いわゆる自自連立ができ、各党首の話をテレビできいていると、「……いのちを守る」という言葉が耳に飛びこんできて、それをいっている人が小沢一郎さんだったので
「あれ」
と思った。ご存知《ぞんじ》のように彼は積極的に多国籍軍などへの参加、協力を推し進めようとしている人で、こんどの連立も、まずは自民党の日米防衛協力のための指針《ガイドライン》関連法案を通すための手練手管のうちの一つだとわたしなどは解釈している。
新聞等では先行きのない自由党が、とか、数で足りない自民党が、などといっているが決してそんなものではない。
名前をあげてもいいのだが、戦後の日本保守政治の中に地下水のように流れているものを、いつか表に出したいと悲願のように考えつづけている人たちがいる。
「九条の改憲・自衛隊の海外派兵」だ。
武器をとって(あるいはそれに守られて)いのちを守るといわれても、とても素直に、はい、とはいえない。あれ、と思う方が正常な神経ではないか。
憲法が軍事力の保持を禁じていることは誰でも知っていることだが、この国の愚かさと哀しさはそういう憲法を持ちながら、軍艦も戦闘機もどかどか買いこむというでたらめさと、そういう、なしくずしのやり方に、なかなかノーといえない国民の気力のなさである。
国際間のことは、防衛のことは、個人がどうこういっても……というようなあきらめに似た気持ちが人々の中にあるように思われる。
このことがこわい。そして危険である。
なしくずし派は、そういう人たちが増えることでにんまりし、いっそうなしくずしに励む。
アメリカと武器に依存することが、ほんとうに国民のいのちを守ることになるのか。
青くさいといわれようがなんといわれようがその他の方法、非武装、永世中立の宣言、非暴力、無抵抗の道、軍事同盟ではなく文化交流、軍事力にたよらないあらゆる安全保障の道をさぐり議論を重ねていくという機運を一刻も早くつくる必要がある。
そのために、とりあえずわたしたちがやらなくてはならないことは、選挙のとき、武器派、武闘派と目される連中には、一票たりとも入れないということだ。
以前、この欄でも書いたが、沖縄・慶良間《けらま》諸島で、たった一島、戦禍を被らず「集団自決」もなかった前島《まえじま》の、兵がいなければ、武器を持たなければ、攻撃されることはないという一校長の信念が生んだ事例は、貴重で、わたしたちが学ばなくてはならない平和教育の一つである。
日米安保条約がわたしたちの安全に寄与していると思いこんでいる人は、沖縄の基地汚染の現状をまず知ってもらいたい。「朝日新聞」(一月十四日付)が社説でくわしく報告した。基地にはダイオキシンやトリクロロエチレンなど、さまざまな有害物質が残留し、それを取り除くのに莫大《ばくだい》な費用とたいへんな時間がかかると。