『どうしてそんなことに?』
『問題はそれなんだ。乗ってくれ、道中で話そう。きみがここを発たつ前日の夕方、うち
へやって来た男を覚えてるか?』
『ああ、よく覚えてるよ』
『あの日うちへ入れてやった男の正体、なんだと思う?』
『わからない』
『悪魔だよ、ホームズ!』
僕はぎょっとしてヴィクターの顔を見つめた。
『そうとも、あいつは悪魔なんだ。おかげでこっちは片時も心の安まるときがない。あの
晩以来、親父はすっかり元気をなくして、とうとう命まで吸い取られようとしてる。すべ
ては、あのいまいましいハドスンのせいだ』
『あの男のいったいどこにそんな力が?』
『まったくだ。それをなにがなんでも知りたいよ。あの篤実な人柄の親父が、なぜこんな
ことに! いったいどんな理由があって、あんなごろつきの毒手にかかったんだ? ホー
ムズ、来てくれてありがとう。洞察力と判断力にすぐれたきみなら、きっと的確な助言を
授けてくれるだろう』
馬車は平へい坦たんな白っぽい田舎道を矢のごとく進んでいった。前方には沼沢地が
長々と横たわり、赤い夕陽をきらきらと反射している。左手の木立の向こうには、トレ
ヴァー家の高い煙突と旗はた竿ざおが早くも見えてきた。
『初め、親父はあの男を庭師にしたんだ』ヴィクターが言った。『ところが、あいつが不
平を唱えたので、執事に格上げした。おかげで家の中はしっちゃかめっちゃかだよ。あち
こちうろつきまわっては、我が物顔にふるまったからね。しかも酒癖は悪いわ、言葉遣い
は下品だわで、メイドたちが次々に苦情を訴えてきた。その罪滅ぼしに親父は使用人全員
の給金を上げることになったんだ。あいつめ、親父のボートと一番上等な猟銃を勝手に持
ちだして、偉そうに狩猟パーティーまで開いてた。おまけに、いつも人をばかにしたよう
な横柄で憎らしい顔。相手が年上じゃなかったら、とっくに二十発はぶん殴ってるよ。
ホームズ、ぼくはずっとこらえてた。だがこんなことになるんだったら、もっと毅き然ぜ
んとふるまうべきだったんじゃないか、そのほうが賢明だったんじゃないかと後悔し始め
てる。
とにかく、事態は日増しに悪くなっていった。ハドスンの野郎はつけあがる一方で、挙
句の果ては僕のいる前で親父に向かって平然と口答えする始末だ。ぼくはかっとなってあ
いつの肩をつかみ、部屋から追いだしてやった。やつは青ざめてこそこそと出ていった
が、あの悪意むきだしの目つきは、口で言う脅し文句よりもはるかに凶暴だったよ。あの
あとあいつと気の毒な親父とのあいだにどんなやりとりがあったのかは知らないが、翌日
になって親父から、ハドスンに謝ってくれないかと言われた。当然ながら、いやだと答え
た。そして親父に、あの男の傍若無人なふるまいをいつまで放っておくのかと訊いたよ。
使用人だけでなく屋敷の主人に対してまで無礼はなはだしい態度なんだからね。
すると親父はこう答えたんだ。〝なあ息子よ、おまえがそんなことを言えるのは、わし
がどういう立場か知らんからだ。だが、いずれわかる。どんなことがあろうとも、必ずお
まえにすべてがわかるよう手配しておく! すべてを知ったときに、どうか哀れな父親を
責めないでおくれ〟
親父はひどく取り乱して、一日中書斎にこもっていた。窓からのぞいてみると、せっせ
となにやら書いていた。
その晩、突然ハドスンがここを出ていくと言いだした。ぼくはほっと胸をなで下ろした
よ。夕食が済んだあと、あいつがダイニングルームに入ってきて、酔っ払ったようなだみ
声でこう言った。
〝もうノーフォークは飽きちまってよ。ハンプシャーのベドウズさんとこへ行くわ。ここ
の旦那と同じくれえ歓待してもらえるだろうからよ〟
「ハドスン、まさか気を悪くして出ていくんじゃないだろうね?」
まるで腫はれ物にさわるような親父の言い方に、ぼくは血が煮えたぎりそうなほどかっ
かした。
「そういえば、まだ詫わびを入れてもらってなかったな」あいつはふくれ面でそう言っ
て、ぼくのほうをちらりと見た。
「ヴィクター、この善良な男に少々きつくあたったことは認めるだろう?」親父がぼくに
向かって訊いた。
だからきっぱり答えたよ。〝いいえ。反対に、こんな柄の悪い男によくここまで辛抱し
たなと我ながら感心していますよ〟
「ふん、そうかい」やつはがなりたてた。「上等じゃねえか。今に見てろよ!」
あいつは捨て台詞ぜりふとともにせかせかと部屋を出ていき、それから三十分ほどして
屋敷を去った。親父はかわいそうなくらい動揺してたよ。それからは夜な夜な、部屋の中
を行ったり来たりする親父の足音が聞こえた。しばらくすると徐々に落ち着きを取り戻し
ていったが、その矢先にとどめの一撃が襲いかかった』
『どんな?』
『それが不可解な話でね。昨日の晩、親父宛てにフォーディングブリッジの消印がついた
手紙が届いたんだ。親父はそれを読むなり、両手で頭を抱え、おかしくなってしまったよ
うに部屋の中をぐるぐる回りだした。やっとのことでソファに横たわらせると、口もまぶ
たも一方にゆがんで、明らかに卒中の発作だった。すぐにフォーダム先生が駆けつけて、
ベッドへ運びこんだが、すでに麻ま痺ひは広がっていた。以来、意識を取り戻す気配は
まったくない。ぼくらが屋敷に着くまで持ちこたえるかどうか』
『聞いていて身の毛がよだったよ! ヴィクター、父上にそこまでひどい打撃を与えると
は、いったいどんな手紙だったんだ?』
『それが、どうということのない手紙でね。内容はちんぷんかんぷんだ。ああ、やっぱり
だめだったか! 不安が的中した』
馬車が並木道のカーブにさしかかると、ヴィクターが悲痛な声をあげた。薄暮の中に、
屋敷のすべての窓でブラインドが下ろされているのが見える。ヴィクターが悲しみに顔を
震わせながら馬車を玄関前に停めると、中から黒い服の紳士が出てきた。
『先生、いつ息を引き取ったんですか?』ヴィクターが訊きいた。
『きみが出かけてすぐだった』
『意識は戻りましたか?』
『息を引き取る直前、ごく短いあいだだけだが』
『ぼくに言い残したことはありますか?』
『日本製のたんすの奥の抽斗ひきだしに、書類が入っているそうだ』
ヴィクターと医師が亡くなったトレヴァー老人の部屋へ上がっていったので、僕は一人
で書斎に残った。そしてこの出来事の全体像について繰り返し考え、それまで感じたこと
がないほど暗あん澹たんたる気持ちに打ち沈んだ。トレヴァー老人の過去には果たしてな
にがあったのか? ボクシング愛好家で、世界中を旅してまわり、金鉱探しに従事してい
た男が、腹黒い船乗りの言いなりにならなければいけなかった理由はなにか? まだあ
る。半ば消されかけた腕のタトゥーの頭文字が話に出たとたん、卒倒したのはなぜか?
フォーディングブリッジから来た手紙を読んだとたん、恐怖のあまりショック死したのは
なぜか?