことはどうなさいます?』
有頂天になっていて、モースン商会のことをすっかり忘れていました。
『手紙で採用を辞退すると知らせます』ぼくは答えました。
『いや、実はそうされると困るんですよ。モースン商会の支配人とやり合ってしまいまし
てね。彼のところへあなたのことを尋ねにいったら、ものすごい剣幕でなじられたんで
す。うちの従業員をそそのかして引き抜くつもりだろう、とね。売り言葉に買い言葉で、
こっちもついかっとなって、〝優秀な人材を雇いたければ給料を高くしたらどうなんで
す〟と言い返しました。
すると向こうは、〝あんたのところみたいな中小企業より、うちのほうがいいに決まっ
てる〟と息巻くじゃありませんか。だからこう言ってやりましたよ。〝なんだったら五ポ
ンド賭けてもいいですよ。うちの条件を聞けば、この青年はおたくなんかきっと見向きも
しないですよ。あきらめるんですな。彼からは二度と連絡が来ないでしょう〟
そうしたら、先方はなんと言ったと思います? 〝ああ、賭けようじゃないか! ドブ
に落ちていたのを同情して拾ってやったんだ、我が社にすがりついて離れないだろうよ〟
まったく、ひどい言いぐさじゃありませんか』
『なんて失敬な!』ぼくはつい鼻息が荒くなりました。『どうせ一度も会ったことのない
相手ですから、義理立てする必要はありません。あなたが困るとおっしゃるなら、モース
ン商会に辞退の手紙を書くのはやめますよ』
『助かります! 約束ですよ!』そう言ってピナー氏は椅子から立ちあがりました。『兄
にいい人を紹介できて、本当によかった。さあ、前払い金の百ポンドと紹介状です。住所
はコーポレーション街一二六Bですから、忘れないようどこかに書き留めておいてくださ
い。明日午後一時ですよ。ではこれで失礼します。おやすみなさい。才能を活いかして大
いに飛躍なさることをお祈りします』
ピナー氏とのやりとりは、覚えているかぎりではこんな具合です。ワトスン先生、ぼく
はもったいないほどの幸運に大喜びしました。その晩は興奮してなかなか寝つかれず、翌
朝はバーミンガムに約束の時刻よりだいぶ前に着く汽車に乗りました。現地ではニュー街
にホテルをとって荷物を預け、教えられた住所へ徒歩で向かいました。
午後一時までまだ十五分ありましたが、べつにさしつかえないだろうと思いました。一
二六Bは二軒の大きな店舗にはさまれた通路で、奥にある石造りのらせん階段を上がる
と、会社や個人事務所になっている部屋がずらりと並んでいました。ところが、壁の下の
ほうにペンキで描かれている入居者の名前の中に、フランコ・ミッドランド金物株式会社
の文字は見あたりません。もしや、これは念の入った悪ふざけで、自分はまんまと引っか
かってしまったんだろうか、と不安になりました。しばらくその場に突っ立っています
と、やがて男が一人、近寄ってきました。前夜に下宿で会った人物に姿も声もそっくりで
した。ちがうのは顎あごひげがないことと、髪の色が明るいことだけです。
『ホール・パイクロフトさんですか』と男が訊きました。
『はい』
『お待ちしていました! しかし約束の時間には少し早いようですな。今朝、弟から手紙
が来て、あなたのことを絶賛していましたよ』
『ちょうどおたくの事務所を探していたところだったんです』
『まだ表札を掲げていませんから、とまどわれたでしょう。つい先週、仮事務所として借
りたばかりでしてね。ご案内します。話は上でゆっくりと』
彼のあとについて急な階段をてっぺんまで昇り、屋根裏部屋へ通されました。そこはが
らんとした埃ほこりだらけの二室で、絨じゆう毯たんもカーテンもありません。前に勤め
ていた会社のような、大勢の事務員がぴかぴかの机に向かっている立派な事務所を思い描
いていたのですが、実際にそこにあったのは樅もみ材の質素な椅子が二脚に小さなテーブ
ルがひとつ、あとは帳簿一冊とくずかご一個きりです。ぼくは拍子抜けして、室内を呆ぼ
う然ぜんと見つめました。
『パイクロフトさん、がっかりなさらんでください』男は表情からぼくの心中を察したよ
うです。『〝ローマは一日にして成らず〟というでしょう。事務所はまだこのような状態
ですが、我が社には潤沢な資金があります。どうぞおかけください。紹介状をお持ちにな
りましたね?』
ぼくがそれを渡すと、彼は文面に目を通しました。