「なんというやつだ!」ぼくは叱りつけた。「よくも信頼を裏切ったな! 今日かぎりで
クビだ。明日にも出ていくがいい」
ブラントンは押しつぶされたかのようにしょんぼりとうなだれ、一言も発しないで書斎
から立ち去った。ろうそくはテーブルに置かれたままで、彼が勝手に抽斗から出した書類
を照らしていた。不可解なことに、それは重要なものでもなんでもなく、〝マスグレイヴ
家の儀式〟と呼ばれる昔からの変わったしきたりで使う問答を書き写したものだった。何世
紀にもわたって伝えられてきたマスグレイヴ家特有の行事で、跡継ぎが成人したときにお
こなわれる。早い話が、一族の者にしか関係のないものだ。紋章のたぐいと同じで、考古
学者なら多少は興味を持つかもしれないが、実用価値はまったくない』
『その文書について、あとで詳しく説明してもらえないかな』僕はマスグレイヴに言っ
た。
『いいとも、きみがどうしても必要だと思うなら』マスグレイヴはあまり気が進まない様
子だった。『とりあえず、話を先へ進めさせてくれ。ぼくはブラントンが置いていった鍵
で抽斗を閉め、書斎を出ようとドアへ行きかけた。とたんにぎょっとしたよ。ブラントン
が引き返してきて、目の前に立っていたんだ。
「マスグレイヴ様」明らかに気持ちが高ぶっている、しゃがれた声でブラントンは言っ
た。「このような屈辱にはとても耐えられません。これまで損得抜きで一生懸命勤めてま
いりました。解雇されるのはわたしにとって殺されるも同然です。絶望に突き落とされれ
ば、血迷って旦だん那な様をお恨みするかもしれません。どうしても出ていけとおっしゃ
るのなら、これまでの働きに免じて依願退職にしていただけないでしょうか。わたしが辞
職を申し入れてから出ていくまでに一カ月の猶予をお与えください。それならば我慢のし
ようもございます。ほかの使用人たちの前でみじめに追いだされることだけはどうかご勘
弁を」
「そんな酌量の余地はない。ブラントン、おまえのやったことは許されざる最低の行為な
んだぞ。それでも長年勤めてくれたわけだから、皆の前で面目を失わせるのは本意ではな
い。しかし一カ月は長すぎる。よし、一週間やろう。屋敷を去る理由はおまえの好きなよ
うに言えばいい」
「たったの一週間ですか?」彼の声に絶望感がにじんでいた。「せめて二週間──二週間い
ただけないでしょうか?」
「一週間だ」断固として言い渡した。「それが精一杯の寛大な処置だ」
ブラントンはがっくりとうなだれて、のろのろと部屋を出ていった。ぼくはろうそくを
消して寝室へ戻った。
それから二日間、ブラントンは勤勉に職務を果たした。ぼくは書斎の一件についてはあ
えてなにも触れず、当人が不面目な行為をどう言い訳するつもりか興味を持って見守って
いた。ところが三日目の朝、いつもなら朝食のあとにその日の仕事の指示を仰ぎに来るは
ずのブラントンが、いつまで経っても現われない。しかたなく食堂を出ると、メイドのレ
イチェル・ハウエルズと行き合った。さっきも話したように、彼女は病みあがりで顔色が
悪く、ひどいやつれようだったので、休んでいなくてはだめじゃないかと声をかけた。
「おとなしく寝ていなさい。仕事に戻るのは体力が回復してからだ」
こちらを見たときの彼女は、とうとうおかしくなったのかと心配になるほど奇妙な顔つ
きだった。
「もうよくなりました、旦那様」
「医者がだいじょうぶだと言うまでは休んでいなさい。いいね。階下へ行ったら、ついで
にブラントンに来るよう伝えてくれ」
「執事さんは行ってしまいました」
「行ってしまった? どこへ?」
「行ってしまったんです。誰も姿を見ていません。部屋にもいません。そう、だから行っ
てしまったんです。消えてしまったんです!」
レイチェルはそう叫んで壁にもたれたかと思うと、けたたましい笑い声をあげ始めた。
ぼくは突然の発作に恐れをなして、急いで呼び鈴を鳴らした。彼女が叫んだり泣きじゃ
くったりしながら部屋へ連れていかれると、ぼくはブラントンを見なかったかと使用人た
ちに訊きいた。
ブラントンは本当に消えていた。ベッドには寝た跡がなく、前の晩に自室へ下がったあ
とは誰も姿を見ていなかった。しかし、どうやって屋敷を出たんだろう。朝は窓にもドア
にも錠が下ろしてあったというのに。しかも衣類や懐中時計だけでなく、現金まで部屋に
残したままだ。いつも着ている黒い服と、室内履きの靴だけが見あたらなかった。外出用
の深靴は置いてあった。夜中にどこかへ出かけたとしても、まだ戻らないのはいったいな
ぜだ?
当然ながら、地下室から納屋までしらみつぶしに捜しまわったが、彼の行方はつかめな
かった。再三言っているように、館は迷路のような構造の古い建物で、もとからある翼棟
は今ではほとんど使われていないが、念のためそっちも屋根裏部屋からなにからあらゆる
部屋を見てまわった。しかしブラントンのいた形跡はどこにもなかった。そもそも、持ち
物をそっくり残したまま出ていくわけがない。となると、いったいどこにいるのか。
地元の警察を呼んだが、なんの手がかりも得られなかった。前夜に雨が降ったので、建
物のまわりの芝生や小道も調べてみたが、徒労に終わったよ。そうこうしているうちに新
たな問題が発生して、われわれはブラントンの捜索どころではなくなってしまった。
執事が失しつ踪そうしてからの二日間、レイチェル・ハウエルズの容態はかなり重く、
うわごとを言ったりヒステリーを起こしたりしていたため、看護師を雇って徹夜で看病さ
せていた。ところが三日目の晩、レイチェルがぐっすり眠っていたので、看護師は安楽椅
子でうとうとしてしまった。明け方に目を覚ましたときにはベッドは空っぽで、病人の姿
は消え、窓が開けっぱなしになっていた。ぼくは知らせを受けるとすぐに起きて、二人の
下男とともにレイチェルを捜しに出た。
どの方角へ行ったかは難なくわかった。窓の下から芝生の先まで、足跡が点々と続いて
いたんだ。足跡は芝生を横切って、屋敷の外へ向かう砂利道に近い池のほとりで途絶えて
いた。池の水深は八フィートもあるから、錯乱した哀れな女の足跡がそこで消えているの
を見たとき、ぼくらがどんな気持ちになったかは言うまでもないだろう。
もちろん、ただちに網を投げ入れて池をさらった。けれども死体はあがらず、得体の知
れないがらくたばかりが網にかかった。リンネルの袋に入った、錆さびついた大きな古い
金属がひとかたまりと、くすんだ色の小石かガラスのかけらが数個だ。池から見つかった
のはたったそれだけで、昨日も八方手を尽くして徹底的に捜索したが、レイチェル・ハウ
エルズの行方もリチャード・ブラントンの行方もわからずじまいだった。そんなわけで州
警察は万策尽き、今はきみの助けが最後の頼みの綱なんだ』
ワトスン、僕はこの連続した不思議な出来事にすっかり心を奪われ、それぞれの断片を
なんとかしてくっつけようと躍起になったよ。ばらばらの事柄をつなぎ合わせる糸口を必
死で見つけだそうとしたんだ。