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ポラーノの広場

时间: 2015-08-19    进入日语论坛
核心提示: そのころわたくしはモリーオ市の博物局に勤めて居りました。 十八等官でしたから役所のなかでもずうっと下の方でしたし俸給も
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  そのころわたくしはモリーオ市の博物局に勤めて居りました。
 十八等官でしたから役所のなかでもずうっと下の方でしたし俸給もほんのわずかでしたが、受持ちが標本の採集や整理で、生れ付き、好きなことでしたから、わたくしは毎日ずいぶん愉快にはたらきました。殊にそのころ、モリーオ市では競馬場を植物園に拵え直すというので、その景色のいいまわりにアカシヤを植え込んだ広い地面が、切符売場や信号所の建物のついたままわたくしどもの役所の方へまわって来たものですから、わたくしはすぐ宿直という名前で月賊で買った小さな蓄音器と二十枚ばかりのレコードをもってその番小屋にひとり住むことになりました。わたくしはそこの馬を置く場所に板で小さなしきいをつけて一疋の山羊を飼いました。毎朝その乳をしぼってつめたいパンをひたしてたべ、それから黒い革のかばんへすこしの書類や雑誌を入れ、靴もきれいにみがき、並木のポプラの影法師を大股にわたって市の役所へ出て行くのでした。あのイーハトーヴォのすきとおった風、夏でも底に冷たさをもつ青いそら、うつくしい森で飾られたモリーオ市、郊外のぎらぎらひかる草の波、
 またそのなかでいっしょになったたくさんのひとたち、ファゼーロとロザーロ、羊飼のミーロや顔の赤いこどもたち、地主のテーモ、山猫博士のボーガント・デストゥパーゴなど、いまこの暗い巨きな石の建物のなかで考えているとみんななつかしい青いむかし風の幻燈のように思われます。
 では、わたくしはいくつかの小さなみだしをつけながらしずかにあの年のイーハトーヴォの五月から十月までを書きつけましょう。
 
一、遁げた山羊
 
 五月のしまいの日曜でした。わたくしは賑やかな市の教会の鐘の音で眼をさましました。もう日はよほど登って、まわりはみんなきらきらしていました。時計を見るとちょうど六時でした。わたくしはすぐチョッキだけ着て山羊を見に行きました。すると小屋のなかはしんとして藁が凹んでいるだけであのみじかい角も白い髪も見えませんでした。
「あんまりいい天気なもんだから大将ひとりででかけたな。」
 わたくしは半分わらうように半分つぶやくようにしながら、向うの信号所から、いつも放して遊ばせる輪道の内側の野原、ポプラの中から顔を出している市はずれの白い教会の塔までぐるっと見まわしました。けれどもどこにもあの白い頭もせなかも見えていませんでした。うまやを一まわりしてみましたがやっぱりどこにも居ませんでした。
「いったい山羊は馬だの犬のように前居たところや来る道をおぼえていて、そこへ戻っているということがあるのかなあ。」わたくしはひとりで考えました。さあ、そう思うと早くそれを知りたくてたまらなくなりました。けれども役所のなかとちがって競馬場には物知りの年とった書記も居なければそんなことを書いた辞書もそこらにありませんでしたから、わたくしは何ということなしに輪道を半分通ってそれからこの前山羊が村の人に連れられて来た路をそのまま野原の方へあるきだしました。
 そこらの畑では燕麦もライ麦ももう芽をだしていましたしこれから何か蒔くとこらしくあたらしく掘り起されているところもありました。
 そしていつかわたくしは町から西南の方の村へ行くみちへはいってしまっていました。
 向うからは黒い着物に白いきれをかぶった百姓のおかみさんたちが、たくさん歩いてくるようすなのです。わたくしは気がついてもう戻ってしまおうと思いました。全くの起きたままチョッキだけ着て顔もあらわず帽子もかむらず山羊が居るかどうかもわからない広い畑のまんなかへ飛びだして来ているのです。けれどもそのときはもう戻るのも工合が悪くなってしまっていました。向うの人たちがじき顔の見えるところまで来ているのです。わたくしは思い切って勢よく歩いて行っておじぎをして尋ねました。「こっちへ山羊が迷って来ていませんでしたでしょうか。」女の人たちはみんな立ちどまってしまいました。教会へ行くところらしくバイブルも持っていたのです。
「こっちへ山羊が一疋迷って来たんですが、ご覧になりませんでしたでしょうか。」
 みんなは顔を見合せました。それから一人が答えました。
「さあ、わたくしどもはまっすぐに来ただけですから。」
 そうだ、山羊が迷って出たときに人のようにみちを歩くのではないのだな。わたくしはおじぎをしました。
「いや、ありがとうございました。」
 女たちは行ってしまいました。もう戻ろう、けれどもいま戻るとあの女の人たちを通り越して行かなければならない、まあ散歩のつもりでもすこし行こう、けれどもさっぱりたよりのない散歩だなあ、わたくしはひとりでにがわらいしました。そのときまた向うから廿五六になる若ものと十七ばかりのこどもとスコープをかついでやって来ました。もう仕方ない、みかけだけにたずねて見よう、わたくしはまたおじぎしました。
「山羊を一疋迷ってこっちへ来たのですがごらんになりませんでしたでしょうか。」
「山羊ですって。いいえ。連れてあるいて遁げたのですか。」
「いいえ、小屋から遁げたんです。いや、ありがとうございました。」わたくしはおじぎをしてまたあるきだしました。
 するとそのこどもがうしろで云いました。
「ああ、向うから誰か来るなあ。あれそうでないかなあ。」
 わたくしはふりかえって指ざされた私の行くほうを見ました。
「ファゼーロだな、けれども山羊かなあ。」
「山羊だよ。ああきっとあれだ。ファゼーロがいまごろ山羊なんぞ連れてあるく筈ないんだから。」
 たしかにそれは山羊でした。けれどもそれは別ので売りに町へ行くのかもしれない、まああの指導標のところまで行って見よう、わたくしはそっちへ近づいて行きました。一人の頬の赤い、チョッキだけ着た十七ばかりの子どもが何だかわたくしのらしい雌の山羊の首に帯皮をつけてはじを持ってわらいながらわたくしに近よって来ました。どうもわたくしのらしいけれども何と云おうと思いながらわたくしは立ちどまりました。すると子どもも立ちどまってわたくしにおじぎしました。
「この山羊はおまえんだろう。」
「そうらしいねえ。」
「ぼく出てきたらたった一疋で迷っていたんだ。」
「山羊もやっぱり犬のように一ぺんあるいた道をおぼえているのかねえ。」
「おぼえてるとも。じゃ。やるよ。」
「ああほんとうにありがとう。わたしはねえ、顔も洗わないで探しに来たんだ。」
「そんなに遠くから来たの。」
「ああわたしは競馬場に居るからねえ。」
「あすこから?」子どもは山羊の首から帯皮をとりながら畑の向うでかげろうにぎらぎらゆれているやっと青みがかったアカシヤの列を見ました。
「ずいぶん遠くまで来たもんだねえ。」
「ああ、じゃ、僕こっちへ行くんだから。さよなら。」
「あ、ちょっと待って。ぼくなにかあげたいんだけれどもなんにもなくてねえ。」「いいや、ぼくなんにもいらないんだ。山羊を連れてくるのは面白かった。」
「だけどねぇ、それではわたしが気が済まないんだよ。そうだ、あなたは鎖はいらないの。」わたくしは時計の鎖ならなくても済むと思いながら銀の鎖をはずしました。
「いいや。」
「磁石もついているよ。」
 すると子どもは顔をぱっと熱らせましたがまたあたりまえになって
「だめだ、磁石じゃ探せないから。」とぼんやり云いました。
「磁石で探せないって?」私はびっくりしてたずねました。
「ああ。」子どもは何か心もちのなかにかくしていたことを見られたというように少しあわてました。
「何を探すっていうの?」子どもはしばらくちゅうちょしていましたがとうとう思い切ったらしく云いました。
「ポラーノの広場。」
「ポラーノの広場? はてな、聞いたことがあるようだなあ。何だったろうねえ、ポラーノの広場。」
「昔ばなしなんだけれどもこのごろまたあるんだ。」
「ああそうだ。わたしも小さいとき何べんも聞いた。野はらのまんなかの祭のあるとこだろう。あのつめくさの花の番号を数えて行くというのだろう。」
「ああ、それは昔ばなしなんだ。けれども、どうもこの頃もあるらしいんだよ。」
「どうして。」
「だってぼくたちが夜野原へ出ているとどこかでそんな音がするんだもの。」
「音のする方へ行ったらいいんでないか。」
「みんなで何べんも行ったけれどもわからなくなるんだよ。」
「だって、聞えるくらいならそんなに遠い筈はないねえ。」
「いいや、イーハトーヴォの野原は広いんだよ。霧のある日ならミーロだって迷うよ。」
「そうさねえ、だけど地図もあるからねえ。」
「野原の地図ができてるの。」
「ああ、きっと四枚ぐらいにまたがってるねえ。」
「その地図で見ると路でも林でもみんなわかるの。」
「いくらか変っているかもしれないがまあ大体はわかるだろう。じゃ、お礼にその地図を買って送ってあげようか。」
「うん、」子どもは顔を赤くして云いました。
「きみはファゼーロって云うんだね。宛名をどう書いたらいいかねえ。」
「ぼく、ひまを見付けておまえんうちへ行くよ。」
「ひまって今日でもいいよ。」
「ぼく仕事があるんだ。」
「今日は日曜じゃないか。」
「いいえ、ぼくには日曜はないんだ。」
「どうして。」
「だって仕事をしなけぁ、」
「仕事ってきみのかい。」
「旦那んさ。みんなもう行って畦へはいってるんだ。小麦の草をとっているよ。」
「じゃきみは主人のとこに雇われているんだね。」
「ああ、」
「お父さんたちは。」
「ない。」
「兄さんか誰かは」
「姉さんがいる。」
「どこに、」
「やっぱり旦那んとこに。」
「そうかねえ、」
「だけど姉さんは山猫博士のとこへ行くかも知れないよ。」
「何だい。その山猫博士というのは。」
「あだ名なんだ。ほんとうはデストゥパーゴって云うんだ。」
「デストゥパーゴ? ボー、ガント、デストゥパーゴかい。県の議員の」
「ええ。」
「あいつは悪いやつだぜ。あいつのうちがこっちの方にあるのかい。」
「ああぼくの旦那のうちから見え……」
「おい、ここら何をぐずぐずしてるんだ。」うしろで大きな声がしました。見ると一人の赤い帽子をかぶった年老りの頑丈そうな百姓が革むちをもって怒って立っていました。
「もう一くぎりも働いたかと思って来て見るとまだこんなとこに立ってしゃべくってやがる。早く仕事へ行け。」
「はい、じゃさよなら。」
「ああさよなら。ぼくは役所からいつでも五時半には帰っているからね。」
「ええ、」ファゼーロは水壺とホーをもって急いで向うの路へはいって行きました。百姓はこんどはわたくしに云いました。
「あなたはどこのお方だか知らないが、これからわしの仕事にいらないお世話をして貰いたくないもんですな。」
「いや、わたしはね、山羊に遁げられてそれをたずねて来たらあの子どもさんが連れて来ていたもんだからお礼を云っていたんです。」
「いや、結構ですよ。山羊というやつはどうも足があって歩くんでね。やいファゼーロ、かけて行け、馬鹿かけて行けったら。」百姓は顔をまっ赤にして手をあげて革むちをパチッと鳴らしました。
「人を使うのに革むちを鳴らすなんて乱暴じゃないですか。」
 百姓はわざと顔を前につき出して云いました。
「このむちですかい。あなたはこの鞭のことを仰ったんですか。この鞭はねえ、人を使う鞭ではありませんよ。馬を追う鞭ですよ。あっちへ馬が四疋も行ってますからねえ。そらねこんなふうに。」百姓はわたくしの顔の前でパチッパチッとはげしく鞭を鳴らしました。わたくしはさぁっと血が頭にのぼるのを感じました。けれどもまたいま争うときでないと考えて山羊の方を見ました。山羊はあちこち草をたべながら向うに行っていました。百姓はファゼーロの行った方へ行きわたくしも山羊の方へ歩きだしました。山羊に追いついてから、ふりかえって見ますと畑いちめん紺いろの地平線までにぎらぎらのかげろうで百姓の赤い頭巾もみんなごちゃごちゃにゆれていました。その向うの一そう烈しいかげろうの中でピカッと白くひかる農具と黒い影法師のようにあるいている馬とファゼーロかそれともほかのこどもかしきりに手をふって馬をうごかしているのをわたくしは見ました。
 
二、つめくさのあかり
 
 それからちょうど十日ばかりたって、夕方、わたくしが役所から帰って両手でカフスをはずしていましたら、いきなりあのファゼーロが戸口から顔を出しました。そしてわたくしがまだびっくりしているうちに
「とうとう来たよ、今晩は」と云いました。
「ああ、先頃はありがとう。地図はちゃんと仕度しておいたよ。この前の音は今でもするの。」
「するとも、昨夜なんかとてもひどいんだ。今夜はもうぼくどうしても探そうとおもって羊飼いのミーロと二人で出て来たんだ。」
「うちの方は大丈夫かい。」
「うん、」ファゼーロは何だか少しあいまいに返事しました。
「きみの旦那はなかなか恐い人だねえ、何て云うんだ。」
「テーモだよ。」
「テーモ、やっぱし何だか聞いたような名だなあ。」
「聞いたかも知れない。あちこち役所へ果物だの野菜だの納めているんだから。」
「そうかねえ。とにかく地図はこれだよ。」わたくしは戸口に買って置いた地図をひろげました。
「ミーロも呼んでもいいかい。」
「誰か来てるのか。いいとも。」
「ミーロ、おいで、地図を見よう。」
 すると山羊小屋の中からファゼーロよりも三つばかり年上のちゃんときゃはんをはいてぼろぼろになった青い皮の上着を着た顔いろのいいわか者が出てきてわたくしにおじぎしました。
「おや、ぼくは地図をよくわからないなあ、どっちが西だろう。」
「上の方が北だよ。そう置いてごらん。」
 ファゼーロはおもての景色と合せて地図を床に置きました。
「そら、こっちが東でこっちが西さ。いまぼくらのいるのはここだよ。この円くなった競馬場のここのとこさ。」
「乾溜工場はどれだろう。」ミーロが云いました。
「乾溜工場って、この地図にはないね、こっちかしら。」わたくしは別のをひろげました。
「ないなあ、いつころからあるんだい。」
「去年からだよ。」
「それじゃないんだ。この地図はもっと前に測量したんだから。その工場はどんなとこにあるの。」
「ムラードの森のはずれだよ。」
「ああ、これかしら、何の木だい、楢か樺だろう。唐檜やサイプレスではないね。」
「楢と樺だよ。ああこれか。ぼくはねえ、どうも昨夜の音はここから聞えたと思うんだ。」
「行こう行こう、行って見よう。」ファゼーロはもう地図をもってはねあがりました。
「わたしも行っていいかい。」
「いいともぼくそう云いたくていたんだ。」
「じゃわたしも行こう。ちょっと待って。」わたくしは大急ぎで仕度をしました。どうせ月は出るけれども地図が見えないといけないと思ってガラス凾のちょうちんも持ちました。
「さあ行こう。」わたくしはばたんと戸をしめてファゼーロとミーロのあとに立ちました。
 日はもう落ちて空は青く古い池のようになっていました。
 そこらの草もアカシヤの木も一日のなかでいちばん青く見えるときでした。
「ポラーノの広場へ行けば何があるって云うの?」
 ミーロについて行きながらわたくしはファゼーロにたずねました。
「オーケストラでもお酒でも何でもあるって。ぼくお酒なんか呑みたくはないけれどみんなを連れて行きたいんだよ。」
「そうだって云ったねえ、わたくしも小さいときそんなこと聞いたよ。」
「それに第一にね、そこへ行くと誰でも上手に歌えるようになるって。」「そうそうそう云った。だけどそんなことがいまでもほんとうにあるかねえ。」
「だって聞えるんだもの。ぼくは何もいらないけれども上手にうたいたいんだよ。ねえ。ミーロだってそうだろう。」
「うん。」ミーロもうなずきました。元来ミーロなんかよほど歌がうまいのだろうとわたくしは思いました。
 わたくしどもはもう競馬場のまん中を横切ってしまってまっすぐに野原へ行く小さなみちへかかっていました。ふりかえってみるとわたくしの家がかなり小さく黄いろにひかっていました。
「ぼくは小さいときはいつでもいまごろ、野原へ遊びに出た。」ファゼーロが云いました。
「そうかねえ、」
「するとお母さんが行っておいで、ふくろうにだまされないようにおしって云うんだ。」
「何て云うって。」
「お母さんがね、云っておいで、ふくろうにだまされないようにおしって云うんだよ。」
「ふくろうに?」
「うん、ふくろうにさ。それはね、僕もっと小さいとき、それはもうこんなに小さいときなんだ、野原に出たろう。すると遠くで、誰だか食べた、誰だか食べた、というものがあったんだ。それがふくろうだったのよ。僕ばかな小さいときだから、ずんずん行ったんだ。そして林の中へはいってみちがわからなくなって泣いた。それからいつでもお母さんそう云ったんだ。」
「お母さんはいまどこにいるの。」わたくしはこの前のことを思いだしながらそっとたずねました。
「居ない。」ファゼーロはかなしそうに云いました。
「この前きみは姉さんがデストゥパーゴのとこへ行くかもしれないって云ったねえ。」
「うん、姉さんは行きたくないんだよ。だけど旦那が行けって云うんだ。」
「テーモがかい。」
「うん、旦那は山猫博士がこわいんだからねえ。」
「なぜ山猫博士って云うんだ。」
「ぼくよくわからない。ミーロは知ってるの?」
「うん、」ミーロはこっちをふりむいて云いました。
「あいつは山猫を釣ってあるいて外国へ売る商売なんだって。」
「山猫を? じゃ動物園の商売かい。」
「動物園じゃないなあ。」ミーロもわからないというふうにだまってしまいました。そのときはもう、あたりはとっぷりくらくなって西の地平線の上が古い池の水あかりのように青くひかるきりそこらの草も青黝くかわっていました。
「おや、つめくさのあかりがついたよ。」ファゼーロが叫びました。
 なるほど向うの黒い草むらのなかに小さな円いぼんぼりのような白いつめくさの花があっちにもこっちにもならびそこらはむっとした蜂蜜のかおりでいっぱいでした。
「あのあかりはねえ、そばでよく見るとまるで小さな蛾の形の青じろいあかりの集りだよ。」
「そうかねえ、わたしはたった一つのあかしだと思っていた。」
「そら、ね、ごらん、そうだろう、それに番号がついてるんだよ。」
 わたしたちはしゃがんで花を見ました。なるほど一つ一つの花にはそう思えばそうというような小さな茶いろの算用数字みたいなものが書いてありました。
「ミーロ、いくらだい。」
「一千二百五十六かな、いや一万七千五十八かなあ。」
「ぼくのは三千四百二十……六だよ。」
「そんなにはっきり書いてあるかねえ。」わたくしにはどうしてもそんなにはっきりは読むことができませんでした。けれども花のあかりはあっちにもこっちにももうそこらいっぱいでした。
「三千八百六十六、五千まで数えればいいんだからポラーノの広場はもうじきそこらな筈なんだけれども。」
「だってさっぱりきみらの云うようないい音はしないんじゃないか。」
「いまに聞こえるよ。こいつは二千五百五十六だ。」
「その数字を数えるというのはきっとだめだよ。」
 とうとうわたくしは云いました。
「どうして?」ファゼーロもミーロもまっすぐに立ってわたくしを見ています。
「なぜって第一わたしは花にそんな数字が書いてあるのでなくてそれはこっちの目のまちがいだろうと思うんだ。もしほんとうにいまにその音が聞えてきたらまっすぐにそっちに行くのがいちばんいいだろうと思うんだ。とにかくもっとさきへ行ってみようじゃないか。ここらならわたしだって度々来ているんだから。ここらはまだあの岐れみちのまっ北ぐらいにしかなってないんだ。ムラードの森なんか、まだよっぽどあるだろう。ねえ、ミーロ君。」
「よっぽどあるとも。」
「じゃ、行こう、まあもっと行って花の番号を見てごらん。やっぱり二千とか三千とかだから。」
 ミーロはうなずいてあるきだしました。ファゼーロもだまってついて行きました。わたくしどもはじつにいっぱいに青じろいあかりをつけて向うの方はまるで不思議な縞物のように幾条にも縞になった野原をだまってどんどんあるきました。その野原のはずれのまっ黒な地平線の上では、そらがだんだんにぶい鋼のいろに変っていくつかの小さな星もうかんできましたしそこらの空気もいよいよ甘くなりました。そのうち何だかわたくしどもの影が前の方へ落ちているようなのでうしろを振り向いて見ますと、おお、はるかなモリーオの市のぼぉっとにごった灯照りのなかから十六日の青い月が奇体に平べったくなって半分のぞいているのです。わたくしどもは思わず声をあげました。ファゼーロはそっちへ挨拶するように両手をあげてはねあがりました。
 にわかにぼんやり青白い野原の向うで何かセロかバスのような顫いがしずかに起りました。
「そら、ね、そら。」ファゼーロがわたくしの手を叩きました。わたくしもまっすぐに立って耳をすましました。音はしずかにしずかに呟やくようにふるえています。けれどもいったいどっちの方か、わたくしは呆れてつっ立ってしまいました。もう南でも西でも北でもわたくしどもの来た方でもそう思って聞くと地面の中でも高くなったり低くなったりたのしそうにたのしそうにその音が鳴っているのです。
 それはまた一つや二つではないようでした。消えたりもつれたり一所になったり何とも云われないのです。
「まるで昔からのはなしの通りだねえ。わたしはもうわからなくなってしまった。」
「番号はここらもやっぱり二千三百ぐらいだよ。」ファゼーロが月が出て一そう明るくなったつめくさの灯をしらべて云いました。
「番号なんかあてにならないよ。」わたくしも屈みました。そのときわたくしは一つの花のあかしからも一つの花へ移って行く黒い小さな蜂を見ました。
「ああ、蜂が、ごらん、さっきからぶんぶんふるえているのは、月が出たので蜂が働きだしたのだよ。ごらん、もう野原いっぱい蜂がいるんだ。」これでわかったろうとわたくしは思いましたがミーロもファゼーロもだまってしまってなかなか承知しませんでした。
「ねえ蜂だろう。だからあんなに野原中どこから来るか知れなかったんだよ。」
 ミーロがやっと云いました。
「そうでないよ。蜂ならぼくはずっと前から知っているんだ。けれども昨夜はもっとはっきり人の笑い声などまで聞えたんだ。」
「人の笑い声、太い声でかい。」
「いいや。」
「そうかねえ。」わたくしはまたわからなくなって腕を組んで立ちあがってしまいました。
 そのときでした。野原のずうっと西北の方でぼぉとたしかにトローンボーンかバスの音がきこえました。わたくしはきっとそっちを向きました。するとまた西の方でもきこえるのです。わたくしはおもわず身ぶるいしました。野原ぜんたいに誰か魔術でもかけているかそうでなければ昔からの云い伝い通りひるには何もない野原のまんなかに不思議に楽しいポラーノの広場ができるのか、わたくしは却ってひるの間役所で標本に札をつけたり書類を所長のところへ持って行ったりしていたことが別の世界のことのように思われてきました。
「やっぱり何かあるのかねえ。」
「あるよ。だってまだこれどこでないんだもの。」
「こんなに方角がわからないとすればやっぱり昔の伝説のようにあかしの番号を読んで行かなければならないんだが、ぜんたい、いくらまで数えて行けばポラーノの広場に着くって?」
「五千だよ。」
「五千? ここはいくらと云ったねえ。」
「三千ぐらいだよ。」
「じゃ、北へ行けば数がふえるか西へ行けばふえるかしらべて見ようか。」その時でした。
「ハッハッハッ。お前たちもポラーノの広場へ行きてえのか。」うしろで大きな声で笑うものがいました。
「何だい、山猫の馬車別当め。」ミーロが云いました。
「三人で這いまわって、あかりの数を数えてるんだな。はっはっはっ、」その足のまがった片眼の爺さんは上着のポケットに手を入れたまままた高くわらいました。
「数えてるさ、そんならじいさんは知ってるかい。いまでもポラーノの広場はあるかい。」ファゼーロが訊きました。
「あるさ。あるにはあるけれどもお前らのたずねているような、這いつくばって花の数を数えて行くようなそんなポラーノの広場はねえよ。」
「そんならどんなんがあるんだい。」
「もっといいのがあるよ。」
「どんなんだい。」
「まあお前たちには用がなかろうぜ。」
 じいさんはのどをくびっと鳴らしました。
「じいさんはしじゅう行くかい。」
「行かねえ訳でもねえよ、いいとこだからなあ。」
「じいさんは今夜は酔ってるねえ。」
「ああ上等の藁酒をやったからな。」じいさんはまたのどをくびっと鳴らしました。
「ぼくたちは行けないだろうかねえ。」
「行けねえよ。あっいけねえ、とうとう悪魔にやられた。」じいさんは額を押えてよろよろしました。甲むしが飛んで来てぶっつかったようすでした。ミーロが云いました。
「じいさん、ポラーノの広場の方角を教えてくれたら、おいらぁ、じいさんと悪魔の歌をうたってきかせるぜ。」
「縁起でもねえ、まあもっと這いまわって見ねえ。」じいさんはぶりぶり怒ってぐんぐんつめくさの上をわたって南の方へ行ってしまいました。
「じいさん。お待ちよ。また馬を冷しに連れてってやるからさ。」ファゼーロが叫びましたがじいさんはどんどん行ってしまいました。ミーロはしばらくだまっていましたがとうとうこらえきれないらしく「おいおれ歌うからな」と云いだしました。
 ファゼーロはそれどころではないようすでしたが、わたくしは前からミーロは歌がうまいだろうと思っていたので手を叩きました。ミーロは上着やシャツの上のぼたんをはずして息をすこし吸いました。
  「いのししむしゃのかぶとむし
   つきのあかりもつめくさの
   ともすあかりも眼に入らず
   めくらめっぽに飛んで来て
   山猫馬丁につきあたり
   あわてて ひょろひょろ
   落ちるをやっとふみとまり
   いそいでかぶとをしめなおし
   月のあかりもつめくさの
   ともすあかりも目に入らず
   飛んでもない方に飛んで行く。」
 ところがそのじいさんの行った方から細い高い声で
「ファゼーロ、ファゼーロ。」と呼んでいるようすです。
「ああ、姉さん。いま行くよ。」ファゼーロがそっちへ向いて高く叫びました。向うの声はやみました。
「だめだなあ、きっと旦那が呼んでるんだ。早く森まで行ってみればよかったねえ。」
 ミーロが俄かに勢がついて早口に云いました。
「大丈夫だよ。おれはね、どうもあの馬車別当だの町の乾物屋のおやじだのあやしいと思っていたんだ。このごろはいつでも酔っているんだ。きっとあいつらがポラーノの広場を知ってるぜ。それにおれは野原でおかしな風に枯草を積んだ荷馬車に何べんもあってるんだ。ファゼーロ、お前ね、なんにも知らないふりして今夜はうちへ帰って寝ろ。おれきっと五六日のうちにポラーノの広場をさがすから。」
「そうかい。ぼくにはよくわからないなあ。」そのときまた声がしました。
「ファゼーロ、おいで。お使いに町へ行くんだって。」
「ああいま行くよ。ぼくは旦那のとこへまっすぐに行くんだが、おまえはひとりで競馬場へ帰れるかい。」
「帰れるとも、ここらはひるならたびたび来るとこなんだ。じゃ、地図はあげるよ。」
「うん、ミーロへやってこう。ぼくひるは野原へ来るひまがないんだから。」
 そのとき向うのつめくさの花と月のあかりのなかにうつくしい娘が立っていました。
 ファゼーロが云いました。
「姉さん、この人だよ。ぼく地図をもらったよ。」その娘はこっちへ出てこないでだまっておじぎをしました。わたくしもだまっておじぎをしました。
「じゃ、さよなら。早く行かなくちゃ」ファゼーロは走りだしました。
 ロザーロはもいちどわたくしどもに挨拶してそのあとから急いで行きました。ミーロはだまって北の方を向いて耳にたなごころをあてていました。わたくしはポラーノの広場というのはこういう場所をそのまま云うのだ、馬車別当だのミーロだのまだ夢からさめないんだと思いながら云いました。
「ミーロ、おまえの歌は上手だよ。わざわざポラーノの広場まで習いに行かなくてもいいや。じゃさよなら。」
 ミーロはていねいにおじぎをしました。わたくしはそしてそのうつくしい野原を胸いっぱいに蜂蜜のかおりを吸いながらわたくしの家の方へ帰ってきました。
 
三、ポラーノの広場
 
 それからちょうど五日目の火曜日の夕方でした。その日はわたくしは役所で死んだ北極熊を剥製にするかどうかについてひどく仲間と議論をして大へんむしゃくしゃしていましたから少し気を直すつもりで酒石酸をつめたい水に入れて呑んでいましたらずうっと遠くですきとおった口笛が聞えました。その調子はたしかにあのファゼーロの山羊をつれて来たり野原を急いで行ったりする気持そっくりなのでわたくしは思わず、とうとう来たな、とつぶやきました。
 やっぱりファゼーロでした、まだわたくしがその酒石酸のコップを呑みほさないうちにもう顔をまっ赤にして戸口に立っていました。
「わかったよ、とうとう。僕ゆうべ行くみちへすっかり方角のしるしをつけて置いた。地図で見てもわかるんだ。今夜ならもう間違なくポラーノの広場へ行ける。ミーロはひるのうちから行っていてぼくらを迎えに出る約束なんだ。ぼく行って見てほんとうだったらあしたはもうみんなつれて行くんだ。」
 わたくしも釣り込まれて胸を躍らせました。
「そうかい。わたしも行こう。どんななりして行ったらいいかねえ。どんな人が来てるだろうねえ。」
「どんななりでもいいじゃないか。早く行こう。来てる人が誰だかぼくもわからないんだ。」
 わたくしは大急ぎでネクタイを結んで新らしい夏帽子を被って外へ出ました。わたくしどもがこの前別れたところへ来たころは丁度夕方の青いあかりがつめくさにぼんやり注いでいて、その葉の爪の痕のような紋ももう見えなくなりかかったときでした。ファゼーロは爪立てをしてしばらくあちこち見まわしていましたが、俄かに向うへ走って行きました。ファゼーロはしばらく経ってぴたりと止まりました。
「あ、こいつだ、そらね、」見るとそこにはファゼーロが作ったらしく一本の棒を立ててその上にボール紙で矢の形を作って北西の方を指すようにしてありました。
「さあ、こっちへ行くんだ。向うに小さな樺の木が二本あるだろう。あすこが次の目標なんだよ。暗くならないうちに早く行こう。」ファゼーロはどんどん走り出しました。
 ほんとうにそこらではもうつめくさのあかりがつきはじめていました。わたくしもまたファゼーロのあとについて走りました。
「早く行こう、早く行こう、山猫の馬車別当なんかに見付かっちゃうるさいや。」
 ファゼーロはふりかえってそんなことを云いながら走りつづけました。けれどもさっき見た二本の樺の木まではなかなかすぐではありませんでした。
 ファゼーロはよく走りました。
 わたくしもずいぶん本気に走りました。
 やっとそこに着いてファゼーロが立ちどまったときは、あたりはもうすっかり夜になっていて樺の木もまっ黒にそらにすかし出されていました。
 つめくさの花はちょうどその反対に明るくまるで本統の石英ランプでできているようでした。
 そしてよく見ますとこの前の晩みんなで云ったように一一のあかしは小さな白い蛾のかたちのあかしから出来てそれが実に立派にかがやいて居りました。処々にはせいの高い赤いあかりもりんと灯りその柄の所には緑いろのしゃんとした葉もついていたのです。ファゼーロはすばやくその樺の木にのぼっていました。そしてしばらく野原の西の方をながめていましたがいきなりぶらさがってはねおりて来ました。
「次のしるしはもう見えないんだ。けれども広場はちょうどここからまっすぐ西になっている筈だからあの雲の少し明るいところを目あてにして歩いて行こう。もうそんなに遠くはないんだから。」
 わたくしどもはまたあるきだしました。俄かにどこからか甲虫の鋼の翅がりいんりいんと空中に張るような音がたくさん聞えてきました。
 その音にまじってたしかに別の楽器や人のがやがや云う声が時々ちらっときこえてまたわからなくなりました。
 しばらく行ってファゼーロがいきなり立ちどまってわたくしの腕をつかみながら西の野原のはてを指しました。わたくしもそっちをすかして見てよろよろして眼をこすりました。そこには何の木か七八本の木がじぶんのからだからひとりで光でも出すように青くかがやいてそこらの空もぼんやり明るくなっているのでした。
「ファゼーロかい。」いきなり向うから声がしました。
「ああ、来たよ。やっているかい。」
「やってるよ。とてもにぎやかなんだ。山猫博士も来ているようだぜ。」
「山猫博士?」ファゼーロはぎくっとしたようすでした。
「けれどもいっしょに行こう。ポラーノの広場は誰だって見附けた人は行っていいんだから。」
「よし行こう。」ファゼーロははっきり云いました。わたくしどもはそのあかりをめあてにあるいて行きました。ミーロもファゼーロも何か大へん心配なようでした。さっぱり物も云わなくなってしまったのです。そうなるとこんどはわたくしが元気がついて来ました。一体昔ばなしの通りのことが本統にあるのだろうか、それとも何かほかのことだろうか。山猫博士がここへ来て何をしているのだろうか。もうどうしても行って見たくてたまらなくなりました。殊にその日はわたくしはまだ俸給の残りを半分以上もっていましたしもしお金を払わなければならないとしてもファゼーロとミーロにご馳走するぐらい大丈夫だと考えたのです。
「いいよ、こんどはね、わたしについて来るんだよ。山猫博士なんか少しもこわいことはないんだから。」
 わたくしはもうまっさきに立ってどんどん急ぎました。甲虫の翅の音はいよいよ高くなり青い木はその一つの一つの枝まではっきり見えて来ました。木の下では白いシャツや黒い影やみんながちらちら行ったり来たりしています。誰かの片手をあげて何か云っているのも見えました。
 いよいよ近くなってわたくしはこれこそはもうほんもののポラーノの広場だと思ってしまいました。さっきの青いのは可成大きなはんの木でしたがその梢からはたくさんのモールが張られてその葉まできらきらひかりながらゆれていました。その上にはいろいろな蝶や蛾が列になってぐるぐるぐるぐる輪をかいていたのです。
 うつくしい夏のそらには銀河がいまわたくしどもの来た方からだんだんそっちへまわりかけて南のまっくろな地平線の上のあたりではぼんやり白く爆発したようになっていました。つめくさのかおりやら何かさまざまの果物のかおり、みんなの笑い声、そのうちにとうとうみんなは組になって踊りだしました。七八人のようではありましたがたしかにもうほんもののオーケストラが愉快そうなワルツをやりはじめました。一まわり踊りがすむとみんなはばらばらになってコップをとりました。そしてわあわあ叫びながら呑みほしています。その叫びは気のせいかデストゥパーゴ万歳というようにもきこえました。
「あれが山猫博士だよ。」
 ファゼーロが向うの卓にひとり座ってがぶがぶ酒を呑んでいる黄いろの縞のシャツと赤皮の上着を着た肩はばのひろい男を指さしました。
 誰か六七人コンフェットウや紐を投げましたのでそれは雪のように花のようにきらきら光りながらそこらに降りました。
 わたくしどもはもう広場の前まで来て立ちどまりました。
 ちょうどそのときデストゥパーゴがコップをもって立ちあがりました。
「おいおい給仕、なぜおれには酒を注がんか。」
 すると白い服を着た給仕が周章てて走り寄りました。
「はいはい相済みません。座っておいでだったもんですからつい。」
「座っておいでになっても立っておいでになっても我輩は我輩じゃないか。おっと、よろしい。諸君は我輩のために乾杯しようというんだな。よしよし、ブ、ブ、ブロージット。」
 そこでみんなは呑みほしました。
 わたくしは臆せてしまってもう帰ろうかとも思いましたがさっきファゼーロたちにあんなことを云ったものですから立っていることも遁げることもできませんでした。どうなるかなるようになれと思い切って二人をつれて帽子をとりながらあかりの中へはいりました。するとみんなは一ぺんにさわぎをやめて怪げんそうな顔つきでわたくしどもを見ました。それからデストゥパーゴの方を見ました。
 するとデストゥパーゴはちょっと首をまげて考えました。どうもわたくしのことを見たことはあるが考え出せないという風でした。するとそばへ一人の夏フロックコートを着た男が行って何か耳うちしました。デストゥパーゴは不機嫌そうな一べつをわたくしに与えてから仕方なそうにうなずきました。
 するとやはりフロックを着てテーモが来ていました。そのテーモが柄のついたガラスの杯を三つもって来て、だまってわたくしからミーロ、ファゼーロと渡しました。ファゼーロに渡しながらだまってにらみつけました。ファゼーロはたじたじ後退りしました。給仕がそばからレッテルのない大きな瓶からいままでみんなの呑んでいた酒を注ごうとしました。わたくしはそこで云いました。
「いや、わたしたちはね、酒は呑まないんだから炭酸水でもおくれ。」
「炭酸水はありません。」給仕が云いました。
「そんならただの水をおくれ。」わたくしは云いました。どういうわけかみんなしいんとして穴の明くほどわたくしどものことばかり見ています。わたくしも少し照れてしまいました。
「いや、デストゥパーゴさまは人に水をごちそうはなさいませんよ。」テーモが云いました。
「ごちそうになろうというんでないんです。野原のまんなかでつめくさのあかりを数えて来たポラーノの広場で、わたくしは渇いて水が呑みたいのです。」
 もう行きがかりで仕方ないと私は思ってはっきり云いました。
「つめくさのあかり、わっはっは。」テーモはわらいだしました。デストゥパーゴもわらいました。みんなもそのあとについてわらいました。「ポラーノの広場もな、お気の毒だがデストゥパーゴさまのもんだよ。」テーモがしずかに云いました。そのとき山猫博士が云いました。
「よし、よし、まあすきなら水をやっておけ。しかしどうも水を呑むやつらが来るとポラーノの広場も少ししらっぱっくれるね。」
「はい。」テーモはおじぎをしてそれからそっとファゼーロに云いました。
「ファゼーロ、何だって出て来たんだ。早く失せろ。帰ったら立てないくらい引っぱたくからそう思え。」
 ファゼーロはまた後退りしました。
「その子どもは何だ。」デストゥパーゴがききました。
「ロザーロの弟でございます。」テーモがおじぎをして答えました。するとデストゥパーゴは返事をしないで向うを向いてしまいました。そのとき楽隊が何か民謡風のものをやりはじめました。みんなはまた輪になって踊りはじめようとしました。するとデストゥパーゴが
「おいおいそいつでなしにあの〔数文字分空白〕というやつをやってもらいたいね。」
 すると楽隊のセロを持った人が
「あの曲はいま譜がありませんので。」
 するとデストゥパーゴは、もうよほど酔っていましたが
「や、れ、やれ、やれと云ったらやらんか。」と云いました。
 楽隊は仕方なくみんな同じ譜で〔数文字分空白〕をやりはじめました。
 みんなも仕方なく踊りはじめました。するとデストゥパーゴも踊りだしました。それがみんなといっしょに踊るのでなくてわざとみんなの邪魔をするようにうごきまわるのです。
 みんなは呆れてだんだんやめてぐるっとデストゥパーゴのまわりに立ってしまいました。するとデストゥパーゴはたった一人でふざけて踊りはじめました。しまいにはみんなの前を踏むようなかたちをして行ったりいきなり喧嘩でも吹っかけるときのようにはねあがったりみんなはそのたんびにざわざわ遁げるようになりました。さっきの夏フロックを着た紳士が心配そうにもみ手をしながら何か云おうとするのですがデストゥパーゴはそれさえおどして引っこませてしまいました。楽隊はしばらくしかたなくやっていましたがとうとう呆れてやめてしまいました。するとデストゥパーゴも労れたように椅子に座って「おい、注げ。」と云いながらまたつづけざまに二杯ひっかけました。するとミーロの仲間らしいものが二人で出て来てミーロに云いました。
「おいミーロ、お前もせっかく来たんだから一つうたって聞かして呉んな。」「みんなさっきからうたったり踊ったりしてつかれてるんだから。」
 ミーロは「だめだよ、」と云ってその手をふりはらいましたが実は、はじめから歌いたくて来たのですから、ことに楽隊の人たちが歌うなら伴奏しようというように身構えしたので、ミーロは顔いろがすっかり薔薇いろになってしまって眼もひかり息もせわしくなってしまいました。
 わたくしも思わず、やれ、やれ、立派にやるんだと云いました。するとミーロはとうとう決心したようにいきなり咽喉掻きはだけてはんの木の下の空箱の上に立ってしまいました。
「何をやりましょう。」セロの人がわらってききました。
「フローゼントリーをやってください。」
「フローゼントリー、譜もないしなあ、古い歌だなあ。」楽員たちはわらって顔を見合せてしばらく相談していましたが
「そいじゃね、クラリネットの人しか知ってませんからクラリネットとね、それから鉦で調子だけとりますから、それでよかったら二節目からついて歌ってください。」
 みんなはパチパチ手を叩きました。テーモも首をまげて聞いてやろうというようにしました。
 楽隊がやりました。ミーロは歌いだしました。
  「けさの六時ころ    ワルトラワーラの
   峠をわたしが     越えようとしたら
   朝霧がそのときに   ちょうど消えかけて
   一本の栗の木は    後光をだしていた
   わたしはいただきの  石にこしかけて
   朝めし堅ぱんを    かじりはじめたら
   その栗の木がにわかに ゆすれだして
   降りて来たのは    二疋の電気栗鼠
   わたしは急いで……」
「おいおい間違っちゃいかんよ。」山猫博士がいきなりどなりだしました。
「何だって、」ミーロはあっけにとられて云いました。
「今朝ワルトラワラの峠に電気栗鼠など居た筈はない、それはいたちの間違いだろう。もっとよく考えてうたってもらいたいね。」
「そんなことどうだっていいんだい。」
 ミーロは怒って壇を下りました。すると山猫博士が立ちあがりました。
「今度は我輩がうたって見せよう。こら楽隊、In the good summer time をやれ、」
 楽隊の人たちは何べんもこの節をやったと見えてすぐいっしょにはじめました。山猫博士は案外うまく歌いだしました。
 「つめくさの花の 咲く晩に
  ポランの広場の 夏まつり
  ポランの広場の 夏まつり
  酒を呑まずに  水を呑む
  そんなやつらが でかけて来ると
  ポランの広場も 朝になる
  ポランの広場も 白ぱっくれる」
 ファゼーロは泣きだしそうになってだまってきいていましたが、歌がすむとわたくしがつかまえるひまもなく壇にかけのぼってしまいました。
「ぼくもうたいます。いまのふしです。」
 楽隊はまたはじめました。山猫博士は、「いや、これはめずらしいことになったぞ。」と云いながら又大きなコップで二つばかり引っかけました。ファゼーロは力いっぱいうたいだしました。
  「つめくさの花の  かおる夜は
   ポランの広場の  夏まつり
   ポランの広場の  夏まつり
   酒くせのわるい  山猫が
   黄いろのシャツで 出かけていると
   ポランの広場に  雨がふる
   ポランの広場に  雨がふる」
 デストゥパーゴがもう憤然として立ちあがりました。
「何だ失敬な決闘をしろ決闘を。」
 わたくしも思わず立ってファゼーロをうしろにかばいました。
「馬鹿を云え、貴さまがさきに悪口を言って置いて。こんな子供に決闘だなんてことがあるもんか。おれが相手になってやろう。」
「へん、貴さまの出る幕じゃない。引っ込んでいろ。こいつが我輩、名誉ある県会議員を侮辱した。だから我輩はこいつへ決闘を申し込んだのだ。」
「いや、貴さまがおれの悪口を言ったのだ、おれはきさまに決闘を申し込むのだ、全体きさまはさっきから見ているとさもきさま一人の野原のように威張り返っている。さあ、ピストルか刀かどっちかを撰べ。」
 するとデストゥパーゴはいきなり酒をがぶっと呑みました。ああファゼーロで大丈夫だ。こいつはよほど弱いんだ。わたくしは心のなかでそっとわらいました。
 はたしてデストゥパーゴは空っぽな声でどなりだしました。
「黙れっ。きさまは決闘の法式も知らんな。」
「よし。酒を呑まなけぁ物を言えないような、そんな卑怯なやつの相手は子どもでたくさんだ。おいファゼーロしっかりやれ。こんなやつは野原の松毛虫だ。おれがうしろで見ているからめちゃくちゃにぶん撲ってしまえ。」
「よし、おい、誰かおれの介添人になれ。」そのときさっきの夏フロックが出てきました。
「まあ、まあ、あんな子供をあなたが相手になさることはありません。今夜は大切の場合なのですからどうか。」
 すると山猫博士はいきなりその男を撲りつけました。
「やかましい。そんなことはわかっている。黙って居れ。おい誰かおれの介添をしろ。テーモ。」
「はい。どうぞ、おゆるしを。あとでわたくしがよく仕置きいたします。」
「やかましい。おい、クローノ、きさまやれ。」
 クローノと呼ばれた百姓らしい男が
「さあ、おいらじゃあね、」と云ってみんなのうしろへ引っ込んでしまいました。
「臆病者、おいポーショ、きさまやれ。」
「おいらぁとてもだめだよ。」
 デストゥパーゴはいよいよ怒ってしまいました。
「よし介添人などいらない。さあ仕度しろ。」
「きさまも早く仕度しろ。」わたくしはファゼーロに上着をぬがせながら云いました。
「剣でも大砲でもすきなものを持ってこいよ。」
「どっちでもきさまのすきな方にしろ。」どこにそんなものがあるんだい。と思いながらわたくしは云いました。
「よし、おい給仕、剣を二本持ってこい。」
 すると給仕が待っていたように云いました。
「こんな野原で剣はございません。ナイフでいけませんか。」
 するとデストゥパーゴは安心したようにしながら
「よし、持ってこい。」と声だけ高く云いました。
「承知しました。」給仕が食事につかうナイフを二本持って来てうやうやしくデストゥパーゴにわたしました。まるで芝居だとわたくしは思いました。ところがデストゥパーゴはていねいにその両方の刃をしらべているのです。それから
「さあどっちでもいい方をとれ。」といって二本ともファゼーロに渡しました。ファゼーロはすぐその一本をデストゥパーゴの足もとに投げて返しました。デストゥパーゴは拾いました。
 そこでわたくしはまん中に出ました。
「いいか。決闘の法式に従うぞ。組打ちはならんぞ。一、二、三、よし。」
 すると何のことはない、デストゥパーゴはそのみじかいナイフを剣のように持って一生けんめいファゼーロの胸をつきながら後退りしましたしファゼーロは短刀をもつように柄をにぎってデストゥパーゴの手首をねらいましたので、三度ばかりぐるぐるまわってからデストゥパーゴはいきなりナイフを落して、左の手で右の手くびを押さえてしまいました。
「おい、おい、やられたよ。誰か沃度ホルムをもっていないか。過酸化水素はないか。やられた、やられた。」そしてべったり椅子へ座ってしまいました。
 わたくしはわらいました。
「よくいろいろの薬の名前をご存知ですな。だれか水を持ってきてください。」
 ところがその水をミーロがもってきました。そして如露でシャーとかけましたのでデストゥーパーゴは膝から胸からずぶぬれになって立ちあがりました。そして工合のわるいのをごまかすように、
「ええと、我輩はこれで失敬する。みんな充分やってくれ給え。」と勢よく云いながらすばやく野原のなかへ走りました。するとテーモも夏フロックもそのほか四五人急いであとを追いかけて行ってしまいました。行ってしまうとにわかにみんなが元気よくなりました。
「やい、ファゼーロ、うまいことをやったなあ。この旦那はいったい誰だい。」
「競馬場に居る人なんだよ。」
「いったい今夜はどういうんですか。」わたくしはやっとたずねました。
「いいや、山猫の野郎来年の選挙の仕度なんですよ。ただで酒を呑ませるポラーノの広場とはうまく考えたなあ。」
「この春からかわるがわるこうやってみんなを集めて呑ませたんです。」
「その酒もなあ。」
「そいつは云うな。さあ一杯やりませんか。」
「いいえわたくしどもは呑みません。」
「まあ、おやんなさい。」〔以下二行分空白〕
 
 わたくしはもうたまらなくいやになりました。
「おい、ファゼーロ行こう。帰ろう。」
 わたくしはいきなり野原へ走りだしました。ファゼーロがすぐついて来ました。みんなはあとでまだがやがやがやがや云っていました。新らしく楽隊も鳴りました。誰かの演説する声もきこえました。わたくしたちは二人、モリーオの市の方のぼんやり明るいのを目あてにつめくさのあかりのなかを急ぎました。そのとき青く二十日の月が黒い横雲の上からしずかにのぼってきました。ふりかえってみるともうあのはんの木もあかりも小さくなって銀河はずうっと西へまわりさそり座の赤い星がすっかり南へ来ていました。
 わたくしどもは間もなくこの前三人で別れたあたりへ着きました。
「きみはテーモのところへ帰るかい。」わたくしはふと気がついて云いました。
「帰るよ。姉さんが居るもの。」ファゼーロは大へんかなしそうなせまった声で云いました。
「うん。だけどいじめられるだろう。」わたくしは云いました。
「ぼくが行かなかったら姉さんがもっといじめられるよ。」ファゼーロはとうとう泣きだしました。
「わたしもいっしょに行こうか。」
「だめだよ。」ファゼーロはまだしばらく泣いていました。
「わたしのうちへ来るかい。」
「だめだよ。」
「そんならどうするの。」
 ファゼーロはしばらくだまっていましたが俄かに勢よくなって云いました。
「いいよ。大丈夫だよ。テーモはぼくをそんなにいじめやしないから。」
 わたくしは、それが役人をしているものなどの癖なのです、役所でのあしたの仕事などぼんやり考えながらファゼーロがそう云うならよかろうと思ってしまいました。
「そんならいいだろう。何かあったらしらせにおいでよ。」
「うん、ぼくね、ねえさんのことでたのみに行くかもしれない。」
「ああいいとも。」
「じゃさよなら。」
 ファゼーロはつめくさのなかに黒い影を長く引いて南の方へ行きました。わたくしはふりかえりふりかえり帰って来ました。うちへはいってみると、机の上には夕方の酒石酸のコップがそのまま置かれて電燈に光り枕時計の針は二時を指していました。
 
四、警察署
 
 ところがその次の次の日のひるすぎでした。わたくしが役所の机で古い帳簿から写しものをしていますと給仕が来てわたくしの肩をつっついて
「所長さんがすぐ来いって。」と云いました。わたくしはすぐペンを置いてみんなの椅子の間を通り、間の扉をあけて所長室にはいりました。
 すると所長は一枚の紙きれを持って扉をあける前から恐い顔つきをしてわたくしの方を見ていましたが、わたくしが前へ行って恭しく礼をすると、またじっとわたくしの様子を見てからだまってその紙切れを渡しました。見ると、
   イ警第三二五六号 聴取の要有之本日午后三時 本警察署人事係まで出頭致され度し
 
イーハトーボ警察署
 
     一九二七年六月廿九日
   第十八等官 レオーノ キュースト殿
とあったのです。
 ああ、あのデストゥパーゴのことだなこれはおもしろいと、わたくしは心のなかでわらいました。すると所長はまだわたくしの顔付きをだまってみていましたが「心当りがあるか。」と云いました。
「はい、ございます。」わたくしはまっすぐに両手を下げて答えました。所長は安心したようにやっと顔つきをゆるめてちらっと時計を見上げましたが「よし、すぐ行くように。」と云いました。わたくしはまたうやうやしく礼をして室を出ました。それから席へ戻って机の上をかたづけて、そっと役所を出かけました。巨きな桜の街路樹の下をあるいて行って警察の赤い練瓦造りの前に立ちましたらさすがにわたくしもすこしどきどきしました。けれども何も悪いことはないのだからとじぶんでじぶんをはげまして勢よく玄関の正面の受付にたずねました。
「お呼びがありましたので参りましたが、レオーノ キューストでございます。」
 すると受付の巡査はだまって帳面を五六枚繰っていましたが
「ああ失踪者の件だね、人事係のとこへ、その左の方の入口からはいって待っていたまえ。」と云いました。失踪者の件というのは何のことだろう、決闘の件とでも云うならわかっているしその決闘なら刃の円くなった食卓ナイフでやったことなのだ、デストゥパーゴが血を出したかどうかもわからない、まあ何かの間違いだろうと思いながらわたくしは室へ入って行きました。そこはがらんとした窓の七つばかりある広い室でした―がその片隅みにあの山猫博士の馬車別当がからだを無暗にこわばらしてじつに青ざめた変な顔をしながら腰掛けて待って居りました。
「やあ、じいさん、今日は、あなたも呼ばれたんですか。」わたくしはそばへ行ってわらいながら挨拶しました。するとじいさんはこんな悪者と話し合ってはどんな眼にあうかわからないというようにうろうろどこか遁げ口でもさがすように立ちあがって、またべったり座りました。
「あなたのご主人はいらっしゃらないのですか。」わたくしはまたたずねました。
「いらっしゃらないともさ。」じいさんはやっと云いましたがそれからがたがたふるえました。
「いったいどうしたんですか。」わたくしはまだわらってききました。
「いま調べられてるんだよ。」
「誰が。」わたくしはびっくりしてたずねました。
「ロザーロがさ。」
「ロザーロ、どうして?」もうわたくしはすっかり本気になってしまいました。
「ファゼーロが居なくなったからさ。」
「ファゼーロ?」思わずわたくしは高く叫びました。あああの晩ファゼーロが帰る途中で何かあったのだな、……
「話しすることはならん」
 いきなり奥の扉ががたっとあきました。
「召喚人はお互話しすることはならん。おい、おまえはこっちへはいって居ろ。」じいさんは呼ばれてよろよろ立って次の室へ行きました。そう云われて見るとなるほど次の室ではロザーロか誰か調べられているらしくさっきからしずかに何か繰り返し繰り返し云っているような気もしました。わたくしはまるで胸が迫ってしまいました。ファゼーロが居ない、ファゼーロが居ない、あの青い半分の月のあかりのなか、争って勝ったあとのあの何とも云われないさびしい気持をいだきながら、ファゼーロがつめくさのあおじろいあかりの上に影を長く長く引いて、しょんぼりと帰って行った、そこには麻の夏外套のえりを立てたデストゥパーゴが三四人の手下を連れて待ち伏せしている、ファゼーロがそれを見て立ちどまると向うは笑いながらしずかにそばへ追って来る、いきなり一人がファゼーロを撲りつける、みんなたかって来て、むだに手をふりまわすファゼーロをふんだりけったりする、ファゼーロは動かなくなる、デストゥパーゴがそれをまためちゃくちゃにふみつける、ええもう仕方ない持ってけ持ってけとデストゥパーゴが云う、みんなはそれを乾溜工場のかまの中に入れる。わたくしはひとりでかんがえてぞっとして眼をひらきました。(あああのときなぜわたくしはそのままうちへ帰ってねむったろう、なぜそんなわたくしが立っても居てもいられないはずの時刻にわけもわからない眠りかたなどしていたろう。それにあのやさしいうつくしいロザーロがいま隣りの室でおどされたり鎌をかけられたりしているのだ。)わたくしはたまらなくなってその室のなかをぐるぐる何べんもあるきました。窓の外の桜の木の向うをいろいろの人が行ったり来たりしました。わたくしはその一人一人がデストゥパーゴかファゼーロのような気がしてたまりませんでした。鳥打帽子を深くかぶった少年が通るとファゼーロが遁げてここをそっと通るのかと思い、肥った人を見るとデストゥパーゴが、わざとそんな形にばけて様子をさぐっているのだと思いました。突然わたくしは頭がしいんとなってしまいました。隣りの室でかすかなすすり泣きの声がしてそれからそれは何とかだっ、叫びながらおどすように足をどんとふみつけているのです。わたくしはあぶなく扉をあけて飛び込もうとしました。するとまたしばらくしずかになっていましたが間もなく扉のとってが力なくがちっとまわってロザーロが眼を大きくあいてよろめくようにでてきました。
 わたくしは何といっていいかわからなくてどぎまぎしてしまいました。するとロザーロがだまってしずかにおじぎをして私の前を通り抜けて外へ出て行きました。気がついて見るとロザーロのあとからさっきの警部か巡査からしい人が扉から顔を出して出て行くのを見ていたのです。わたくしがそっちを見ますとその顔はひっこんで扉はしまってしまいました。中ではこんどは山猫博士の馬車別当が何か訊かれているようす、たびたび、何か高声でどなりつけるたびに馬車別当のおろおろした声がきこえていました。わたくしはその間にすっかり考えをまとめようと思いましたが、何もかもごちゃごちゃになってどうしてもできませんでした。とにかくすっかり打ち明けて係りへ話すのがいちばんだと考えてもうじっとすわって落ち着いて居りました。すると間もなくさっきの扉ががぢゃっとあいて馬車別当がまっ青になってよろよろしながら出てきました。
「第十八等官、レオーノ、キュースト氏はあなたですか。」さっきの人がまた顔を出して云いました。
「そうです。」
「では、こっちへ。」
 わたくしははいって行きました。
 そこにはも一人正面に卓に書類を載せて鬚の立派な一人の警部らしい人がたったいまあくびをしたところだというふうに目をぱちぱちしながらこっちを見ていました。
「そこへお掛けなさい。」
 わたくしは警部の前に会釈して座りました。
「君がレオーノキュースト君か。」警部は云いました。
「そうです。」
「職業、官吏、位階十八等官、年齢、本籍、現住、この通りかね。」警部はわたくしの名やいろいろ書いた書類を示しました。
「そうです。」
「では訊ねるが、君はテーモ氏の農夫ファゼーロをどこへかくしたか。」
「農夫のファゼーロ?」わたくしは首をひねりました。
「農夫だ。十六歳以上は子どもでも農夫だ。」警部は面倒くさそうに云いました。
「君はファゼーロをどこかへかくしているだろう。」
「いいえ、わたくしは一昨夜競馬場の西で別れたきりです。」
「偽を云うとそれも罪に問うぞ。」
「いいえ。そのときは廿日の月も出ていましたし野原はつめくさのあかりでいっぱいでした。」
「そんなことが証拠になるか。そんなことまでおれたちは書いていられんのだ。」
「偽だとお考えになるならどこなりとお探しくださればわかります。」
「さがすさがさんはこっちの考だ。お前がかくしたろう。」
「知りません。」
「起訴するぞ。」
「どうでも。」
 二人は顔を見合わせました。
「では訊ねるが君はどういうことでファゼーロと知り合いになったか。」
「ファゼーロがわたくしの遁げた山羊をつかまえてくれましたので。」
「うん。それはいつどこでだ。」
「五月のしまいの日曜、廿七日でしたかな。」
「うん。廿七日。どこでだ。」
「あれは何という道路ですか、教会の横から、村へ出る道路を一キロばかり行った辺です。」
「うん。おまえは廿七日の晩ファゼーロと連れだって村の園遊会へちん入したなあ。」
「ちん入というわけではありませんでした。明るくていろいろな音がしますので行って見たのです。」
「それからどうした。」
「それからわたくしどもが酒を呑まんと云いますとテーモが怒ったのです。」
「テーモとお前とはいつから知り合いか。」
「ファゼーロと知り合いになったときです。そのときテーモはファゼーロが仕事に行く時間をわたくしが邪魔したといって革むちをわたくしの顔の前で鳴らしました。」
「それだけか。」
「はい。」
「園遊会でそれからどういうことになったか。」
 わたくしはそこであのポラーノの広場での出来事を全部話しました。一人はそれをどんどん書きとりました。警部が云いました。
「きみはファゼーロの居ないことをさっきまで知らなかったのか。」
「はい。」
「何か証拠を挙げられるのか。」
「はい、ええ、昨日と今日役所での仕事をごらん下さればわかります。わたくしはあれですっかりかたが着いたと思ってせいせいして働いていたのであります。」
「それも証拠にはならん。おい、君、白っぱくれるのもいい加減にしたまえ。テーモ氏からそう索願が出ているのだ。いま君がありかを云えば内分で済むのだ。でなけあ、きみの為にならんぜ。」
「どうも全く知らないのです。まあ、あなたがたもご商売でしょうが、わたくしの声や顔付きをよくごらんください。これでおわかりにならんのですか。」わたくしは少ししゃくにさわって一息に云いました。
 すると二人はまた顔を見合せました。ええもうなるようになれとわたくしはまた云いました。
「なぜわたくしより前にデストゥパーゴを呼び出してくださらんのです。誰が考えてもファゼーロの居ないのはデストゥパーゴのしわざです。まさか殺しはしますまいが。」
 「デストゥパーゴ氏は居らん。」
 わたくしはどきっとしました。ああファゼーロは本気かあるいは間ちがって殺されたのかもしれない。警部が云いました。
「お前の申し立てはいろいろの点でテーモ氏の申し立てとちがっている。しかしわれわれはそれは当然だろうと考える。いま調書を読むから君の云ったところとちがった所がないかよくききたまえ。」一人は読みはじめました。
「ちがいはありません。」私はファゼーロのことを考えながら上の空で答えました。
「ここへ署名したまえ。」
 わたくしは書類のはじへ書きました。もうどうしても心配で心配でたまらなくなったのです。
「では帰ってよろしい。明日また呼ぶから。」警部は云いました。わたくしはたまらなくなりました。
「ファゼーロはどうしたんです。なぜデストゥパーゴをつかまえんのです。」
「それを君が云うことは要らん。」
「だってファゼーロはどうしたんです。」
「そんなら心配なら君もさがしたまえ。さあ帰り給え。」二人はもう疲れて早くやめたいという風でした。わたくしは、もうあかりのついていた警察署を夢中で飛びだしました。すると出口の桜の幹に、その青い夕方のもやのなかに、ロザーロがしょんぼりよりかかってかなしそうに遠いそらを見ていました。わたくしは思わずかけよりました。
「あなたはロザーロさんですね。わたくしはどこへさがしに行ったらいいでしょう。」
 ロザーロが下を見ながら云いました。
「きっと遠くでございますわ。もし生きていれば。」
「わたくしがいけなかったんです。けれどもきっとさがしますから。」
「ええ、」
「デストゥパーゴはいないんですか。」
「いないんです。」
「馬車別当は?」
「見ませんでした。」
「あなたのご主人は知っていないんですか。」
「ええ。」
「捜索願をわざと出したのでしょう。」
「いいえ。警察からも人が来てしらべたのです。」
「あなたはこれから主人のとこへお帰りになるんですか。」
「ええ、」
「そこまでご一所いたしましょう。」
 わたくしどもはあるきだしました。わたくしはいろいろ話しかけて見ましたが、ロザーロはどうしてもかなしそうで一言か二言しか返事しませんのでわたくしはどうしてももっと立ち入ってファゼーロと二人のことに立ち入ることができませんでした。そしてこの前山羊をつかまえた所まで来ますとロザーロは「もうじきですから」と云ってじぶんからおじぎをして行ってしまいました。わたくしはさびしさや心配で胸がいっぱいでした。そしてその晩から毎晩毎晩野原にファゼーロをさがしに出ました。日曜にはひるも出ました。ことにこの前ファゼーロと分れた辺からテーモの家までの間に何か落ちてないかと思ってさがしたりつめくさの花にデストゥパーゴやファゼーロのあしあとがついていないかと思って見てまわったりデストゥパーゴの家から何か物音がきこえないかと思って幾晩も幾晩もそのまわりをあるいたりしました。
 前の二本の樺の木のあたりからポラーノの広場へも何べんも行きました。もうそのうちにつめくさの花はだんだん枯れて茶いろになり、ポラーノの広場のはんのきにはちぎれて色のさめたモールが幾本かかかっているだけ、ミーロへも会いませんでした。警察からはあと呼び出しがありませんでしたのでこっちから出て行ってどうなったかきいたりしましたが警察ではファゼーロもデストゥパーゴも、まだ手がかりはないが心配もなかろうというようなことばかり云うのでした。そしてわたくしも、どういうわけか、なれたのですかつかれたのですか、ファゼーロはファゼーロでちゃんとどこかにいるというような気がしてきたのです。
 
五、センダード市の毒蛾
 
 そしてだんだん暑くなってきました。役所では窓に黄いろな日覆もできましたし隣りの所長の室には電気会社から寄贈になった直径七デシもある大きな扇風機も据えつけられました。あまり暑い日の午后などは所長が自分で立って間の扉をあけて
「さあ諸君少し風にあたりたまえ。」なんて云ったものです。すると大扇風機から風がどうどうやって来ました。尤も私の席はその風の通り路からすこし外れていましたから格別涼しかったわけでもありませんでしたがそれでも向うの書類やテーブルかけがぱたぱた云っているのを見るのは実際愉快なことでした。それでもそんな仕事のあいまにふっとファゼーロのことを思いだすと胸がどかっと熱くなってもうどうしたらいいかわからなくなるのでした。とにかくその七月いっぱいに私のした仕事は
  一、北極熊剥製方をテラキ標本製作所に照会の件
  一、ヤークシャ山頂火山弾運搬費用見積の件
  一、植物標本褪色調査の件
  一、新番号札二千三百枚調製の件
 などでした。そして八月に入りました。その八月二日の午すぎ、わたくしが支那漢時代の石に刻んだ画の説明をうつらうつら写していましたら、給仕がうしろからいきなりわたくしの首すじを突っついて、
「所長さん来いって。」といいました。わたくしはすこしむっとしてふり返りましたら給仕はまた威張って云いました。
「所長さんがすぐ来いって。」
 わたくしは返事もしないでだまってみんなの椅子のうしろを通り例の扉をあけて恭々しくはいって行きました。
 所長は肥った白い手首に顎をもたせて扇風機にあたりながら新聞を見ていましたがわたくしが行くとだるそうにちょっと眼をあげてそれから机の上の紙挟みから一枚の命令書をわたくしによこしました。それには
「海産鳥類の卵採集の為に八月三日より二十八日間イーハトーヴォ海岸地方に出張を命ず。」と書いてありました。わたくしはまるでほくほくしてしまいました。あのイーハトーヴォの岩礁の多い奇麗な海岸へ行って今ごろありもしない卵をさがせというのはこれは慰労休暇のつもりなのだ。それほどわたくしが所長にもみんなにも働いていると思われていたのか、ありがたいありがたいと心の中で雀躍しました。すると所長は私の顔は少しも見ないでやっぱり新聞を見ながら、
「会計へまわって見積旅費を受け取るように。」と一言だけ云いました。わたくしは叮寧に礼をして室を出ました。それからその辞令をみんなへ一人づつ見せて挨拶してあるきおしまい会計に行きましたら会計の老人はちょっと渋い顔付きはしていましたがだまってわたくしの印を受け取って大きな紙幣を八枚も渡してくれました。ほかに役所の大きな写真器械や双眼鏡も借りました。うちへ帰るとわたくしは持っていたレコードをみんな町の古時計屋へ売ってしまいました。そして大きなへりのついたパナマの帽子と卵いろのリンネルの服を買いました。
 次の朝わたくしは番小屋にすっかりかぎをおろし一番の汽車でイーハトーヴォ海岸の一番北のサーモの町に立ちました。その六十里の海岸を町から町へ、岬から岬へ、岩礁から岩礁へ、海藻を押葉にしたり、岩石の標本をとったり古い洞穴や模型的な地形を写真やスケッチにとったりそしてそれを次々に荷造りして役所へ送りながら二十幾日の間にだんだん南へ移って行きました。海岸の人たちはわたくしのような下級の官吏でも大へん珍らしがってどこへ行っても歓迎してくれました。沖の岩礁へ渡ろうとするとみんなは船に赤や黄の旗を立てて十六人もかかって櫓をそろえて漕いでくれました。夜にはわたくしの泊った宿の前でかがりをたいていろいろな踊りを見せたりしてくれました。たびたびわたくしはもうこれで死んでもいいと思いました。けれどもファゼーロ! あの暑い野原のまんなかでいまも毎日はたらいているうつくしいロザーロ、そう考えて見るといまわたくしの眼のまえで一日一ぱいはたらいてつかれたからだを踊ったりうたったりしている娘たちや若ものたち、わたくしは何べんも強く頭をふって、さあ、われわれはやらなければならないぞ、しっかりやるんだぞ、みんなの〔数文字分空白〕とひとりでこころに誓いました。
 そして八月三十日の午ごろわたくしは小さな汽船でとなりの県のシオーモの港に着きそこから汽車でセンダードの市に行きました。三十一日わたくしはそこの理科大学の標本をも見せて貰うように途中から手紙をだしてあったのです。わたくしが写真器と背嚢をもってセンダードの停車場に下りたのはちょうど灯がやっとついた所でした。わたくしは大学のすぐ近くのホテルからの客を迎える自働車へほかの五六人といっしょに乗りました。採って来たたくさんの標本をもってその巨きな建物の間を自働車で走るときわたくしはまるで凱旋の将軍のような気がしました。ところがホテルへ着いて見ると、この暑いのに窓がすっかり閉めてあるのです。室へ通されてみると仲々むし暑いのでわたくしは給仕に
「おい、どうしたんだ。窓をあけたらいいじゃないか。」と云いました。すると給仕はてかてかの髪をちょっと撫でて
「はい、誠にお気の毒でございますが、当地方には、毒蛾がひどく発生して居りまして、夕刻からは窓をあけられませんのでございます。只今、扇風機を運んで参ります。」と云ったのでした。
 なるほど、そう云って出て行く給仕を見ますと、首にまるで石の環をはめたような厚い繃帯をして、顔もだいぶはれていましたからきっと、その毒蛾に噛まれたんだと、私は思いました。ところが、間もなく隣りの室で、給仕が客と何か云い争っているようでした。それが仲々長いし烈しいのです。私は暑いやら疲れたやら、すっかりむしゃくしゃしてしまいましたので、今のうち一寸床屋へでも行って来ようと思って室を出ました。そして隣りの室の前を通りかかりましたら、扉が開け放してあって、さっきの給仕がひどく悄気て頭を垂れて立っていました。向うには、髪もひげもまるで灰いろの、肥ったふくろうのようなおじいさんが、安楽椅子にぐったり腰かけて、扇風機にぶうぶう吹かれながら、
「給仕をやっていながら、一通りのホテルの作法も知らんのか。」と頬をふくらして給仕を叱りつけていました。私は、ははあ扇風機のことだなと思いながら、苦笑いをしてそこを通り過ぎようとしますと、給仕がちょっとこっちを向いて、いかにも申し訳けないというように眼をつぶって見せました。私はそれですっかり気分がよくなったのです。そして、どしどし階段を踏んで、通りに下りました。
 なるほど、毒蛾のことがわかって町をあるくと、さっき停車場からホテルへ来る途中、いろいろ変に見えたけしきも、すっかりもっともと思われたのです。人道にはたくさんたき火のあとがありましたし、みんなは繃帯をしたり白いきれで顔を擦ったりしながら歩いていました。また並木のやなぎにはいちいち石油ランプがぶらさがっていたのです。私は一軒の床屋に入りました。それは向側の鏡が、九枚も上手に継いであって、店が丁度二倍の広さに見えるようになって居り、糸杉やこめ栂の植木鉢がぞろっとならび、親方らしい隅のところで指図をしている人のほかに職人がみなで六人もいたのです。すぐ上の壁に大きながくがかかってそこにそのうちの四人の名前が理髪アーティストとして立派にならび二人は助手として書かれていました。
「お髪はこの通りの型でよろしうございますか。」私が鏡の前の白いきれをかけた上等の椅子に座ったとき、そのうちの一人が私にたずねました。
「ええ。」私はもう明日は帰るイーハトーヴォの野原のことを考えながらぼんやり返事をしました。するとその人は向うで手のあいているもう二人の人たちを指で招きながら云いました。
「どうだろう。お客さまはこの通りの型でいいと仰っしゃるが、君たちの意見はどうだい。」
 二人は私のうしろに来て、しばらくじっと鏡にうつる私の顔を見ていましたが、そのうち一人のアーティストが、白服の腕を胸に組んで答えました。
「さあ、どうかね、お客さまのお顎が白くて、それに円くて、大へん温和しくいらっしゃるんだから、やはり、オールバックよりはネオ、グリークの方がいいじゃないかなあ。」
「うん。僕もそう思うね。」も一人も同意しました。私の係りのアーティストがおれもそうおもっていたというようにうなずいて、私に云いました。
「いかがでございます、ただいまのお髪の型よりは、ネオグリークの方がお顔と調和いたしますようでございますが。」
「そうですね、じゃそう願いましょうか。」私も叮寧に云いました。なぜならこの人たちはみんな立派な芸術家だとおもったからです。
 さて、私の頭はずんずん奇麗になり、疲れも大へん直りました。これなら、今夜よく寝んで、あしたは大学のあの地下になった標本室で向うの助手といちにち暮しても大丈夫だと思って、気もちよく青い植木鉢や、アーティストの白い指の動くのや、チャキチャキ鳴る鋏の影をながめて居りました。
 すると俄かに私の隣りの人が、
「あ、いけない、いけない、押えてくれたまえ。畜生畜生。」とひどく高い声で叫んだのです。
 びっくりして私はそっちを見ました。アーティストたちもみな馳せ集ったのです。それこそはひげを片っ方だけ剃ったままで大へん瘠せては居りましたが、しかしたしかにそれはデストゥパーゴです。わたくしは占めたとおもいました。デストゥパーゴはわたくしなぞ気がつかずにまだ怖ろしそうに顔をゆがめていました。
「どこへさわりましたのですか。」さっきの親方のアーティストが麻のモーニングを着て、大きなフラスコを手にしてみんなを押し分けて立っていました。そのうちに二三人のアーティストたちは、押虫網でその小さな黄色な毒蛾をつかまえてしまいました。
「ここだよ、ここだよ。早く。」と云いながら紳士は左の眼の下を指しました。親方のアーティストは、大急ぎで、フラスコの中の水を綿にしめしてその眼の下をこすりました。
「何だいこの薬は。」デストゥパーゴが叫びました。
「アンモニア二%液」と親方が落ち着いて答えました。
「アンモニアは利かないって、今朝の新聞にあったじゃないか。」デストゥパーゴは椅子から立ちあがりました。デストゥパーゴは桃いろのシャツを着ていました。
「どの新聞でご覧です。」親方は一層落ちついて答えました。
「センダード日日新聞だ。」
「それは間違いです。アンモニアの効くことは県の衛生課長も声明しています。」
「あてにならん。」
「そうですか。とにかく、だいぶ腫れて参ったようです。」親方のアーティストは、少ししゃくにさわったと見えて、プイッとうしろを向いて、フラスコを持ったまま向うへ行ってしまいました。デストゥパーゴはぷんぷん怒りだしました。
「失敬じゃないか、あしたは僕は陸軍の獣医官たちと大事な交際があるんだぞ。こんなことになっちゃ、まるで向うの感情を害するばかりだ。きさまの店を訴えるぞ。」と云いながら、ずんずん赤くはれて行く頬を鏡で見ていました。親方もむかっ腹を立てて云いました。
「なあに毒蛾なんか、市中到る処に居るんだ。町をあるいてさわられたら市長でも訴えたらよかろうさ。」
 デストゥパーゴは、渋々、又椅子に座って、
「おい、早くあとをやってしまって呉れ早く。」と云いました。そして、しきりに変な形になって行く顔を気にしながら、残りの半分のひげを剃らせていました。
 わたくしも急ぎました。けれどもたしかにわたくしの方が早く済むのです。それでも向うがさきに済んだらこっちもすぐ立とうと思ってそっと財布をさぐって大きな銀貨を一枚もって握っていました。
 ところがどういうわけか私より私のアーティストがもっと急いで居りました。そしてしきりに時計を見ました。
 まるで私の顔などは、三十秒ぐらいで剃ってしまったのです。わたくしは恐がりながらじつにうまいとおもっていました。
「さあお洗いいたしましょう。」
 私は、デストゥパーゴに知れないように、手で顔をかくしながら大理石の洗面器の前に立ちました。
 アーティストは、つめたい水でシャアシャアと私の頭を洗い時々は指で顔も拭いました。
 それから、私は、自分で勝手に顔を洗いました。そして、も一度椅子にこしかけたのです。
 その時親方が、
「さあもう一分だぞ。電気のあるうちに大事なところは済ましちまえ。それからアセチレンの仕度はいいか。」
「すっかり出来ています。」小さな白い服の子供が云いました。
「持って来い。持って来い。あかりが消えてからじゃ遅いや。」親方が云いました。
 そこでその子供の助手が、アセチレン燈を四つ運び出して、鏡の前にならべ、水を入れて火をつけました。烈しく鳴って、アセチレンは燃えはじめたのです。その時です。あちこちの工場の笛は一斉に鳴り、子供らは叫び、教会やお寺の鐘まで鳴り出して、それから電燈がすっと消えたのです。電燈のかわりのアセチレンで、あたりがすっかり青く変りました。
 それから私は、鏡に映っている海の中のような、青い室の黒く透明なガラス戸の向うで、赤い昔の印度を偲ばせるような火が燃されているのを見ました。一人のアーティストが、そこでしきりに薪を入れていたのです。
「今夜は、毒蛾も全滅だな。」誰か向うで言いました。
「さあどうかねえ。」私のとこのアーティストは、私の頭に、金口の瓶から香水をかけながら答えました。それからアーティストは、私の顔をも一度よく拭って、それから戸口の方をふり向いて、
「ちょっと見て呉れ。」と云いました。アーティストたちは、あるいは戸口に立ち、あるいはたき火のそばまで行って、外の景色をながめていましたが、この時一人が大急ぎでみんな私のうしろに集まりました。そして鏡の中の私の顔を、それはそれは真面目な風で検べてから
「いいようだね。」と言いました。私はそこで椅子から立ちました。しっかり握っていて温くなった銀貨を一枚払いました。そしてその大きなガラスの戸口を出て通りに立ちました。デストゥパーゴのあとをつけようとおもったのです。
 そこへ立って、私は、全く変な気がして、胸の躍るのをやめることができませんでした。それはあのセンダードの市の大きな西洋造りの並んだ通りに、電気が一つもなくて、並木のやなぎには、黄いろの大きなランプがつるされ、みちにはまっ赤な火がならび、そのけむりはやさしい深い夜の空にのぼって、カシオピイアもぐらぐらゆすれ、琴座も朧にまたたいたのです。どうしてもこれは遙かの南国の夏の夜の景色のように思われたのです。私は、店のなにかのぞきながら待っていました。いろいろな羽虫が本統にその火の中に飛んで行くのも私は見ました。向うでもこっちでも、繃帯をしたり、きれを顔にあてたりしながら、まちの人たちが火をたいていました。
 そのうちに、私は向うの方から、高い鋭い、そして少し変な力のある声が、私の方にやって来るのを聞きました。だんだん近くなりますと、それは頑丈そうな変に小さな腰の曲ったおじいさんで、一枚の板きれの上に四本の鯨油蝋燭をともしたのを両手に捧げてしきりに斯う叫んで来るのでした。
「家の中の燈火を消せい。電燈を消してもほかのあかりを点けちゃなんにもならん。家の中のあかりを消せい。」
 あかりをつけている家があるとそのおじいさんはいちいちその戸口に立って叫ぶのでした。
「家の中のあかりを消せい。電燈を消してもほかのあかりをつけちゃなんにもならん。家の中のあかりを消せい。」その声はガランとした通りに何べんも反響してそれから闇に消えました。
 この人はよほどみんなに敬われているようでした。どの人もどの人もみんな叮寧におじぎをしました。おじいさんはいよいよ声をふりしぼって叫んで行くのでした。
「家の中のあかりを消せい。電燈を消してもほかのあかりをつけちゃなんにもならん。家の中のあかりを消せい。いや、今晩は。」叫びながら右左の人に挨拶を返して行くのでした。
「あの人は何ですか。」私は火にあたっているアーティストにたずねました。
「撃剣の先生です。」
 ところがその撃剣の先生はつかつかと歩いて来ました。
「うちのなかのあかりを消せい、電燈を消してもべつのあかりをつけちゃなんにもならん。はやく消せい。おや、今晩は。なるほど、こちらの商売では仕方ないかね。」「ええ、先生、今晩は。ご苦労様でございます。」親方がでてきて挨拶しました。「いや今晩は。どうもひどい暑気ですね。」「へい、全く、虫でしめっ切りですからやりきれませんや。」
「そうねえ、いや、さよなら。」撃剣の先生はまただんだん向うへ叫んで行きました。その声がだんだん遠くなってどこかの町の角でもまがったらしいときその青い海の中のような床屋の店のなかからとうとうデストゥパーゴが出て来てしばらく往来を見まわしてからすたすた南の方へあるきだしました。わたくしは後向きになって火の中へ落ちる蛾を見ているふりをしていましたがすぐあとをつけました。デストゥパーゴは毒蛾にさわられたためにたいへん落ち着かないようすでした。それにどこかよほどしょげていました。わたくしはあとをつけながらなんだかかあいそうなような気もちになりました。もちろんひとりもデストゥパーゴに挨拶するものもありませんでしたし、またデストゥパーゴはなるべくみんなに眼のつかないように車道との堺の並木のしたの陰影になったところをあるいているのでした。
 どうもデストゥパーゴが大びらに陸軍の獣医たちなどと交際するなんて偽らしいとわたくしは思いました。とうとうデストゥパーゴは立ちどまってしばらくあちこち見まわしてから大通りから小さな小路にはいりました。わたくしは知らないふりをしてぐんぐん歩いて行きました。その小路をはいるとまもなく、一つの前庭のついた小さな門をデストゥパーゴははいって行きました。わたくしはすっかり事情を探ってからデストゥパーゴに会おうか、警察へ行って、イーハトーヴォでさがしているデストゥパーゴだと云って押えてしまってもらおうかとそのときまで考えていましたがいまデストゥパーゴの家のなかへはいるのを見るともう前后を忘れて走り寄りました。
「デストゥパーゴさん。しばらくでしたな。」
 デストゥパーゴはぎくっとして棒立ちになりましたがわたくしを見ると遁げもしないでしょんぼりそこへ立ってしまいました。
「ファゼーロをたずねてまいったのですがどうかお渡しをねがいます。」
 デストゥパーゴははげしく両手をふりました。
「それは誤解です誤解です。あの子どもはわたくしは知りません。」
「いったいそんならあなたはなぜこんなところへかくれたのですか。」
 デストゥパーゴはまっ青になりました。
「イーハトーヴォの警察ではファゼーロといっしょにあなたもさがしているのです。もうすっかり手配がついています。今夜はどうなってもあなたは捕まります。ファゼーロはどこにいるのです。」わたくしは思わずうそをついてしまいました。デストゥパーゴは毒蛾のためにふくれておかしな格好になった顔でななめにわたくしを見ながらぶるぶるふるえてまるで聞きとれないくらい早口に云いました。
「そんな筈はない、そんな筈はない。名誉にかけて、紳士の名誉にかけて。」
「なぜそんならあなたはこんなところへかくれたのです。」
 デストゥパーゴはようやくふるえるのをやめてしばらく考えていましたがようやく少しゆっくり云いました。
「わたくしは警察からは召換されただけでそれは旅行届を出して代人を出してある筈です。それに就ては署長に充分諒解を得てあります。警察ではわたくしに何の嫌疑もかけていない筈です。」
「そんならなぜ旅行届を出したりして遁げたのです。」
 デストゥパーゴはやっと落ち着きました。
「いや、おはいりください。詳しくお話しましょう。」デストゥパーゴはさきに立って小さな玄関の戸を押しました。するとさっきから内側で立って見ていたと見えて一人のおばあさんが出迎えました。
「お茶をあげてくれ。」デストゥパーゴはすぐ右側の室へはいって行きました。わたくしはもう多分大丈夫だけれども遁げるといけないと思って戸口に立っていました。デストゥパーゴは何か瓶をかちかち鳴らしてから白いきれで顔を押えながら出て来ました。
「さあどうぞこちらへ。」
 わたくしは応接室に通されました。デストゥパーゴはようやく落ち着きました。
「わたくしがここへ人を避けて来ているのは全くちがった事情です。じつはあなたもご承知でしょうがあの林の中でわたくしが社長になって木材乾溜の会社をたてたのです。ところがそれがこの頃の薬品の価格の変動でだんだん欠損になってどうにもしかたなくなったのです。わたくしはいろいろやって見ましたがどうしてもいかなかったのです。もちろんあの事業にはわたくしの全財産も賭してあります。すると重役会である重役がそれをあのまま醸造所にしようということを発議しました。そこでわたくしどもも賛成して試験的にごくわずか造って見たのですが、それを税務署へ届け出なかったのです。ところがそれをだしにしてわたくしのある部下のものがわたくしを脅迫しました。あの晩はじつに六ヶしい場合でした。あそこに来ていたのはみんな株主でした。わざとあすこをえらんだのです。ところが株主の反感は非常だったのです。わたくしももうやけくそになってああいう風に酔っていたのです。そこへあなたが出て来たのですからなあ。」
 わたくしははじめてあの頃のことがはっきりして来ました。それといっしょに眼の前にいるデストゥパーゴがかわいそうにもなりました。
「いや、わかりました。けれどもああファゼーロはどうしたろうなあ。」デストゥパーゴが云いました。
「わたくしはあの子どもを憎んで居りません。わたくしに前のようないい条件があれば世話して学校にさえ入れたいのです。けれどもあの子どもはきっとどこかで何かしていますぞ。警察でもそう見ています。」
 わたくしはいきなり立ってデストゥパーゴに別れを告げました。
「ではわたくしは帰ります。あなたはここをどうかお立ち退きください。わたくしは帰ってこの事情を云わないわけにも参りませんから。」
 デストゥパーゴがしょんぼりとして云いました。
「いまわたくしは全く収入のみちもないのです。どうか諒解してください。」
 わたくしは礼をしました。
「ロザーロは変りありませんか。」デストゥパーゴは大へん早口に云いました。
「ええ、働いているようです。」わたくしもなぜかふだんとちがった声で云いました。
 
六、風と草穂
 
 九月一日の朝わたくしは旅程表やいろいろな報告を持ってきまった時間に役所に出ました。わたくしはみんなにも挨拶して廻り、所長が出て来るや否やその扉をノックしてはいって行きました。
「あ帰ったかね。どうだった。」所長は左手ではずれたカラーのぼたんをはめながら云いました。
「はい、お蔭で昨夜戻って参りました。これは報告でございます。集めた標本類は整理いたしましてから目録をつくって後ほど持って参ります。」
「うん、そう急がないでもよろしい。」所長はカラーをはめてしまってしゃんとなりました。わたくしは礼をして室を出ました。そしてその日は一日来ていた荷物をほどいたり机の上にたまっていた書類を整理したりしているうちにいつか夕方になってしまいました。わたくしもみんなのあとから役所を出て、いままでの通り公衆食堂で食事をして競馬場へ帰って来ました。するとやっぱりよほど疲れていたと見えてちょっと椅子へかけたと思ったらいつかもうとろとろ睡ってしまっていました。その甘ったるい夕方の夢のなかでわたくしはまだあの茶いろななめらかな昆布の干されたイーハトーヴォの岩礁の間を小舟に乗って漕ぎまわっていました。俄かに舟がぐらぐらゆれ何でも恐ろしくむかし風の竜が出てきてわたくしははねとばされて岩に投げつけられたと思って眼をさましました。誰かわたくしをゆすぶっていたのです。
 わたくしは何べんも瞳を定めてその顔を見ました。それはファゼーロでした。
「あっ、どうしたんだきみはずうっと前から居たのかい。」わたくしはびっくりして云いました。
「ぼくはね、八月の十日に帰ってきたよ。おまえはいままで居なかったじゃないか。」
「居なかったさ。海岸へ出張していたんだ。」「今夜ね、ぼくらの工場へ来ておくれ。」
「きみらの工場? 何がどうしたんだ。全体きみはどこへ行ってたんだ。」
「ぼくはねえ、センダードのまちの革を染める工場へはいっていたよ。」
「センダード。どうしてあんなとこまで行ったんだ。そして今夜またぼくにセンダードへ行けというのかい。」
「そうじゃないよ。」
「ではどうなんだ。第一どうしてあんなとこまでいったんだ。」
「ぼくどうしてもうちへはいれなかったんだ。そしてうちを通り越してもっと歩いて行った。すると夜が明けた。ぼくが困って座っていると革を買う人が通ってその車にぼくをのせてたべものをくれた。それからぼくはだんだん仕事を手伝ってとうとうセンダードへ行ったんだ。」
「そうか。ほんとうにそれはよかったなあ。ぼくはまたきみがあの醋酸工場の釜の中へでも入れられて蒸し焼きにされたかと思ったんだ。」
「ぼくはね、あっちで技師の助手をしたんだ。するとその人が何でも教えてくれた。薬もみんな教えてくれた。ぼくはもう革のことならなめすことでも色を着けることでもなんでもできるよ。」
「そしてどうして帰ってきた。」
「警察から探されたんだよ。けれどもそんなに叱られなかった。」
「きみの主人は何と云った。」
「もうどこへ行ってもいいから勝手にしろって。」
「そしてどうするの。」
「年よりたちがねえ、ムラードの森の工場に居てぼくに革の仕事をしろというんだ。」
「できるかい。」
「できるさ。それにミーロはハムを拵えれるからな。みんなでやるんだよ。」
「姉さんは?」
「姉さんも工場へ来るよ。」
「そうかねえ。」
「さあ行こう今夜も誰か来ているから。」
 わたくしは俄かに疲れを忘れて立ちあがりました。
「じゃ行こう。だけど遠いかい。」
「この前のポラーノの広場のちょっと向うさ。」
「少し遠いねえ。けれど行こう。」わたくしはすばやく旅行のときのままのなりをしていっしょにうちを出ました。ファゼーロはまた走りだしました。
 雲が黄ばんでけわしくひかりながら南から北へぐんぐん飛んで居りました。けれども野原はひっそりとして風もなくただいろいろの草が高い穂を出したり変にもつれたりしているばかり、夏のつめくさの花はみんな鳶いろに枯れてしまってその三つ葉さえ大へん小さく縮まってしまったように思われました。
 そのときわたくしは二人の大きな鎌をもった百姓がわたくしどもの前を横ぎるように通って行くのを見ました。その二人もこっちをちらっと見たようでしたがそれから何かはなし合ってとまってわたくしどもの行くのを待っているようすです。わたくしどもも急いで行きました。
「やあお前さん帰って来さしゃったね。まずご無事で結構でした。」
 一人がわたくしに挨拶しました。この前ポラーノの広場でデストゥパーゴに介添をしろと云われて遁げた男のようでした。
「ええありがとう。ファゼーロももう帰って来てすっかりもとの通りですね。」
「山猫博士が居ませんや。」
「山猫博士? デストゥパーゴ? デストゥパーゴにわたしはセンダードで会いましたよ。大へんおちぶれて気の毒なくらいだった。」
「いいえ、デストゥパーゴが落ちぶれるもんですか。大将センダードのまちにたくさん土地を持っていますよ。」
「はてな、財産はみんなあの乾溜会社にかけてしまったと云っていたが。」
「どうして、どうして、あの山猫がそんなことをするもんですか。会社の株がただみたいになったから大将遁げてしまったんです。」
「いや、何か重役の人が醸造の方へかかろうとして手続を欠いて責任を負ったとか云っていたが。」
「どうしてどうして。酒をつくることなんかみんな大将の考なんですよ。」
「だって試験的にわずかつくっただけだそうじゃないですか。」
「あなたはよっぽどうまくだまされておいでですよ。あの工場からアセトンだと云って樽詰めにして出したのはみんな立派な混成酒でさあ。悪いのには木精もまぜたんです。その密造なら二年もやっていたんです。」
「じゃポラーノの広場で使ったのもそれか。」
「そうですとも。いや何と云っても大将はずるいもんですよ。みんなにも弱味があるから、まあこのまま泣寝入でさあ。ただまああの工場をこんどはみんなでいろいろに使ってできるだけお互のいるものは拵えようというんです。」「そうかねえ。ファゼーロが何かするのかい。」
「ええ、まあ別に新らしい資本がかかるわけでもなし革をなめしたりハムを拵えたり、栗を蒸して乾かしたり、そんなことをいろいろやろうというんです。」
「さあもう行こう。」ファゼーロがわたくしをつっつきました。
「それじゃまた」
「お休みなさい。」
 どうもデストゥパーゴの云ったのが本当かみんなの云うのが本当かこれはどうもよくわからないとわたくしはあるきだしながらおもいました。
 わたくしどもはどんどん走りつづけました。
「そらあすこに一つ、あかしがあるよ。」ファゼーロがちょっと立ちどまって右手の草の中を指さしました。そこの草穂のかげに小さな小さなつめくさの花が青白くさびしそうにぽっと咲いていました。
 俄かに風が向うからどうっと吹いて来て、いちめんの暗い草穂は波だち、私のきもののすきまからはその冷たい風がからだ一杯に浸みこみました。
「ふう。秋になったねえ。」わたくしは大きく息をしました。ファゼーロがいつか上着は脱いでわきに持ちながら
「途中のあかりはみんな消えたけれども……」おしまい何と云ったか風がざぁっとやって来て声をもって行ってしまいました。
「まっすぐだよ、まっすぐだよ。わたくしはあれからもう何べんも来てわかっているから。」わたくしはファゼーロの近くへ行って風の中で聞えるように云いました。ファゼーロはかすかにうなずいてまた走りだしました。夕暗のなかにその白いシャツばかりぼんやりゆれながら走りました。
 間もなくわたくしははるかな野原のはてに青じろい五つばかりのあかりとその上に青く傘のようになってぼんやりひかっているこの前のはんのきを見ました。だんだん近づいて行くとその葉が風にもまれて次から次と湧いているよう、枝と枝とがぶっつかり合ってじぶんから青白い光を出しているようなのもわかるようになりまたその下に五人ばかりの黒い影が魚をとったりするときつかうアセチレン燈をもって立っているのも見ました。今日は広場にはテーブルも椅子も箱もありませんでした。ただ一つのから箱があるきりでした。そのなかから見覚えのある大きな帽子円い肩、ミーロがこっちへ出て来ました。
「とうとう来たな。今晩は、いいお晩でございます。」
 ミーロはわたくしに挨拶しました。みんなも待っていたらしく口々に云いました。わたくしどもはそのまま広場を通りこしてどんどん急ぎました。
 のはらはだんだん草があらくなってあちこちには黒い藪も風に鳴りたびたび柏の木か樺の木かがまっ黒にそらに立ってざわざわざわざわゆれているのでした。そしていつか私どもは細いみちを一列にならんであるいていたのです。
「もうじきだよ。」ファゼーロが一番前で高く叫びました。
 みちの両側はいつかすっかり林になっていたのです。そして三十分ばかりだまって歩くとなにかぷうんと木屑のようなものの匂がしてすぐ眼の前に灰いろの細長い屋根が見えました。
「誰か来ているな。」ファゼーロが叫びました。その大きな黒い建物の窓にちらちらあかりが射しているのです。
「おおい。キューストさんが来たぞ。」ミーロが高く叫びました。
「おおい。」中からも誰かが返事をしました。
 私どもはその建物の中へ入って行きました。
 そこに巨きな鉄の罐がスフィンクスのようにこっちに向いて置いてあって、土間には沢山の大きな素焼の壺が列んでいました。
「いや今晩は。」ひとりのはだしの年老った人が土間で私に挨拶しました。
「これが乾燥罐だよ。」ファゼーロが云いました。
「ここで何人稼いでいたって。」私はたずねました。
「そうねえ、盛んにもうかったときは三十人から居たろう。」ミーロが答えました。
「どうしてだめになったんだ。」
 みんなが顔を見合せました。さっきの年老った人が云いました。
「薬のねだんが下ったためです。」
「そうですかねえ。そんなに間に合わないのかなあ。」
「ところが、ねえおい。ファゼーロ、おれはこの釜でやっぱり醋酸をつくった方がいいと思う。あのときは会社だなんてあんまりみんなでやったから損になったんだけれどもおれたちだけでやるんなら、手間にはきっとなるからな。十瓶だって二十瓶だって引き受けると町の薬屋でも云ってくるからな。」
「そうだ。」ファゼーロが云いました。
「ここの下へたいた煙をとなりの酒をつくったむろに通して、あすこでハムをつくるといいな。」
「それはサートもそう云ってるよ。とにかくこの罐へ入れてやれば、木炭はそっくりとれるしさ、ハムもすぐに売れなくたって仲間へだけは頒れるからな。」
「さあよしやろう。キューストはたびたび来て見てくれるだろう。」
「ああぼくは畜産の方にも林産醸造の方にも友だちがあるからみんなさそって来てやるよ。ポラーノの広場のはなしをしてね。」
「そうだ、ぼくらはみんなで一生けん命ポラーノの広場をさがしたんだ。けれどもやっとのことでそれをさがすとそれは選挙につかう酒盛りだった。けれどもむかしのほんとうのポラーノの広場はまだどこかにあるような気がしてぼくは仕方ない。」
「だからぼくらはぼくらの手でこれからそれを拵えようでないか。」
「そうだ、あんな卑怯な、みっともないわざとじぶんをごまかすようなそんなポラーノの広場でなく、そこへ夜行って歌えば、またそこで風を吸えばもう元気がついてあしたの仕事中からだいっぱい勢がよくて面白いようなそういうポラーノの広場をぼくらはみんなでこさえよう。」
「ぼくはきっとできるとおもう。なぜならぼくらがそれをいまかんがえているのだから。」
「さあよしやるぞ。ぼくはもう皮を十一枚あそこへ漬けて置いたし、一かま分の木はもうそこにできている。こんやは新らしいポラーノの広場の開場式だ。」
「それでは酒を呑まずに水を呑むぅとやるか。」その年よりが云いました。
 みんなはどっとわらいました。
「よしやろう。表へ出て。おいミーロ、おれが水を汲んでくるから、きみは戸棚からコップをだせ。」
 ファゼーロはバケツをさげて外へ出て行きました。
 みんなはアセチレン燈をもって工場の外の芝生に出ました。
 みんなは草に円くなって座りました。
 ミーロはみんなにコップをわたしました。
 ファゼーロがバケツを重そうにさげて来て、
「さあコップを洗うんだぜ。」と云いながらみんなのコップにひしゃくで水をつぎました。私はその水のつめたいのにふるいあがるように思いました。みんなはこちこち指でコップをあらいました。
「さあまた洗うんだぜ。」ファゼーロが云ってまた水をつぎました。みんなは前の水を草にすててまた水でそそぎました。
「もう一ぺん洗うんだぜ。前の酒の匂がついてるからな。」ファゼーロがまた水をつぎました。
「ファゼーロ、今夜一ばんコップを洗っているのかい。」
 醋酸をつくっていたさっきの年老った人が、云いました。みんなはまたどっと笑いました。
「こんどは呑むんだ。冷たいぞ。」ファゼーロはまたみんなにつぎました。コップはつめたく白くひかり風に烈しく波だちました。
「さあ呑むぞ。一二三、」みんなはぐっと呑みました。私も呑んでがたっとふるえました。
「では僕がうたうぞ。ポラーノの広場のうた。
   つめくさのはなの 終る夜は
   ポランの広場の 秋まつり
   ポランの広場の 秋のまつり
   水をのまずに酒を呑む
   そんなやつらが威張っていると
   ポランの広場の 夜が明けぬ
   ポランの広場も 朝にならぬ。」
 みんなはパチパチ手を叩いてわらいました。その声もすぐ風がどうっと来てむかしのポラーノの広場の方へ持って行ってしまいました。
「おれもうたうぞ。」ミーロがたちました。
  「つめくさの花のしぼむ夜は
   ポランの広場の秋まつり
   ポランの広場の秋のまつり
   酒くせの悪い山猫は
   黄いろのシャツで遠くへ遁げて
   ポランの広場は 朝になる、
   ポランの広場は 夜が明ける。」
「さあぼくも歌うぞ。〔以下原稿数行分空白〕
 
「さあ叫ぼう。あたらしいポラーノの広場のために。ばんざーい。」わたくしは帽子を高くふって叫びました。
「ばんざぁい。」
 そして私たちはまっ黒な林を通りぬけてさっきの柏の疎林を通り古いポラーノの広場につきました。そこにはいつものはんのきが風にもまれるたびに青くひかっていました。わたくしどもの影はアセチレンの灯に黒く長くみだれる草の波のなかに落ちてまるでわたくしどもは一人づつ巨きな川を行く汽船のような気がしました。
 いつものところへ来てわたくしどもは別れました。そこにほんの小さなつめくさのあかりが一つまたともっていました。わたくしはそれを摘んでえりにはさみました。
「それではさよなら。また行きますよ。」ファゼーロは云いながらみんなといっしょに帽子をふりました。みんなも何か叫んだようでしたがそれはもう風にもって行かれてきこえませんでした。そしてわたくしもあるきみんなも向うへ行ってその青い風のなかのアセチレンの火と黒い影がだんだん小さくなったのです。
         
          ※
 
 それからちょうど七年たったのです。ファゼーロたちの組合ははじめはなかなかうまく行かなかったのでしたが、それでもどうにか面白く続けることができたのでした。私はそれからも何べんも遊びに行ったり相談のあるたびに友だちにきいたりしてそれから三年の后にはとうとうファゼーロたちは立派な一つの産業組合をつくり、ハムと皮類と醋酸とオートミルはモリーオの市やセンダードの市はもちろん広くどこへも出るようになりました。そして私はその三年目仕事の都合でとうとうモリーオの市を去るようになり、わたくしはそれから大学の副手にもなりましたし農事試験場の技手もしました。そして昨日この友だちのないにぎやかなながら荒さんだトキーオの市のはげしい輪転器の音のとなりの室でわたくしの受持ちになる五十行の欄になにかものめずらしい博物の出来事をうずめながら一通の郵便を受けとりました。
 それは一つの厚い紙へ刷ってみんなで手に持って歌えるようにした楽譜でした。それには歌がついていました。
 ポラーノの広場のうた
   つめくさ灯ともす 夜のひろば
   むかしのラルゴを うたいかわし
   雲をもどよもし  夜風にわすれて
   とりいれまぢかに 年ようれぬ
 
   まさしきねがいに いさかうとも
   銀河のかなたに  ともにわらい
   なべてのなやみを たきぎともしつつ、
   はえある世界を  ともにつくらん
 わたくしはその譜はたしかにファゼーロがつくったのだとおもいました。
 なぜならそこにはいつもファゼーロが野原で口笛を吹いていたその調子がいっぱいにはいっていたからです。けれどもその歌をつくったのはミーロかロザーロかそれとも誰かわたくしには見わけがつきませんでした。
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