「具合が悪そうですよ、ピナーさん」パイクロフトが慌てて言った。
「ああ、そうなんだ、ちょっと気分がすぐれなくてね」ピナー氏が懸命に気持ちを落ち着
けようとしているのは一目瞭りよう然ぜんだ。唇をなめてから言葉を続けた。「こちらの
二人の紳士はどなたかね?」
「バーモンジーのハリスさんと、地元バーミンガムに住むプライスさんです」パイクロフ
トは屈託のない調子で紹介した。「どちらもぼくの友人で、仕事の経験が豊富なんです
が、少し前から失業しているんです。それで、ひょっとしたらこちらで雇ってもらえるん
じゃないかと思って、連れてきました」
「なるほど、なるほど!」ピナー氏は気味の悪い笑みを浮かべて言った。「なんとかして
あげられると思いますよ。ハリスさん、これまでどんな仕事を?」
「経理です」ホームズが答えた。
「それはけっこうですな! たぶん必要になるでしょう。プライスさん、あなたは?」
「一般事務です」私は答えた。
「ほう、なるほど! わかりました、前向きに検討させていただきますよ。決まり次第、
お知らせします。では、そろそろお引き取り願ってもよろしいですか? 頼むから一人に
してください!」
最後のほうは悲鳴に近かった。抑えていたものが前ぶれもなくいっぺんに噴きだしたと
いう感じだ。ホームズと私はちらっと視線を交わした。するとホール・パイクロフトが
テーブルのほうへ一歩近づいた。
「ピナーさん、次の仕事の指示を出していただくことになっていましたが、どうなったん
でしょう?」
「ああ、そうでしたね、パイクロフトさん。そうでした」ピナー氏はやや気を取り直して
言った。「ここで少し待ってもらえますか? ご友人方も一緒でかまいませんよ。三分ほ
どで戻りますので、ちょっと失礼」落ち着き払った態度で椅子から立つと、背後のドアを
開けて奥の部屋へ入り、ドアをぴったりと閉じた。
「どうしたんだろう?」ホームズが声をひそめて言った。「こっそり逃げだすつもり
か?」
「それは無理ですよ」パイクロフトが答えた。
「なぜ?」
「ドアの向こうは部屋があるだけです」
「出口はほかにないと?」
「そうです」
「奥の部屋に家具は?」
「昨日は空っぽでした」
「じゃあ、そんなところでなにをしようというんだ? 妙だな。激しい恐怖で気もふれん
ばかりというのは、まさしくああいう状態だろう。ピナーが震えおののいてる理由はいっ
たいなんだ?」
「われわれが探偵だと感づいたんじゃないかな」と私は言ってみた。
「きっとそうですよ」とパイクロフト。
ホームズは首を振った。「ピナーがああなった原因はほかにある。僕らが部屋に入った
とき、すでに青ざめていたからね。そうなると──」
ホームズの言葉は、奥のドアを内側からコツコツ叩たたく鋭い音にさえぎられた。
「変だな。自分の部屋なのに、なぜノックなんか」パイクロフトが言った。
再びコツコツという音が、さっきよりも一段と大きく響いた。三人とも固かた唾ずをの
んで、閉まっているドアを凝視した。横目でホームズのほうをうかがうと、顔をこわばら
せて前に身を乗りだし、張りつめた興奮をみなぎらせている。と、そのとき、ゴボゴボい
う声と、どこか木でできた部分を激しく打ち鳴らす音が聞こえた。ホームズは飛びあがっ
て猛然と部屋を横切り、奥のドアを押した。だが内側から鍵かぎがかかっていて開かな
い。彼がドアに体当たりを始めたので、パイクロフトと私も加わり、全体重をかけてドア
にぶつかった。すると蝶ちよう番つがいが一箇所、また一箇所と折れ、ドアが枠から完全
にはずれた。気がつくと三人とも室内へなだれこんでいた。
誰もいない。
が、そう思ったのはほんの一瞬だった。ドアに近い片隅にもうひとつ別のドアがある。
ホームズが飛びついて勢いよく引き開けると、床に上着とチョッキが落ちていた。そして
ドアの裏側のフックには、自分のズボン吊つりを首に巻きつけたフランコ・ミッドランド
金物株式会社の代表取締役が、ぶらんと吊り下がっていた。両りよう膝ひざを折り曲げ、
頭をがっくりとうなだれている。靴のかかとがドアに当たって、さっきわれわれの会話を
さえぎったコツコツという音をたてている。私はすぐさま男の腰を抱えあげ、ホームズと
パイクロフトは土気色の肌に食いこんだゴムのズボン吊りをほどいた。そのあと三人がか
りでもうひとつの部屋へ運びこみ、床に横たえた。男の顔は蒼そう白はくで、紫色になっ
た唇がぱくぱくと苦しげに息を吐いている。五分前に見たのと同じ人物とはとても信じら
れないほど、痛ましい変わりようだ。
「助かりそうか、ワトスン?」ホームズが訊きいた。
私は男の上にかがみこんで容態を調べた。脈は弱くてとぎれとぎれだったが、呼吸は次
第に安定してきて、かすかに震えるまぶたの隙間から白目がのぞいた。
「危ないところだったが、どうやら命に別状はないようだ。窓を開けてくれないか? そ
れから、そこにある水差しをこっちへ」私は男の襟もとをゆるめると、冷たい水を顔に振
りかけ、両腕を上げ下げした。徐々に正常な深い呼吸が戻ってきた。
「もうだいじょうぶだろう。あとは時間の問題だ」私は男から離れた。
ホームズはズボンのポケットに両手を突っこんでテーブルの脇に立ち、顎あごを胸にう
ずめていた。
「警察に通報したほうがいいだろう」ホームズは口を開いた。「だが本音を言うと、連中
が来るまでに万事解決しておきたい」
「なにからなにまで謎だらけです」パイクロフトが頭を搔かいた。「ぼくはどうしてこん
なところへ連れてこられたんでしょう? いったいなんの目的で──」
「はん! そんなことはもうわかっていますよ」ホームズはせっかちな口調で言った。
「わからないのは、最後になぜ突然こんなことをしたかです」
「じゃあ、それ以外の謎は全部解けたんですか?」
「誰が見ても明らかですからね。そうだろう、ワトスン?」
私は肩をすくめた。
「残念ながら降参だ」と正直に答えた。
「初っ端ぱなの出来事について注意深く考えれば、おのずとある結論に行き着くはずだが
ね」
「説明してくれないか?」
「いいとも。すべてはふたつの点に集約される。ひとつめは、パイクロフトさんがこの怪
しげな会社に雇用されるにあたって、誓約書を書かされたことだ。これには重大な意味が
含まれているんだが、気がついたかい?」
「いや、見当もつかないよ」