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アメリカ嫌い35

时间: 2018-10-27    进入日语论坛
核心提示:   再び、死について 交通事故を起こし、意識不明の重体で入院している甥を見舞うのに同行してくれた友人が、その帰り道、ぽ
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    再び、死について
 
 
 交通事故を起こし、意識不明の重体で入院している甥を見舞うのに同行してくれた友人が、その帰り道、ぽつんといった。
「親不孝ばかりしてきて、せめてオレのできることは、決して自殺はしないと自分に言いきかせることだった」
(よく、わかるよ)
 と、わたしは心のうちでつぶやいた。
 いのちも定かでない子と親の、ほんとうにせつない時間を、いっとき共有してくれたその友に、さまざまな思いが一時に押し寄せたのであろう。
 わたしも、きょう死んでやろう、明日死んでやろうと思ったときがある。
 青春と呼ばれる、その時代に、自分につながるいのちの存在を、ほとんど何も考えず、そういうことを思い詰めた。
 そう思っても死を選んだわけではないから、今こうして生きているのだけれど、そう思ったことが、どんなに罪なのかということが、こんにち、よくわかるのである。
 生きているとは思っても、そのとき、生かされているとは毫《ごう》も思わなかった。
 いのちが生きるということは、お互いのいのちが支え合って生きているのであって、いのちは独りぼっちで生きていけるはずは絶対ないのである。
 ということは、自分のいのちは、自分で始末していいはずはなく(他者のいのちを何人といえども始末することはできないという絶対条件があるとわたしは考えるもので、犯罪による殺人、制度による殺人いずれも認めるわけにはいかない)、あなたのいのちの存在が、どんな状態であろうとも、あなたを生かすと同時に、あなたにつながるいのちも生かしているのである。
 いのちは、いのちのようすが、そのありようがどうであれ、存在すること自体に価値がある。
 その真理に逆らうことは何人も許されない。
 国を守るためだとか、正義のためだとか、どんな大義名分があろうとも、いのちを捨てるという行為は絶対悪として否定されるべきである。
 自殺という言葉に向き合うものに、自死という言葉がある。
 わたしの兄は神経症を病み、最悪の結果つまり死を選ぶしかなかった。
 兄は、いのちを殺すのに優し過ぎる人間だった。だから、わたしは兄の死を、「自殺」と呼ぶことはできない。
「自死」
 兄は、自らの死を、自ら迎え入れたというしかないのである。
 そう考えると、おおかたの自殺は、自死ではないかという思いもある。
 どう考えればいいのか。むずかしい問題である。
 わたしのところに、自分はなんの値打ちもない人間で、せめて死を選ぶしかないという思いで一日一日を生きているという手紙が、ときに舞いこむ。
 わたしは返事を書かない。
 一日一日を生きている……その一日がどれほど価値のあることかを他人に頼らず自ら悟ってほしいと願うからだ。
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