それはそうと、一覧表でヴァイオリンの技量についてふれた。たしかにホームズの腕前はずば抜けているが、ほかの特技と同様に一風変わっている。難曲だろうがなんだろうが巧みに弾きこなせることは、この耳が知っている。私のリクエストに応じて、メンデルスゾーンの歌曲などお気に入りの曲を弾いてくれることがあるからだ。ところが本人が好き勝手に弾くと、曲どころか旋律らしきものさえめったに奏でようとしない。夕方などはよく、肘ひじ掛かけ椅子にもたれてヴァイオリンを膝ひざに置き、目を閉じたままでたらめにかき鳴らしている。その音色はときには清澄で哀愁を帯び、ときには陽気で威勢がいい。ホームズの気分がそのまま表われているのは明らかだ。しかし、それが考え事にふけるための伴奏なのか、それとも気まぐれや思いつきにすぎないのか、まったく判断がつかなかった。とにかく、そんな気分次第の独奏を聴かされてばかりいたら、さすがの私も腹に据えかねただろうが、独奏のあとはだいたいいつも私の好きな曲を立て続けに弾いて、ちょっとした埋め合わせをしてくれるのだった。
共同生活が始まってから一週間ほどは、訪ねてくる者が一人もいなかったので、私と同じようにホームズも孤独な人間なのだろうと思っていた。だがしばらくすると、彼には知り合いが大勢いることがわかった。それも階層さまざまな人たちが。そのなかに小柄で血色が悪くて黒い目の、イタチに似た顔の男がいて、ホームズからレストレイド氏だと紹介されたが、彼などは週に三回も四回も訪ねてきた。また、ある朝、しゃれた服装の若い娘が三十分以上も話しこんでいったかと思うと、同じ日の午後には、白髪頭でみすぼらしい身なりの行商人らしきユダヤ人が大慌てで飛びこんできた。しかも彼が帰ってすぐ入れ替わるようにして、見るからにだらしない感じの年配の女性が現われた。別の日には、銀髪の老紳士の訪問者がホームズに面会を求めたし、ビロードの制服を着た駅のポーターがやって来たこともあった。そうした怪しい来客があるたび、ホームズに居間を使わせてほしいと言われ、私は自分の寝室へ引っこんだ。彼はそのことを気にして、不便をかけてすまないとしきりに詫わびた。「居間をどうしても事務所代わりに使う必要があってね」あるときホームズは言った。「ここに来る客たちは仕事の依頼人なんだ」彼の職業について単刀直入に尋ねる絶好の機会だったが、個人的な事柄にこちらから触れるようなぶしつけなまねは慎みたかったので、またしても言いだせなかった。きっとなんらかの深い事情から、仕事の話はしたくないのだろうと勝手に思いこんでいたのだ。ところがまもなく、そんな遠慮は無用だったことがわかった。ホームズのほうからその話題を持ちだしたのである。
わけあってよく覚えているのだが、それは三月四日のことだった。普段より早く起きると、ホームズはまだ朝食をとっているところだった。私がいつも朝寝坊なものだから、下宿のおかみさんはまだ私の朝食はコーヒーすら用意していなかった。理不尽なことでつい腹を立ててしまうのが人間の性さがである。私はベルを鳴らすと、そろそろ食事を運んでもらいたいんだがと不機嫌な声で言った。それからテーブルにあった雑誌を手に取り、黙々とトーストを食べている同居人のそばで、待たされているあいだのいらだちを紛らわそうとページをめくった。すると見出しに鉛筆で印をつけた記事があったので、目は自然とその内容を追い始めた。
「人生の書」というなんとも大げさな見出しが掲げてあったが、言わんとするところはつまり、観察力の鋭い人間ならば、日常で目にする事柄を正確に系統立てて吟味することで実に多くの知識を得られる、ということらしかった。読んだ印象では、うがった意見と荒こう唐とう無む稽けいな主張とが奇妙な具合に混ざり合っていた。論法は隙がなく力強いが、そこから引きだされた結論はありそうもないことで、単なる誇張にしか思えなかった。たとえば、筆者は次のように書いていた。顔の筋肉が小さくひきつる、目がかすかに動くといった表情の一瞬の変化から、人間の心の奥まで見透かすことができる。訓練を積んで高度な観察力と分析力を身につけた者には、いかなる欺ぎ瞞まんも通用しない。そのような者が下した結論はユークリッド幾何学の定理と同じくらい絶対確実である。しかし、あまりに意表をつく内容のため、彼の能力を知らない者はあっけにとられるばかりで信じようとはせず、結論にいたった経緯を説明されるまでは魔法でも使ったのかと疑うのがおちである。