足立先生と別れて、鉄三の家へいそぐ小谷先生は、からだのまん中がずっしり重かった。足立先生や春川きみが大きく見え、自分はひどく小さいものに感じられた。鉄三に会ったってわたしはなにができるのだろうと思うと小谷先生は気がめいった。
鉄三は家の前でひとりで遊んでいた。遊んでいたと思ったのは小谷先生のまちがいで、鉄三はしゃがんでキチにたかっているのみをとっていたのだ。
「鉄三ちゃん」
小谷先生は声をかけた。鉄三はちょっと小谷先生を見て、すぐまたキチの方を向いた。
きみが足立先生の頭の上までよじのぼっていたことをちらっと思いうかべて、さびしい気がした。いつの日に、鉄三ちゃんはわたしにものをいってくれるのだろうと、小谷先生は思う。
バクじいさんをさがしにいくと、ちょうど仕事がおわって、からだをふいているところだった。灰のためにまつ毛や鼻毛までまっ白だった。
小谷先生が姿を見せると、きょうしゅくしたバクじいさんは、顔だけあらってあわててシャツを着た。
「鉄三ウ、小谷先生じゃ」
バクじいさんは大声でさけんだ。
「おじいさん、鉄三ちゃんの髪の毛を洗ってあげたらいけませんか」
小谷先生はつとめて明るく、なにげない調子でいった。
「ウハ」と、バクじいさんはきみょうな声を出して、
「わしもあれも風呂がきらいで……すんまへんなァ」
バクじいさんはなにか悪いことでもしたようにいうのだった。小谷先生はこまってしまってどぎまぎした。
「鉄三ちゃん、先生が洗ってあげるから行水をしなさいよ」
鉄三は下を向いたままだった。小谷先生はかまわずに湯をわかしにかかった。勝手口からうらに出ると、行水をするのにちょうどつごうのよい広さをもったたたきがあった。
小谷先生がそこへたらいを出そうとすると、どうしてかバクじいさんはひどくあわてた。自分でたらいをはこんで、それから、たたきのすみにおいてあるなにかに、テントのような布をいそいでかぶせた。
「なんですの」
と小谷先生がたずねると、バクじいさんはいっそうあわてて、いやいやと口ごもってしまった。
植木かなにかだろうと小谷先生は思った。
用意ができると鉄三はおとなしく服をぬいだ。しょうがないという感じでたらいにはいって、やっぱり下を向いてじっとしていた。
「鉄三ちゃんはお風呂屋さんへはひとりでいくの」
「………」
「おともだちといくの」
「………」
「鉄三ちゃんのおともだちはだれなの」
「………」
小谷先生はたずねるのをやめにした。
「先生もお風呂はきらいなんよ。先生は髪が長いから、洗ってるとすごく時間がかかるでしょ。じゃまくさいもん。鉄三ちゃんと同じよね」
鉄三はちょこんとあぐらをかいて、されるがままになっていた。
バクじいさんがそばにきて、
「鉄三はしあわせもんじゃ。先生のご恩をわすれたらいかんぞ」といった。
ご恩はどうでもいいから、ちょっとしゃべってくれんかナ、と小谷先生は思っている。
いつのまにか鉄三の皮膚はピンク色になった。
「ほら、鉄三ちゃん、男まえになったァ」
小谷先生はポンと鉄三の肩をたたいたが、鉄三はにこりともしない。
たらいの湯をかたづけようとして、小谷先生はなにかにつまずいた。鉄三がはだしのまま、それをひろいにいって、おおいの中におしこんだ。ビンのようなものだった。三人のあいだに、妙な空気が流れた。
鉄三のひみつがあきらかになったのは、そういうことがあって三日後である。きっかけはつぎのようなことであった。
理科の実験に使うために、功と芳吉はショウジョウバエを採集していた。処理所にハエが多いということで、功も芳吉も、自分用のほかに友だち数人からたのまれている分をあつめなくてはならなかった。
ショウジョウバエは三ミリくらいの大きさなので、手でとるとつぶれてしまうし、網ではすきまから逃げてしまう。えさでおびき寄せる方法しかない。
功と芳吉はさいしょぬかみそを使った。ショウジョウバエのえさはぬかみそがいいということを学校で教わっていたからである。ところが、ぬかみその中に防ふ剤か着色剤かなにかハエのきらう化学物質がはいっていて、さっぱりハエが寄りつかなかった。
しかたがないので、アジの干物やサバの頭を使った。ゴミのそばで生活しているので、功も芳吉もハエの好物を知っていたのである。ハエはたかったけど、その中に一匹もショウジョウバエはまじっていなかった。
こまりぬいて芳吉はいった。
「しゃあないな。鉄ツンにたのもか」
さすがに功も芳吉も、六年生でありながら一年生の鉄三に助けを求めるのは気がひけるのである。
「しゃあない」——と功がいって、芳吉が鉄三を呼びにいった。つれてこられた鉄三は、ビンの中にはいっている魚を見ると、すぐに捨ててしまった。
「やっぱりえさがあかんのか、え、鉄ツン」
功は心細そうにたずねた。
「う」——と鉄三はいつものように意味のとりかねる返事をして、さっさと歩きはじめた。大きなからだの功と芳吉が、鉄三の後をちょこちょこついていった。
ゴミ置場へくると、鉄三はくさった果物ばかりをさがして歩いた。いちいちにおいをかいで気に入ったものを芳吉にもたせた。くさりのひどいものは合格しないようだった。芳吉がにおいをかぐと、あまずっぱいにおいといっしょにすこし酒のにおいがした。果物は発こうしているのだ。もちろん鉄三はそんなむずかしいことばは知らない。
そのえさでおびき寄せてみると、またたくまにショウジョウバエはあつまってきた。
「へえ」と功は感心した。
「さすが鉄ツンやなァ」——芳吉もうなった。
鉄三はかくべつうれしそうな顔もみせなかった。
その話を、芳吉がうっかり教室でしてしまったのである。功があわててとめたが、まにあわなかった。
「一年生の子がそんなにハエのことにくわしいのか」
功の担任がたずねた。
「こまったなあ」
功は顔をくしゃくしゃにしていった。
鉄三がたくさんのハエを飼っていること、処理所の子どもたちから鉄三はハエ博士と呼ばれているくらいハエについては、もの知りであること、ハエを飼っていることを友だちや先生に知られて、いやがられてはこまるという心配から、バクじいさんがかたく口どめしていることなどを、功はしかたなしにしゃべった。
放課後、
「このバカ」
と、功は芳吉をにらみつけていった。
「おれは知らんぞ」
芳吉はしょんぼりしてしまった。
この話はすぐ小谷先生に伝わった。小谷先生がまっ先に思いうかべたことは、カエルの事件である。
文治はビンの中のハエをとってきたといったが、それは鉄三の飼っていたハエを、ビンごともってきたということである。
小谷先生は功と芳吉を呼んで、鉄三がなぜハエなど飼っているのかたずねた。
「なぜって」
功はこまって口ごもった。
「鉄ツンはハエをものすごくかわいがっとんや。みんなが文鳥を飼ったり金魚を飼ったりするのとおなじやろ」
「小鳥や金魚は金がいるけど、ハエはタダやから」
と芳吉がいったので、まわりにいた先生たちは笑い出した。
「ハエって、すごくバイキンをもっているのでしょ。どうしてそんなふけつなものを飼うのかしら」
顔をしかめて小谷先生はいった。
「そんなん知らんやん。鉄ツンにききいなァ」
こまりはてて、功はいった。
いったいに処理所の子どもたちは、先生の前でもことばを改めない。友だちと同じようなことば遣いをする。
功はまだ芳吉をうらんでいるらしく、ときどき芳吉をこづいた。そのたびに芳吉はかなしそうな顔をした。
鉄三がカエルをふみ殺したわけがいまはじめてわかった。ハエは鉄三のペットだったのだ。それを、文治は知らないでカエルにやってしまった。カエルはそれをたべ、おこった鉄三はカエルに復讐をした。カエルが生きたえさしかたべなくなって、それ以後、鉄三はカエルの世話をしなくなったということも、いまになるとよくわかる。しかし、と小谷先生は考えこんでしまった。
また問題が一つふえたような気がする。動物を飼ったり、植物を育てたりすることはいいことだけれど、ハエを飼っているのをいいことだというわけにはいかない、鉄三はまだおさないので衛生観念がなくてそういうことをするのだろうけれど……。
こまった、小谷先生は頭が痛くなった。カエルを引きさいたときの鉄三のつよい気持を思うと、ちょっとやそっとの説得でハエを飼うのをやめさせられるとは思えなかった。
ともかくバクじいさんとよく相談してみようと小谷先生は思った。そう思ってふと気がついたことがある。
鉄三に行水をさせていたとき、鉄三とバクじいさんがあわててかくしたものがある。あれはハエの飼育ビンだったのだ。それにしてもバクじいさんが鉄三にハエを飼うのを許しているのはどういうわけだろう。
小谷先生はバクじいさんに会うために、三時に処理所にでかけていった。ひどく暑い日でふいてもふいても汗が吹き出た。処理所にはいると、発こうしたゴミのためにいっそう温度が高くなった。こんなところでハエを飼うなんてむちゃだと小谷先生は思う。
ここにくる前、小谷先生はある本でハエの項を調べてみた。とりわけ気になったのはつぎのような文章である。
——ハエが伝ぱする病菌の種類は、古くから多数あげられているが、赤痢、腸チフスをはじめ、パラチフス、サルモネラ症、コレラ、アメーバ赤痢、各種の寄生虫症、結核、など二〇余種におよんでいる。また小児まひはクロキンバエなどによって伝ぱされる疑いが濃厚であり研究中である。
このことをわかりやすく鉄三に話してやらなくてはならない。
小谷先生が処理所にはいっていくと、いちはやくその姿をみつけて、功や芳吉が走ってきた。純や四郎も後からかけてきた。
「先生、鉄ツンをおこったらあかんで。あいつ犬とハエしか友だちないねんから。な、たのむで」
功はひっしになっていった。
「叱りにきたんとちがうんよ。どうしてハエを飼ってるのか鉄三ちゃんやおじいさんにききにきたの」
「そうか、そんならいいけど。あいつ、ほんまにハエしかなかのええ友だちおらへんから。先生みたいな美人やったらハエなんかに縁はないやろけどな」
功はませたことをいった。
「おせじいって……」と小谷先生が功のひたいを軽くつつくと、功はへへへ……と笑って、小谷先生の腕をもった。芳吉も純も笑って、小谷先生にすがりつくようにして歩いた。
なんと人なつっこい子どもたちだろうと、小谷先生は思った。処理所の子どもたちをひどく悪くいう先生がいるが、小谷先生にはわからない。
「ほかの先生方も、よくここにくるの」
「くるかい!」
ひどくこわい声で四郎がいった。
「おおかたのセンコはわいらをばかにしとんじゃ。わいらのことをくさいいうたり、あほんだれいうたり、だいたい人間あつかいしてえへんのじゃ」
四郎のあらっぽいおしゃべりをきいて、小谷先生は背中が寒くなるような気がした。こんなに人なつっこい子が、どうしてきゅうにそんなこわいことをいうのだろう。
「くさいゴミをもってくるのは、あいつらのくせになァ」
「ほんまじゃ」——と、みんな口をそろえていった。
「姫松小学校でええセンコいうたら、アダチとオリハシとオオタくらいやな」
足立先生の名まえがあったので、小谷先生はちょっとうれしかった。
「足立先生はいいの」
「あいつはおれらの友だちや、な、みんな」
「そや、ともだちや」と、これも口をそろえていった。
「小谷先生は?」と、小谷先生はたずねてみた。
「ええで」と功が、ちょっとてれていった。
「どこがいいの」
「鉄ツンをかわいがっとるやろ」
小谷先生はどきっとした。それから、この子どもたちにはずかしいと思った。
「鉄ツンはかわりもんやから苦労するやろ」
功はおとなのような口のききかたをする。
「そうなんよ。苦労してんねんよ」
小谷先生もくだけた調子になっていった。
「先生、ええにおいするなあ」
純がすこしはずかしそうにいった。
子どもたちがついてきてくれたので、小谷先生はだいぶ気がらくになった。バクじいさんに会う前に、鉄三に会おうと思って、そうっとうらにまわった。
鉄三は壁にもたれてすわっていた。腕を曲げて眼の高さにまで上げ、じっとなにかをながめていた。
小谷先生は眼をこらした。
鉄三の腕に無数のハエが遊びたわむれているのだということを知ったとき、小谷先生は思わず声をあげそうになった。
そんなことってあるだろうか。
巣にたかるミツバチのように、鉄三の腕にハエが群がっている。ハエはとびもしないで、まるで鉄三にあまえるかのようにからだをこすりつけている。羽根でもちぎってあるのかと思ってよく見たが、羽根はちゃんとついていた。
「鉄ツン」
と芳吉が呼ぶと、鉄三はこちらを見た。うしろに小谷先生がいるのに気がついて、立ちあがって腕をかくそうとした。
「あかんねん、鉄ツン。小谷先生はもう知ってはるワ」
功はもうしわけなさそうだった。
小谷先生はこわいものを見るように、功の肩をつかんで、おずおず近づいた。
約一センチくらいのハエで、からだは黄緑色でつやがあった。よく光る金属でこしらえたおもちゃのように見える。
ミドリキンバエという種類なのだが、もちろん小谷先生はそんな名まえなど知らない。
「きれいなもんやなァ」
純はむじゃきにいったが、きれいどころか、小谷先生は先ほどから鳥はだが立って、からだがふるえているのだ。
「鉄三ちゃん、捨てなさい。そんな……はやく……もう……」
小谷先生はうわごとのようにさけんでいる。鉄三は一つ一つつまんで、ビンの中へもどしはじめた。
「どうしてあのハエ、とばないの」
やっと落ちついて小谷先生は先ほどから気になっている質問をした。
「ちょっとまっててよ先生」
功はそういって、すぐ一匹のハエをつかまえてきた。
「これはふつうのハエやから手をはなしたらとんでいってしまうで。よう見ときよ先生。大きな羽根の下にもう一つ小さな羽根があるやろ」
なるほどそういわれてみると、そんな羽根がある。
「その羽根のすぐ下に、細い糸みたいなものがあるやろ。よく見んとわからへんで」
小谷先生が、わかったわというと、功は鉄三からピンセットをかりてきて、それでその糸のようなものをとってしまった。
「ほら」といって、ハエを地面に落とすと、なるほどハエはとぶことはとぶのだが、すぐ、ひっくりかえってしまって、どうにもならないというふうにあがくだけだった。
「鉄ツンはこんなハエを見て、ハエが踊っとる、というとったで」
気味悪いのもわすれて、小谷先生は感心してしまった。
「みんな鉄ツンに教えてもろたんや」
功はばつの悪そうな顔をしていった。
鉄三が飼育しているハエのビンは、みんなで二十くらいあった。みかん箱の上にならべてあって、まるで病院の標本室みたいだった。何種類のハエがいるんだろう。青黒い図《ずう》体《たい》を身動き一つさせないで、ビンの壁にへばりついているハエがいる。胸背に縦線のある大きなハエは、ごそごそはいまわっていかにもどん欲な感じがする。よく光るあい色のハエは、するどくとびはねて、みるからに元気者だ。
小谷先生が知っているハエといったら、イエバエくらいだった。
「いく種類いるのかしら。イエバエはどれ」
「イエバエはおらへん」と功がこたえた。
「イエバエは人のくそをたべるから、きたないといって鉄ツンは飼わへん」
鉄三は成虫のほかに、蛹《さなぎ》やうじも飼っていた。うじを見て、小谷先生はまた気分が悪くなった。
もう自分は鉄三のからだにふれることができないかもしれないと思うと、小谷先生はなさけない気持になった。そして、きょう、ここにきたことを後悔した。
バクじいさんはひどくきょうしゅくしていた。そして決心をしたような顔つきになって話しはじめた。
「かくすつもりはなかったんですけんど、せっかく先生にかわいがってもろとるのに、と思うと、つい……。先生は若いおなごの先生やよって、よけいいえんかったんですわい。それに、この処理所の子は学校でよういじめられるちゅうて、きいとったもんやさかい、そんなことから鉄三がいじめられたらかわいそうやと思うて、よけいかくすようなことをしてしもた。鉄三がハエを飼っていることを知ったとき、わしゃおこりました。めったとたたいたことのない子ですけんど、わしゃたたいておこりました。ビンもわってしもたんですわい。おこられてもどつかれても、この子はハエを飼いますのんじゃ。そのうち、おこれんようになりましたわい、どつかれんようになりましたわい。こいつは母親もないし、父親もない。世の中でだあれもかわいがってくれるもんがおらん。そう思うたら、ハエを飼っとるぐらいで、おこられんようになりましたわい。おまえがそないにかわいがっとるもんなら飼うてやれ、そやけどハエは人間のきらわれもんや、人目につかんとこで飼えというてやったです。小谷先生、ハエを飼うとるのんは鉄三が悪いわけやない、山へつれていってやれば鉄三は虫を飼うと思います。川へつれていってやれば魚を飼うと思います。けんど、わしゃどこへもつれていってやらん。こいつはゴミ溜《た》めのここしかしらん、ここはセンチムシとゴミムシと、せいぜいハエぐらいしかおらんとこや。鉄三がハエを飼うのはあたりまえといえばあたりまえの話やと、わしゃ思うたんですわい。鉄三が文治とかいう子に乱暴したときに、わしゃ先生になにもかも話しとけばよかった。ハエのことをかくして、ビンをぬすまれたことしか話さなかったのがいかんかったです。あのビンの中には鉄三が、金《きん》獅《じ》子《し》と呼んでかわいがっていたハエがはいっとったです。そら見事なハエで、ふつうハエは大きくても一センチそこいらやが、金獅子は二センチもありましたやろか。びかっと金色に光って王様みたいにいばっとりましたわい。それをぬすまれたもんやから、鉄三はかなしがって一日なんにもたべんかったです。文治っていう子を傷つけたとき、そら、もうしわけないと思いましたけんど、あんなにかわいがっとったもんやから、それくらいのことはやりかねんと、ひそかに思うたです。先生には、めいわくをかけてすまんといつも思うとります。かわいそうな子やからかわいがってほしいとは思いません。けんど、この子も人間の子なんやから、人間の友だちがほしいとわしゃいつもねがっとるんです。鉄三はちゃんとした人間の子ですわい」
小谷先生はひとこともものがいえず、頭をたれたままだった。